Political Criminology

III 法の自己言及性

 自己言及性は、数学、論理学のみならず法学の分野でも重視され得る。法実証主義は、その共通の特徴として、「法の妥当性の規範的特質の解明や基礎づけを、その道徳的内容如何にかからせることを拒否し、実定法システム内在的にとらえる自己正当化でよしとする」とされる(田中、法理学講義:1994)。そのために、実定法システムの体系内で妥当性が確保されるかという問題に直面することになったのである。

根本規範論

 ケルゼンは、一切の道徳的、政治的価値判断を排斥し、法の社会学的、心理学的考察をも排除して、純粋法学の確立を目指した。その際、彼が実定法秩序の妥当性の最終根拠として提起したのが根本規範である。

 仮に一定の強制行為がなぜに法行為であり、従って一定の法律秩序に属するかを問うならば、その答えとしては、一定の個別的規範によって、すなわち判決によって、その行為が定められているからということになる。それでは、なぜにこの個別的規範が妥当するか、それも特定の法律秩序の成分として妥当するのかと問うならば、その答えとしては、それが刑法典に適合して定立されたからということになる。さらに刑法典の妥当根拠を問うならば、憲法に到達する。憲法の規定にしたがって、権限のある機関により、憲法に定められた手続きにおいて刑法典が成立させられたから、妥当性を有することになるのである。しかし、さらに進んで、一切の法律と法律にもとづいてなされた法律行為のもとづくところの憲法の妥当根拠を問うならば、おそらく、それより前の憲法に到達するであろう。かようにして、最後には(略)歴史的に最初の憲法に到達するであろう。歴史的に最初の憲法制定の機関がその意思として表示したものが規範として妥当すべきであるということ、それこそ、この憲法にもとづく法律秩序の一切の認識の出発点となった根本的前提である。(略)(純粋法学:1934)

 このように表現された「根本規範」は、純粋法学がその上に定立するところの仮設的基礎である。法律行為は常にその上位の規範によって妥当性を付与される。これは一方で法が自己の体系内で妥当性を獲得することができないことに対して、根本規範という外的な基準をアプリオリに設定したというだけで、実定法体系の静的な論証には失敗している。 おそらく、実定法体系の中では、ラッセルの階型理論がほとんど妥当し、上位の規範と下位の規範とは、厳密にその関わりを規定されているはずである。従って上位と下位とがパラドックスを起こすというような自己言及性は、論理学のときとは異なり、表面的には見られない。実定法上の規定同士が衝突を起こす場合も、それは単に矛盾であって、しかも常に解決され得るものである。パラドックスのように体系上確定できない困難が生じるわけではない。

 にもかかわらず、ケルゼンが根本規範という、一種の自己言及的構造を提示したのはなぜか。そこに彼の純粋法学、特に実定法秩序の体系の外からの圧力を排除し、「なぜ法が強制力をもつのか」という点を、法の体系内の言葉で表現しようとした試みがある。もし、法が体系外からの圧力を直接受けてしまうとすれば、それはもはや体系とは呼べなくなるだろう。外部からの圧力を規制する部分を入力装置として維持し、部分的なものに限定したとしても、どのような根拠で特定の外部圧力のみは認められるのかという、解釈論レベルでの体系化が必要となる。そしてその根拠は、ケルゼンが示したとおり、スタティックなレベルの体系の内では決定不能なのである。

ヴィトゲンシュタインのパラドックス

 「哲学探究」などを主著とする後期ヴィトゲンシュタインは、「言語ゲーム」の概念を提起し、社会的な行為を一定のルール(規則)の自己形成的な活動という側面で分析した。その過程で、ヴィトゲンシュタインは「規則のパラドックス」とでも呼ぶべきものを発見した。これは、ラッセルのパラドックスとはまったく違った意味で、自己言及性をあつかうパラドックスである。

201 われわれのパラドックスは、ある規則がいかなる行動のしかたも決定できないであろう、なぜならどのような行動のしかたもその規則と一致させることができるから、ということであった。その答えは、どのような行動のしかたも規則と一致させることができるのなら、矛盾させることもできる、ということであった。それゆえ、ここには、一致も矛盾も存在しないのであろう。

 ここに誤解があるということは、われわれがこのような思考過程の中で解釈に次ぐ解釈をおこなっているという事実のうちに、すでに示されている。あたかもそれぞれの解釈が、その背後にあるもう一つの解釈に思い至るようになるまで、われわれを少なくとも一瞬の間安心させてくれるかのように。言い換えれば、このことによって、われわれは、規則の解釈ではなく、応用の場合場合に応じ、われわれが「規則に従う」と呼び、「規則に背く」と呼ぶことがらのうちにおのずから現れてくるような、規則の把握のしかたが存在するのを示すのである。

