電波メディア「学界」批判

その5。「学説公害」の徹底的暴露

1998.4.30

当局発表鵜呑み「学説公害」オンパレード

 理論構築に万全を期すための必須の前提は、まず、電波メディアに関する「学説公害」の正体の徹底的な暴露にある。

 私は、自己流の自称「愚直調査」方式で、手当り次第に関連する資料を調べ上げた。その結果、放送の歴史と理論に関するいくつかの意外な埋もれた事実を発見し、いわゆるアカデミズムの教えとは相反する独自の意見を発表した。その中心的主張は、「電波メディア神話」、とりわけその創世紀の「希少性神話」の告発にあった。最初が間違っているから、そのあとは当然、ボタンの掛け違えとなっている。

 法律家の世界には、シェークスピアと同時代の劇作家兼俳優マクリンが残した「法律は奇術の一種である」という有名な警句が伝わっているが、電波関連法規の数々はまさにその典型である。最先端の科学技術は、政治的な神話に取り囲まれ、権力の光輪に仕立て上げられているのだ。権力の神官たるアカデミズムは、当然、技巧を凝らして神話を語り継ぎ、民衆をあざむき続ける。

 流行り言葉でいえば「たかがアカデミズム、されどアカデミズム」といったところで、アカデミズムも大手メディアも虚名ながら世俗的な権勢を誇っている。水に叩き落として正体を暴露し、二度と再び浮かび上がれないようにシッカリと沈めて息の根を止めなければ、悪影響の除去は不可能である。だから一九八八年に和解で退職して以後、フリーになり、いずれ実名で、しかも無視できないようなやり方で挑戦し直そうと考えていたところへ、椿舌禍事件が突発したのである。

著名大学教授や著名評論家らの社会的役割

 「基本原理」の反対側にはもちろん、すでに冒頭にものべた「学説公害」がある。

 新聞ばかりでなく雑誌もふくめて大手の活字メディアは、およそ放送やら言論やらにすこしでもかかわりのありそうな著名大学教授や著名評論家らを一斉に動員した。「放送法では云々」という文章が、そこらじゅうにあふれた。にもかかわらずそこには、なぜ放送だけが、活字メディアにはない「公平原則」という現実には実現不可能な法的義務を課せられ、結果として体制擁護の役割をはたたしつづけてきたのかという、もっとも根本的かつ根源的な疑問に迫る論評はまるで見当たらなかった。ましてやその謎を解く核心的な歴史的事実にまで溯ろうとする努力は、ほぼ皆無だった。これでは、その場しのぎの、おざなりの仕事でしかない。結果として、「学説公害」の垂れ流しのままになっていた。

 こういう簡単なことが、どうして著名大学教授や著名評論家らには理解できないのだろうか。もっとも私は、このところ連続して似たような想いをしている。湾岸戦争佐川疑獄カンプチアPKO、いずれも核心的な歴史的事実が抜け落ちた一時的で表面的な報道と論評の連続だった。誰の仕事かといえば、やはり、大手メディア、著名大学教授、著名評論家、著名政党の著名政治家らの仕事であった。

 読者は驚き、かつ怪しむだろうが、私の言を疑う前に最近の日本の政治状況とそれに関する新聞記事解説などを想い浮かべてほしい。それらも、かなり良い加減なものではなかっただろうか。放送などという世間には表面しかみせない世界のできごとに関しては、さらに輪を掛けていい加減な論評がまかり通ってきたのである。

国際的にも非常に遅れた放送の歴史的研究

「模範答案」の暗記を得意とする優等生たちは、「象牙の塔」を朝な夕なにひたすらおがむ新興宗教の盲目的な信徒にひとしい。いかにも偉そうに演技をする教授の一言一句を丸暗記する方が出世の早道でもある。それに反して本書ではまず、既製の官製教科書の権威にたいする錯覚の排除を勧める。

 放送の歴史的研究は特にまだ片手間の観があるが、放送だけではなく、ジャーナリズム全体に関しての「理論」は、国際的にも非常に遅れた部分である。戦後に至るまでの日本では、言論の自由が極端に抑圧されていたから、なおさらだった。戦後の研究も、占領軍とアメション組がもたらしたアメリカ式ジャーナリズム論への追随に終始し、根本的な歴史研究に至っていない。

アメション・ザアマス型のジャーナリズム論

 「アメション」という言葉は、最近の風潮からするととくに潔癖症候群の女性からきらわれ、発禁処分にさえされかねないが、戦後世代の貧乏人の私などにとっては決して廃止してほしくない痛快な言葉なのである。逐語的には「アメリカで小便をしてきた」という意味だ。戦後の一時期、闇屋上がりのアメリカかぶれザアマス族が「あちらでは云々」を連発してひんしゅくを買ったものである。そんな風潮への庶民感覚の皮肉だから、すこしくらいの品のなさはゆるしてほしい。

 アメション・ザアマス型の特徴は、「アメリカではこうなっている」という事情報告が議論ぬきで、そのまま結論になってしまうところにある。「あちら」のやり方が疑問の余地なく「正しい」ことになるのだから、その論理構造は、神がかりの「神託」といささかもかわらない。結局、ジャーナリズムに関しても一つの神話になりきっている。

