『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(6-4)

終章 ―「競争」 4

―インベーダーの狙いをくじき、撃退する手段はどこに―

電網木村書店 Web無料公開 2008.6.2

“販売の神様”の復活祭

 「武藤は、この事件が起ると、間もなく務台をたずね、

 『いよいよ時期がきました。務台さんに音頭をとってもらって、有力店主を集めて、のろしを上げてください』
 『それは君の意見か、馬場さんの意見か』
 『もちろん馬場さんの意向です』
 『それじゃ君、馬場さんの手紙を持ってこい』

 そうしたら翌日、武藤は馬場の手紙を持ってきた。毛筆で書いたもので、主旨は、《いま読売は重大な時期に際会している。務台さんに専務として復帰し、争議解決のため中心となってやってもらいたい》ということであった。務台は、『馬場さんに会った上で、決めよう』と、翌日馬場に会った。務台はこうして馬場の意向を確認した上、販売店の動員に移った。神田の旅館紅陽館を買い切って泊りこみ、新聞連盟関東総局長川村正夫、読売七日会会長八木担と相談の上、代表店主三十数名に電報を打って非常招集を行なった」(『闘魂の人』二一八頁)

 インボデンは、この動きに呼応してか、プレスコード作戦の第二弾を放った。

 六月四日付の「食糧供出に新措置」という記事のうち、「政府の態度は本質的に地主擁護の性格を持つものとされる」という部分が、「批判を加えた」と判定されたのである。社内では、これをもとに、馬場社長が鈴木東民に編集局長辞任をせまり、いれられぬことを理由として、翌七日に自分の方が辞表を出した。もっとも、わざわざ自分で英訳をつくり、インボデン少佐に届けているのだから、本当に辞めるつもりだったのかどうかは分らない。たとえば、第二次争議で退社した宮本太郎は、「インボデンとの事前の画策」(『文化評論』一九六九年八月号、一四八頁)と断言している。

 そして、“読売版”Dデーがおとずれた。すでに紹介ずみのスパイ・柴田の暗躍で、ベーカー准将(代将)が馬場恒吾を呼び出した。これが、六月一二日のことである。

 そして、マーク・ゲインの表現によれば、「馬場は、何人かの『ゴロツキ』すなわち職業的凶漢を雇って事件の起るのに備えた」(『ニッポン日記』二四五頁)ということになるのだが、同じ六月一二日に、務台光雄とその同調者たちは、呼応して起った。

 「務台はこうして行動に移った。まず販売店代表は六月一二日、読売に鈴木を訪ね、引責辞職を勧告したが決裂に終った。いよいよ正面衝突である。

 翌日から毎朝七時には、東京と近県の販売店有志が二百数十人、読売本社につめかけて、バリケードをつくり、スクラムを組んで、鈴木一派が二階へ上がれないようにした」(『闘魂の人』二一九頁)

 つづいて六月二一日には、警官隊の導入である。それも、自分の方から暴力をしかけておいての出動要請であり、警察が動かないので、ベーカーに頼んだ。「ベーカー代将はニュージェント中佐に『ただちにMPに連絡、出動方を打合せよ』と命令したのであるが、これをきいた警察当局もろうばいして腰をあげ」(『八十年史』五三一頁)、丸の内署から約五〇〇名の警官隊が、こん棒、ピストルで武装して読売新聞社内に乱入した。こういった次第であるから、「軍閥の重圧下にも見られなかった言語に絶する暴虐」(『資料』七集、五七頁)という手記も残っている。

 もちろん、戦前にも戦中にも、警察署内や軍隊の内務班では、日常普段に暴力がふるわれていたのだが、戦争中でさえ、白昼公然と新聞社が襲われたことはなかった。

 さらに、『八十年史』は、この大攻勢の目的をあからさまに語る。

 「第二次争議の渦中に身をていして編集局長に就任した元本社副主筆安田庄司は、馬場社長を助けて、共産党に対する断固たる筆戦を展開すると同時に、一日も速やかに強力な政権を樹立し、こんとんたる戦後日本の建て直しをはかるべく、第一次吉田内閣支持を強く打ち出した」(同書五七五頁、太字部は筆者の傍点)

 吉田内閣は、食糧メーデーで人民広場に二五万人が集まり、首相官邸を包囲し、組閣断念を要求するという状況下に成立した。この五月一九日の食糧メーデー(飯米獲得人民大会)の議長は、日本新聞通信労働組合執行委員長の聴濤克己であり、「飯米獲得のための法案」提案者は、食糧民主協議会委員長でもある読売新聞支部委員長、鈴木東民であった。

 マッカーサーは、吉田内閣を援護し、食糧メーデーに対する声明を発し、「大衆的暴力増大と肉体的脅迫手段」なる表現で、いうところの「暴民デモ」よばわりをし、大衆示威行動の禁止にむかった。以来、騎馬のMPが日本の警官隊を激励し、デモ隊をけちらすこととなった。

 マーク・ゲインは、読売争議支援にはじまり、GHQのいやがらせ、脅迫のなかでつづいた新聞・NHKのストライキをふりかえって、こう書いている。

 「吉田は、総司令部さえ知り切っているほど、一般から嫌われている。しかも、吉田を退陣せしめようとするあらゆる努力は、ひそかにではあるが、故意に打ち破られている。総司令部さえ今回の新聞ストを傍観していたら、吉田は退陣せざるをえなかったと、わたしは確信している」(『ニッポン日記』三一三頁)

 ちなみに、第一次吉田内閣の厚生大臣(当時は現在の労働省を含む)は、かの河合良成であった。また、このころ、GHQの公職追放範囲には、特務機関の将校ばかりか下士官、兵、軍属まで含まれていたのに、吉田茂の秘書官は、福田元情報中尉であり、読売新聞渉外部員の柴田元情報少尉と連絡し合っていたのである。これだけでも、活字の証拠に残されたことは、まこと氷山の一角にすぎないということが明らかであろう。


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