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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第3章1

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第3章1) 幼獣の飼育

 アフリカの神話の中には、家畜のウシが、野牛に由来するという説明をしているものがある。神が野牛をおどろかした時に、野牛の親が逃げてしまい、あとに残されたオスとメスの2頭の子牛を、人間の始祖が育てあげ、家畜にしたのだ、とされている。

 わたしは、この説明を、非常に合理的だと思う。子牛、つまり、動物一般におきかえると、幼獣を人間の手で育てたという発想には、動物の野生種と飼育種のちがいをよく知っている民族の経験が、にじみでているような気がする。野牛の動物は、ほかの動物のにおいに大変敏感である。幼獣の時期から人間に抱かれて育てられないと、なかなかなつくものではない。

 たとえばアメリカには、子鹿を母乳で育てて、森にはなってやる習慣がある。オセアニアでは、家畜の子豚を、やはり母乳で育てて、宗教的行事のいけにえにする。また、乳児死亡率の高かった大昔には、生れたばかりの子供をなくした母親が、幼獣に母乳を吸わせて、乳の張った痛みをやわらげる事実があったのではなかろうか、とも想像できる。

 いずれにしても、幼獣を育てる行為は、狩猟文化の早い時期からみられたにちがいない。というのは、狩猟民族というものは、獲物にする狩猟動物を民族神にもしており、神がその獲物に姿をかえて自分達に食料を与えてくれるもの、と考えていた。だから、一般には、幼獣をつれた母獣を狙うようなことはしない。彼らは、その動物を愛しており、敬まっていたのである。母獣を誤って射ってしまったり、他に獲物がえられず、やむなく殺した場合もあったにちがいないが、その時に、母獣をしたってなく幼獣を、そのまま見殺しにするとは考えられない。

 幼獣はつれ帰られ、育てられた。しかし、すぐには家畜にされなかった。狩猟民族の生活パターンの中には、飼育した動物を繁殖させるという発想は生れにくいものだという説明をする学者が多いし、わたしもそれには賛成である。狩猟民族というより、正確には狩猟者である男たちという意味で考えると、問題点はより明らかになる。男たちは、農耕がはじめられてからでさえ、なかなか狩猟生活をすてきれたかったし、放浪者的性格をたもちつづけた。そして、女たちの手で育てあげられた幼獣も、狩猟文化のバターンの中で、つまり、男たちの発想にもとづいて処理された。彼らは、育った幼獣を森にはなったり、いけにえにしたりして、神のもとにおくりかえし、狩猟動物の繁殖をいのったのである。

 ただし唯一の例外に、犬がある。この動物は、集団で狩りをする肉食獣という、特殊な性格をもっていた。だから、乳ばなれをするとただちに、男たちを仲間と思いこんで、一緒に狩猟にでかけたわけである。つまり、犬の家畜化は、狩猟文化のパターンの中で成立することができた。

 ほかの動物が家畜にされはじめたのは、農耕文化の基礎が、かためられてのちのことであった。食料経済のパターンからみると、植物の栽培、つまり、生物を育てて人間の手元で繁殖させるという方式の中に、動物の飼育も含められるようになったわけである。自然に成長したものを、いわば、奪いとって食料にするのではなくて、人間の支配の下で繁殖させて食料にするという方式は、抜本的な発想の転換なしには実現するものでなかった。それゆえ動物の飼育をこのパターンにとりいれることも、農耕文化の創始者である女たちの力なしには不可能であった。女たちは、動物の繁殖の神秘を、みずからの出産・育児の経騒を通して、深く埋解していた。そして、狩猟文化の時期においても、幼獣を育てたのは女たちであった。最初は、育てあげた動物を、男たちの狩猟文化のパターンに奪いかえされていた。だが、植物の成育を支配しはじめた時、女たちは、手元で育てた動物をも、同じ支配の下におこうとした。いまや、経済の実権を握りはじめた女たちは、同時に、自分たちの力をも自覚しはじめたのである。

 家畜の飼育にいたる経過は、具体的なイメージとしては、つぎのように進んだのであろう。

 幼獣の飼育以来の段階として、まず最初に、野生の状態にもどすという行為があり、つぎに、いけにえにするという行為がつづく。これを経済的なパターンからみると、最初は完全に狩猟文化に送りかえすのであるが、つぎには、精神的、つまり霊をおくりかえすにとどまり、実物は、日本でいえば神棚さがりの形式の下で、直接に食料としてしまう。いいかえると、すでに食用飼育動物のパターンにとりこみはじめている。だがここまではまだ、繁殖という考え方は生かされていない。ところが、植物栽培で繁殖という行為をはじめてしまった女たちは、この方式にも抵抗を感じてくる。

 わたしはこの時期に成立した男女間、または、狩猟文化と農業(農耕・牧畜)文化の妥協の産物を、現在のアフリカの牧畜民族が、かたくなに守ってきた儀礼の中に指摘できると思う。そこでは、ウシの首筋に特殊な矢を射こんで穴をあけて、生血をとる場合もあるし、去勢ウシを槍でさし殺し、いけにえにする場合もある。だが、いずれにしても、この行為は狩猟の形式をふんでいる。しかも、宗教的行事として、儀礼が定められている。もちろん、男たちの仕事として、なされてもいる。つまり、女たちが飼育動物とみなしているものを、男たちはあくまで、狩猟動物として取り扱うわけである。この儀礼によって、狩猟者たる男たちの面目はたもたれ、一方、女たちが望んだ飼育から繁殖への道がひらけてきたのである。

 さて、話をまえにもどすと、以上のような点からいっても、最初の家畜飼育者は、絶対に女たちでなければならなかった。そして、家庭で、つまり女社会の中で育てられた幼児・少年が、家畜の世話役として登場してくる。当然、家畜の群れは大きくなっていくから、少年の役割は、次第に青年期までひきつがれるようになり、ついには、若者集団が遊牧(移動式牧畜)の旅をはじめるようになる。こうしてはじめて、農業社会の中から、遊牧民族の分離への道がひらけてきたのである。では一体、その過程がどこではじまったのであろうか。そして、従来の研究史には、どういう問題があったのだろうか。

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