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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第3章7

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第3章7) 森林の野生ウマ

 話はまたアフリカ大陸にもどる。

 つい最近の1959年、現在のスーダンから、家畜ウマの骨が発見された。そこはかつての要塞のあとであった。当然、軍馬と考えられる。そして、そのウマは、紀元前1670年ごろのものと推定された。この紀元前1670年という年代は、ヒッタイト王国の興隆以前でもあり、また、ヒクソスによるエジプト支配以前でもあった。

 一方、わたしの知るかぎりでは、オリエントの周辺からの古い家畜ウマの骨の出土は、報告されていない。どういうわけかよく分らないのだが、ともかくどの本にも書いてない。古い年代を示すものが出土していないと判断するほかはない。わたしは、それゆえ、スーダンからアラビア半島にウマが渡ったもの、と考える。このルートは、今でも聖都メッカへの巡礼につかわれている。大昔からの移住ルートでもあった。

 では、スーダンでウマが飼育されはじめたといえるかというと、これも証拠はない。しかし、スーダンから、メッカ詣での巡礼ルートを逆行すると、また西アフリカに達する。そしてそこには、もうひとつの謎がかくされている。

 ウマの起源をオリエントに求めるとすれば、西アフリカのウマは、サラセン種に近いものでなければおかしい。事実、中世には、サラセン種のウマが西アフリカに輸入されていた。ところが、それでは説明しきれない系統のウマが沢山いる。西アフリカに永らく研究生活を送った川田順造が、こう書いている。

 「アフリカの馬の問題はまだ解明されたわけではなく、西アフリカ、ダオメー北部の小型のコトコリ馬の由来など不明のままである」(『マグレブ紀行』、p.79)

 コトコリ馬の分布はかなり広いらしい。しかも、これに結びつけうる中世帝国の歴史が、熱帯降雨林地帯にも展開されていた。わたしも最初は、「ダオメー北部」という表現の意味が、よくわからなかったのであるが、アフリカの植民地戦争の歴史をよみなおしていたら、つぎの事実に気がついた。

 ダオメーは、かつてのダオメー帝国のあとなのだが、この帝国は、北部の熱帯降雨林地帯を根拠地としていた。そして17世紀には、ギニア湾岸までを支配下においた。しかし、19世紀にはフランス軍の侵人とたたかいつつ、また北部へ撤退し、ゲリラ戦を数年間つづけていた。

 だが、残念なことに、このダオメー帝国に騎兵隊がどれだけいたのか、それともいなかったのかについては、どの本にも書いてなかった。それでうっかり見逃していた。何となく日本の北海道の道産子馬のような、農業馬のたぐいのような気がしてしまったのである。

 ところが、このダオメー帝国は、隣国のナイジェリアにあったヨルバ連合王国と、何度も戦っていた。そして、ヨルバ連合王国のひとつ、ベニンの黄銅美術には、騎馬武者の像が沢山あった。つぎの写真のようなものだが、この国の黄銅美術は、世界的に最高級の水準をいくものとして評価されている。


ベニンで発掘された黄銅製の騎士像(『アフリカの古代王国』より)

 ここでもまた、独特のデフォルメが行なわれているので、このウマが小型であることを、うっかり見逃がしていた。しかし、日本でも足利尊氏の乗馬姿の絵がよく教科書などに紹介されているが、あのウマも小型に描かれている。そして事実、日本馬は小型であった。ナイジェリアのウマも、本当に小型だったにちがいない。

 わたしはここに、重要な鍵を見出した。しかもそれが、もうひとつの事実と結びついてきた。というのは、従来の定説によると、モンゴルの草原に野生していたターパン馬が最初に飼いならされ、ついでヨーロッパの森林馬(現在は絶減)が別系統、もしくはターパン系とかけ合されて、飼育種になったとされていたのである。わたしは、このヨーロッパ森林馬とよばれているものが、人間に追われて、草原から森林に逃げこんだのだとばっかり、思いこんでいだ。

 ところが、コトコリ馬と、ギニア湾岸の熱帯降雨林地帯に展開された騎馬帝国の歴史に想いを馳せていたら、突然、もしかすると、人間に飼われる前の野生ウマは、森林動物になっていたのではなかろうか、という疑問が湧いてきた。

 自然環境や、弱肉強食の法則に追われて、住むところを変えた動物は、いくらでもいる。いちばん典型的なのは、陸上の哺乳類から海棲動物に変わったクジラである。しかし、新しい環境に充分適応できなければ、そこで絶滅してしまう。

