『読売新聞・日本テレビ グループ研究』(1-9)

第一章 ―「現状」「現状」 9

―正力家と読売グループの支配体制はどうなっているか―

電網木村書店 Web無料公開 2008.4.25

亡霊復活の世話役

“内務省”復活ねらう動きも

 戦前の内務官僚は、権力の権化といわれたほどだったが、戦後内務省の解体にともなって、官僚組織も警察庁、自治庁、防衛庁、公安調査庁、厚生省、文部省などに分裂したため、内務官僚出身議員が一団となって、これら分散した官庁に影響を及ぼすということは見当らない。しかし、旧内務官僚から国会議員となった目ぼしいところを拾ってみると、……(略)……内務大臣、内務次官、警察局長、知事などという重要ポストを占めたお歴々ばかりで、いずれ警察を握った人たちである。これらに共通した広場は、旧内務省の復活で、そのための会合も時折り催されている。ただ、これが表向きに出ると、刺激するところが少なくないので、なるべく隠密行動に出ている。鳩山内閣時代、行政機構改革の一環として、内政省の設置が台頭したが、期熟せず保留された。このかげに旧内務官僚議員が躍ったことは天下周知の事実で、内務省復活の動きは、こんごも根強く繰り広げられることであろう。治安行政には専門家だけに、いまの明けっ放しの治安機構には、危なくて心配でならないというのが、旧内務官僚のいい分である」(『官庁物語』八五頁)

 これは、すでに一九五八(昭和三三)年三月、東京新聞に連載された記事の一部である。そして、この年の六月に、小林与三次は、自治省事務次官となり、それ以前の内務省行政課長、自治省行政部長などの経験も生かし、以後五年間、強制的な町村合併、警察法、地方税制の改悪の中心人物として活躍した。わずかに、本人の発言が残されているので、その一部をみてみよう。

 まず、旧内務省の復活にむけての動きについて、小林は、どう考えていただろうか。

 「建設省、経企庁の開発部門とか、その他たくさんの開発関係の機構をひっくるめて、地方自治国土省といった式の、内政を一元的に統轄する意味で、内政省を設置すベしという意見が、昭和三一年二月に出された。……(略)……そういう内政省案が、第二四回国会に、昭和三一年四月二七日、太田自治庁長官のもとで、国会に提案されたのである」(『自治研究』一九六〇年七月号、一一頁)

 問題は、小林が、太田自治庁長官の動きに、賛成していたかどうかであるが、これには、小選挙区制への動きと合せて、本人の証言がある。

 「太田大臣(自治庁長官)は、内政省案の提出とともに、-…(略)……小選挙区制の提案を断行された。

 ……(略)……私は、大臣の政治家としての高い見識と強い決断に、敬意を表せずにおられない」(『地方自治』一九六七年八月号、一〇頁)

 ちなみに、小林与三次は、現在、マスコミ界の代表という資格で、小選挙区制の区割り委員になっているのである。さらに、小林本人の発言として、旧内務省への反省がない本音が、露骨に語られている。

 「旧内務省は、いわば本能的にとでもいってよいくらいに、嫌われ、その復活が恐れられた。それは、ことがらの正当な評価、判断とかかわりなく、……(略)……軍とともに、いわば悪玉の標本のようにされているのだ。おかしな話である。われわれとしては、まったく迷惑至極である」(同前八頁)

 これは、内政省案の失敗への、ひとつの憤懣の表明である。そして、旧内務省の復活に反対する動きを、「本能的」ときめつけ、話の筋のすりかえをねらっている。内務省の「正当な評価」の一端は、のちに第四章「暗雲」などで試みるが、小林自身についても、さきの戦時中の講義を、「おかしな話」だけですまされるものであろうか。ほかにも、内務省解体の是非、警職法、安保条約改定などに関して、問題の発言は多いが、割愛する。

 ついで、自治省退任後の“教科書づくり”ともいえる時期がある。

 小林は、一九六三(昭和三八)年七月、住宅公団副総裁に天下りした。その間に、二冊の自治大学用教科書を著述している。『自治運営一二章』は、「○○課長に与える書」という章立ての、古風な形式のものであるが、「人事課長に与える書」の一部を紹介しておこう。

 「J君――……(略)……

 公務員の綱紀については、かつては『官吏服務規律』とか、『吏員服務規律」とかいうものがあって、当時都道府県の職員の大半は官吏だったが、官吏は天皇陛下またはその政府の官吏という考え方で、服務規律の厳重な励行が要求された。われわれも、役人になりたての時は、官吏服務規律を暗諦したものだ。

 戦後は、そうした天皇の官吏といった考え方は一変したが、服務上の規律の問題は、戦前であれ戦後であれ、異なるべきものではない。……(略)……ところが戦後は、その服務観念が、率直にいって、ゆるんでいるのではないかという気がする。……(略)……

 今ひとつは、とくに行きすぎた組合運動を中心にして、単に公務員の福祉を主張し、守ろうとするだけでなく、利潤追求の私的企業と行政活動を同一に考えたり、あるいは組合の利益だけを独善的に考えて、斗争本位に走ったりする傾向があることだ」(同書二九二頁)

 この考え方の、言葉づかいの細部まで問題にしても仕方ないであろう。

 ともかく、この発言の本人が、日本テレビに乗りこむや否や、夜間に仕事をすることの多い芸能局員に対して、一律に一〇時出勤を厳命し、全紙大の白紙に、その旨を筆で黒々と大書した「業務命令」なるものを、はり出させたのであった。もちろんほとんどの局員は、その命令にしたがわなかったが、小林のねらいははっきりしていた。この一見バカげた業務命令を出す裏で、定時勤務の総務・営業などの部門と、不規則勤務の現場部門の間に裂け目をつくり、時間外勤務手当や休日休暇のとり方に、大きく規制を加えようとしていたのであった。

 しかも、この手の恐怖政治の下で、番組内容も、次第に社長の意のままになっていく。そして、地方自治の破壊に努力した経験は、ここに新たな中央集権支配の道具、テレビ全国ネットワークの強化に向けて、十二分に発揮されたのである。

 ただし、その際のパートナーは、アプレゲールの汚職政治家、“庶民”田中角栄であった。……


(第2章)「背景」