わたしの雑記帳

2005/1/23 長崎市立小島中学校、安達雄大くん(中2・14)自殺事件の裏に隠された、学校・教師の問題


2004年3月10日、長崎市立小島中学校で、安達雄大くん(中2・14)が、ライターとたばこをもっていたことを担任教師に見つかり、指導途中、トイレに行くと言って、校舎4階の手洗い場の窓から飛び降り自殺した。

事件があるたびに、学校に自浄作用は期待できないと暗澹たる思いにかられる。
事件の表層だけをみれば、学校でタバコとライターを教師に見つかり、興味半分ではじめた喫煙を知られて、親に知られることを気に病んで自殺した、ということになるだろう。気の弱い生徒だったのだろうと思うかもしれない。親が厳しかったのではないかと思うかもしれない。
しかし、多くの学校事故・事件で、その裏に隠されているものはとても根深い。

ライターを見つけた直後に担任が雄大くんを連れ込んだ掃除用具箱のこと、指導した教室のこと、親はどう思うかなどと不安を煽りたてたこと、一人にしたこと、それらの細かい問題以外にも、多くの重大な事実が隠されていた。
担任である男性教師は日常的に体罰を行っており、男子生徒たちに対してセクハラととられるような行為があった。雄大くんに日頃、絡んでいるようにみえた。
そして、学校は、些細なことでも、問題を起こした生徒の所属する部活動を停止させる不文律をつくっていた。生徒同士を密告させることも奨励していた。

担任の報告書には、「行き過ぎや問題点があったのなら、その時に問題になったのではないか」「体罰と言われればあったかもしれないが、これまで問題になった事はないからいいのではないかなどと書かれていたという。
しかし、私は逆に考える。もし、これまできちんと問題にされていたら、雄大くんは死なずにすんだのではないか。学校にはそれを見過ごしてきた責任があるのではないか。そして、今回もまた問題にされなければ、この教師は同じことを繰り返すだろう。

子どもがタバコを吸うことを、けっしてよいことだとは思わない。成長途中の肉体に与える影響は大きいだろう。一方で、この年代ならではの好奇心や仲間に対して少し悪ぶってみたい、大人ぶってみたいという思いも理解できる。それに本当に体に悪いものなら、大人社会からも閉め出すべきではないか。
いずれにしても、禁止は子どものためを思って言ってはじめて、相手に通じるのだと思う。鬼のクビをとったがごとく、子どもを管理・支配するための口実に使うのは、間違っていると思う。

「生徒のため」と言いながら、実際には大人たちがやりやすいように、大人たちの都合による管理教育が行われている。それが、どれだけ子どもたちを追いつめているか。日本全国で、これほど事件が繰り返されながら、今だ子どもたちの死から学ぶことなく、同じことが行われている。
何が子どもを死に追いつめたのか、大人たちにはきちんと検証する義務がある。ひとりの尊い命が犠牲になったのだから。大人たちによって、子どもの人権が踏みにじられているから、子どもたちは傷ついている。死に追いつめられている。心が荒んで、事件を起こしている。そのことをもっと自覚すべきだと思う。


(1)体罰について
T教師は小さなことでも体罰を行っていた。この時には、雄大くんに対して体罰を行っていないと言っている。
しかし、暴力は痛みだけでなく、相手に恐怖を与える。実際には自分が殴られなくとも、目の前で誰かが殴られているだけで、心は傷つく。そして子どもたちは、大人たちが考えている以上に、その体罰が、ほんとうに自分のことを思っての暴力なのか、教師本人の怒りなのか、あるいは支配する楽しみであるのか、わかっている。
今は、生徒を憎いと思って殴る愛情のない体罰、単なる暴力が多すぎると思う(愛情が発露だとしても、許されることではないとは思うが)。そういう教師に、信頼感を抱けるはずもない。嫌悪感、恐怖感しか持てないだろう。
教師による暴力で、体や心を傷つけられて、何人もの子どもたちが死に追いつめられている(630900 761207 850323 890611 931013 940909 991127)。体罰のあと、子どもたちが自殺した理由には、「殺されるかもしれない」と思うほどの恐怖感、教師という圧倒的な権力を背景にした力での制圧の理不尽さに対する屈辱感や怒り、それに対する抗議の意味などがあるだろう。

昔はみんな殴られて育った。今の子どもたちは弱いというひとがいる。昔は子どもは大人の所有物と考えられていた。道具とみなされていた。一個の人格と認められていなかった。それでも、戦前でさえ、学校教育における体罰は禁止されていた。体罰が一番、まかり通っていたのは戦争中。人が人を殺すことをなんとも思わない大きな暴力の前では、子どもに対する暴力も小さなことだった。それだけ異常な事態だった。
暴力を理不尽なことと感じる、それだけまともな感覚が雄大くんのなかには育っていたのだと思う。
幼い頃から家庭で暴力を受け続けた子どもは、暴力に対する感覚がマヒしてしまう。自分に対する暴力にマヒした人間は、他人に対する暴力にもマヒしている。だからこそ、暴力の連鎖が起きるのだと思う。


