第三世界の混迷と第四世界 アフリカ大陸文化圏の予兆

現代評論社『現代の眼』1975年4月号 特集「世紀末」からの告発
昭和50(1975)年4月1日発行 P122-129掲載

アフリカ大陸文化圏の予兆

木村愛二(アフリカ史)

●新生国家ジンバブウェの背景

 日本の大新聞の片隅に、ローデシアの政治情勢が、まことに短信ながらも、時々のるようになった。

 ローデシアの中心的な解放勢力は、ジンバブウェ解放戦線と名乗り、新しい国家の名を、ジンバブウェとすることに決めている。これは当地のカランガ語で「石の家」を意味する。3、4百もある石造遺跡の中でも、大ジンバブウェの名で知られる巨大な遺跡群は、かつて壮麗な神殿でもあり、城郭都市の中心をなす皇帝の居城でもあった。

 大ジンバブウェは現在のローデシアを中心とするモノモタパ帝国の首都であった。皇帝は、日本の天皇と同様に、神格化されていた。謁見は、垂れ幕をへだてて行なわれ、臣下は拍手、つまり「かしわ手」を打って敬意を表わした。このモノモタパ帝国には、ローマ帝国から神聖ローマ帝国にかけての歴史のように、支配民族の交代、諸王朝の興亡の歴史がくりひろげられた。帝国の創設の時期については、いまだ定かではないし、学者の見解もまちまちである。だが、大ジンバブウェの遺跡の下から発見された排水溝の材木は、カーボン14の放射能テストで、紀元6~8世紀の数字を示した。

 いずれにしても、きたるべき新生国家ジンバブウェの誕生は、モノモタパ帝国の革命的な再生、再独立として位置づけられなくてはならないだろう。

 ところで、ローデシアという国名は(あえて国名として取り扱うとして)、イギリス人ローズの個人名にちなんでいる。

 セシル・ジョン・ローズ(1853~1902)は、牧師の子であったが、南アフリカに渡り、ダイアモンド・金鉱で巨富をきづき、1890年に南ア首相となった。彼は、ケープ岬からカイロまでの、アフリカ大陸縦断政策を主唱した。その露骨な侵略政策には、当時の世界の帝国主義諸国からさえ、「帝国主義者」非難がまき起った。この典型的な帝国主義侵略者の個人名を冠した国家を、アフリカ人が名実ともに拒否するのは、当然すぎることである。

 ローズは、また、歴史観の歪みの上でも、ひとつの典型を示している。

 彼は、アフリカ縦断鉄道をつくりはじめた。そして、その鉄道会社の株主の集まりで、次のように宣言した。

 「アレクサンドルや、カンビュセスや、ナポレオンによって企てられたことを、われわれ実際家が仕上げようとしているのだ」

 ここではまず、歴史的人物の順序が、故意にかそれとも好みによってか、いれかえられていることに注目しないわけにはいかない。

 アレクサンドルよりも、ペルシャのカンビュセスの方が、2世紀ほど早い。この順序のいれかえは、ギリシャ好みのヨーロッパ的発想にちがいあるまい。しかし、アレクサンドルが、リビア沙漠のオアシスにあったアモン・ラー神殿に詣でて神託をうけ、いわば、アフリカ文化の子として、オリエント文明圏の統一に力をつくしたことは忘れられている。

 アレクサンドルとその後継者は、それゆえ各地で、人種・民族のちがいを、積極的な婚姻政策によって克服していった。ヘレニズム文化は、このような融合があったればこそ、世界的な性格を持ちえたのである。アフリカ人を敵視し、人種・民族間の差別を強め、お互いの憎しみをかきたてたローズたちに、アレクサンドルの後継者を名乗る資格は全くなし。事実、南ア・ローデシアの白色人文化は、欧米諸国の中でさえ、軽蔑の対象としかなっていない。

 ローズの舌足らずな歴史認識は、しかし、当時のコーロッパ諸国の文化人にも共通で、支配的なものであった。帝国主義、そして、資本主義的支配体制は、近代神託を必要としていた。「現在」と「未来」の偽装のためには、「過去」も偽造されなければならなかったのである。

