電波メディア「学界」批判

その2。学説公害

1998.4.30

真正面からの挑戦状

 ここで展開する放送の歴史と理論は、これまでに日本のアカデミズムが放送に関して流布してきたものとは、およそ正反対の主張からなりたっている。あまたの証拠をつきつけて、いわゆるアカデミズムの教えを「学説公害」と断定し、長年のあやまちをあらためよと要求し、人生をかけたたたかいを宣言するための真正面からの挑戦状である。

 「学説公害」とは、権力の神官たるアカデミズムが庶民の「希望」をうちくだき、または胎児のまま流産させるべくまちがった学説を守護し、たれ流し、社会に害毒をあたえつづける状態の表現である。しかもこの場合、もっとも基本的なところがまちがっているのだ。

 近代物理学にたとえをもとめれば素粒子理論、または、中性子と陽子で構成される原子核の周囲を陽子とおなじ量でマイナスの電荷をもつ電子が回転するという、原子の構造に関する基礎知識のようなものである。これなしには近代物理学は理解できないし、そのうえになりたつ理論展開は不可能である。

 私はたまたま、電波メディアにおける(物理的ではなく)政治的な基礎理論のまちがい、もしくはごまかしを十数年前に発見し、3冊の旧著の中で指摘したが、アカデミズムは無視したまま公害をたれ流しつづけてきた。ところが、この基礎理論の問題が、昨年(93年)秋に発生した椿舌禍事件という千載一遇のチャンスによって、一般市民の目にもふれ、議論の対象となりはじめたのである。まさに好機いたれりの観がある。象牙の塔のなかだけの陰微なコンニャク問答ならいざ知らず、公開論争をすればかならず勝てる自信のある勝負だから、実に愉快な事態をむかえたことになる。最近は「辛口批評」とか「悪口雑言」とか「ゴーマニズム」とか、痛烈ラッパ方式がはやっているから、私もこの際、旧著執筆以来の十数年、いや、テレヴィ会社にまよいこんで以来、いささか辛酸をなめてしまった30有余年の憂さをもまとめて晴らすために、思う存分、憎まれ口をたたきつくしてみたい。

 憎まれ口の相手には、当然、アカデミズムだけではなく、アカデミズムの背後の資本、権力はもとより、それに追随する新聞などの活字メディアもふくまれる。とくに大手新 聞関係者は、この際、ゆるしがたい。郵政省を足場とする権力機構とグルになって、民放の独立をふみにじってきたのは大手新聞社である。その身内の犯罪をいささかも糾弾することなく、「テレヴィは未熟なメディア」だとか「テレヴィ人間は云々カンヌン」だとか、まったくよくいうよ! 放送のことなどなにも知らない癖しやがって! いや失礼!

「不偏不党」「公平」「公正」「中立」のまやかし

 アカデミズムの尻をなめるばかりで、マージャン相手の番記者型発表報道専門、ノー天気の大手新聞関係者(いや失礼!)などが知りうるはずもない基本理論とはなにか。それがなんと、椿舌禍事件の報道と論評にかかすことのできなかった最大の前提条件、放送法の「不偏不党」「公平」云々という規定の理由説明なのである。あれだけ騒々しく展開された議論の前提がくるっているのだ。いわば天と地がさかさま、中世ヨーロッパの「天動説」のような神話的理解の状態だったのだから、事件の現象も説明不足になるし、ましてや本質の解明などができるわけはない。

 「公正」「中立」という用語は放送法にはないが、私は、これに日本の戦前の公共性」をもふくめて、ほぼ同趣旨としてとりあつかう。

 この理由自体に結構ややこしく、しかも本質的な問題がふくまれているのだ。以下ではとりあえず便宜上、これらの基本概念をまとめて「公平原則」とする。「公平原則」の源流には「学説公害」があるのだが、その初期型基本形を、私は「電波メディアの有限性または希少性神話」、略して「希少性神話」とよぶ。これものちにくわしく証拠をあげて論証するが、この神話の構造の説明を最少限度に簡単にするとつぎのようになる。

「希少性神話」「公平原則」礼拝

 ラディオ放送の発足当時、監督官庁の逓信省は最初から「厳重監督」のために「一本化」の方針を内定し、それを実現した。「混信」をさけ、「希少」な公共の電波を有効に利用するために云々という趣旨の法的根拠なるものは、「リクツとコウヤクはどこにでもはりつく」のたとえ通りにスリカエの口実として、あとからつけくわえられたものでしかない。「希少性神話」は放送の国家による統制を容易にするための当局見解への追随にすぎず、学問的な理論の名にはあたいしない。「希少性神話」にささえられた「公平原則」の政治的性格は、反体制勢力には絶対に電波メディアを使用させないという国家権力の決意の隠れ蓑であった。