(2)セクハラ行為
セクハラと言われる行為については、T教師は「握手と同じようなスキンシップの一つ」と言う。
「スキンシップ」「愛情表現」。セクハラをする大人の常套句でもある。
男性教師からの男子生徒への接触は、女子生徒に対するものより、セクハラと認識されにくい。しかし、いじめも、セクハラも、受けた側がどう感じたのかが重視されるべきではないだろうか。
生徒たちは、男性教師からの接触を不快に感じている。性的なものを感じている。そこには、「スキンシップ」の大前提となる「信頼関係」が見えない。殴る教師の接触は、子どもたちに恐怖感さえ与えることだろう。

そして、同性に興味をもつ男性、女性は私たちが想像するよりはるかに多く存在する。ただ社会的通念が、表面化させない。日本よりもっとオープンに語られているようにみえるアメリカでさえ、異性間より同性からのわいせつ行為のほうが、告発しにくいという統計がある。国内でも、いくつか男性教師が男子生徒にセクハラ行為をしたことがニュースになっている。
ある男性は、同性から性的行為を強要されそうになって、警察に駆け込んだが、相手にされなかったと苦い経験を話してくれた。周囲の無理解が、同性から被害にあった、あるいはあいそうになったと言えなくしている。

教師の事件事例の一覧をみれば、セクハラ教師が、必ずのように体罰をも行っていることがよくわかる。そして、セクハラも、体罰も常習性があるようで、繰り返されている。
学級王国のなかで、教師の誤った万能感が、生徒を自分の好きにできると勘違いさせる。


(3)学校・教育委員会の問題
教師個人の資質だけでなく、学校に、あるいは教育委員会、教育界全体に、生徒の人権を軽視し、教師を絶対のものとする雰囲気はなかったか、問われるところだ。
体罰もセクハラ行為も、生徒には告発しにくい。親にさえ黙っていることが多い。
理由は、教師に口止めされている、自分にも非があるのではないかと思っている、信じてもらえるかどうかわからない、親に言ったあと教師から自分が仕返しされることが怖い、大人はそういうもので言っても無駄だと思っているなど。
この学校でも、生徒たちは事件が起きるまで、体罰のことも、セクハラのことも親に告げていなかった

学校、教育委員会は事件後、生徒や保護者からのT教師の体罰やセクハラ的な行為の情報を得ながら、何の処分も行わなかった。T教師は同級生の死に傷ついている学年の副担任として、そのまま持ち上がっている。
教師は何をしても許される、自分たちが勇気を出して告発したところで無駄、自分たちの人権は無視されている、と子どもたちが感じたとしても無理はないだろう。そのことで、生徒たちが再び、どれほど傷つくことか。
そして教師は、「問題にならなかったのだから」「処分されなかったのだから」、自分の行為は間違っていないと思い込むだろう。

少年の厳罰化が進んでいる。罰を与えなければ、自分のしでかしたことが悪いことだとさえわからないから、という論法。大人たちにこそ、言えるのではないか。
体罰は、学校教育法11条で禁止されている。しかも、1949年8月2日法務府発表「生徒に対する体罰禁止に関する教師の心得」には、「用便に行かせなかったり食事時間がすぎても教室に留め置くことは学校教育法に違反する。遅刻生徒を教室に入れないこと、授業時間中怠けたり騒いだからといって生徒を教室外に出すことは許されない」など、体罰は殴る、けるなどの直接的な暴力だけでなく、幅広く解釈されている。
生徒に教育を施している教師が、平然と法律違反を侵し、それを知りつつ学校・教育委員会が黙認する。
これは、管理監督不行届ではないのか。教師が体罰やセクハラ行為をやめられないのは、こうした処分の甘さによるところが大きいのではないか。


(4)連帯責任
学校が生徒管理をしやすくするために行う連帯責任。それが子どもたちの心をどれだけ傷つけるか。
(雑記帳バックナンバー me001220 参照)
この場合の喫煙は、部活ぐるみで行ったことではなかった。雄大くんの行為は個人的なものであり、部活動とはなんら関係がないはずである。生徒管理のための見せしめとして使われているとしか思えない。

連帯責任が子どもたちの仲間意識をつくるというのは間違いだと私は思う。唯一、安心できるはずの関係に強い緊張をもたらす。
自分の行動が、関係のない仲間にまで迷惑をかける。そして、他の生徒も恨みに思う。それがまして、自分たちが情熱を傾けて、日々努力している部活動であればなおさら。仲間に迷惑をかけたら、もうそこにはいられないと思い詰めるだろう。
逆にそのことが、いじめの発端となることもある。本来なら、そのようなルールを勝手に押し付けた学校、教師に向かうはずのものが、生徒個人に向かう。

