『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(3-7)

第三章 ―「過去」 7

―読売新聞のルーツは文学の香りに満ちて―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.2

プロレタリア文学の突破口

 だが、財界なり、警察官僚なりの立場からみて、読売新聞社が「高い気品と厚い信用を文化人の間にもち続け」(『伝記』一三五頁)ているだけに、その記事内容のおもむくところが、一抹の不安を抱かせたことは、想像にかたくない。

 それは、この時期、文学新聞としての読売の伝統ある歴史のうえに、新しくプロレタリア文学運動が加わり、その発展の上で、大きな舞台を提供したという、この際特筆すべき事実があるからである。

 ただし、『百年史』では、まず「プロレタリア」の語を抹殺している。そして欄外に、「階級文学是非ににぎわう文芸欄」なるベタ・ゴシックによる小見出しの小項目を立てるという、こぼれ話的な扱い方をしている。この欄外は、活字も一段と小さく、人物紹介などをしているところで、いわば傍論の形式である。

 『八十年史』の方は、第四編第六章の六項目のうち、「四」を「読売文芸欄の新人発掘」とし、本論の取り扱いをしており、その約三ぺージのうち、大部分はプロレタリア文学にかかわるものとなっている。そして、つぎのように、読売新聞が果した役割を、おおいに誇っている。

 「日本にプロレタリア文学なるものが台頭したのは、大正一〇年から二年にかけてであった。もうそのころには朝日、東日、時事、国民などにも文芸欄ないしは学芸欄が設けられ、文芸記事は読売の独占ではなかったのであるが、読売の文芸欄をして特色あらしめたものは、実に無名新人の登用であり、新興文学への紙面の開放であった。他紙の文芸欄が既成文壇にその場を提供していたのに対し、若いプロレタリア文学運動は、読売新聞にその突破口を見つけたのであった。これをいいかえれば、プロレタリア文学運動に火をつけたのは、読売新聞の文芸欄だったのである。

 ……(略)……読売新聞に『第四階級の芸術』という新しい言葉が現われると、これが一つのきっかけとなって『第四階級の文学」または『労働文学』というものが、文壇の片すみに多望先鋭な映像を投げて来たのであった。……(略)……関東大震災直前には、プロレタリア文学運動は、その第一期の発展期に入り、ついにブルジョアジャーナリズムは、競ってこの新文学に門戸を開放するようになった。これらの期間における日本の文壇は、すこぶる多事であったが、この時代に最も勇敢にプロレタリア文学のために、その舞台と機会を与えたものは、わが読売新聞であった。これは読売新聞の持つ、長い文学的伝統の、一つの現われでもあったのである」(同書二四七頁)

 もちろん、プロレタリア文学一本槍で、読売新聞の文芸欄をうめつくしたということではない。新人発掘という方針の下に、「清新性こそが文芸復興の旗印だ」(同書二四七頁)と主張し、無名の新人の作品を大胆に掲載していったのである。その中心が、関東大震災の直後まで、つまりは正力のりこみ以前には、プロレタリア文学であったのだ。

 一九二〇(大正九)年一〇月には、文芸部長柴田勝衛が、「第四階級の芸術は可能か」という著名文化人のアンケートを求めた。

 一九二一(大正一〇)年には、林房雄らが社会文芸研究会をつくる。平林初之輔は、唯物史観にもとづくプロレタリア文学の理論、「第四階級の文学」を発表する。秋田雨雀、村松正俊、青野季吉らは、機関誌『種蒔く人」を創刊する。そして……

 一九二二(大正コ)年元旦、読売新聞は新年特集として、有島武郎の「第四階級の芸術、其の芽生えと伸展を期す」をのせ、大論争をまきおこした。この年に連載された論文の主なものは、つぎのとおりである。

 長谷川如是閑「第四階級の芸術」四回
 平林初之輔「種蒔く人に望む」三回
 宮島資夫「第四階級の文学」五回
 青野季吉「知識人の現実批判」四回
 前田河広一郎「本年文壇前半期の階級闘争批判」四回
 安成二郎「社会文学とは何だ」、「文学に階級はない」
 本間久雄「本年の文芸評論壇、階級文学是非の帰結」

 とくに本間は、一年の論争の回顧として、こう書いている。

 「本年の前半は階級文芸の是非が論じられたが、後半は是非を越えて、階級文学を支える無産階級教化の問題へ移り、さらに来年への課題となった」(『百年史』二八一頁)

 この「無産階級教化」の問題は、また、すでに一九一九(大正八)年にはじまる普通選挙運動とも関係があった。普通選挙法(男子成人のみ)は一九二五年に成立するが、支配者階級の側としては、その実施以前に、革命勢力の進出を押えておく必要もあった。

 『八十年史』は、「プロレタリア文学も、関東大震災による社会的変動に大打撃をうけ」(同書一西八頁)という奇妙な表現をしているが、その背景は、震災時の弾圧も含め、単純なものではなかった。そして、以上にみたように、松山忠二郎の経営は、関東大震災にいたるまで、大成功をみたといってよいのである。しかも、文学新聞としての伝統は、いよいよ輝いていたのである。

 さらに、大正デモクラシーの状況下、読売新聞の論壇には、別の要素も強まっていた。それは、普選運動であり、明治型の薩長閥、軍閥、官僚閥に反対する政党政治確立の動きであった。それも、当時の新聞人が即運動家という事情もあり、ことは紙面の論評だけでは終らない性質のものであった。


(第3章8)大正日日新聞の悲劇