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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

この映画の完成は僥倖である――ワン・ビン監督『無言歌』評


『映画芸術』437号(2011年秋号)掲載

疲れ切った足取りの男たちが、風吹きすさび、砂塵が舞い上がる荒野を行く。緑の木々も緑野も拒絶しているかのような、荒涼たる風景だ。広大な中国の、西部に位置する甘粛省高台県明水分場。男たちがテントの前までたどり着くと、ひとりの男が命令口調で、誰それはどこそこへ行けと指示する。行き先は、近在に点在する壕だ。壕と言えば、まだしも聞こえはよいが、それはほとんど岩穴にひとしい。背をこごめて中へ入ると、もちろん電気とてなく、暗い。土床の上の、狭い通路以外の空間には木板が張りめぐらされている。男たちはひとりづつ、わずか2畳ほどの指定された空間で荷解きする。衣類などの乏しい身の回り品を置けば、そこが、貧弱きわまりない食事を摂り、重労働に疲れた身を休め、泥のように眠るだけの日々をおくる場所だ。

それでも、立派な名前がつけられている。「労働教育農場」。社会主義革命後の中国で、指導部から右派と名指しされた人びとが、その「農場」で日々過酷な「労働」に従事し、それが、己の反革命思想を改造する「教育」だというのだ。土壌改良を施さなければ役にも立たない痩せこけた「農場」。そこをただ掘り起こすだけの「労働」。本来の意味の「教育」とも無関係な、強制収容所といったほうが、現実を言い表していると言えそうだ。

映画は、そこに暮らすことを強制された男たちの日常を淡々と描く。穴倉の中の場面が多いから、カメラは、隙間から射す一条の光をたよりに、男たちの動きとことばを描き出す。あてがわれる食事はいつも、水のように薄い粥だけだ。飢えた男たちは、それぞれに、空腹を少しでもしのぐための努力をする。食べ物と交換できる衣類の乏しさを嘆く男がいる。荒れ果てた土地に生えるわずかな雑草から、タネの一粒でもないかと探す男がいる。ネズミを捕まえて、煮て食べる男もいる。何を食べて食あたりしたのか吐く者もいれば、その男が吐き出したものの中から固形物か何かを見つけ出しては自分の口に運ぶ男すらいる。飢えの極限的な形が、日々この農場では展開されている。過酷な労働、冬の寒さ、そして絶えることのない飢え――そのあとに来るのは「死」だけだ。遺体は、その男が使っていた布団でぐるぐる巻きされて、砂漠に埋められる。野晒しにされていた遺体からは、衣服がはぎとられ、尻やふくらはぎの肉が抉り取られていく。理由は説明するまでもないだろう。

これはフィクションではない。1957年から60年にかけて、中国で実際に起きたことに基づいて作られた映画だ。依拠した原作本もある。事の次第はこうである。

1956年、革命中国の友邦・ソ連では、スターリン批判が行なわれた。1917年ロシア革命の勝利後まもなく、最高指導者レーニンの死後に政敵トロツキーを国外に追放して全権を握ったスターリンは、1953年の死に至るまで、鉄の恐怖支配をソ連全土に布いた。批判者はことごとく抹殺されたから、彼に対する批判は死後ようやく可能になったのだ。社会主義とその中軸に位置する共産党および指導者の絶対的正しさが、ソ連でも中国でも強調されてきたが、その権威が激しく揺らいだ。毛沢東は「百花斉放・百家争鳴」路線を直ちに採用して、共産党に対する批判を一定限度許容した。知識人を中心に官僚主義批判や党の路線に対する批判が沸き起こった。すると、毛沢東は翌年には路線を一転させ、「反右派闘争」なるものを発動した。13ヵ月間続いた自由な日々に、厳しい指導部批判を行なった者たちを次々と捕え、「労働教育」のために強制収容所に送り込んだ。特定の場所に収容された人びとの証言に基づいて、原作本が書かれ、映画も作られたのである。

この事態から50年が過ぎている以上、この政策の責任者だった者たちは、ほぼ鬼籍に入っているであろう。だが、「無謬の党」神話の延命工作が続けられているからには、過去の誤謬といえども、それがあまりに無惨で、あからさまである限りは、自由な批判の対象とはなり得ない。制作までは許されることがあっても、公開はできない。それが中国の偽らざる実情である。

故国の人びとに今すぐには観てもらえない映画を作るということ。ワン・ビン(王兵)監督の悩みと苦しみは、ここにあると思われる。しかし、古今東西、自由を奪われた表現者は、もっとも伝えたい人たちからの反応を直ちには期待できない状況にあっても――つまり、圧政下の故国を離れ亡命の身であっても、あるいは故国に踏みとどまって時に奴隷の言葉を使わなければならなくなっても――自らが逃れられないと考える必然的なテーマに立ち向かってきた。身構えて、政治やイデオロギーをテーマとすると力んでは、それは容易く失敗する。或る過酷な時代を生き抜いた一人ひとりの人間の在り方をヒューマン・ドキュメントとして記録し、癒しがたい記憶の形で後世に伝えるのである。ひとりの個人の悲劇的な物語を作り上げて観客をその閉鎖的な空間に閉じ込めてしまったり、観る者が主人公に距離感なく一体化してしまったりするような作劇法ではなく、複数の人物あるいは集団的な主人公を軸に、作品を観た者がそこに自ら介入線を引くことができるような、自由な余地を残しておくのである。そのとき、文化表現・芸術表現は、国境内に自足することなく、世界に普遍的な意味を持つものとして、国境を超えて出ていく。国際的な評価の高さは、国内での弾圧を避け得る十分条件ではないが、作品がいつか国内に「帰ってくる」下準備にはなるだろう。『無言歌』は、その要素を十分に備えた作品として成立している。

ところで、映画が背景としている「反右派闘争」で弾圧された人びとは、文化大革命終結後の1978年、一部の人びとを除いて「名誉回復」措置が取られた。だが、50周年を迎えた2007年には、中国当局は、反右派闘争に関する報道を禁じる通達を全国のメディアに出している。私の友人であるホルヘ・サンヒネス監督(ボリビア)の場合、一本の映画は、完成したネガの露出時間が旧西ドイツの現像所で故意に延ばされたらしく陽の目をみなかった。もう一本は、アルゼンチンの現像所に送る際にボリビアの税関で「紛失」させられた。完成した二作品が「事故」を装って無きものにされた彼のケースを思うと、この時代の中国の状況下で、中国政府の許可も得ずにゴビ砂漠で長期ロケを敢行したり、161本ものラッシュテープをフランスへ送ったりなど、よくぞ妨害を受けずに完成にまでもっていけたものだと、制作過程にも感心し、またその僥倖を喜ぶ。