 さらについ最近、20年ほど前に発生した2次的新型変形の「多元性神話」にも重大な「学説公害」がひそんでいる。「多元性神話」は「希少性神話」と連続技でふたたび市民をだます。今度は逆に「公平原則」の見せかけのはどめさえはずし、巨大資本がブランドつきの大手メディアを自由にあやつるための隠れ蓑だ。この点ものちにアメリカの実例を紹介しながらくわしく論証する。

「天動説」から市民主権の「地動説」確立へ

 私は、以上のような電波メディアに関する神話的理解を「天動説」にたとえる。本書の主題は電波メディアにたいする市民主権の「地動説」確立、または電波使用権の平等の主張である。もっとわかりやすく私の気持ちに即していうと、「うばわれた電波」という考え方に立つかどうか、腹の底からそう感じうるかどうかが、決定的な別れ目である。理論的かつ情緒的な具体化の手順を三段階にわけて要約するとつぎのようになる。

 第1には、権力の神官たるアカデミズムもしくは象牙の塔がたれ流してきた「学説公害」を、歴史的事実にもとづく実証および論証によって、「天動説」と同様に完膚なきまでに粉砕し、永遠に除去すること。

 第2には、電波メディアに対する市民主権の「地動説」を確立し、長年うばわれつづけてきた言論主権の回復にむけて、言論主権に関する自然的かつ本来的な要求を刺激すること。

 第3には、市民による市民のための市民の言論主権宣言を発し、70年の電波利権によって蓄積されたツケの返還を要求し、電波メディアを手はじめに、あわせて既存の言論支配構造の全体を根底からくつがし、真の意味での文化革命への起爆剤となること。

壮大な知的大冒険への旅立ち

 さて、以上のように文字で書けば、いかにもものものしいが、私はそんなに力みかえっているわけではない。なるべくリラックスしながら既存の権威にさからい、楽しんで挑戦するつもりだ。権威主義と権威への依存こそがもっとも危険な知的障害である。読者も、大いに私の主張を疑いつつ、気楽につきあってほしい。

 私が意図するのは、電波メディアを中心課題としながらも、実は、言論の自由の過去・現在・未来の全体をさぐる壮大な知的大冒険への旅立ちである。言論の自由と人権とは不可分だが、人権に関する歴史的視野をも思いきりひろげ、古代史をもふまえながら、グーテンベルクの活字から「市民トマス・ペイン」の『コモン・センス』を起爆剤とするアメリカ独立革命、フランス革命の『人間と市民の権利の宣言』にまでさかのぼり、人権の自覚、すなわち、はだかのサル本来の野生をとりもどすよすがとしたい。

 近代政治学の祖とされるマキアヴェリは、その主著『政略論』(または『ローマ史論』)において、君主政の統治になれきった国民の場合には、「たまたま解放されたとしても、自由を維持していくのは困難である」と論じている。戦後の日本人の運命を約 500年も前に予言してくれたような気がするのだが、その「しごく当然な理由」はつぎのようにのべられている。

 「このような国民は、本来あらあらしい野生の猛獣が檻に入れられたまま飼育され、言うなりにされてきたのと似ている。こんな獣は、たまたま原野に放たれても、どのような餌を手に入れたらよいのか、どこにひそんでいたらよいのか、いっこうにわからないので、捕えようと思えばだれでもわけなく捕えるころができるのである」(『政略論』)

 野生の回復が「困難」なことはうたがいない。だがマキアヴェリも「不可能」とまでは断定していない。「希望」はあるのだ。野生を回復するための第一歩は、心の底からの遠慮のない討論である。私は、これまでも多くの権威に盾をついてきたが、今度は無謀にも、自分が三〇余年すごした業界、ジャーナリズム関係の学会主流をも相手にくわえ、ドン・キホーテよろしく手製の槍で突っかかることになる。行く手に見えるのは風車ならぬ象牙の塔である。いざ、見参!

 歴史的事実も理論的可能性も、すでに何年もまえから明らかなことだった。理屈のうえでも、そんなに複雑な問題ではない。おそらく、おおくの博学のメディア論研究者は、学会主流にあえてさからって「王様は裸だ!」とさけぶには、あまりにも大人になりすぎているのであろう。または、私のように単純に、反体制もしくはアウトローの側から現実をみるという立場をとらないのであろう。