●世界史を書きかえよ

 ナイジェリアのイバダン大学ビオバク教授は、こう語っている。

「ヨーロッパ人の渡航はアフリカの歴史の始まりではなく、一つの文明の終りだった」

 この考え方には、いくつもの側面があるといわねばならない。現実の歴史、事実の経過としての側面、そして、文学に書かれ語られている「歴史」、「歴史学」としての側面、などである。ここでは、一般に流布されているアフリカ史の認識を取り上げてみたい。

 「歴史を書きかえよ」という言葉は、ふつうには、その時点以後の歴史の流れを変革することを表わしている。だが、その過程は同時に、過去の歴史の書きあらためをともなわずにはいられない。日本と朝鮮の関係は、すでに、好太王碑の碑文偽造問題などで、ひろく知られているところである。朝鮮民族の再独立は、いまや、日本史の全面的な書きかえさえ迫っている。

 アフリカ大陸諸国の再独立は、更に大規模な、世界史全体の書きかえを要求する。そして、その材料もすでに、かなりの分野で出揃っているのである。わたしは、やはり一日本人として、日本の学者、専門家、ジャーナリスト等が、この課題に真剣にとりくむことを願わずにはいられない。それゆえ、小論ではまず、拙著『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』において追求した問題点を、一応列挙し、補強しておくことにしたい。

 黒色のホモ・サピエンス 紀元前5世紀、ギリシャの歴史家ヘロドトスは、偏見にくもらされない眼で、古代エジプト人は「肌色が黒く、髪の毛が縮れている」と認識した。ヘロドトスはまた、エジプト人こそが、世界最古の民族であると認識していた。現代の人類学は、アフリカ大陸こそが、人類の発祥地であった、という事実を明らかにしつつある。この点は、最近のニュースにもくわしい。だが、肝心のホモ・サピエンス段階に突入すると、学者の見解はまちまちとなる。現生人類の本家争奪戦は、まだ終息していないのである。

 しかし、アジア大陸の初期ホモ・サピエンスも、ヨーロッパ大陸のそれも、すべて、いわゆるネグロイド的特徴をそなえている事実は、だれしも否定しえない。ホモ・サピエンスもやはり、アフリカ大陸に起源すると考えて、研究を深めるべきである。

 一言しておけば、肌色の黒いことも、髪の毛が縮れていることも、明らかに進化的特徴である。しかも人類学者は、アフリカ人に、最も典型的かつ中心的な進化的特徴を見出している。直立姿勢、脚部の跳躍力の発達、胸郭の発達、声帯・発声器官の発達、これらはすべて、ネアンデルタール人と、ホモ・サピエンスを区別する上での、基本的な特徴なのである。現代のアフロ・アメリカ人、アフリカ人が、あらゆる差別をのりこえて、スポーツ、芸術分野に進出しているのは、決して偶然ではない。

 狩猟文化の中心地 考古学者はまた、アフリカ大陸こそが、旧石器文化の中心地であったという事実を、明確に認めている。

 代表的な狩猟用具、槍、槍投げ器、弓矢、ボーラ(数個を結びつけた投石)、ブーメラン、吹き矢などは、ほとんどアフリカ大陸の中心部で発明され、全世界にひろまったもののようである。そして、狩猟用具の製作については、すでに分業体制、大量生産の証拠が発見されている。だが、狩猟文化とともに成立した人類最古の社会組織、双分氏族制の発生地を、アフリカ大陸に求める学者は、いまのところ出ていない。では、この社会組織の発生地、起源地について、どこか候補地を挙げている学者がいるかといえば、これもいない。全く具体的ではないのである。

 狩猟文化と双分氏族制、そして、原理的には2集団の協力関係による生産力の発展、人類そのものの増殖、増加を論ずる以上、その最有力候補地はアフリカ大陸以外にはない。この点を何故にさけてとおるのか。その理由は一言、「偏見」以外にはない。

 農耕・牧畜文化起源 アフリカ文化史、ひいては世界文化史の、決定的な転換点をなす発見は、サハラ先史美術、サハラ湿潤期の発見である。

 たとえばヘーゲル(1770?~1831)の晩年の講義にもとづいて、『歴史哲学』という書物ができている。近代ヨーロッパの歴史の基本となる思想が、ここで語られている。ヘーゲルは、いまでいうブラック・アフリカの文化・歴史を徹頭徹尾、軽視ないし蔑視していた。そして、「世界史の地理的基礎」という考え方を提出しつつ、サハラ沙漠と海洋にかこまれ、暑熱の支配するアフリカ大陸には、「精神が自分の世界を建設することは許されない」と極言した。