中国の民衆に先んじて、私たちはこの作品に接することができた。何につけても「反中国」の宣伝をしたい人たちは、身勝手な利用価値をこの映画に見出すだろう。日本軍の中国侵略の歴史を反省し、1949年中国革命の勝利に何らかの「希望」を見出した人を待ち受けるのは、もちろん、別な課題である。資本主義が生み出す格差・不平等・疎外を廃絶したいという民衆の夢・希望・理想が託された社会革命は、20世紀にあってはほぼ例外なく、いつしか強制収容所に行き着いた。社会革命が必然的にここに行き着くものなら「そんなものは要らない」と誰もが答えるだろう。

だが、いま・あるがままの現代社会が生み出している数々の国内的・国際的な矛盾に我慢がならない人は、やはり、よりよい社会へ向けての希望を抱かずにはいられない。そのような人に向かって、『無言歌』は何を語りかけるのか。私はさしあたって、党=指導部の絶対化、イデオロギーへの過剰な信仰、これまた過剰な社会的な使命感情などを克服すること――が出発点だと考えるが、観客の誰もが、それぞれの課題を取り出すことだろう。

文学では、旧ソ連のソルジェニツィンの『収容所群島』があるとすれば、映画では、ワン・ビンの『無言歌』があると言えるほどに、20世紀の悲劇を考えるうえで必見の作品である。

(10月3日記)

「領土ナショナリズム」をどう考えるか ――2011年2月11日反「昭和の日」集会における講演(東京・千駄ヶ谷)


反天皇制運動連絡会編集『運動〈経験〉』33号(2011年7月30日発行)掲載

きょうの集会のテーマは「領土ナショナリズム」です。集会の呼びかけ文を読むと、そこには「植民地主義の継続」という問題意識があると思います。私自身も同じような問題意識を持っていますので、植民地が実質的になくなった現在にあっても、領土問題を通して否応なく現われ出てくる植民地主義を肯定し支える意識と実態が、どのように生き延びているかということをお話ししたいと思います。

この間、日本社会の中では、尖閣諸島や竹島(独島)をめぐる領土問題が非常に大きな関心を集めてきています。みなさんも、それぞれの歴史過程や現状についてはいろいろ調べられたり、分析されたりしていらっしゃると思います。私は、きょうは、この個別の問題それ自体に深入りするのではなく、それらが位置している大枠の問題について、どう考えるかというお話をしたいと思います。

第二次世界大戦後、ヨーロッパ諸国の支配下にあった東南アジアの諸国が次々と独立を遂げました。日本の敗戦とともに、その支配下にあった植民地も解放されました。さらに1960年には「アフリカの年」と言われるほどに、多くの国々が独立を遂げた。そういった戦後過程の中での具体的な展開があって、植民地主義そのものがすでに崩壊し、存在しなくなったという考え方が、長く続いてきたと思います。アフリカのポルトガル領植民地は1975年まで続いていましたから、すべてが一掃されたわけではなかったけれども、大きな形としてはそれらは第二次世界大戦後の過程の中で無くなったというのが世界共通の認識であった。しかしこの間改めて「継続する植民地主義」という言い方をする人たちが、全体から見れば少数派ではあるけれども、生まれてきています。私自身もそういう問題意識を共有している、そういう立場で物事を考えている人間です。そのことを前提にした上で、お話しします。

●捏造された歴史の古層

昨年、2010年という年は、前期旧石器時代の史跡捏造事件からちょうど10年目にあたりました。事件を振り返る書物も幾冊か出ました。捏造事件が発覚したのは2000年の11月で、毎日新聞のスクープで始まったわけですが、ジャーナリズムの上では、大量の報道がなされました。

事件発覚以前は、石器を発掘する特殊な能力を持っていて、「神の手」とまで称揚されていた藤村さんは、その後、「この手がだめなんだ」と言って右手の指を二本切断して、今はひっそりと暮らしておられるようです。当事者である彼自身の振り返りというのは公になってはいない。けれど、事件以前に20年間にわたって藤村氏に同伴したり称揚したりしてきた周辺の学者とか、文科省、・文化財保護局の人間などが、重い口をようやく開き始めています。

宮城県を中心に東北地方では、藤村氏が前期旧石器の遺跡から次々と石器を発掘していた時期があった。そのことによって、いわゆる日本列島の歴史は一挙に何万年、ときには10万年単位で古くなるという、そういう発見が続いたわけですね。ほかの考古学者がいくら発掘してもそのようなものは出土しない。ところが藤村氏が現れると突然のようにしてその時代の石器が現れる。結果的には、縄文遺跡から発掘した石器を、誰もいない深夜とか早朝に、発掘調査が続いている現場に埋め込んで、後日「発見した」と言って大騒ぎになるという、そういうことをしていたことがあとでわかったわけです。考古学というのは、世界どこでもそうですけれども、より古く、より大きく立派な文明が、自分たちが現在生きている地域に栄えていたんだということを実証する競争になってしまうところがあるわけです。どこまで古く自分たちの国の歴史をさかのぼることができるか、そしてそれはどれほど偉大な、当時の世界水準でいってまれに見るほど優れた水準であったかという、そういうことを競うことになる。考古学という学問の恐ろしい一面です。藤村氏が発見したという前期旧石器時代の遺跡は、まさしくそのような日本の歴史の古さを証明するものとして、当時報道されていたわけです。考古学者の中には、あまりにも奇蹟的な発見が続くので、留保したり批判したりした人もいたけれど、当時の社会状況の中ではそれは大きな声にはなりませんでした。むしろそのような批判的な考え方が疎んじられていたようです。この事件は、自国の歴史がより古く、世界にもまれな発展段階を示していたということを主張するものとして働いたわけですが、それはいわば、客観性を欠いた自国中心主義的な歴史観を日常レベルで準備する、そういうものとなっていったわけですね。

