『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(6-2)

終章 ―「競争」 2

―インベーダーの狙いをくじき、撃退する手段はどこに―

電網木村書店 Web無料公開 2008.6.2

ナチ党崇拝者の“抵抗”

 まず第一の問題は、正力自身がナチ党やヒットラーの崇拝者だった事実を、必死に、うち消していることである。アメリカにおけるユダヤ人資本家などの実権は、周知の事実であるが、当時は、ナチのアウシュビッツなどの大虐殺が明らかになり、ニュルンベルグで国際軍事裁判がはじまったばかりであった。翌年には、鳩山一郎が政権を一歩前にしながらも、戦前の著書『世界の顔』に、ナチ崇拝の証拠を残していたことが発見され、一挙に巣鴨プリズンまで、ころげ落ちた。日本国内にも派閥抗争のあるなかで、ナチ崇拝者の烙印は、政治的には死刑を意味した。

 組合側も、正力の居すわりを追及し、戦争責任の数々を紙面で報道するなかで、二月六日付で「熱狂的なナチ崇拝者本社民主化闘争 迷夢深し正力氏」と題する三段見出しの記事をのせた。内容は、正力が、ナチ党大会に日本の産業界代表として出席した藤原銀次郎に託して、ヒットラーに川端龍子作「潮騒」のつづれどんす作りの壁掛けを送り、その模造品をも読売新聞社の本堂に掲げていたという事実を中心に、戦時中のナチ崇拝演説を暴いたものであった。『八十年史』は、「この記事には大変誤りがある。事実はこうである」(同書四九二頁)というのだが、「国民代表としての藤原を、ヒットラーをして重く扱わせたい、それには然るべきみやげ物を持たせたいというのが正力の考え」(同前四九二頁)だったというだけなのであるから、なにをかいわんやである。

 しかしここでも、頭かくして尻かくさず、というべきか、公職追放解除で時効のつもりであろうか。一九五二(昭和二七)年発行の『悪戦苦闘』には、みずからヒトラーを引用し、同時に、信条の共鳴を吐露する戦中の演説を収めている。

 「ドイツのヒトラーは、その自叙伝において、『マルクス主義者は自己の経験によって、強き意志の価値を最もよく知っておるから、彼等の運動は意志の強きものを最も警戒して、これに非難攻撃の十字火を浴びせるが、意志の弱きものは役に立たぬが妨害にもならぬから、これを賞め、ことに頭脳明晰なるも意志の弱きものは大いに推賞して、たくみに大衆に食いいり、つぎからつぎへと地歩を獲得していくのである』とのべておりますが、まことに適切なる観察であります。頭脳明晰なるも意志の弱きものは、なんらの役に立つことなく、恐るべきは意志の強きものであります」(同書一三二頁)

 正力はまた、「軍部との抗争」の唯一の証明として、統制会社への一元化に反対したことを誇大宣伝している。しかし、当時の財界は全体として、“未熟な”軍部をいなしながら、戦争を挑発しつつも利潤追求をはかっていたのである。その中心は、例の郷誠之助であって、基本姿勢は、「①経済機構を動揺させないこと、②営利思想を認めること、③統制はできるだけ財界にまかせること」(『財界奥の院』四二頁)であった。

 新聞業界でも、すったもんだの暗躍の上、三大紙のイニシャティブによる新聞連盟が発足した。『百年史』では、「裁定案は、正力提案を盛りこんだ内容で、新聞の独立は守られた」(同書四三七頁)などと麗々しく記しているが、これも一方的宣伝である。正力が「新聞の自由」(戦争批判なしの?)のために「生命をかけた」結果は、「新聞連盟を強化して統制会社とし、官庁権限もそれに移行して新聞の統制整理を助長させる」(同前四三七頁)という決議に結晶した。結果はすでに第一章で紹介したように、急速な一県一紙化へとつながったのである。そして…-

 「新聞統合の主務官庁は内閣情報局と内務省であったが、具体的な統合実施過程では、各都道府県知事および警察部長、特高課長が指揮をとった。威たけだかな強圧がくだされた例も少なくなかった。『新愛知』と『名古屋新聞』の統合交渉がもめた時は、閣議決定と警官による新聞社包囲という強権が発動された」(『新聞史話』一二九頁)

 この経過をみるに、正力と「軍部との抗争」なるものの実態は、情報局という、内務省・外務省・逓信省・陸軍省・海軍省の出先的合同機関を舞台とした官僚の、権限争いの一環であることが明らかになる。正力は、あくまで、内務省OBとして、奮闘したのである。敗戦時に内務省人事課長だった林敬三(元統合幕僚会議議長)も、当時をふりかえって、表現には問題はあるが、こういっている。

 「軍事上の要請との間におこる摩擦をできるだけスムースに調整することに務めて、時にはずいぶん軍側とは争ってまでして、あの困難な戦時中においての民生確保と治安維持の上に果した内務省の役割は、各省中においても特に意義あるものであったと思います」(『自治研究』一九六〇年八月号、五八頁)

 もちろん、宮僚の縄張り争いは、それだけでは説明できない。天下りの道の確保もあるし、なんといっても、当座の実利が先立っている。

 「新聞ほどもうかる事業は、世の中に二つとない。戦争中といえども、公定価格でもうかったのは、新聞だけであった」(『東洋経済新報』別冊、一九五二年三月号「日本の内幕」一七五頁)

 これが正力の巣鴨出所を記念して、旧読売新聞の有力店主らの「読売七日会」が箱根で開いた歓迎会の席上での、「メイ演説」だそうである。そして、これぞ、「新聞の自由」の本音であった。この実利あればこそ、正力は、「自由」のために心おきなく闘ったのである。

 なお、敗戦直後の警察は、GHQの支配の下で、最も重用され、大幅に増員されさえした。この間の事情は、松本清張の『警察官僚論』などにもくわしい。林敬三も、「進駐米軍は内務省を大へん頼りにする、あるいは別の言葉でいえば内務省を非常に使った」(『自治研究』一九六〇年八月号、五一頁)などといっている。内務省OBの正力は、充分な情報も得て、先読みをしていたにちがいないのである。


(終章3)“自由主義”社会の防衛戦