 その上、ヘーゲルはアフリカ人の「野蛮性」を論じつくし、近代奴隷制を「教育の一契機」として擁護した。「アフリカは歴史的世界には属せず、したがってそこには運動と発展とは見出されない」、といいきった。

 『歴史哲学』は、いかにすぐれた頭脳の持主であり、博識の努力家であっても、偏見をすてきれず、しかもそのために決定的な誤りにおちいるか、という興味ある現象のひとつの見本でもある。だが一面では、「地理的基礎」という考え方の重要性を、改めて指摘してくれるものといわざるをえまい。

 サハラ沙漠は、紀元前8000年から2000年にかけて、緑したたる湿潤期にあった。そして、紀元前後においてさえ、各地に広大なオアシスを残していた。この事実が明らかになった以上、世界文化史には、抜本的な書きかえが必要である。すでに、フランスのアフリカ史学界の最高権威の一人、ロベルト・コルヌヴァン(ロベール・コルヌヴァンRobert Cornevin)は、農耕・牧畜文化のサハラ起源説を提唱している。サハラ先史美術は、農業女神の姿、種まく女たち、畠、そして6000頭もの牧畜ウシを、記録にとどめていたのである。

 わたしは、この点に更に疑問を提出しておいた。わたしの仮説的主張では、農耕・牧畜文化の起源地はザイール盆地の熱帯降雨林地帯周辺部である。そして、農作物ではヤム(山芋のたぐいで大型のもの)、家畜ではブタなどが、最初の相手であった。ともかく、ヨーパ流の発想では、オオムギ・コムギ・ヤギ・ヒツジという組合せが、至上命令の如くに語られているが、これには何等の優先権もない。コメを主食とし、ニワトリを大事にしてきた日本人の歴史学者が、ヨーロッパ流の発想に追随しているのは、まことにもって奇怪な現象といわねばならない。

●疑問から学問ヘ

 だが、更に残念なことがある。

 たとえば、カール・マルクスの盟友、フリードリッヒ・エンゲルスは、「だれしもが疑わずに信じこんでいることに疑いをさしはさむことから、真の学問がはじまる」と説いた。この考え方が、学者たちに徹底していないのである。

 ガリレオの天動説への疑い、地動説の主張は、すでに古代エジプトに先学をもっており、ガリレオ自身もアラビア科学に借りたもののようである。しかし、この点のヨーロッパ流歪曲はさておき、だれにも天が動くと見え、支配的にそう語られつづけていることに疑いをさしはさむことなしには、近代天文学の基礎はきづきえなかった。ニュートンは、また、つたえられるところによれば、リンゴが落ちるのを見て、引力の法則を考えた。このエピソードの真偽はともかく、だれもが知っておりながら、その原因を追求していない問題は、あらゆる分野にあるといえる。

 アフリカの歴史についても、ことは同様である。たとえば、イギリスのジャーナリスト、バズル・デヴィドソンは、アフリカの真の歴史を紹介する上で、巨大な貢献をなした。最近にも、日本語訳で『アフリカ文明史―西アフリカの歴史=1000年~1800年』(理論社刊、1975年1月)が発刊された。西アフリカ諸民族、諸帝国の歴史は、さらに鮮やかに描きだされている。とくにうれしかったのは、従来の著述家、訳者が、たとえば「ハウサ族」といったような、差別的名称を用いていたのに対して、はっきりと「ハウサ人」という用語を採用していた点である。

 ところが、残念なことに、このデヴィドソンでさえ、従来の農耕・牧畜文化オリエント起源説に、疑いをさしはさんでいない。オオムギ・コムギ・ヤギ・ヒツジによる、農業文化オリエント一元論的仮説を、そのまま定説として取り扱っている。

 最近では、「学際的」という表現がよく見受けられる。まさに、関連する諸分野のすべての定説。通説・俗説、そして歪曲にメスをいれることなしには、真のアフリカ史も、真の世界史も描きだせないといわねばならない。なぜなら、歴史は、すべての事実によって構成され、発展してきたからである。