考古学というのは、それなりに人のロマンをかき立てるし、日常的な歴史意識を形づくっていく上で、大きな働きをすると思います。日本の場合、1972年に高松塚古墳が発見されました。あの壁画の鮮やかな色や形も、ちょうど高度成長期の発展する日本という感覚に沿っていたように思います。つまり、朝鮮半島や中国大陸との関係で前期旧石器時代をどう考えるのか、日本列島のみに孤絶して花咲いた、前期旧石器時代などというものがありえたのかどうかという冷静な問題意識が、まったく欠けていた。つまり日本独自文化論と言いますか、列島として、あるいは島国として孤立していることによって可能になっている「独自の文化」というものの、そういう枠組みの中に回収されていく。そういう思考の問題が残っているだろうと思います。

●3人の歴史学者──井上清

こうしたわれわれの日常的な歴史意識を形作ってきたのは、考古学だけではありません。具体的な例をあげますけれど、そこで固有名を挙げるのは、時代的な限界の中で生きた人の議論を、後世に生きるわれわれの特権で一方的に批判するためではありません。むしろ、時代的な制約の中で、人間の歴史観・世界観というものがいかに制限されてきたものであったのか。今の私たちから見れば信じられないような主張ですが、そういう時代というものがあるんだ、という、その時代の特殊性を取り出すためです。

井上清という歴史家がいます。2010年からの尖閣列島問題では、1972年に出された彼の本『「尖閣」列島──釣魚諸島の史的解明』(現代評論社)を媒介にして、思い出されることが多かった人です。

戦後日本の歴史学の中ではずっと共産党の立場で発言していましたが、ちょうど中国の文化大革命のとき除名され、毛沢東派として中国べったりの発言をおこなった方です。一番よく売れた本としては、1963~66年に岩波新書で出た『日本の歴史』全3冊があります。これは今でも出ています。40刷とか50刷とか、そういう増刷を重ねている本ですから、数十万単位の人びとに読まれている本だと思います。

いわゆる人民史観と言いますか、勤労者階級のような働く人びとの立場を大事にしようという歴史観を、井上さんなりに込めた本だと思います。けれども、冒頭で展開されるのは、単一民族国家論なのです。日本は島国であることによって、「歴史をさかのぼることができる最古のときから、現在にいたるまで、同一の種族が、同一の地域、いまの日本列島の地で、生活してきた」。それは非常にまれなことであった。「日本人は、原始の野蛮から現代文明の一流の水準にまで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた。これは日本歴史の大きな特徴の一つである」「一たん文明に到達してからの、日本社会の発展のテンポは、ときには急進しときには停滞しながらも、全体としては、けしてのろくはなかった。その何よりの証拠に、日本は現在、世界の一流の文明国である」。こういう表現が出ています。

単一民族国家論というのは、その後の現代史の過程で批判しつくされています。63年の時代にはそれが常識であったのでしょうから気の毒かもしれないけれども、しかし、井上さん自身が左翼の歴史家であったということを考えれば、いったいどうしてこのような認識が出てくるのかということは、私の価値観からすれば、今なお問うに値することです。それから、ある国が「世界の一流の文明国である」というような表現は、どう転んでも私の口からは出てこないし、おそらくこの会場におられる、2011年に生きている皆さんの口からも、出て来ようもないだろうと思う。自分の国を指して、このような表現でなにか世界の中で際立たせていく発言が、なぜ50年前の日本人左翼歴史家に可能であったのか。その後30年経ち40年経ち、井上さん自身にもいろいろな思想的な変遷があったろうけれども、それが本の書き直しとして果たされることなく、なお、そのまま増刷されていったのはなぜであろうか。そういう問題が出てくると思うのです。

このような単一民族国家論、あるいは文明国家を高度から低度までの発展段階に分けて、比較し優劣をつける。そういう歴史観・文明観というのと断絶すること。そのことが植民地主義の克服のためにはどうしても必要なことだと思います。

●三人の歴史学者──江口朴郎

もう一人、江口朴郎さんという人がいます。この方も井上さんと同じ時代の生まれで、1989年、ヒロヒトが死んだ年に亡くなっています。僕らの世代で言えば、日本共産党に属していた世界史的な視野を持った歴史家として記憶されていると思います。この方が88年段階で、こう語っています。今から23年前ですね。

「19世紀から20世紀初頭の転換期を、日本が明治憲法と教育勅語そして日清・日露戦争というかたちで乗り切ったということは、世界的に見ても、善かれ悪しかれ、たいしたことであったと思います」「アジアの諸地域が欧米列強のもとにどんどん植民地化されていくという状況のもとで、ほんの小さな可能性しかないときに、どうやって不平等条約を解消できるかというふうに考えれば、あれはとにかく善かれ悪しかれ、たいしたことですよね。19世紀から20世紀をああいうふうにのりきるこというのは、あれよりほかにはなかったんだよ」(『現代史の選択――世界史における日本人の主体性確立のために』、青木書店、1984年)。

江口朴郎は、ほとんど晩年まで共産党員で、おそらく70年代初めの「新日和見主義問題」のときに共産党から除名されて、離れた方だと思います。しかし、この物言いは、司馬遼太郎とほとんど同じ歴史観であるとわかります。昨年からNHKで、司馬遼太郎の『坂の上の雲』がドラマ化されて、不思議なインターバルで放映されています。長い時間をかけて、しかし継続的にではなく放映されている。『坂の上の雲』に凝縮された歴史観というものがどれほどひどいものであるかということについては、私も行なったことがありますし、さまざまの人の発言がすでになされています。それを私たちが聞いたり、あるいは考えたりするときに、司馬遼太郎の世界に熱狂する、主としてサラリーマン世界を中心とした男たちの世界というものを外部化して、自分とはまったく関係ない一つの傾向というふうにみなすことはたやすくできるかもしれない。しかし江口さんの今の発言を顧みるときに、このような考え方は、必ずしも自分の外部にのみあるものではないのではないか、もしかしたら自分たち自身を蝕んでいる考え方なのではないのかというふうにとらえ返すことが、どうしても必要なのではないかと思います。「善かれ悪しかれ」ということばを挟みこめば、どんな歴史的過去も無限肯定できてしまう恐ろしさが、ここには表われているのです。

●3人の歴史学者──高倉新一郎

もう一人、高倉新一郎さんという方がいます。北海道出身ではない、あるいはアイヌ史に特別な関心をお持ちでない方はご存知ないかもしれません。1902年生まれで1990年に亡くなった歴史学者です。『アイヌ政策史』(日本評論社)という本を、戦争中の1943年に出しています。そこで、明治国家がいかにアイヌを収奪・支配してきたかという歴史過程を実証的に描きました。これはいまでも、読むに値する本だと思います。