雄大くんが、最後の最後まで気にしていたのは、部活動停止のことだった。仲間をとても大切にする生徒だったのではないか。死後、仲間が雄大くんのために行った証言をみても、その信頼関係が伺い知れる。
みんなが自分さえよければと思う、いじめが横行する、群れるだけで人間関係が極めて希薄化している時代に、仲間を思う気持ちが個人を心理的に追いつめていく。
逆に言えば、こういった大人たちの対応が、子どもたちの連帯感を失わせている。子どもたちの関係性を利害のみにしていったのではないか。

ほかのことがあっても、部活動停止さえなかったら、もしかすると雄大くんは死なずにすんだかもしれないと私は思う。


(5)学校が強要する生徒間の密告
子どもたちが、いじめられても親や教師に相談することを「チクる」と言って、最も卑怯なこととして嫌うのは、こうした密告制度のイメージが強くあるからではないだろうか。(自分を守るために、自分で解決できないことを誰かに「相談」することと、相手を貶めるために悪口を言う、相手が知られたくないと思っていることを告げ口することとは、まるで違う。しかし、子どもが大人に告げるという行為が共通していることで、混同しやすい)

言葉たくみに、「お前の罪を軽くしてやる」「お前だけがこんな目にあうのは不公平だと思わないか」と告げ口させる。密告しなければ、見せしめのための罰を与えられたり、より陰湿に追及されたりする。
保身のために仲間を売るという行為は、自己中心的であり、嫌われる。それを強要された子どもは深く傷つく。密告されたほうも、仲間から裏切られた気分で共に深く傷つく。

埼玉県新座市立第二中学校大貫陵平くん(中2)は、学校でお菓子を食べたことを指導された翌日、自殺した(000930)。ここでも密告が奨励されていた。ささいなことをまるで重大なことであるかのように言い立てて、必要以上の罰を与えていく。子どもたちは、自分も罰せられるのではないかと小さなことにも神経質になり、なぜいけないのかを考える前に、理屈抜きで決められたことを守るようになる。仲間同士の密告を恐れて、教師の見ていないところでも規則を守るようになる。

それで秩序は保たれるようになるかもしれない。代わりに子どもたちは大切なものを失う。人と人との信頼感。そして、自分の頭で考え、判断し、行動すること。
戦争中の隣組。連帯責任による罰を恐れる気持ちが、密告を推進する。一切の批判を許さない、戦争の時代にもっともふさわしい。子どもたちの心に育つのは、人間不信と憎悪の気持ちだけではないか。

子どもたちに密告を奨励する一方で、大人たちは学校で不祥事があると、まずは箝口令を敷く。マスコミに告げ口したものを断罪する。矛盾してはいないか。反省を促すために、生徒に密告させる。一方で自分たちは、外部からの批判を遮断することで、一切の反省をしようとはしない。
反省しないものは、同じことを繰り返す。


(6)自殺について
多くのひとが「自殺」を「弱さ」の現れという。本当にそうだろうか。死ぬ気になれば、男子中学生が教師に対抗することはできただろう。同じ死ぬのでも、相手を傷つけてから死ぬこともできる。叱責を受けた生徒が、教師に暴力をふるう事件は多い。黒磯北中学校事件(980128)のように、ナイフで刺すこともある。
雄大くんの場合、相手が男性教師だからやれなかったのではないだろう。自分は傷つけられることがあっても、相手を傷つけ返すことなど思いもよらない子どもだったのだと思う。
ご両親は「弱く」育てたのではない、けっして人の権利を踏みにじることのない「やさしく」、心の「強い」子どもに育てたのだと思う。自分に気に入らないことがあれば、すぐに暴力をふるう教師よりも、よほど人として上だと思う。


自分の子どもにも悪いところがあったのだからと、もし両親が泣き寝入りしていたら、学校の問題点は明らかにならなかっただろう。死に追いつめられた雄大くんの無念は、顧みられることもなかっただろう。
そして、いちばん問題なのは、雄大くんが亡くなったあとも、学校が頑なにその体質を変えようとはしないことだ。子を亡くした親の叫びすら届かない。学校の高い壁の向こう側で、子どもたちの体も心も傷つけられている。体や心が傷つくとき、命もまた傷つく。

子どもたちの問題行動を責める前に、なぜ、子どもたちがそのような行動をとるのか、考えるべきだと思う。そのうえで、しでかしたことの責任は相応にとらせるべきだと思う。
大人は子ども以上に、きちんと自らの行動の責任をとるべきだろう。でなければ子どもたちは納得しない。権力さえあれば、力さえ強ければ、何をしても許されるのであれば、法治国家ではない。
学校に自浄作用がないとしたら、外から変えていくしかないのではないか。何が、その力になるのは、私自身、まだ見えていない。



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