 「王朝史」にはじまった歴史学には、根本的な欠陥がある。歴史学はいま、諸分野の技術史的研究

によって、コペルニクス的転換点をむかえざるをえなくなっている。この認識が最も必要とされるのは、他ならぬアフリカ史である。

 金属文化 デヴィドソンは、さらに、鉄器文化の起源について、こういいきっている。

 「紀元前1500年ごろのある時期に、今日のトルコにあたる地方に住んでいたヒッタイトというアジアの一民族が、鉄の使用法を発見した」

 ところが、いまだ論争の決め手はないとはいえ、この通説には、有力な反論が早くから行なわれている。その反論の紹介なしに、一仮説のみを主張するのは、最早、独断といわねばならない。

 まず、紀元前3600年頃の、古代エジプト先王朝期の墓からは、鉄のビーズ玉が発見されている。紀元前3000年頃のファラオ、ケオプスのピラミッドの石材のつぎ目からは、鉄のナイフが発見されている。さらに、ヒッタイト人の故地からは、紀元前2300年と年代づけられた鉄の短剣が出土している。

 ドイツ人の技術史家、ベックは、早くも19世紀末に大著『鉄の歴史』(全3巻)をあらわし、アフリカ大陸こそ鉄の発明がおこなわれたところだ、と主張した。ベックの主張は、その後の技術史研究家によっても、受けつがれている。

 アフリカ大陸には、おそらく数10万カ所の鉱山遺跡がある。土製の高炉の遺跡も残っている。アフリカ人は、大陸の南端にいたるまで、すくなくとも紀元前後には、鉄器文化の持主であった。その上、古代から、すぐれた練鉄の輸出者でもあった。

 現代の焦点、ジンバブウエ(ローデシア)にも、専門家によれば、おそらく7万カ所もの鉱山遺跡がある。アフリカ大陸の、世界で最も豊かといわれる金属資源は、決してヨーロッパ人の発見にかかるものではなかった。むしろ、ジンバブウェ一帯の金鉱の採掘鉱者の証言によれば、すべての現代の金鉱は、かつてのアフリカ人探鉱者の発見の跡にある。

 以上の事実の上に、技術史研究家による、興味深い問題点が、今後の追求を要請している。鉄は、銅、青銅よりも早くから、人類に利用されてきた、という主張がそれである。この専門家の主張を無視したところに、真の歴史学は成立しえない。とくに、アフリカ大陸では、石器から鉄器への直接の移行が、各地で確認されているのである。

●謎の古代国家プーント・クシュ

 以上のような、技術史・文化史上の諸問題を背景として、古代エジプトのはじまりとともに古い、謎の古代国家プーントの位置が問われなければならない。

 古代エジプトは、史上最初の巨大国家であった。ナイル河下流域からデルタまで統一した上下二王国制の帝国の成立期は、紀元前3500年とも、3000年ともいわれている。そして、これにつぐメソポタミアのシュメール文明は、バラバラの都市こそあったものの、紀元前2300年までは、統一国家を持ちえなかった。

 誤解をさけるために一言しておけば、シュメール人やその先住者たちを、現代的な意味でのアジア人やヨーロッパ人に近いものと考える根拠は、まったくない。むしろ彼等も、古代エジプト人や、古代インダス・ガンジス文明の創設者と同様に、黒色の人種であり、アフリカ起源の可能性が高いのである。

 さて、謎の古代国家プーントは、古代エジプトの初期王朝依頼、つねに文字記録、絵画記録に登場している。支配者は、王として表現されており、すくなくとも王国といわねばなるまい。エジプトは、プーントと交易し、それに成功したファラオは、遠征隊の持ち帰った品々を列挙し、神殿の壁画に誇らかに刻みこんだ。このプーント王国が、謎につつまれたままで、本当の世界史は描けるのだろうか。まちがいなく存在し、まちがいなく古代エジプト帝国の、最も重要な通商相手国だったプーント王国を発見できずに、世界の古代史は、出発点をすえられたといえるのだろうか。もしかすると、エジプトの方が新興国家であって、プーントの方が世界最古の王国、帝国だったのではないだろうか。