その彼が、1969年の『現代の差別と偏見』(新泉社)という本の中で「アイヌ人」という項目を担当しているのですが、そこでは次のように書いています。

「一つの民族が永久に地上から消える。大問題だが、結局は双方にとってしあわせであり“人類は一つ”の理想的な行き方でもあろう」。

永久に死滅して地上から消えていくのはアイヌ民族です。そしてそれが、アイヌ民族にとっても、日本民族にとってしあわせであると、高倉氏は言っています。

高倉さんは、先ほどふれた戦争中の重要な仕事にもかかわらず、戦後の一定の段階を経た後では、もうアイヌ民族の日本社会への同化は完了したということを基本的な考え方としてきました。その延長上で、この69年の文章も書かれていると思います。しかしこれはアイヌ民族にとってみれば、いったいどのようなことばとして聞こえるか。どれほどことば自身に暴力性が孕まれているか。植民者の側にあった、そして北海道という植民地の中において、明治以降急速に確立されていった教育制度の中で学問をおこなうことができ、大学教授になることができた高倉さんには、とうとう見えなかった問題があったのではないか。ここでも「継続する植民地主義」という問題を見抜くことが必要なのではないかというふうに思います。

私は高校を卒業するまで北海道に暮らしていたのでわかりますが、高倉さんは、当時北海道では非常に大きな勢力であった社会党のシンパサイザーであり、北海道における進歩的文化人の一人でした。つまり、ここに挙げた井上、江口、高倉という三人の方たちは、それぞれ日本の戦後過程の中では左派的な立場、いわば進歩的文化人という立場で、一定の発言権を持っていた人たちです。その人たちが展開してきた議論が、当時はこういう水準であったということをみれば、やはり社会全体の中から植民地主義的な思考が払拭されていたわけではなかったことがはっきりします。このような思考は、それから何年もたった今なお、私たちを呪縛しているのではないだろうか。そのような思考が私たちを捉えて離さないということには、ある種の必然性がある。たたかうべき敵を、すべて自分の外部に置いてしまうのではなくて、もしかしたら自分たちがこれに腐食されているのかもしれないという、そういうとらえ方をする必要が、この問題の場合にはあるのではないか、というふうに思っています。

●近代の日本とアメリカ

次に移ります。本当は地図と年表を用意すればよかったのですが、時間が足らずに自分用のメモを作るのが精一杯でした。少し聞きづらいかもしれませんが、年号がしばらく並びます。あとで地図をご覧になるなり、年表をひもといて確認していただきたいと思います。

竹島・独島の問題、尖閣列島の問題を考えるうえで私たちが注意しておかなければならないことは、これらが明治維新前後に始まった日本帝国の領土的な拡大の過程で出てきている問題であるということです。そういう歴史的な過程の中に投げ入るという方法が必要です。反天連のニュース(『反天皇制運動モンスター』2011年2月号)の連載でも、この問題には若干ふれておきました。日本が明治維新を迎えた時代と、アメリカ合衆国が太平洋に進出してくる時代と、非常に密接な関連性があるということです。

現代世界の平和と戦争をめぐる問題を考えていく上で、アメリカ帝国というものの存在がどれほど大きなマイナスの力を持っているか。それは私たちが常に行き当たる問題です。あの超大国は、今なお、世界で唯一、あの傍若無人な振る舞いが許されてしまっているわけです。それは、最初は大西洋に面した東部の小さな地域から始まりました。その後、ルイジアナやフロリダのように、フランスやスペインから金で領土を買ったり、あるいは「西部開拓史」に見るように、先住民族・インディアンの殲滅戦争をおこなった。19世紀半ばには、メキシコと戦争して、賠償としてカリフォルニア、ユタやネバダなど、メキシコ領土の半分を割譲させた。それによってアメリカ帝国は、太平洋への出口を1848年に確保したわけです。そしてあの国は、イギリス帝国にならって太平洋に艦隊を繰り出し、1853年には、メキシコ戦争にも加わったペリー総督がインド洋に展開し、本国からの指令で日本の鎖国をとくために浦賀に来航した。これが近代化へ向かう日本の一つの大きな結節点になったわけです。

ですから、今に至る日本と米国との関係というのは、この時代にさかのぼってさまざまな問題を解明していかないと、見えない問題がある。歴史的な解明は事実に則してわりあいすぐできるのですが、心理的な解明、日本の社会に深く刻み込まれてしまった米国なるものの位置、重さ、そういう心理的解明は、ここの段階にまでさかのぼって、われわれの内心をえぐるようにしてやらなければならないだろうと思うのです。

●四方向への日本の進出

ペリー来航を契機として、幕末、明治維新にかけての混乱の過程を歩んだうえで成立した明治国家が目指したのは、富国強兵という形で欧米列強にならう政策を準備していくものでした。左翼歴史家・江口朴郎氏は、まさにこの過程を不可避のものとして肯定したのです。そこで現われるものの一つは、帝国の版図の拡大ということでした。さきほど、アメリカ帝国の版図拡大の例にも簡潔に触れました。日本の列島の位置を頭に思い浮かべた時に、北へ向かってどう拡大したか、南へ向かってどう拡大したか、東へ向かってどう拡大したか、西へ向かってどう拡大したかということを、考えていく必要があるわけです。

北へ向かったときにどうなったか。明治維新は1868年ですが、その翌年、アイヌモシリ=蝦夷地は、北海道と改称されて明治維新国家が日本の領土として強制的に編入してしまいます。私の考えでは、これは日本が初めておこなった公式の植民地獲得であると思う。植民地獲得は、1894年の日清戦争後の台湾領有に始まるのではなくて、明治維新の翌年の蝦夷地の編入から始まった。

それから6年後の1875年には、千島樺太交換条約というものを、当時の帝政ロシアと結んでいます。蝦夷地を北海道として編入したことで、その近辺にある千島・樺太を領土問題としてどう捉えるかということが、当時の支配層にとって切実な問題となったのです。そこで、帝政ロシアとの一定の妥協の上で、樺太を放棄して千島を手にするという、そういう交換条約を締結したわけです。そして1905五年、日露戦争の翌年には、樺太の南半分を植民地にしています。