 アメリカ式ジャーナリズム論には、西部劇さながらのフロンティアにおける特別な事情がある。神話の出発点は、アメリカの独立革命で新聞人がはたした役割だ。当時のメディア技術は活字を1本づつひろってならべる段階だから、「プレスマン」は「印刷工」でもあり「執筆者」でもあった。「著述家」とも「印刷工」とも紹介されるトマス・ペイン(1737~1809)が書いた『コモン・センス』と題するパンフレットは、出版後の3ヵ月で約12万部発行、各国語版もふくめて全体では約50万部に達したといわれる。当時としては画期的なベストセラーだったようであり、アメリカの植民地の住民がイギリスからの独立を決意するにあたって決定的な影響をおよぼした。

 独立革命の理論的指導者の一人としてもっとも著名なベンジャミン・フランクリン(1706~1790)は、生涯「プレスマン・フランクリン」を自称した。最初の仕事は兄が営む印刷業の徒弟であり、イギリスにまで渡って印刷技術をまなんでいる。フランクリンはまた、ピューリタニズムの典型であり、「資本主義の精神」の体現者として評価されている。アメション・ザアマス型の神話の原型は、こういう独立自営の「プレスマン」の伝統と、アメリカの歴史の特殊な事情の上にこそなりたっているのだ。

 だがアメリカのジャーナリズムそのものも、ピュリッツァアー(1847~1911)とハースト(1863~1951)とが巨大化と系列化の競争をくりひろげて以後、広告への依存度をふかめ、ますます体制化、資本主義化の一途をたどった。イエロー・ジャーナリズムとよばれた「煽情主義」のハースト系新聞の手法を日本で直接とりいれたのが、のちにのべる正力松太郎社長就任以後の読売新聞である。ハーストはスペインとの戦争(1898)をあおった。アメリカはこの時期に大陸内部の西部侵略を一応おえ、スペイン戦争との勝利によってキューバ、プエルト・リコ、グアム、フィリピン諸島を獲得したのをきっかけに、大陸の外への侵略政策に転じたのである。以後、アメリカ独立革命期の特殊事情は表面からきえうせ、かすかな地下水脈にとどまっている。

 アメション・ザアマス型の最大の弱点、または欺瞞のしくみは、以上のようなアメリカの歴史的経過と現在の実情の完全な無視にある。アメリカ民主主義にもすぐれた点はおおい。その伝統はすてたものではない。しかし、初代大統領のジョージ・ワシントンは黒人奴隷を所有する大農園主だった。アメリカ大陸にはやくからすんでいた人々は、コロンブスらの地理上のかんちがいからインディアン(インド人)とまちがえられたままで、祖先伝来の土地をうばわれつづけていたが、アメリカの独立後にもその事情はかわらないどころか、ますますひどくなった。アメリカ民主主義には、独立当初から白人のダンナ衆の民主主義という限界があったのだ。

 1830年代にアメリカを訪問して研究し、『アメリカの民主主義』を書いたフランスの社会哲学者アレクシス・ド・トクヴィルは、アメリカ人の「心の習慣」を「個人主義」とよんだ。アメリカ民主主義には「白人のダンナ衆の個人主義」の集合としての面が最初からあったし、時代がくだるにしたがってますます資本主義的な変質が進んでいる。

 カナダうまれでアメリカ経済学会会長をつとめたこともあるガルブレイスは、近著の『満足の文化』で、レーガンやブッシュらの「富裕階級を優遇する」政治を批判しながら、かれらの政策が「自らの選挙民である満ち足りた選挙多数派の意志を忠実に反映したものであった」という辛辣な評価をする。「満ち足りた選挙多数派」はいまもなお黒人やヒスパニックなどの「下層階級」の存在を必要としているのだ。それなのに、アメリカの実状をろくに調べもせずに「アメリカでは」と得意気に切り出す論法が、いまだにまかり通る日本の現状には、呆れるほかはない。

 こうした歴史的経過を覆い隠したまま、「企業ジャーナリズム」にまで「プレスマン」の伝統を一般化するのは、アメリカに関してさえ決定的な誤りである。ましてや、革命の伝統などこれっぱかりもない日本の大手メディアに、アメリカ式ジャーナリズム論を当てはめて論ずるのは、机上の空論とか幻想を通り越して、結局は権力の欺瞞への援護射撃に陥る愚挙である。

 「権力・メディア・市民」の三極構造という説明の図式もある。メディアまたはジャーナリズムが市民にかわって権力を監視するのだという「通説」である。このように「権力」「メディア」「市民」などと、一応はもっともらしい概念に括ってみせるのは、いわゆる「社会学」という怪しげな新興宗教が開発した手法であって、思想的にはプラグマティズム(実用主義)と呼ばれている。資本主義擁護の立場の御用学問だから、この「三極構造」の場合にも見事に「資本」が抜け落ちている。私は、プラグマティズムの訳語として「独断主義」を選び、アメリカ式ジャーナリズム論の基本を「ジャーナリズム性善説」と呼ぶことにしている。「ジャーナリズム性善説」は、いわゆるアメリカ民主主義への手放しの礼賛と基調を同じくしている。