 日本史における耶馬台国論争と同様に、世界史におけるプーント王国論争が、いま起こされるべきであろう。

 ヨーロッパ系の学者は、プーント王国の位置を、紅海に面したソマリアに定めたがる。中央アフリカを指す学者もいるが、偏見の前に撤退してしまう。

 だが、アフリカ人の学者、たとえばセネガルのディオプは、明確に、ジンバブウェ周辺にプーント王国を想定している。彼の主張は、エジプトの浮彫りや絵画にみられるプーントの風俗、ザンベジ河流域から発見されたファラオ・トゥトゥモンス3世の碑銘入りのオシリス神小像などを根拠にしており、説得性はもっとも高い。しかも、エジプトの記録は、プーントをナイル河の上流方面と明記しており、交易品の中でも、黒檀の木、象牙、豹の皮などは、ソマリア周辺の特産品ではない。

 最早といわんよりは、もともと、プーント論争は、アフリカ内陸の何処か、という形でしか出発しえないものだったのである。

 クシュ帝国 紀元前2000年頃になると、クシュ王国またはクシュ帝国の存在が、明確になる。

 現在のスーダンを中心とする黒色人国家、クシュ帝国は、紀元前8世紀になって、地中海岸からヴィタトリア湖まで、つまりナイル河流域全体を、そしてアフリカ大陸の4分の1の面積を支配する史上最大の版図をうちたてた。エジプト史では、この期間をクシュ(エチオピア)王朝または第25王朝とよびならわしている。王名表には、5人のファラオが数えられている。

 このクシュ帝国の故地からは、いくつかの巨大遺跡さえ発掘され、今世紀初頭以来、歴史学者に確認されてきた。もっとも、すでにヘロドトスは、このクシュ帝国の首都のひとつ、メロエについて、いくつかの記述を残していたのであった。

 ところが、これまたおどろくべきことに、日本の西洋史・世界史の最高権威者があらわした「世界史」概説には、このクシュ帝国のクの字さえのせられていないものが多い。抹殺とは、このようなことを指す用語ではないだろうか。

●古代エチオピア帝国の謎

 クシュ帝国と関連して、古代アフリカ史に混乱を持ちこんでいるのは、「エチオピア」という用語の使い方である。

 ギリシャ人は、アフリカのいくつかの民族を、アイテオプスとよんだ。そして、近代にいたるまでのコーロッパ語で、エチオピア人とは、プラック・アフリカ人の意味であった。たとえば、人類学の父とよばれるドイツ人のブルーメンバッハ(1752~1840)は、エチオピア人種という用語をつかい、「この人種には北部を除いた全てのアフリカ人が属する」と規定していた。

 なぜ、従来アビシニアとよばれつづけてきた国のみが、エチオピアとよばれるようになり、エチオピア人とよばれてきた人々が、ネグロイド、ネグロとよばれはじめたのか。

 こたえは簡単、かつ奇怪なものである。

 新約聖書によれば、エチオピア人はキリスト教徒でなければならないのである。ギリシャ神話や旧約聖書以来の、尊敬すべき、武勇にすぐれたエチオピア人は、ここに、宗派的分類学の対象となった。そして、キリスト教徒(コプト教徒)に支配されるアビシニアの住民のみが、エチオピア人の名を受けつぐことになった。

 一方、スペイン・ポルトガル系の奴隷商人たちは、黒い奴隷を、従来の白色や褐色の奴隷と区別するために、ネグロとよびならわした。そして、奴隷制や人種差別を擁護する御用人類学者は、ブルーメンバッハの分類法にさからって、ネグロイドという用語をつくりだし、つかいつづけている。

 小論では、人類学そのものに深く立ちいるつもりはない。だが、「ネグロイド」(黒色人種)という分類法の非科学性だけは指摘しておきたい。これは、類語反復のおろかさを示しているだけではない。前世紀的なブルーメンバッハの分類法には、たしかに大変おかしな点が多い。しかし彼は、5大人種または5大変異を、コーカサス、モンゴル、アメリカ、マレーと、すべて地名で表現した。これに較べれば、ギリシャ神話の神山、コーカサスと、奴隷商人の符牒ネグロを併立させる現代的人類学の方法は、正気の沙汰とは考えられないのである。

 さて、紀元前5世紀のヘロドトスは、当時のオリエント文明人としての、共通の認識を表明した。つまり、彼はエチオピア人に最大の敬意を払い、強いあこがれをこめて、エチオピアに関する記述をしたためた。帝国主義者セシル・ローズは、ペルシャ王カンビュセスに範を拝いだのだが、ヘロドトスは、カンビュセスをものともしなかったエチオピア人を、つぎのように描きだした。

