『湾岸報道に偽りあり』(20)

第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか

電網木村書店 Web無料公開 2001.1.1

第三章:CIA=クウェイトの密約文書 5

ペルシャ湾で警戒態勢を発令したアメリカの姿勢

 では、この「ジッダ会合の数日前」という時点で、イラクとアメリカの双方は、どういう軍事的状況にあったのだろうか。

『司令官たち』によると、衛星写真により、アメリカはすでに七月十七~十九日の段階で、イラク軍三万五千名がクウェイト国境に集結した事実を確認していた。しかも、なぜか非常にタイミングの良いことには、「その間、やはりイラクに石油の過剰生産と価格下落の責任を追及されていた湾岸の小さな産油国アラブ首長国連邦が、KC-135空中給油機を二機、秘密裏に供与してほしいと合衆国に要請してきた。この給油機があれば、首長国連邦は二十四時間偵察機を飛ばしておけることになる」のである。そこで舞台裏の根回しの後、「急遽、アメリカ海軍がアラブ首長国連邦と合同訓練を行う旨の発表がなされ、港に停泊中の海軍艦艇二隻がペルシャ湾にで他の四隻と合流することになった。この訓練は基本的にKC-135の存在を覆い隠すためのものだった」

 だが、なぜか、「秘密裏」の約束は反古にされる。「七月二十四日、国防総省報道官ピート・ウィリアムズは、海軍の訓練が行われることと、それにKC-135が参加することをおおやけに認め、これはアラブ首長国連邦とクウェイト支持を明確にするための行動だと説明した」のである。七月二十四日付けのワシントン・ポストは、ペルシャ湾での「警戒態勢発令」を報じていた。アラブ首長国連邦は「激怒し」、通信で抗議したというのだが、私はこれを、アメリカ軍導入への内外の批判をそらすための、下手な芝居だと判断する。そもそもアラブ首長国連邦は、OPEC協定破りの石油増産と安売りでは、クウェイトと見事に共同歩調を取っていた。カイライ型の旧族長国家という点でも、遅れた独裁体制をイギリスやアメリカの傘の下に入ることで維持している点でも、クウェイトやサウジアラビアの同類である。おそらくはクウェイトと同時期にCIAとの密約を結んでいたと考える方が理にかなっているのだ。

 翌日の七月二十五日が、すでに広く知られているエイプリル・グラスピー駐イラク米大使とサダムの会見の日である。この時点までに、クウェイト国境のイラク軍は十万に増大していた。サダム=グラスピー会談の記録は、イラク側が公開し、アメリカの大手メディアが詳細に報じた。だから、日本の大手マスコミ企業でも報道している。だが、CIA密約文書を無視する大手メディアが、なぜこの会談記録を報道したかといえば、やはり、どうとも取れる内容だったからではないだろうか。この会談に対する世間一般の関心は、グラスピー大使の次の発言部分に集中しているようだ。

「イラクとクウェイトの国境紛争のようなアラブ内部の問題については、われわれは口をはさまない」

 この発言はまた、七月三十一日の米下院中東小委員会におけるジョン・ケリー国防次官の答弁とも呼応していた。ケリー次官は、「(チェイニー国防長官が)クウェイトが攻撃された場合は米国が兵員を送って防衛を確保する約束があると言明した」という趣旨の新聞報道に関する質問に対して、「湾岸諸国との間には防衛条約はない」「約束はない」という答弁をしたのである。

 グラスピー大使とケリー次官の同じ趣旨の発言は、一般に、イラクのクウェイト侵攻に対するアメリカ側の「青信号」ではないかと解釈され、一つのアメリカ謀略説をなしている。だがこの謀略説は、サダムがアメリカの外交辞令をそのまま信用した、という前提に立つものである。果たして、サダムの考えはそんなに甘かったのであろうか。彼らの発言には確かに、ある程度サダムを安心させる要素があるとは考えられる。だが決して完全な「青信号」ではない。せいぜい「黄信号」だ。もしその要素をアメリカが計算して故意に発言させたとしても、その目的は、限定されていたのではなかろうか。軍事的な問題点は第九章に集中するが、危機発生以後の十日間、緊急展開中で逐次投入のアメリカ軍には各個撃破される危険があった。その間、外交的に引き伸ばしを図りたかったのは、アメリカ側だったのだ。

 私の推測では、この「約束はない」という趣旨の発言の基本的な狙いは、クウェイト侵攻後をにらんだ第二の策略である。アメリカは、クウェイトとサウジアラビアという最大の「金主」から、軍事費をしぼり取り、さらには軍事基地を常設させるために、あえて「公式の約束はない」という事実を再確認したのではないだろうか。挑発役を請け負わされたクウェイトも、アメリカの高等戦略に巻き込まれていたのだ。クウェイトやサウジアラビアは、それほどの危険を予測せず、アメリカがここまでやるとは考えていなかったのではないだろうか。

 一方、アメリカの対イラク包囲戦略について、サダムは早くから確信していたはずだ。目前には、クウェイトらによる石油増産と値下げの攻勢があり、イラクの石油輸出を妨げ、盗掘を続けるための国境線問題での執拗な拒絶があった。また、次のようなアメリカ側の最終的な詰めの動きは、「青信号」とは矛盾するものだった。

 アメリカの動きは、ペルシャ湾の「警戒態勢発令」などの軍事的なものだけではなかった。七月二十七日には、米上院が、十二億ドルの融資停止を含む対イラク経済制裁の発動を決議していた。包囲網は着実に縮められていたのである。

 サダムに戦争を決意させ、本当にわなに飛び込ませるためには、もう一つ確実な挑発が必要だったのではないだろうか。ジッダ会談の裏側には、その謎を解くカギ、しかも、今までまったく伝えられていなかった衝撃のドラマが隠れていたらしいのである。


第四章:ジッダ会談決裂の衝撃的事実
(21) アメリカ傭兵戦略の中での会談は「すでに戦争」