きょうは時間を割くことはできませんが、現在に至る北方四島問題というのも、この延長上で生まれてきていることです。ソ連時代にも、またロシアに戻ったいまも、まだ日本との間では平和条約が結ばれていない。一時実現の可能性のあった二島返還論も実現されないまま、現在のような膠着状態にあって、昨今の菅政権とロシア首脳部との外交的なやり取りが続いているという、そういう状況があるわけですね。

さて、南の方です。これも細かくあげていくといろいろあるのですが、やはり1879年の「琉球処分」、つまり琉球王国を併合して沖縄県にしたことがあります。蝦夷地を北海道にしたときから10年目のことですが、これが南方政策の決定的な節目です。これ以前には、小笠原諸島を日本領にしています。だんだん南下していくという、その意図がはっきりしていくわけですね。琉球王国の併合後には、硫黄諸島を日本領にしています。そして九五年、日清戦争の翌年には台湾や澎湖島を日本領土に編入する。年表風にこのようにたどっていけば、非常にはっきりと、近代国家としての日本帝国の意図というものが見えてきます。

1898年に、台湾とフィリピンとの境界線を明確にすることがおこなわれます。この時代、フィリピンはまだスペイン領でした。ですから境界線の策定は、スペイン帝国との間でおこなわれます。ところが、九八年に、独立戦争の勝利を間近にしたフィリピンとキューバの状況を見て、米国が対スペイン戦争に踏み切り勝利した結果、フィリピンは米国の植民地にされてしまいます。それで台湾とフィリピンの境界線は、同時に日本と米国の境界線になっていくわけです。太平洋の制覇を巡って、このように伏線が張られているわけですが、日本帝国とアメリカ帝国との間では、帝国主義同士の激しい領土争奪戦がおこなわれていたのだという形で、捉え返していくことが必要であると思います。

沖ノ鳥島という島があります。よく気象予測を聞いていると、ふだん自分たちの身近にはないいろいろな島々の名前が出てきますね。人びとは住んでいないとしても、気象庁が観測所を設けているので、そこを基点とした気象状況がラジオを通して流れるわけです。沖ノ鳥島もそのひとつですが、この島の領土編入も、いわゆる満州事変の前の1931年頃におこなわれています。ですから、これも南へ向かっての日本領土の拡大の過程の中で考えることができる。日米開戦前後、さらに海南島やベトナム、インドネシアというふうに、日本の軍政支配が南方に拡大していきます。それが大東亜共栄圏という、あのとんでもない構想として具体化していくのだと位置づければ、琉球処分を大きなきっかけとした南への進出の意味も、はっきりと見えてくるだろうと思います。

それから、東ですね。まず、1871年にハワイ王国と修好通商条約が結ばれています。1871年、まだハワイは独立王国でした。ところが、アメリカ合衆国が太平洋に向かってどんどんと進出してきますから、その過程で、1898年にハワイを併合してしまったのです。

それまで、ハワイと日本が結んでいた条約の意味は、ほとんどめぼしい島がない東に対する日本の安全弁を、どう作っておくのかという、そういうことの模索だったのでしょう。この、米国がハワイを強制併合した同じ年に、日本は、ヨーロッパによってそれまでマーカス島とかウイーク島と呼ばれていた南鳥島を、小笠原の管轄下の領土として編入しています。これが今も、日本国の最東端の島になるわけです。南鳥島という名前も気象予報に出てきますね。ここにも気象庁の観測所があって、やはり領有権主張の大きな根拠になっているわけです。

最後に西です。問題になっている尖閣諸島=釣魚島は、1895年、日清戦争の翌年に日本国が領有宣言をおこなったものです。同じ九五年には、宮古や八重島地域を日本領にしています。与那国島がいま、日本の最西端になるわけです。1905年、竹島=独島を島根県が告示して占領したということになるわけですが、その五年後には、大韓帝国が日本の植民地、支配下に置かれますから、この西に向かっての伸張というものも、非常にはっきりと帝国の意図が見えるものである、というふうに考えることができる。特に竹島=独島の場合には、前年の1904年、日露戦争のときに日本は、日韓議定書を大韓帝国に強制して、韓国領内で日本軍は自由に行動できるという条件を押しつけてしまった。翌年には外交権を奪い保護国にしてしまう。そのように国の独立というのを奪って、外交的な抵抗手段、抗議手段というものを奪った上で、それまで大韓帝国との間で係争のあったある一つの島を、領有宣言してしまうという、そういう行為自体が一体どういうことを意味するのか。そのような観点から振り返るに値するだろうと思います。

●尖閣諸島=釣魚島の問題について

尖閣の問題には、もう少しだけ触れておきたいと思います。

二国間で領土領海紛争がある問題に関しては、19世紀後半から形作られてきた国民国家の枠の中でやり取りをしていても、もはや解決不能な時代にわれわれは来ているだろう。もっと別な水準で、国家主権というものを外したような形でこの紛争地域を、たとえば共同開発・共同利用するような知恵を現代および未来の人類は編み出さなければだめだろうというのが、基本的な私の考えです。ですから歴史的にいろいろな主張をして、自分たちの国のものだとかいや違うだとかという議論も、もしかしたらこれからも必要な議論として残るかもしれないけれども、もう少し先を見すえた論議として、そこを抜け出る知恵を両方の当事者が持たなければならないだろう。そういうところに未来社会のイメージを考えたいという、そういう立場をとっていきたいのです。もちろん、その前提としては、過去において覇権主義的な行動をとった側の国が、痛切な自己批判を行なうということがあります。

さきほど、井上清さんの、尖閣諸島問題に関する歴史的分析についてふれました。私が井上さんの仕事に疑問を持つのは、この点に関わるのです。日本帝国の領土拡大の意図を批判する。その志は大事なことだと思います。しかし当時、あの仕事をなさったときの井上さんは、完全に中国文革支持派の立場であった。そのような立場からなされた分析視角には、党派的なものはなかっただろうか、という問題提起だけは、ここでおこなっておきたいと思います。人によっては論議の余地があることかもしれません。

近代日本帝国が、北へ南へ東へ西へ、いったいどのような領土拡大政策を取ってきたか。それが無謀な大東亜共栄圏構想になってしまったというのは事実です。それが、自民族はもちろん、ましてアジア太平洋諸地域の諸民族に対しては、大変な悲劇を強いてしまった。この日本近代の歴史の中から、どのような教訓を得ることが可能なのかということを考えるためのふりかえりが必要であると思っています。