 ウマは、もしかすると、草原では肉食獣に対抗しきれず、森林にかくれすみ、絶滅寸前のところを、人間に発見されたのではないだろうか。そして、家畜として品種改良が加えられ、ふたたび草原性をとりもどしたのではないだろうか。この疑問が湧いてきた時には、われながら、びっくりした。いままでに教えられたり、本でよんだりしたことが、すくなくとも、ウマの進化の最終段階のところで、全くちがってしまうのだ。

 だがその後、あらゆる角度から検討してみた結果、わたしはこの考え方に確信を深めた。以下、その根拠をのべてみたい。もっとも、ここでは、野生ウマが小型であったかどうかは、原則的には関係がない。ヨーロッパ森林馬は、逆に、大型であった。寒い所に住む動物は、一般に、寒さに対抗するために大型になる。そして、熱帯の森林地帯では、一般に小型になる。動物の大きさは、環境によって変化する。

 まずこれもイメージ・アップのために、宮崎県都井岬の野生状態のウマの例をだしておきたい。都井岬には、江戸時代から放牧されていた日本馬が、約70頭いる。観光案内などには、森のそばの草原に、馬が何頭か群れている写真がのせられている。ところが、わたしがいった時には、全部、森の中にしかいなかった。ジっと立ったまま、時々しずかに頭をたれては、草をむしりとっていた。

 さて、問題の第一点は、保護色である。茶褐色の肌、黒いたてがみ(家畜化されて以後の変異は別問題)、どれをとっても、うすぐらい森林にぴったりである。草原動物は、こんな肌色をしてはいない。

 アフリカの草原にも、ウマ科の動物がいる。いうまでもなく、シマウマである。あのシマ模様は、実に見事な保護色である。動物園でみると、やたらに目立つが、アフリカの草原では全く事情がちがう。猛獣映画の制作者の手記によると、アフリカの草原では、照りつける太陽のために、強いかげろうが立ちのぼる。そのために、シマウマの群はなかなか発見できない。かげろうの中に、あのシマ模様がとけこんでしまうのだ。

 シマウマは、この見事な保護色を獲得しただけではない。肉食獣に襲われると、円陣を組んで、うしろ足を一斉にけりあげる。ウマ科の動物にはウシ科の動物のような角がない。その不利を、シマウマは、新しい戦法を学ぶことでおぎなっている。これにくらべれば、ウマは、草原動物として落第である。とくにアフリカの草原では、生き残る可能性はない。

 もうひとつのウマ科動物は、ロバである。ロバの肌は沙漠や山岳地帯の保護色、うす茶色になっている。足はおそいが、かわりに耳が発達した。そして、危険を察知すると、石のように動かなくなる習慣を身につけた。飼育種のロバにも、この性癖は強力にのこっている。ロバは、イヌの吠え声などを耳にして、いったん立止まると、押せども引けども絶対に動こうとしない。

 ウマには、草原をつい最近まで走っていたにしては、まだまだおかしな点がある。まず、ウマ科の中では、いちばん大きなヒヅメを持っている。しかし、それがもろくて、割れやすい。わたしは、ウマの唯一の身を守る方法が、森林のくらがりに、じっと立っていることだったために、ヒヅメが変ったのだと考える。じっと立っているためには、安定をよくしなければならない。ヒヅメは大きくなった。しかし、走りまわらないので、もろくなった。これが唯一の説明方法だと思う。

 またウマは火を見ると極端におびえる。ウマ科の限の構造を比較した研究は、残念ながら発見できなかった。だが、おそらくウマの眼は、森林のくらがりに適応したのではないだろうか。火がきらいだというよりも、明るい光に耐えられないのではないだろうか。しかもウマは、暗い厩舎の中では、安心して、あの大きな、うるんだような眼を見開いて、じっと立っている。

 モンゴル草原のターパン馬は、それゆえ、もともとは家畜ウマで放牧の群れから離れたものの、森林にもぐりこめなかった仲間ではないだろうか。そのころには、人間がトラやオオカミなどを、あらかた追いはらっていたので、彼らは細々と生きのびることができたのではないだろうか。

 その上に、わたしは、草原性動物の家畜化という発想そのものに、重大な疑問を抱くようになった。

(第3章8)人間と家畜へ進む ┃