戦後秘史伏せられ続けた日本帝国軍の中国「阿片戦略」詳報

勅令「阿片謀略」
その4:阿片「原産地」を直轄支配した日

 江口圭一が神田の古書店で入手した公文書の類いは、沼野英不二(てるふじ、故人)が、職務上所持していたものと断定できた。沼野は大蔵省の高級官僚で、日米開戦の年の1941年6月14日から翌年の10月27日まで、「蒙古連合自治政府」(「蒙疆」[もうきょう]と通称)経済部次長の職にあった。

 東京裁判では、検察側が北京市政府の文書を証拠として提出した。それは、「蒙疆」が北京への「阿片来源」だと指摘していた。

 だが当時は、それを立証する日本側の当局資料は乏しかった。「南京大虐殺」でも「731部隊」でもそうだったが、日本では、のっぴきならぬ証拠が突き付けられるまで、「中国側のデッチ上げ」という逃げ文句が世間的に通用してきた。

 ところが、ついに待望の、一番直接の実物が出てきたのだ。

 だが、「難解」な紹介は目的に反するので、極力避けたい。分りやすい用語のみに限り、省略して紹介する。読みにくいカタカナ文や漢字は、ひらがなに直す。すべて阿片に関する文書である。

「特別会計歳入歳出決定計算書」(「秘」と捺印)が3年度分。

『資料/日中戦争期阿片政策』に収められた例でいうと、「計算書」は16ページに及ぶ。概略報告のほかに、詳しい数表が四つ。「予算」執行の状況は、「俸給」「機密費」「阿片購買費」「慰労金」「阿片工作費」といった明細で大小50項目ほどに分けられ、1円単位で記載されている。「資産数量価格受払表」には、「生阿片」「規格阿片」「煙膏」(吸飲用の練り阿片)「麻薬」(阿片から精製されるモルヒネ、ヘロイン)に分けて、越高」「受入」「払出」「在庫」が、「数量」と「価格」(円単位)で記載されている。

 しかし、ソロバン勘定だけでは成果は挙がらない。

「阿片蒐荷対策」は、「強行実施」のため阿片隠匿者に対する厳罰」、「軍、興亜院、特務機関、憲兵隊の援助」をうたう。

「蒐荷」された阿片は、輸出される。

「配給関係統計表」(極秘)には、「上海」「天津」「北京」「広東」などの馴染みの地名が見える。17ページの詳しい数表がある。

 傀儡政権維持のための「予算」もある。

 1939年に蒙疆3政権は、阿片税収入を1043万円余(当時の金額)、歳入の36%として計上していたという。

 しかも、「増産」に励んだのである。

「増産」の秘訣のひとつは、『戦争と日本阿片史/阿片王二反長音蔵の生涯』という痛恨の一書が明かにしている。

「内務省嘱託」の身分で阿片原料のケシ栽培にいそしみ、自他共に「阿片王」の名を許していた篤農家、二反長音蔵(故人)は、請われて満州へ、蒙疆へと、ケシ栽培の指導に奔走した。著者の二反長半(故人)は実の息子で、作家である。しかも、骨身を削った本書の出版を目前にしながら「狭心症のため死去」という奥書き。まさに世紀の「遺書」のおもむきである。

 麻薬製造技術も世界で一流であった。台湾の領有とともに始まった「漸減政策」により、日本国内でのケシの栽培、精製は、合法化された。一流企業の星製薬などが研究を重ねた技術、機械、機具、そして、専門技師までが大陸に進出した。

 この点でも、やはり、ヘロイン製造技師だった山内三郎が、「麻薬と戦争ーー日中戦争の秘密兵器」(『人物往来』1965年9月号)を書き、痛恨の告白と告発をしている。


その5:大東亜共栄圏 に進む