●ヤポネシア論が示した視角

ここで、もう一人、歴史家の名前を上げておきたいと思います。鹿野政直さんという、沖縄問題についてもいろいろ書いておられますし、近代史学について大事な仕事をされた方です。彼の著作に、『「鳥島」は入っているか』という、岩波書店から88年に出た本があります。かいつまんで言えば、鹿野さんが、自分の立場から第二次大戦後の日本における歴史学的なとらえ方のゆがみ、偏重、中途半端さというものを内在的に捉え返した本です。このタイトルには、自分たちの歴史的視野の中には鳥島というような辺境の地は入ってこない。あくまでも中央史観・東京中心史観でやっていて、辺境の地を忘れ去ったところでわれわれの歴史観は組み立てられている、それについての反省を込めたタイトルであったわけです。鹿野さんがこの考え方をどこから得たかというと、作家の島尾敏雄の『ヤポネシア論』からです。鹿野さん自身がそう書かれています。『死の棘』という代表作を含めて、島尾敏雄は非常によい作家だと私は思っていますが、小説とは別に、「ヤポネシア論」を展開した人物としてもさまざまな影響を与えた人です。島尾さんは奄美に住んだ人ですが、1961年に奄美に住み始めた頃、この日本という地域社会の歴史をどういうふうに捉え返すかということから、この地域全体を指すことばとしてヤポネシアという言葉を使った。ネシアというのはたくさんの島々からなる地域を指すわけです。つまり日本を、たくさんの島々によって成り立っている地域として捉えるという考え方ですね。「各種の日本地図を見ますと、種子、屋久までは書き入れてありますが、その南の方はたいてい省略されています。われわれの意識の底にははずしてもいいというような感覚が残っているのです」「たとえば奄美の地図を書く時に、徳之島の西の方の鳥島を落としていても平気だという気持ちをなくしたいのです」「と同時に、日本の歴史の中であるいは日本人の中で、はじっこのほうだから、落としてもいいというふうな考え方を是正していかなければならないと考えるわけです」。

こういう島尾さんの発言をうけた鹿野さんの問題意識というものを、私たちはじゅうぶん理解しうるわけですね。いま、この会場におられる方の多くが、東京および東京周辺に住んでおられると思います。そうした場合に、たとえば私たちの視野に沖縄は入っているかということを問いかけたときに、昨年[2010年]の鳩山から菅への政権移行の時期のことを振り返ってみて、内心忸怩たるものがある。ヤポネシアのような問題意識は、東京中心主義から私たちが離脱していくためには重要な視点だと思いますが、明治維新前後からの日本帝国の版図拡大図の中に、鳥島などの問題を入れていったとき、それはまた別なものとして見えてくるのではないだろうか。島尾さんや鹿野さんのこのとらえ方というものは、一面の真理でもあるし、また別な視覚を入れて捉え返さなければならない、そういう視点を持つものだと思う。島尾さんが「ヤポネシア論」を展開してから五十年経った今の段階で、あらためてこの問題をふりかえっておく必要があるだろうというふうに思うのです。

●東アジアの困難な関係をどう越えるか

さて、尖閣や独島の問題を中心としてわき起こっている東アジアの問題には、なかなか解決のメドはつきそうにありません。政治のことばで語られている関係各国首脳のことばというのが、あまりにも貧しい。歴史的過程をふまえて冷静な形で発言をおこなっている歴史学者、あるいは、何らかの運動的なかかわりの中で発せられている別な視点が地道に打ち出されてはいたとしても、それが社会全体に浸透するだけの力を持ちえていない。愚かな各国政治家たち、民間レベルのどうしようもない評論家たち、ネット上でいたずらに煽られるナショナリズム。それらによって問題は増幅に増幅を重ねているわけです。そのような現実を見たときに、決して解決の道がここにあるというふうに誰も示すことはできない。そういう状況にあります。

中国の状況についても注意深く見ていかなくてはならないのですが、最近の動きを見ていれば、やはり軍事を中心として、大国主義的な勢いが出ています。それは否めない事実でしょう。中国国内の複数の歴史学者が、中国への沖縄返還論というものを唱えています。これは日本が沖縄を強制併合する以前にあった、琉球王国の一定の独立性を持った独自性をも無視するような暴論です。日本が沖縄を植民地化したその歴史ももちろん大変な問題であるけれども、だからといって中国の歴史学者の中から沖縄返還論が出てくるというのも、いったいどういう思想状況になっているのかと、非常に憂慮すべき部分があります。

このような問題を、いったいどのような形で解決し得るのか。なかなか困難なところを模索しなければならない。長い時間がかかることだと思いますが、可能性ということで言えば、やっぱり政治や軍事のことばでものごとを語らないという、そういうことを、どうやって徹底させることができるか。そのことをとことん試みていくしかないのではないか。

『文学界』という文学雑誌の3月号に、「東アジア文学フォーラム」という、昨年12月に北九州市で中国、韓国、日本の四十人ほどの文学者によって開かれた集まりの報告が載っています。いろいろな意味で、なかなか興味深い報告がなされていたと思います。その集まりでは、『赤いコーリャン』の原作者の莫言(モー・イェン)という中国の文学者が基調講演をしました。これは私の解釈になりますが、彼のことばの中には、いまの政治の動きを見ると、どこを向いても希望とか、はっきりした未来へ向かうイメージというのはまったくない。しかし、文学のことばをとおして、お互い国境を隔てられているもの同士が語り合えばそこで打開されていく局面というのがあると、そういう内容が含まれていたと思います。確かに、たとえば演劇でも音楽でも映画でも美術でもそうですが、そのような、いわば人間が否応なく自己表現している文化・芸術の面では、国境というのはほとんど意味をなくしている。共同で一つの制作に当たるということがあたりまえのことになっているわけですね。私自身が関わっている出版の分野でも、翻訳出版によってある国の文学や歴史読み物が紹介されていくのは普通のことです。そういう積み重ねが、政府指導者たちの、人を惑わすようなナショナリズムの言動に集約されないような、一人一人の根拠を形作っていくのではないか。そのようなところに希望を置いて、たゆみない歩みを続けていくしか、この困難な時代を突破する方法はないのではないかというふうに、私自身は考えています。

