『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(5-6)

第五章 ―「疑惑」 6

―ラジオ五〇年史にうごめく電波独占支配の影武者たち―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.30

後藤総裁かつぎ出しの「画策」

 「彼にすれば、既に放送事業は半官的な公共放送ときまった以上、すこしでも、この放送局が、国民のためになることを望んだ。そこで、これにはどうしても、いい指導者が必要になってくる。こう考えると、当時庶民に最も愛された人、後藤新平を初代理事長にすべく後藤新平を口説いている。

 後藤と彼の仲はここで改めていう必要はない。後藤新平も、彼の口説きであったればこそ、それを快く承知したのであろう」(『創意の人』一五五頁)

 正力晩年の自慢話、または告白である。だいぶ記憶もあやしくなっているので、総裁が理事長になったりしており、執筆者も、その真偽をたしかめる努力をしていない。

 後藤新平のかつぎ出しは、まず、定款の追加で、「総裁を置くことを得」、とするところから始まっている。

 「後藤氏の総裁推戴は、新聞社側少壮者の画策によるもので、社団法人東京放送局の威容を整えて、官僚勢力に対抗し、その上、文化事業に相当理解を有する名士を陣頭に立てなければならないというので、特に氏を推したのであった」(’51『日本放送史』九九頁)

 これらの文章を照合してみると、「新聞社側少壮者の画策」が、正力の動きを指している可能性は高い。そして、フィクサー河合が、その定款づくりには参加していたのである。

 さらに、後藤新平の総裁就任は、「監督宮庁の意図とも一致した」(『後藤新平伝』四巻、八〇一頁)という説明もある。

 いずれにしても、後藤新平は、一連のラジオ免許争奪ないしラジオ放送促進の動きに関して、黒幕的存在であった。そして、大正期の動乱に対処すべく、後藤が、いかなる形式にせよ、与論操作の有力な武器として、ラジオの開発を急いでいたと考えれば、すべてのツジッマが合ってくるのである。

 さきには、後藤が、震災以前から「無線電話」の必要性を説いていたとの、永田秀次郎の証言を紹介した。

 ところが、証拠上からみると、後藤は、実際にも行動を開始していた。そして、この場合、東京市が、「関東軍」の役割を果していた。

 「大正一三年(一九二四年)一二月二四日、東京放送局理事会は、(一)社会の要望を充たし、技術の進歩に資するため、できれば大正一四年三月一日から仮放送を開始すること、(二)放送機および放送局舎は適当な方面から臨時借用すること、すなわち機械は東京市所有の無線電信電話機を借入れ、放送局舎は芝浦の逓信省電気試験所跡を借受けることを決定し、直ちにその実行に着手したのである。

 まず、放送機器については、東京市では先に無線電話研究の目的をもってアメリカ、ゼネラル電気会社製無線電信電話機を、買入れてあった。

 市はこれによって技術上の研究を行なうかたわら、一般市民に対し、告知、教育その他を放送する計画から、かねて逓信省に対し放送事業の経営を出願していたのであった」(’51『日本放送史』一二七頁)

 では、いつごろからこの計画が進められていたのかといえば、「大正一二年三月一日、私設無線電話施設許可申請をして電気研究所に送話所を設置しようとして出願した」(『電気研究所二十五年吏』一八頁)とある。問題の送信機については、「無線電話送信機は米国GE会社代理店三井物産株式会社によって大正二二年四月納入予定のところ、さる大正一二年九月の関東大震災によって、電気研究所庁舎の完成もおくれておったので、庁舎完成まで同年四月末より東京帝国大学工学部に保管方を依託しておった」(同前二〇頁)というのである。

 つまり、一九二三(大正一二)年の一二月に、私設無線電話の規則が定められるよりも、はるかに以前から、東京市の出願がなされており、規則の発表後に出願者しぼりがはじまるころには、すでに、くだんの送信機は購入されていたのであった。

