『アウシュヴィッツの争点』(39)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.7.4

第2部 冷戦構造のはざまで

第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 9

シオニズムに「好意的な立場」の学者もみとめる「移送協定」

 以上のような世界シオニスト機構ないしは世界ユダヤ人評議会の組織活動については、いくつかのことなる見解がある。くわしい比較検討も必要であろう。

 とくに、ナチ党と世界シオニスト機構の間の、具体的にはそのドイツ同盟の活動についての「密約」関係は、いわゆる裏面史に属する。イスラエル国家としては、ぜひとも記録から抹殺したいところであろう。

『情報操作』という元イギリス情報部員が書いた本でも、この両者の「密約」説を「ニセ情報」の一種、「反シオニズムのプロパガンダ」だとしており、つぎのようにしるしている。

「一九八五年一月十八日、ソ連の国営タス通信は次のような驚くべき報道をおこなった。

 一、シオニストはナチ政権のパートナーだった。(以下、略)」

 だが、表現はどうあれ、これらの歴史的事実をさけてとおることは、とうてい不可能である。たとえば、『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』は、日本語版が一〇〇〇ページをこえる超大著である。著者のウォルター・ラカーは、一九三八年にナチス・ドイツをさったユダヤ人で、一九七八年に出た日本語版の著者略歴によると、その当時、ロンドンの現代史研究所所長、ワシントンのジョージタウン大学国際研究所の国際研究評議会議長などをつとめていた。ラカーは、みずからシオニスト運動に参加し、その後、反シオニストの立場となった。だが、日本語版の「訳者解題」でも「シオニズムに対する著者の好意的な立場」という評価がなされている。ラカーは実際に、シオニズム擁護およびイスラエル支持の基本的立場を明確にしている。

 当然、前の項で紹介した論文の著者たちとはシオニズムの評価がことなるが、この超大著、『ユダヤ人問題とシオニズムの歴史』の中にも、「移送協定」をめぐる歴史がくわしくしるされている。

 まず、留保的な表現のほうをさきに紹介しておこう。

 ラカーによれば、ヒトラーの政権獲得以後のドイツにおける「シオニズムの発展は、ユダヤ人のシオニズム批判家を困惑させた。その一部は、ナチズムとシオニズムは密かに結託しているとまで主張した」。ラカーはまた、「ナチスとの協力ないしは結託についての非難は、きわめて有害で意味のないことである」とし、「シオニストはナチス・ドイツのなかで、特別な関係を享受しなかった。彼らの指導者や印刷物も、他と同様の制限や迫害を受けたのである」としるす。

 だが、その一方でラカーは、つぎのようにもしるす。

「ドイツのユダヤ人社会のなかで、シオニストはいつも比較的小さな少数派だった。ヒトラーが権力に上った後では、ドイツ・ユダヤ人の間の彼らの影響力は飛躍的に増大した。突然、パレスチナに関するあらゆる事物に関心が向けられるようになった。過去二、三〇人しか出席しなかったシオニストの集会に、何百人ものユダヤ人が押し寄せた。シオニスト新聞の発行部数は上昇し、到るところでヘブライ語教室が開かれた」

 ラカーは、この現象がドイツ以外の諸国でもそれ以前からはじまっていたとし、その原因を「ユダヤ人が危機を感じた」ことにもとめている。また、「ナチスは、時にはパレスチナ移民を促進させる努力を奨励したが、同じような便宜は、世界の他の場所への移民を援助している非シオニスト組織にも、与えられていたのである」とする。

 世界シオニスト機構は、ヒトラーが政権を獲得した年の一九三三年に、プラハで第一八回シオニスト会議をひらいた。ラカーは、「ドイツのシオニストは、一九三三年のシオニスト会議に姿を見せることを許されなかった」としるす。ヒトラー政権が出席をさまげたという文脈である。だが、この会議では、ドイツのユダヤ人問題がおおいに議論の的となった。

「移送協定」の先駆をなした「パレスチナ拑橘会社の支配人サム・コーエン」の「活動」にたいしては、ドイツ商品ボイコット運動に対する「裏切り行為」だとして「激しく攻撃」するものもいたし、「賛成」するものもいた。ラカーは、この間の事情をつぎのように解説する。

「コーエンは一九三三年にドイツ経済省との間で、ドイツで購入されパレスチナで販売されることになる総額一〇〇マルクの農具をパレスチナに移送することを定めた協定に、調印していたのである。これはシオニスト運動(パレスチナの銀行を通じて行動)とドイツ人との間の、はるかに野心的な移送(Ha'avara)協定の先駆であった」

「移送協定」が実行に移された国際的背景について、ラカーは、つぎのように分析する。

「西欧列強もソ連も、ドイツとの貿易関係を減少させたり、断絶させることなどは片時も考えてはいなかった。他方協定が、何千人ものユダヤ人の入植を可能にし、パレスチナに於けるユダヤ人の立場を強化し、ひいてはその吸収能力を高めることになる好機が存在したのである」

 さらにラカーは、一九三三年の第一八回シオニスト「会議は、ワイズマンの指揮下にドイツ・ユダヤ人のパレスチナ入植のための中央事務所を設立することを決定した」としるす。ヴァイツマン(ワイズマンは英語読み)は当時、世界シオニスト機構の議長であり、一九四八年にはイスラエル初代大統領に就任した最有力のユダヤ人長老である。

 以上、評価の仕方と表現のニュアンスにちがいはあるものの、「移送協定」によるドイツ・ユダヤ人のパレスチナ入植促進という活動が、ヒトラー政権と世界シオニスト機構の合意のもとにおこなわれていたという事実については、もはや議論の余地はないというべきであろう。

 つぎの第3部では、すでに紹介した『ニュースウィーク』の記事、「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」と、NHKが放映した『ユダヤ人虐殺を否定する人々』などを題材にして検討しながら、「ホロコースト」物語の材料と場面をさらに広げてみたい。この検討作業を通じて、重要な核心的争点を明確にすることによって、無駄な論争の時間をはぶくことにもつながるであろう。

「無駄な論争」とあえていうのは、実証作業ぬきの感情的な議論のことである。

 第3部では、「ホロコースト」肯定論もしくは「絶滅説」の支持者が、いかに実証作業を軽視し、または意図的に核心的な争点事実をさけているのではないかという疑いが、具体的な素材の内容の批判を通じてあきらかになるであろう。


第3部:隠れていた核心的争点
(40)「マスコミ・ブラックアウト」の陰で進んでいた科学的検証