問題が非常に困難であるということは誰もがわかっていることですが、それは逆に言えば、私たちが担い得る課題がそれだけたくさんあるということを意味するわけでもある。そのような場所からそれぞれが個人として、あるいは集団・グループとして、やることを見つけ出して、世界で唯一冷戦構造が残っているこの東アジアの地で、各国政治家のように愚かなことを言い続ける者たちを追いつめて、別な世界を作り上げていく、そういう努力を続けたいと思います。

(2011年2月11日、千駄ヶ谷区民会館にて)

歴史の中のシモン・ボリバル


静岡芸術劇場2011年7月公演パンフレット掲載

静岡芸術劇場に通う演劇フアンにはおなじみのオマール・ポラスが演出・出演する「シモン・ボリバル、夢の断片」は、元来は、ポラスの故国コロンビアの建国200周年を記念して、2010年に制作された作品だ。今回の静岡公演は、やむを得ない事情から、初回公演とは構成が変更されるが、シモン・ボリバル (1783~1830年) という歴史上の人物が物語の軸をなすことに変わりはない。ここでは、「建国200周年」という用語からわかる、2世紀前のコロンビアを初めとするラテンアメリカ諸国独立の過程、そこでシモン・ボリバルが果たした役割、そしてボリバルの「夢」が奇しくも実現しつつあるかにも思える形でラテンアメリカ地域に展開されている同時代の動きを簡潔にスケッチしてみよう。

1492年、コロンブスがアメリカ大陸に到達して、以後「征服」の時代が始まる。コロンブスの航海を経済的に支えたのはスペイン女王だったが、そのスペインは、ポルトガルが征服したブラジル以外の、現在ラテンアメリカと呼ばれる地域のほぼ全域を植民地化したのである。植民地時代は、ほぼ3世紀もの長きにわたって続いた。その間、ピラミッド型の人種別社会階層構造が強固に形成された。最上位からいうと、スペインから来た白人 (ペニンスラーレス)、アメリカ大陸生まれの白人 (クリオーリョ)、白人と先住民の混血 (メスティーソ)、先住民族 (インディオ)、そしてアフリカから奴隷として強制連行された黒人という序列構造である。

3世紀という時間幅は長い。植民地権力は腐朽する。イギリス、フランス、オランダなどの後発のヨーロッパ列強が台頭して、膨大な利益が得られる植民地貿易に参入したり、領土争奪戦に加わったりする。ピラミッド型社会構造の最下層で徹底した抑圧と差別の下に苦しんできた先住民族と黒人が反乱を起こす。それらが顕著な動きになったのが、18世紀末から19世紀初頭にかけてだ。1780年、現ペルーの一角で、先住民族による反植民地主義反乱「トゥパック・アマルの反乱」が起こった。1804年、フランス領になっていたカリブ海の島でも黒人反乱が起こり、鎮圧のために派遣されたナポレオンの軍隊を打ち破って、そこは世界初の黒人共和国=ハイチとして独立した。指導者の名をとって「トゥサン=ルーヴェルチュールの反乱」として知られるこの黒人蜂起は、1789年のフランス革命と無関係に起きたのではない。フランス革命の精神を伝える書物や、ルソー、ヴォルテールなどの啓蒙思想の著作も、厳しい検閲を逃れながら、スペイン領アメリカに入ってくる。

そんなさなかの1783年、シモン・ボリバルは、現ベネズエラのカラカスに生まれた。クリオーリョの富裕な、屈指の「名家」の出身である。軍人だった父親も、教育熱心だった母親も早くに亡くしたボリバルは、叔父のもとで育ったが、家庭教師として就いた自由主義者、シモン・ロドリゲスの影響は、後年のボリバルが形成されるうえで決定的だった。植民地政府への反抗心を持つロドリゲスから、自由、平等、共和国などについての基本的な概念を学び取る機会となったからである。16歳で本国スペインへの旅に出た。貴族の娘と出会い結婚してカラカスへ戻ったが、翌年妻は他界した。名家に生まれた経済的特権を享受しながら、早々に両親と妻を失うという個人的な不幸が、ボリバルのその後の運命を定めた。

ヨーロッパ列強の角逐が続くなか、1805年、スペイン・フランスの連合艦隊はイギリス海軍に大敗した。イギリスに取り入ろうとするスペインの動きを見て、1807年ナポレオンはスペインを侵略した。本国スペインの弱体化の機会を捉えて、ラテンアメリカ各地では独立運動が活発になった。1810年コロンビアの独立宣言、1811年ベネズエラの独立宣言は、その端緒をなした動きである。だが、スペインとの独立戦争はこの後でこそ激化する。ベネズエラ解放軍司令官となったボリバルの活躍は、ここから目覚ましい。一時的敗北やジャマイカへの亡命も経験しながら、1819年コロンビアを解放、同年ベネズエラ、コロンビア、エクアドルから成るグラン・コロンビア共和国形成、1821年コロンビア、エクアドルの全面解放、1824年ペルー解放などの戦いで主導的な役割を果たした。1825年に解放されたアルト・ペルー地域は、南米諸地域の独立戦争におけるボリバルの戦功に因んで、国名をボリビアとしたほどである。現在のメキシコ、およびアルゼンチン、ウルグアイ、チリなどの諸地域でも、同じ時期に独立戦争が戦われて、その目的が成就された。

ボリバルが抱いていた夢は、北はメキシコから、南はアルゼンチンやチリまで、独立したラテンアメリカ諸国が単一の共和国連合として統合されることであった。グラン・コロンビアはその萌芽として構想された。メキシコの北に存在する米国がモンロー宣言を発して (1823年)、ヨーロッパ列強をアメリカ大陸から排除した米国中心の勢力圏構想を打ち出していただけに、ヨーロッパから自立し、同時に米国とも対抗しうるボリバル構想の意義は小さくはなかった。だが、その内部ではやがて、理想からはかけ離れた権力欲に根差す対立が深まるばかりだった。構想は瓦解し、部下の裏切りもあって、ボリバルは失意のうちに47年間の生を終えた。

ベネズエラ独立運動の担い手が独立後も奴隷制の維持を目指すような人びとであることを知った黒人は反乱を起こしたが、そのときボリバルは「非人間的で凶暴な人間たちである……黒人の革命」と表現するような価値観の持ち主だった。ペルー解放直後にボリバルが、農地所有制度の再編や先住民族保護の名目で発した法令は、クリオーリョ支配層の既得権を奪うものではなく、したがって、先住民族は相変わらず過酷な搾取にさらされることとなった。その意味では、ボリバルが主導した独立革命はあくまでも白人=クリオーリョ主体であって、その恩恵に浴することのなかった膨大な社会層が取り残されたことは見ておく必要があるだろう。

