戦後秘史伏せられ続けた日本帝国軍の中国「阿片戦略」詳報

勅令「阿片謀略」
その3:湮滅を免れた『極秘』文書の奇跡

 筆者自身も、この「阿片戦略」を知ったのは比較的遅い。しかも、紙数がないので省略するが、偶然の機会に恵まれただけであって、他のマスコミ関係者を不勉強呼ばわりする資格は全くない。

 たまたま筆者は、「興亜院」という耳馴れない戦争中の官庁名にぶつかって現代史の不勉強を悟らされ、いささか参っていた。[注3]

 手元の『大日本百科辞典』(小学館)にも、国会図書館の索引カードにも、「興亜院」の項目がない。あとで気が付いたのだが、世界大百科辞典』(平凡社)と『アジア歴史辞典』(同)にはあった。しかし、当局側の「建前」発表の域を出ていないので、むしろ見なかったのが幸いであった。見ていたら、それを引き写して終ったかもしれない。

 どこで調べようかと悩んでいた折、『皇軍“阿片”謀略』(千田夏光著、汐文社、1980年)の宣伝用横帯が目に入った。

「支那事変はアヘン戦争だった?!/蒙疆銀行元行員が語る東条チャハル兵団と金融工作員のアヘン謀略の実態!/興亜院・蒙疆連絡部“経済第一課”の張家口進出から“大東亜薬品(=阿片)会議”の密計に至る、アヘンにからまる戦争の裏面史を抉る!」

 さらには、「大平首相と閣僚たちの黒い結合のルーツは?」とある。

 オヤッ! ギクッ! である。

 謎の「興亜院」が出てきただけでなく、阿片」というドギツイしろものが突如現れたのである。ビックリしないわけがない。

 文中の「蒙疆」(もうきょう)という地名を載せた辞典は、筆者の知る限りでは『広辞苑』(岩波書店)だけであった。「中国の旧察哈爾(チャハル)・綏遠両省および山西北部の称」とある。分りやすくいうと、現在は「内蒙古」と呼ばれているあたりである。日本はここでも、「徳王」と呼ばれる蒙古人をかついで、傀儡政権をデッチ上げていた。

「大平首相」は故人となったが、大蔵省から現地の「経済第一課長」として派遣され、蒙疆の現地で阿片の増産・輸出に携わっていたという。

「興亜院」は、「支那事変中内閣総理大臣ヲ総裁トシ、外務、大蔵、陸軍及海軍ノ四大臣ヲ副総裁トスル対支中央機関ヲ設置」という閣議決定に基づいて設置された。当時、中国での占領地の拡大と各地傀儡政権の樹立を巡って、各省の権限争いが激化し、相次ぐ外相辞任問題にまで発展していた。その、すったもんだの一応の結末が、「四大臣を副総裁とする」異例の中央機関であった。

 紛争の中心は、阿片の利権を巡る特務機関の独断専行であったという。

 副総裁に「大蔵」大臣が並ぶのにも、もっとも理由があった。日本は台湾統治以来、植民地で阿片の「漸減政策」と「専売制度」(合せて「阿片制度」)を定め、歳入を確保してきた。塩や煙草、アルコールからの専売収入、高率課税と同じ発想であり、一番手っ取早い収奪方法である。ラストエンペラーの「満州国」傀儡政権は、「建国当初の歳入見積り6千 400万元」のうちに「約1千万元のアヘン専売収入」を計上していた。

 だが、これまでの文献には、共通の弱点があった。「回想・記憶・伝聞および2次資料に依拠してなされており、日本側の1次資料がほとんどまったく用いられていない」(『資料/日中戦争期阿片政策』)のである。

「抹殺」との関係でいうと、これはやはり、決定的な問題点だといわざるをえない。

 もっとも、証拠不足の理由は明白である。

 阿片に関してだけではない。敗戦直後、当局による「湮滅作戦」が展開されていた。

 8月15日のボツダム宣言受諾発表から3日目の8月18日あたりから、全国の各官庁、軍需工場、団体、会社、そして陸・海軍部隊が、手当りしだいに、戦争中の文書の焼却を始めたのである。

 全国一斉の理由も明らかになっている。当時は内務省が諸官庁の上に立つ位置にあったが、同省の中枢、地方局行政課にいた鈴木俊一(現都知事)が、こう証言している。

「公文書等をやはり米軍に見られては適当でないと思われるようなものは、極力焼却するというようなことで、本省、各府県庁それぞれへ連絡をして、そういう廃棄処分を相当やりました」(『内政史研究資料』)

 だから、冒頭にも記した『極秘』公文書の大量出現は、日本の現代史研究史上まれにみる奇跡的な大事件、といってもいい過ぎではないである。


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