『アウシュヴィッツの争点』(22)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.6.2

第1部:解放50年式典が分裂した背景

第2章:「動機」「凶器」「現場」の説明は矛盾だらけ 4

「死体焼却炉」には一日一万人分を処理する能力があったのか

「ガス室」を中心とする巨大な「殺人工場」のシステムの終着駅には、さらに、「死体焼却炉」があったことになっている。

 アウシュヴィッツは、メインキャンプだけでも約二万人、ビルケナウとあわせて約二〇万人という小都市並みの人口をかかえていた。当然、ふだんでも人は死ぬし、火葬場はあった。「四〇〇万人」という数字はすでに否定されたが、ヒルバーグ説の「一〇〇万人」の場合でも、その大部分をここで殺して焼いたとなると、小規模のものではとうてい間にあわない。ホェスの「告白」では最大、一日で約一万人を「ガス室」処刑したことになっている。おおすぎるときには「野焼き」をしたことになっているが、日本の敗戦時、実際に親族の「野焼き」を経験した人の話によると、一人の死体を焼くのに半日もかかった。燃料の調達がとくに大変だったという。万人、千人、百人、いや十人単位の死体でも、「野焼き」というのは、おそらく想像を絶する困難な作業にちがいない。

 三〇〇ページをこえる英語版『アウシュヴィッツ/判事の証拠調べ』の序文によると、一九七九年に出版されたドイツ語版の場合、「初版一万部のうちのわずか七冊が売れたところで」政府にさしおさえられている。著者は、現職の判事だったヴィルヘルム・シュテーグリッヒである。クリストファーセンとおなじく元軍人で、アウシュヴィッツのそばの対空部隊勤務を体験し、当時のアウシュヴィッツ収容所を何度かおとずれている。

 シュテーグリッヒ判事は、物的証拠の一つとされてきた「トップ父子商会」の手紙の信憑性を吟味している。

 その手紙によると、トップ父子商会が納入する最新型の焼却炉の場合、「コークスを燃料とした」場合に「約一〇時間」で「約一〇から三五の死体」を焼くことができる。それ以上も可能で、連日連夜操業ができるという。シュテーグリッヒはこの説明にたいして、「現在の最新式の設備でも人間を焼くのには一時間半から二時間はかかる」という疑問をなげかけている。つまり、この手紙が偽造だという可能性がほのめかされているわけだが、かりにその最大限をとって計算すると、一日二四時間で約八四の死体を焼けることになる。だが、おなじ性能の焼却炉が一〇〇台あったとしても、一万は無理で、一日にやっと約八四〇〇の死体しか焼けない。

 性能にも疑問があるが、一〇〇台以上もの焼却炉が本当にあったのだろうか。わたしが見てきた三箇所の収容所のいずれにも、数台の焼却炉しか展示されていなかった。

戦時経済とまっこうから矛盾する「死体焼却」の大量な燃料浪費

 いちばん有力な反論は、もっと規模のおおきな矛盾に着目したものである。

『アウシュヴィッツの嘘』の序文を書いた弁護士、レーダーは、「ナチ・ハンター」を自称するオーストリアうまれのユダヤ人、サイモン・ウィゼンタール(ドイツ語の発音ではジモン・ヴィゼンタール)が弁護士会にだした抗議への反論のなかで、つぎのように指摘していた。

「“貴方がたの”統計で行方不明だとされているユダヤ人は、ガスを吸わされ、焼かれた」のだというのですが、「技術的な観点から見ると、その誤りはあきらかだということを理解していただきたいのです」。なぜならば、「戦争中にドイツが支配していたすべての地域のどこにも、そんなにおおくの人体を焼くのに十分な燃料はありませんでした」。

「六〇〇万人」という数字への疑問はすでに紹介したが、もっともすくない数字では「二〇万人」説から「一〇万人」説まである。この場合には自然死説である。ただし、「二〇万人」は、日本の広島に落とされた原爆による死者の数の規模だから、そんなにすくない数字とはいえない。そのほか、「七〇万人」説、「一〇〇万人」前後説など、さまざまに説はわかれている。だが、たとえ一桁ちがったとしても、通常の死者だけでも相当に増加していた時期に、それだけ余分の死体を焼く燃料を特別に調達できたものであろうか。

 とくに、ガソリンは決定的に重要な軍需物資であった。日本では、松の木の根をほって、「松根油」という代用品までつくったほどだ。石炭の液体化の研究もしている。当時のドイツも日本とおなじく、国家総動員の戦時経済体制だった。しかも、問題のアウシュヴィッツでは、石炭から「合成石油」をつくっていた。燃料の統計や配給などの記録から、「大量虐殺の死体焼却」という物語の、燃料供給の面での矛盾を証明できるではないだろうか。コークスの場合には、品質にもよるが総重量の五~一五%の「灰分」が残っているはずだ。


(23)「ロシア人が許可しない」という理由、いや、口実で実地検証なし