 「カンビュセスが使節を送った当のエチオピア人というのは、世界中で最も背が高くかつ最も美しい人種であるといわれている」

 そして事実、現在の中央アフリカには、平均身長2メートルにも達するかつての貴族または士族層が、各地に散在している。旧約聖書も、クシュ王朝期のエチオピア人について、「たけ高く、膚のなめらかな民、遠近に恐れられる民、力強く、戦いに勝つ民」(イザヤ書)という表現を、二度までも使っている。

 さて、この美しく、誇りにみち、武勇にすぐれた人々は、果して、ヨーロッパ人の侵入に手もなく敗退したのであろうか。

●「自由の王国」への途

 「ポルトガルの5百年にわたるアフリカ支配」という表現が、最近のマスコミに氾濫している。これがまず、決定的なまちがいである。たしかに、ポルトガル人がアフリカ沿岸の掠奪をはじめてから、5百年以上たっている。しかしこの間、19世紀末にいたるまで、植民地的領有の事実は、ほとんどなかったといってよい。初期の貿易品の中には、西アフリカ製のすぐれた木綿布もあった。奴隷貿易に重点がおかれるようになってからも、ヨーロッパ人の商館は、アフリカ諸侯の保護下に存在していた。長崎のオランダ商館のごときものである。

 商館はたしかに武装していた。だが、大砲の筒先は、海岸線に向けられているのが通例であった。ヨーロッパ人同士の独占争いの方が、主要な問題だったのである。

 さらに、レーニンは『資本主義の最高段階としての帝国主義』において、明確に指摘している。1876年まで、ヨーロッパの列強は、「アフリカの10分の1をその植民地としていたにすぎない」のであった。また、この10分の1の中でも、比較的広い面積をしめていたアルジェリアの状況について、当時のフランスの歴史家、のちの首相、ルイ・ティエールは、こう語っていた。

 「植民地化でもなく、いわんや大規模な占領というべきものでもなく、戦争にすぎず、それも不出来なもの……」

 実際の植民地化は、19世紀末から、20世紀初頭にかけて、血みどろの近代戦としてたたかいつづけられた。

 たとえば、1894年に、イギリス軍は現在のナイジェリアの一都市ブロヘミーを攻略した。歴戦のイギリス軍が一度は敗退し、二度、三度の援軍派遣、砲艦の援護射撃によって、やっと目的を達した。この時の従軍記によれば、ロヘミー郊外の防御陣地には、23門の重砲があった。そして、ブロヘミーの市街を囲む陣地全体には、合計106門の各種の大砲が備えられており、火薬庫には、1500樽の火薬が二重の鉄板に保護されていた。もちろん、火なわ銃から連発連射ライフルにいたるまで、あらゆる火器がふんだんに使用されていた。西アフリカで、フランス軍の精鋭と対決し、7年間の焼土作戦を敢行したワスル帝国では、速射銃を自家生産する兵器工場さえつくっていた。

 現在、南部アフリカで、再独立を求めてたたかっている解放戦士も、このようなアフリカ戦史のひとくぎりづつを、祖父から、祖母から語りついでいる。南アフリカには、イギリス軍とたたかった指導者、マカンだの物語がある。マカンダは、1819年、イギリス軍の侵入に抗し、8000名の戦士をひきいて、イギリス軍陣地に総攻撃をかけさえした。しかし、ワーテルローに勝利したばかりのイギリス歩兵の堅陣の前に敗れ、和平交渉の場で裏切られ、牢獄島からの脱走の途中に溺死した。アフリカ人は長らく、マカンダの死を信じようとしなかった。マカンダはきっと帰ってくる。そしていま、マカングが幽閉された同じロベン島にいる政治犯たちも、いつかは帰ってくる。その時がいつか、そして、アパルトヘイト(人種隔離)の名にかくれた奴隷制植民地、「最後の植民地帝国」が崩壊するのは、いつか。その時期を早め、定めることは、人類全体の歴史的責任である。また、このことなしには、人類の前史は幕を閉じようもないし、マルクスのいう「自由の王国」の扉は、たたくことができないのである。

表紙 目次 本文


➡ アフリカ史研究家としての木村愛二