『20世紀末デカメロン』@憎まれ愚痴

序章の城

マスコミ業界 アカデミー業界 自称革新政党批判
“fight professionaly series”

ボッカッチョの『デカメロン』は、「騎士」や「聖職者」の「堕落ぶり」と、それを面白おかしく赤裸々に描き出し、十二分に「神聖を冒涜する不敬の書としてローマ教皇庁の禁書目録に加えられ」るに値する危険が満ち溢れていた。

今、「権力の司祭」などと評しては、官僚機構批判を飯の種にしてきた「マスコミ業界」そのもの、その提携者たる「アカデミー業界」そのもの、しかもその内の特に「自称」「左」「市民派」、自称「革新政党」をこそ、20世紀末の「聖職者」として位置付け、その真相の暴露、批判に全力を傾けることを宣言するのである。

本丸なぜ『デカメロン』なのか? 1998.4.28

 私に「意趣返し」の非難をしたい人は勝手にするがいい。「蟹は自分の甲羅に合わせて穴を掘る」のであるから、何と言われようと、私は気にしない。
 私は、自分自身の体験を大事にして、その底辺から世界を考え直すことにしているのだが、このところ痛感しているのは、一言で言えば「徹底的な言論の自由の重要性」である。おかしなことに対して、すぐに批判をしにくい風土、それこそが、いうところの「村社会」である。ところが、「都会」も「都会」、東京のド真ん中の、それも社会の最先端を行くと自他ともに認めるマスコミ業界やアカデミー業界や、「科学的」などと自称する政治屋業界などが、実は、実に実に陰湿な「村社会」の典型なのである。⇒全文を読む

2の丸現代の「聖職者」マスコミ業者の実態 1998.4.28

 「人間は自分の所属する集団の多数意見に同調しようとする性質があるため、特定の意見が自己増殖的に肥大化して行くことがある」
 いわゆる「付和雷同」の性質であるが、私の考えでは、人間どころか哺乳類以前に形成された強烈かつ必須の本能である。小はイワシから大はマグロまでの魚が必ず群れをなすように、海中における生物進化の過程で獲得した知性以前の基幹的な状況対応能力に相違ない。
 ジャーナリストとか、文化人とか称するマスコミ業界の商売人のほとんどは、しきりと「知性」を誇示するのだが、実は、それ以前に、この「性質」が人並み以上に発達し、機敏に「多数意見」に「同調」し、それをいかにも自分が推敲を重ねた意見であるかのように吹聴し、巧みに集団の中心周辺に潜り込む訓練を重ねた個体生物なのである。反体制の場合でも、基本的な実情は変わらない。反体制とか「市民派」の場合には、「同調」する対象が、反体制とか、環境保護派の市民の方の「多数意見」に変わるだけの相違である。⇒全文を読む

3の丸電波メディア「学界」批判 1998.4.30

この丸は、私が27年半というまさに半生を過ごしたテレヴィ放送業界を中心として、いわゆるメディアの世界に関する理論なるものが、いかにデタラメで体制寄りであるかを、徹底的に暴く意図で築いたものです。⇒電波メディア「学界」批判へ進む

アジア侵略の思想戦の先兵としての日本の大手メディア 2001.2.23

 戦争中に日本のメディアが果たした役割については、あの「大本営発表!」のNHKラディオ「臨時ニュース」の記憶が、いちばん強烈である。
 わたし自身は、敗戦まで中国の首都、北京で、北支那開発公社に徴用された父親の家族の一員として育った。まだ国民学校の低学年生で、新聞を読む習慣はなかったから、その頃の家庭では付けっ放しだったラディオ放送や、時折見た映画の影響力についての実感が強い・・・⇒全文を読む