 それゆえ、規則に従うそれぞれの行動は解釈である、といいたくなる傾向が生ずる。しかし、規則のある表現を別の表現でおきかえたもののみを「解釈」と呼ぶべきであろう。

202 それゆえ、「規則に従う」ということは一つの実践である。そして、規則に従っていると信じていることは、規則に従っていることではない。だから、ひとは規則に「私的に」従うことができない。さもなければ、規則に従っていると信じていることが、規則に従っていることと同じになってしまうだろうから。

(哲学探究:1945)

 例えば68+57という式が125という答えにならない場合というのを考えてみる。つまり「+という論理記号は、他の場合にはプラスだが、68+57の場合には、5を意味する」とある者が主張したと仮定する。+の記号はそういう規則を表している、と強弁する者に対して適切に応答することは、有限回の規則の確認しかできないわれわれにとって、無理な相談である。規則は、常に部分的にしか確証することができない。従って、人が自分自身で規則に従うということはできず、規則に従っているという実践的行為があるのみである。

 規則は、実践を通じてそのあらたな部分を形成する。これを古典的な言い方(スタティックな体系理解)で無理に言葉にすれば、規則の部分的な実現形態である実践そのものが、上位概念であるはずの規則を流動化し、新たに形成する、という表現になる。「ある規則に従うことが新たにその規則を生成する」というこの命題は、ラッセルのパラドックスからゲーデルの不完全性定理へと続く流れとは違う、動的な体系における自己言及のありかたを示しているのかもしれない。

ハートの承認のルール

 ケルゼンが、そのスタティックな法体系理解の中で提示した根本規範の概念は、法という体系が常に流動的に変化しているという側面を、そのときどきの立法者たちの意思入力の過程として過小に捉えていた。法自体が生成変化するという視点がなかったのである。ハートの場合は、ある程度、こうした実践の過程というものが妥当性議論の中に登場してくる。

 ハートはルールを「第1次ルール」(個々人の行動に関するルール)と「第2次ルール」(ルールの承認、変更、裁定)にわけている。第1次ルールはその性質からして、不確実性、スタティックな性質、非効率性などといった困難に直面し、その解決のために第2次ルールが導入される。このうち承認のルールは、妥当性を確保するルールである。

承認のルールは、大部分言明されないが、その存在は、裁判所やその他の機関あるいは私人や法的助言者が、特定の諸ルールを確認していくしかたの中に示されているのである。 (法の概念:1961)

 ハートによるこの説明は、承認のルールが、実践として表れるということを強調している。実践であるかぎり、体系の問題ではないからこのルール自体の妥当性を問う必要はないとされる。ヴィトゲンシュタインの規則のパラドックスは、規則の妥当性は、規則に従うという実践行為を通じてしか確証できない、という点を問題にしている。それからすると、ハートの承認のルールに従うこともまた、有限個の試行回数の中で、確認されるべき実践である。しかし承認のルールが実践だとするならば、これをもとに妥当性を論じることもできるはずはない。「いかなる規則も行動のしかたを決定できない」からである。

 ハートのルールが実定法体系のシステムとしての定立もその生成も説明し得ないとしたら、どのようにすれば実定法体系を、外部の圧力に直接さらさずにできるのか。この問いに答えるには、自己言及性というものを若干変えて理解する必要がある。論理学、数学では自己言及性(特に否定的自己言及)は無矛盾の体系を崩すネガティブな概念だった。だが、先に述べたヴィトゲンシュタインのパラドックスは、自己自身が実践を通じて自己自身を変えるという、体系の自己形成的意味を持つポジティブな自己言及性である。いうならば、関数f{f(n)}は、それが無矛盾なスタティックな体系であるかぎり、その体系の存立が危うくなるような、ネガティブなイメージをもつ自己言及でしかないが、これを作動プログラムと見た場合は、正常に実行し、かつ実行し続けるポジティブで動的な体系だといえるのである。

 コンピュータのプログラムとして、次のようなものを考えてみよう。実行されたらaという関数に1を加算するという命令を組み込み、かつaが10,000になるまでは、自分自身を繰り返すようループ(プログラム上の命令の輪)を設定する。このプログラムは、10,000回実行を繰り返した後、停止する、結果にはa+10,000が残されている。プログラムの一部であったaはプログラムの実行により変化し、ついにはプログラムはまったく別のものとなって停止したのである。むろんこの種のプログラムを永遠運動的に設定することも容易である。つまり、自己自身を変化させるという形でf{f(n)}を想定することはそれほどむつかしいことではない。では法は、はたしてそういったシステムと捉えてよいのか。これが、法におけるオートポイエーシス論を考える上での根本的な問いかけである。

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    Criminological Theory Autopoiesis and Law

    「オートポイエーシス論」の法学分野への応用

  1. 初期システム論
  2. 自己言及:論理学の立場
  3. 法の自己言及性
  4. オートポイエーシス論
  5. まとめ:法学分野でのオートポイエーシス論の可能性
  6. 引用、参考文献
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