 資金については、一九二一(大正一○)年六月二四日付で、「東京電燈株式会社取締役社長 神戸挙一」の名前で、「東京市長男爵 後藤新平閣下」あてに、東京電燈の「創業三五年記念電気事業調査基金寄付願」が出されていた。金額は一〇〇万円であり、現在の数百億円にも相当する。しかし、現在の東京電力という後身をみてもわかるように、電力会社には公共的性格があり、逆にいえば、公有地、公共施設の便などを、他にすぐれて受ける業種である。なんらかの便宜供与の目算あっての寄付であろう。しかも、こののちまもなく、財閥間の紛争もあって、東京電燈株式会社の社長には、だれあろう、郷誠之助が就任し、専務は小林一三という配置になる。つまり、電力会社は、このころから、財界の共有する会社だったと考えてよいのである。

 ということは、当時、財界そのものが、東京市長後藤新平に、一〇〇万円の寄付を申し出たといってもよいのである。

 東京市は、翌一九二一(大正一〇)年五月二九日、「寄付金受領」を可決し、電気研究所と付属の電気博物館、電気図書館の建設を決定した。

 電気研究所の設立準備から加わった研究者、古賀逸策は、つぎのように回想をしたためている。

 「鯨井先生が東京市電気研究所の事業として最初から計画しておられたことの一つは、当時米国で始ったばかりの放送無線、すなわち今日のラジオ放送であった。そしてこの放送に用いるための放送機を米国のジェネラル・エレクトリック社に注文され、また建設に着手していた研究所の本建築の中にスタジオを設け、……(略)……屋上には二基の鉄塔を置いて空中線を張るという風に、万端の準備が着々と進行していた」(『電気研究所四十年史』一八五頁)

 「放送機」(無線電話送信機)の注文は、最新の大型機械のことだから、かなり早目だったにちがいない。

 だが、ここで奇怪なのは、さきのラジオ免許合同の動きに際して、これだけの物理的準備のある出願者、「東京市 永田秀次郎」が、なぜ、あっさり身を引いたのか、ということである。そして、若干のいきさつはあったようではあるが、なぜ、社団法人東京放送局に、貴重な機械を貸したか、ということである。このこたえは、永田秀次郎が、後藤新平の四天王の一人であったという事実のなかにしか求められない。「東京市永田秀次郎」なる強力な出願団体は、駆けこみ出願の「東京株式取引所 郷誠之助」らに席をゆずり、ついで、後藤新平「総裁」に、「放送機」を提供したといえるのではないだろうか。

 後藤新平のラジオヘの関与は、このほかにも、民間の実験への後援などが記されているが、最も想像をかきたてられるのは、関東大震災との関係である。

 というのは、後藤は、震災後に、内務大臣兼帝都復興院総裁となっている。そこでも、大変な大風呂敷をひろげたのであるが、ラジオとの関係では、だれが発案したものか、つぎのような「建議」が出されている。

 「関東大震災は幾多の惨害を惹き起したが、その経験によって、もし当時『一般民衆に対する適確な情報の供給が行われていたならば、大震災の惨害の大部分を防止できたであろう。天災の多いわが国には同時通信の施設が不可欠のものである。これには放送無線電話の急速な実施を計るのが最適の方策である』といった放送実施に対する強い要望が抬頭するに至った。このことは例えば復興院総裁に対する工政会の建議書に、放送の促進方が特記されていたことによってもうかがわれるのである」(’51『日本放送史』七六頁)

 これなどはもちろん、技術者のなかの、ラジオ愛好者からの率直な発想だったかもしれない。

 しかし、すでにふれたように、大震災の際には、基本的には同じ技術による電信施設は、都心部で崩壊したのである。そして、船橋送信所から発した電信こそが、大量虐殺の指令となったのである。

 自動車と騎馬警宮隊という、当時最高の装備に恵まれた警察組織が、憲兵、軍隊を配置し、「内務省警保局発」の電信文を、船橋送信所に届けたのである。むしろ、ラジオが活用され、それが電信文と同じアナウンスを、演出よろしく発表したら、惨害は、とどまるところを知らなかったかもしれないのである。そしてその危倶は、単なる空想とはいえないであろう。なぜなら、NHKラジオは、うたがいもなく、「鬼畜米英」、「非国民」よばわりと、「大本営発表」の場になり、二発の原子爆弾まで呼びよせる戦争の道具となったのであるから。

 ともあれ、関東大震災の翌日に、内務大臣に再登場した後藤新平その人が、こんどは、NHKへの統一の旗をもふることになった。


(第5章7)統一NHK理事長は汚職王