『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(3-2)

第三章 ―「過去」 2

―読売新聞のルーツは文学の香りに満ちて―

電網木村書店 Web無料公開 2008.5.2

文学新聞としての定評

 「黄金時代」の終りは、読売新聞にとってだけのことではなかった。

 『新聞販売百年史』はいう。

 「明治一八年頃は『小新聞』で互いに競争して、読者の吸収に集中した時代で、互いに活字の改良、速報体制の確立をはじめ、小説挿絵の重視、題号の改良、逓送無料の配達等々と、苦心を重ねたものであった」(同書二二八頁)

 読売新聞も、一八八六(明治一九)年に、オネー作『鍛鉄場の主人』の翻訳小説連載により、定期読者の確保に努める。これは、シェクスピア紹介で知られる坪内逍遥の発案といわれている。こうして、「文学新聞」への道が開かれるのだが、『八十年史』は、その開花を、つぎのように描いている。

 「ここにおいて、その退勢をばん回しようとして試みたのが、明治二〇年の主筆高田早苗の招請であり、高田と坪内逍遥合作になる文学新聞としての発足であった。すなわち、坪内逍遥、尾崎紅葉、幸田露伴の三文豪が期せずして本社に集まり、それに森?外を加えて、小説では紅葉・露伴時代を、文芸評論では逍遥・?外時代を現出したのであった。

 紅葉の入社により硯友社一派はことごとく本紙に筆をとり、本紙の小説、評論はいよいよ活況を呈し、ことに、明治三〇年一月、紅葉が力作『金色夜叉(こんじきやしゃ)」を執筆するに及んで、読者はひでりに雨雲をのぞむが如く、読売の紅葉か、紅葉の読売かとまでいわれるに至り、ここに文学新聞としての声価は定まったのである。

 高田主筆は、本紙を文学新聞として育成する一方、明治二三年の国会開設を機として、憲法、国会に対する読者の啓発に自ら論陣を張り、落潮の本紙をして高尚な指導性を持ったものに改編し、大衆新聞から中流以上、特に知識階級に読者層を開拓した。この策は一応当って、本紙は一万五〇〇〇部内外で第四、五位にあった」(同書一一頁)

 一八九八(明治三一)年からは、文芸欄を含めた社会部長に、島村抱月、徳田秋声という、自然主義文学運動の中心人物が就任した。読売新聞は、自然主義文学運動の本部のごとくであったという。

 ついで、小杉天外の大胆な恋愛小説「魔風恋風」が連載された。また、正宗白鳥が日曜版付録の編集長となり、文芸評論にも筆をふるいはじめた。

 一九〇四(明治三七)~五年は、日露戦争であるが、その一方で、反戦論者のトルストイをはじめとするロシア文学者への関心が、急速に高まった。トルストイ、チェホフ、プーシキンに関する記事、ゴーリキーの「コサックの少女」(徳田秋声訳)などが、読売文芸欄をにぎわすようになった。

 日露戦争には、「君死にたもうことなかれ」の詩で有名な与謝野晶子ら、反戦の声をあげる文人が多かった。幸徳秋水、堺利彦らの『平民新聞』が廃刊に追いこまれたのは、一九〇五(明治三八)年一月のことであった。

 この時期に、読売新聞には河上肇も入社し、「社会主義評論」(千山万水楼主人のペンネームによる)を連載した。内容は、社会主義思想の歴史的説明にしかすぎなかったが、いわゆる“冬の時代”の開幕期のことだっただけに、大評判となった。のちに日本共産党創立の初代委員長となる堺利彦は、ときの足立主筆に対して手紙を出しており、「読売の如き紙上において社会主義が評論せらるるは(ことに公平の態度をもって評論せらるるは)、われわれの深く感謝するところであります」(『百年史二二八頁)とのべている。

 記者も健筆家ぞろいで、当時の読売新聞そのものについても、上司小剣の『U新聞社年代記』、青野季吉の『ある時代の群像』(改題『一九一九年』)が残されている。

 小剣の文壇における交際範囲はひろく、その中には、のちに大逆事件で死刑となる幸徳秋水もいた。

 編集局宛に、幸徳秋水の手紙が届いた時のことを、小剣は手紙の全文を引用しつつ、たんたんと記している。手紙の内容は、小剣が秋水の恋愛事件のモデル小説を書いたことに関するものだが、終りはこうなっている。

 「検事の方から控訴したから多分体刑になるだろう、入獄前に会って大いに語ろう。

 作者自身(手紙を卓上におき)『あゝア。……』……

 政治部の若い記者『幸徳さんの手紙ですか。新聞の種になるようなもんじゃありませんか。……あの人は少年の時、小説家を目的にして上京したんですってね』」(『U新聞社年代記』一八五頁)

 小剣自身も、二〇代で、堺利彦をたよって上京した文学青年で、平民社の一員でもあった。

 青野季吉は、一九一五(大正四)年に入社するのだが、上司小剣(編集長格の庄司という作中人物)について、「文学界にもおおきな地位を占めていて、早くから社会小説風の作風で、特色を発揮していた」(『一九一九年艶三頁)とし、「いつも洗練された皮肉と、直戯な観察で、人々を一段と高いところから見下している風があった」(同前三一頁)と評している。

 青野は、自分(義一)が読売新聞(Y社)にはいったときの感想をも、くわしくのべている。新聞社の仕事自体に、生きた社会に潜入する興味があったが、それだけではない。

 「そういう一般的な理由の外に、Y社だけに関する特殊な理由があった。この社の新聞は、日本で唯一の文化主義の新聞で、たとえば文芸とか、科学とか、婦人問題とかいった方面に、特に長い間啓蒙的な努力を払ってきていた。だから、Y新聞といえば、文芸学術の新聞として、一般に世間に知られていた。また事実、社の内部でも、そういった文化主義的な空気が、他のさまざまな、たとえば営利主義的な空気とか、卑俗なジャーナリズムの空気とかの間にあって、最も濃厚で、支配的であった。その文化主義的な伝統が、義一には直接の環境として、決して、快適でないものではなかったのだ。

 この新聞で、仕事をすることが、何らか、日本の文化の発達といったものに奉仕する所以だと、まあそういった風に考えられたのだ」(同前二八頁)

 だが、その一方で、時代は大きく変動し、読売新聞の経営基盤そのものも、ゆらぎつつあった。


(第3章3)本野子爵家の内紛