わたしの雑記帳

2000/12/20 「連帯責任」について


朝、テレビで2000年5月3日から4日にかけて福岡県で起きた、17歳の少年が西鉄高速バスを乗っ取った事件の続報をやっていた。少年に顔などを切られて重傷を負った女性へのインタビューの中で、バスがトイレ休憩したときに一人の女性が逃げ出したことから少年がキレて、「連帯責任です」と言って、いきなり女性に切りつけたという。

一週間ほど前の夜7時か8時台、偶然回したテレビのチャンネルで、少年たちがボクシングのトレーニングを通して、自分の体と根性を鍛え直すという番組をやっていた。いわゆる“感動もの”。
ここ数年、電波少年?雷波少年?の影響で、極限まで追い詰められた人間が悩みながらも困難を克服していく過程をドキュメント仕立てにした番組が多い。なんだが昔あったスポーツど根性もの劇画の実写バージョンという感じで、私自身は好きじゃない。本人が頑張っているというよりも、逃げ道を封じて無理矢理頑張らされているという他者の圧力感じて、見ていて苦しくなる。
そこでも、「もう、これ以上、がんばれない」という一人の少年に対し、「最初の約束だから」と「連帯責任」として、少年たち全員にトレーニングの中止を宣言する。番組は、帰途に向かう飛行場で最後の最後まで、少年が再び「頑張る」というのを期待してメンバーが待つ、というシーンで終わった。
想像するに、番組の構成としてはおそらく、次回、少年がみんなのところにやってきて、「もう一度、一から心を入れ替えて頑張る」と言い、その少年たちの言葉を受け入れてトレーニングを再開するというあたりかなと思う。

これが、金八先生とかドラマの世界なら、「くさ〜い」とか言いながら笑ってみていられる。しかし、現実の生活のなかで、カメラを通して世間中から注目されるなかで、ほんとうに行われているとしたら、強制以外のなにものでもない。
頑張れない、弱い人間がいけないというのだろうか。同じことでも、人それぞれに感じる辛さの度合いはさまざまだ。
ある人には乗り越えられることが、別の人には乗り越えられないこともある。しかし、どこまで頑張れるかは、他人が決めることではなく、自分が決めることのはずだ。
そして、一見、彼の自由意志にまかされているようで、けっしてそうではない。ここで、筋書き通りに頑張れなかったら、彼は一生傷を負って生きることになるだろう。
誰にでも挫折はある。自分の中に生まれる負の感情を処理するだけだって苦しく辛い。それに周囲の圧力が加わったら・・・。他人から蔑まれることの恐怖。グループとのわだかまりも一生残るだろう。

「おまえのせいでみんなが罰を受ける。みんなは何も悪くないのにおまえ一人のせいで・・・。仲間のことを考えたら、死ぬ気になってガンバレよ、死んでもいいからガンバレよ」
ガンバルことを強要する無言の声。実際には言葉に出さないだけに、反論さえ許されない。
「番組としても、ここで挫折されたら困るんだよね。何とか、最後までがんばらさないと番組の趣旨が崩れてしまう」
プロデューサーの声が聞こえる気がする。
しかも、それを周囲の誰もが、「彼のため」という大儀名文の元に何の疑問も持たずに行っていることに、怖さを覚える。
もしも、圧力に耐えきれず彼が自殺したとしたら、誰が責任をとるのだろう。
もしくは、1988/8/5 バスケット部の激しい練習の直後になくなった阿部智美さん(高1・16)のようになったら、誰が責任をとるのだろう。
プロデューサーがクビになって、番組がなくなったとしても、取り返しのつくものではけっしてない。

連帯責任」というのは、教育の現場でもよく使われる。
個人個人を管理するよりも、お互いに管理させあう、管理する側にとって楽なやり方だ。
戦時中の「となり組」というのと同じで、お互いが、お互いの行動を監視しあう。監視人は少なくてすむ。
部活やスポーツの世界でも、当たり前のように行われている。一人の部員の不祥事のために、部全体が試合に出場できなくなる。一人がさぼると全員が罰を受ける。

集団の縛り。他人思いの人間ほど仲間の鎖にしばられる。罰は人間関係を分断する。
自分は悪くないのに罰を受けた、理不尽な罰への怒りは、罰を下した人間ではなく、自分たちが罰を受けなければならなくなった直接の原因をつくった相手へと向けられる。いわば同じ被害者同士であるはずなのに、憎しみが生まれる。
現に、バスジャック事件でも、先に逃げたひとたちが世間から非難されることが起きた。「あの人さえ逃げなければ」という声が集中する。

教育現場で「個性の尊重」と言いながら、やっていることは、いかに同じ部品をつくるか、そればかりだ。教師が望む方向以外に出る杭は打たれる。
教師一人に叱られるだけなら、(その子にもよるが)そう辛くはない。しかし、集団に見放されることは、集団動物である人間にとってとても辛い。そのためなら、あらゆることを犠牲にもするだろう。
そうしたシステムはやがて、大人たちの手を離れ、子どもたち同士でも使われはじめる。
「みんながやることをどうしてあなたはやらないの?」といじめる理由になる。みんなと違うことをやれば、制裁の理由になる。グループの決まりを守らなかったからといって集団でリンチをする。
「集団で決めたルールを守らない人間は、みんなで注意しましょう。改めさせましょう」と教育は子どもたちに教えている。
その「ルール」は、「理由なんて知らなくていい。言われたことに従っていればいい」と言われて、上から一方的に押しつけられた「ルール」だ。

バスジャックの少年が「連帯責任です」と言って、女性を傷つけたというのを聞いて、ああ、この少年は、大人社会に復讐をしている。大人たちが子どもたちに科したのと同じ方法で。そう思った。管理するのに便利だからといって、大人たちが使った武器を彼もまた使ったのだと。
個人の責任はあくまで個人が負うべきもの。連帯責任はいらない。

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