電波メディア「学界」批判

その6。独占と非民主的な社会主義?

1998.4.30

 ラディオ放送が一本化されたのは、日本だけではなかった。

 フランスでは1921年から、情報省の国営機関による独占放送。

 イギリスでは1922年から、最初は株式会社。のち公益法人の独占放送。

 ドイツでは1923年から、各都市の民間放送設立。のち1925年に半官半民の独占放送の統制下に入る。

 イタリアでは1924年から、ローマとミラノで発足。のちに統一し、半官半民の独占放送となる。

 例外はアメリカだけだった。「アメリカでは、政府に申請さえすれば、だれにでも放送局の経営は許された」(『放送50年史』)。アメリカでは1920年に本放送開始。翌年の大統領選挙報道で放送ブームがおきた。1922年には全米で 569のラディオ放送局があり、受信機は 200万台を突破した。

 本放送の最初から民間の商業放送で、最初のコマーシャルはレコード提供店。新聞にはウェスチングハウス社のラディオ受信機の広告がのった。このようなラディオ先進国アメリカの事情は、当時の日本国内の新聞や雑誌にものったし、放送免許の申請人は熟知していた。だが、当局は法律さえつくらずに、つまりは国会論議をさけながら、一番うるさいはずの新聞社や通信社までまるめこんでしまった。なにか特別な秘訣でもあったのだろうか。

 しかも、アメリカを除く主要先進国で、国営、公益法人、半官半民の独占放送になった。これだけ見事にそろうと、なんらかの共通の力と法則が作用したと考えざるをえない。

 まず決定的に重要なのは時代背景である。

 マルコーニによる無線電信の発明は1985年である。最初のラディオ放送の実験は1910年、一般向け送信方式のラディオ実験放送は1906年、ともにアメリカでおこなわれた。

 アメリカの試験放送局が最初に免許をえたのは1916年である。日本の「無線電信法」に「無線電話」がもぐりこんだのは1915年だから、その1年前のことになる。ときはまさに1914年からはじまった第1次世界大戦の真最中である。しかも戦争の末期にはロシアで革命がおきた。日本のシベリア出兵などの革命干渉戦争がつづいた。つまり、ラディオというメディアが登場したのは、戦争と革命、反革命の波が荒れくるう世界的な大騒乱時代の真最中だったのである。

 それぞれの国でのあらわれかたに相違があったとしても、当時の政治状況の根底にはやはり、ロシア革命との対抗関係があり、体制の浮沈をかけた思想闘争があった。だから、国家独占資本総体の意志を体現して、言論機関としてのラディオ放送は、最初から意図的に独占されたのだ。

 一方、これらの資本主義国に対抗する立場の、ロシアないしはソ連における電波管理がどうだったかといえば、これも歴史的条件の制約というだけでは説明しきれない複雑な問題をはらんでいる。要する言論の多元化や多様性どころか、決して自由でも民主主義的でもなかった。

 ラディオは、革命の側にとっても反革命の側にとっても、重要な武器であった。

 1951年版の『日本放送史』によると、ロシア革命に「強烈な反感」を持つフランスは、エッフェル塔の無線局から「全世界に向かってボルシェビキ攻撃の宣伝を開始した」。それに対抗してソ連側も「無線電信局を動員し、全世界にむかって大々的な共産主義宣伝を開始した」のであり、これが「トロッキーの無電外交」とよばれた。ソ連における放送事業の異常な発達をうながしたのは、この「無電外交」だったという。

 以後もソ連におけるラディオ・テレヴィ放送の利用は、一方的な宣伝に終始した。実質的には、全体主義ファッシズム国家とえらぶところのない画一的かつ中央集権的な、言論統制の道具だったと評価せざるをえない。そのためもあって、資本主義国の社会主義運動においても、電波メディアによる言論の多元化という発想はとぼしかった。

 こうして、本来ならば独占への批判者となるべき社会主義のがわの、非常におくれた非民主主義的体質を底辺としながら、以後70有余年、ほとんどの諸国で放送は国家管理のもとに独占的位置をしめてきたのである。

 もうひとつの問題点は、国家そのものの歴史的な位置づけであろう。20世紀が終末をむかえることもあって、このところ、20世紀を「国家の時代」として特徴づける議論もある。そうだとすれば電波メディアに関しても、20世紀は「国家による電波メディア支配の時代」だったという特徴づけをしてみてもいいのではないだろうか。