戦後秘史伏せられ続けた日本帝国軍の中国「阿片戦略」詳報

勅令「阿片謀略」
その7:天皇の勅令「朕……之ヲ公布セシム」

 さて、「事実は小説より奇なり」というが、里見は、A級戦犯として巣鴨プリズンに入りながら、無罪で釈放された。そして言葉すくなに、こう語っているという。

「米国の関係者が、利用価値があるとみて釈放してくれたのではないか」「法廷に提出されたのは供述調書の1部で、阿片取引の収益金の具体的な用途、とくに軍の情報謀略工作関係については、大部分が隠蔽された」

 ベトナムで里見機関のやり方を真似た米軍は、麻薬組織をはびこらせ、前線の自軍だけでなく本国にまで、大量の中毒患者を抱込む結果を招いている。「阿片戦略」の後遺症は続いている。そして、「隠蔽」も……。

 最後の問題は昭和天皇の関わり方であるが、伊達宗嗣(中国技術センター主任研究員)は、こう記している。

「里見が阿片工作に手を染めたのは、参謀本部支那課長であった影佐禎昭大佐……に懇望されたことによるもので、……それも軍が阿片取引に深入りするのを心配された天皇が、しばしば侍従武官に『どうなっているのか?』と御下問になるので、里見に旨を含め、軍の隠れミノとするため発足させたもので、侍従武官を務めた塩沢清宜中将(陸士27期)が、里見の没後筆者に詳細に説明してくれた」(『続・現代史資料12/阿片問題』付録月報「里見甫のこと」)

 だが、なによりも重要なのは、国家政策としての関わりである。それは、「阿片戦略」の総元締めだった興亜院の設立経過ではないだろうか。いまでは想像を絶するが、戦前には天皇の「勅令」という制度があった。議会を通すことなく、天皇は法律を制定し、公布する権限を持っていたのである。

 筆者の頭の中では、北京の国民学校の講堂で、あの夏の日盛りに聞いた、あの声が、この「勅令」を読上げている。

「朕枢密顧問ノ諮詢ヲ経テ興亜院官制ヲ裁下シ茲ニ之ヲ公布セシム」
御名御璽
昭和13年12月15日
(副署)内閣総理大臣 公爵 近衛文麿
海軍大臣    米内光政
大蔵大臣    池田成彬
陸軍大臣    板垣征四郎
外務大臣    有田八郎
勅令第 758号(官報12月16日)
興亜院官制(以下略)


以上で「勅令『阿片謀略』」は終わり