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『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』第1章4

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦

(第1章4) 探検者たち

 サハラの真只中に、岩壁画・岩窟画が沢山あることは、実際には、19世紀の中頃からヨーロッパ人に知られ、文章化されていた。むしろ、その頃のヨーロッパ人の方が、アフリカ大陸の文化・文明について、素直な関心をよせていたともいえる。もちろん欲得づくの調査行が多いにしても、彼らにとってアフリカ大陸は、未知の世界だった。

 ドイツ人探険家、バルトは、イギリス人商人の依願を受け、1850~55年にかけて、サハラと西アフリカの通商路の調査に当った。彼の報告書の中にもすでに、「牛飼い民」の姿が岩壁に描かれていることが記され、バルト自身の仮説的解釈がそえられていた。

 サハラのその後の探険は、主にヨーロッパ列強による軍事用地図の作成を目的としており、考吉学的調査は行なわれなかった。

 1933年になって、フランスのアルジェリア植民地軍駱駝騎兵隊中尉ブレナンが、タッシリ・ン・アジェールの峡谷(サハラ高原の中心、現在のアルジェリア南部)で、大量の岩壁画を発見し、簡単なスケッチをもたらした。フランスの考古学者、地理学者が、現地におもむいた。その中には、すでに10数年間のサハラ探険の経験をもつロートも加わっていた。しかし、この調査は、戦争のために中断されざるをえなかった。

 1956年、すなわち、バルト以後1世紀、ブレナン以後4分の1世紀を経て、ロートの本格的な探険隊が、タッシリ遺跡調査に成功した。木村重信によれば、「タッシリとはトゥアレグ語で『水流の多い台地』の意味であるが、もとより現在は渓谷に水流はなく、完全に乾燥しきった嶮しい山塊である」。

 ロ-トの探険隊には、専門の画家、写真家が加わり、岩壁の埃にかくされた絵画を、スポンジで洗い出し、その模写、撮影に成功した。1958年には、パリで展示会が行なわれ、一大センセーションをまき起した。

 美術史上の価値は別として、この発見の意義を、つぎのように要約しておこう。

 第1に、アフリカの過去の気象、地理的環境についての、決定的な証拠をもたらし、研究を促進したこと。ロートは、それ以前にも、周辺各地の遺跡調査をしていた。すでに、相当数の証拠物件を提出していたらしいが、タッシリ遺跡の発見は、その決定打となった。「サハラの秘境」は、あまりにも鮮やかな姿で出現したのだ。

 第2に、岩壁画の分類によって、先史時代の区分が確立されたこと。ロートは、狩猟民の絵画を、16段階、約30様式にわけた。このあとには、牧畜・農耕民時代、ウマと二輪戦車の時代、ラクダ時代などがつづく。また、未解読のリビア文字もある。ここにも大きな謎がのこっている。

 第3に、サハラのみならず、アフリカ大陸の過去の、動物相が明らかにされたこと。とくに、ウシ、ヤギ、ヒッジなどの、家畜の野生種が、かつてはアフリカ大陸にいたことがわかった。これは、のちに牧畜起源の章でふれるが、決定的な重要性をもっている。

 さて、これらの材料をもとにして、コルヌヴァンは、農耕だけではなく、牧畜文化も、新石器文化も、サハラに起源をもっていると主張している。これも従来のオリエント起源説と、真向から対立するものである。このサハラ起源、つまり、ひとつのアフリカ大陸起源説が出ているだけでも、なかなか面白くなってきた。

 だが、わたしは、ホモ・サピエンスの起源を考える場合も含めて、熱帯降雨林と中央アフリカの大湖水地帯を重視する。そこには、自然環境のもたらす強力な必然性がはたらいている。また、ヤム(山芋)、ヤシ、バナナ、ウリなどの農作物を重視する。そして、以下、わたしの結論に到達するまで、従来の学説の茂みをかきわけていかねばならない。

第二章:ヤムのふるさとへ進む ┃