それが、今からおよそ200年前のラテンアメリカ独立をめぐる状況であった。ボリバルの単一共和国構想が実現しなかったラテンアメリカ地域は、急速に大帝国となっていく米国のさまざまな影響下におかれることとなった。それは、20世紀現代史でも貫かれた。とりわけ、キューバ革命が勝利した1959年以降は、ソ連圏対米国圏という東西冷戦構造に巻き込まれることになった。しかし、キューバを敵対的に包囲していた軍事政権体制が全域で崩壊し、ここを席巻していた新自由主義経済秩序による負の遺産を克服しようとする政権と民衆運動が広範に登場している現在、状況は大きく変わった。米国の影響力を排除したうえで、各国間の相互扶助・連帯・協働による自主的な地域連合を形成し、貧困削減・天然資源擁護をめざそうとする動きが具体化している。そこでは、ときに、ボリバルの構想との繋がりが強調されている。200年前のボリバルの未完の企図を、現在に生かそうとする人びとが存在しているのである。

オマール・ポラスと同郷の優れた作家、ガブリエル・ガルシア=マルケスは『迷宮の将軍』(新潮社)においてボリバルを描いた。「解放者」(リベルタドール)として溌溂たる行動に従事している時期ではなく、失意の晩年を主軸に据えた作品だった。この人物の偉大さも、卑小さも浮かび上がる秀作だ。マルケスのこの作品を知らぬはずはないオマール・ポラスが、どんなボリバル像を打ち出すのか。その日の舞台を待ち望むばかりである。

太田昌国の夢は夜ひらく[14]ビンラディン殺害作戦と「継続する植民地主義」


反天皇制運動『モンスター』16号(2011年5月10日発行)掲載

ある国家の軍隊が、別な国に秘密裡に押し入って軍事作戦を展開し、武器を持たない或る人物を殺害した――軍を派遣した国の政治指導部は、大統領府の作戦司令部室にある大型スクリーンに映し出されるこの作戦の生中継映像を見つめていた。作戦開始から40分後、「9・11テロの首謀者」と断定した人物の殺害をもって大統領は「われわれは、ついにやり遂げた」と語った。この国の同盟国であると自らを規定している世界各国の首脳は、この作戦の「成功」が「反テロ戦争の勝利」であるとして祝福した。そのなかには、この間、放射性物質を故意に大気中と海洋に撒き散らしているために、当人は知らぬ気だが、事態の本質を見抜いた人びとが「放射能テロ」あるいは「核物質テロ」、さらには「3・11テロ」という形容句をその国の国名に冠し始めている国の首相も含まれていた。その男は、この殺人行為を指してこう述べたのである。「テロ対策の顕著な前進を歓迎する」(!)。

5月2日、パキスタン北部アボタバードで、米海軍特殊部隊と中央諜報局の部隊がヘリコプター4機を駆使して(加えて、「スーパードッグ」という特殊訓練を施した犬も動員して)展開した軍事作戦によって、ビンラディンほか4人の人びとが殺害された事件と、報道されている限りでの一部諸国の支配層におけるその肯定的な反響は、あまりに異常である。内外ともにメディア報道の在り方が意外なまでに冷静で、作戦それ自体への控えめだが疑問か批判を提起し、せめて刑事裁判で裁くべきだったとする主張が少なくないことに「救い」が感じられるほどだ。超大国=米国の横暴なふるまいに対する私たちの批判と怒りの感情は、またしても、沸点に達しそうだ。私は、伝え聞いてきたビンラディンの思想と行動の指針には共感を覚えず、そこからは相対的に自立した地点に立って、以下の諸点を述べておきたい。

2001年「9・11」以降、米国がアフガニスタンとイラクにおいて行なってきた殺戮・占領の行為と、そこで捕えた虜囚を、1世紀以上もの長い間手放そうともしないでキューバに保持し続けている米軍基地に強制収容している事実から、私は、米国において「継続する植民地主義」の腐臭を嗅ぎ取ってきた。パキスタンから「主権侵害」との憤激の声が上がっている今回の行為も、まぎれもなく、その延長上にある。他国との良好な関係を大事に思うならば、決して選択できない行為で米国の近現代史は満ち溢れている。それに新たな1頁を付け加えたのが、今回の行為だ。

いわゆる大国にとって都合の良い世界秩序が作られてきた歴史過程について、私は最近いく度かこういう表現を使った。「植民地支配・奴隷制度・侵略戦争など〈人類に対する犯罪〉を積み重ねてきた諸大国こそが、現存する世界秩序を主導的に作り上げてきた」と。近年になって、これらの行為の犯罪性はようやく問い質される時代がきたが、そのたびに当該行為の主体国からは「植民地支配も奴隷制度も戦争も、それを当為と見なす価値観があった時代の出来事だ。現在の価値観で過去を裁くとすれば、世界は大混乱に陥るだろう」とする悲鳴が上がる。だが、〈人類に対する犯罪〉的な行為が行われた時点で、その行為の対象とされた地域は「大混乱に陥り」、そのとき受けた傷跡を引きずりながら現在に至っているのだ。それゆえに、相互間の対等と自由を尊ぶ民衆および小国の観点から見るなら、今ある秩序は抑圧的なものでしかなく、それは抵抗し、反抗し、覆すべき歴史観なのだ。

「3・11」事態の直前、われらが足元にも「継続する植民地主義」そのものの発言があった。米国務省日本部長ケビン・メアが行なった「沖縄はごまかしとゆすりの名人で、怠惰でゴーヤーも栽培できない」という発言である。欧米日の植民地主義者の「懐かしのメロディ」とも言うべきこの発言は、津波と原発危機以降のヤマトでは忘却の彼方に追いやられている。逆に、米軍が行なった被災者救援作戦の重要性のみが喧伝され、図に乗った米軍海兵隊司令官からは「普天間基地は重要」との発言もなされている。内外でなお続く、植民地主義を実践する言葉と行動の衝撃性と犯罪性を忘れないことが、私たちの課題だ。

(5月6日記)

いま植民地責任をどう考えるか


ピープルズ・プラン研究所『季刊ピープルズ・プラン』第52号(2010年12月発行)掲載

世界で

1、継続する植民者意識

今世紀が明けて一年目の2001年、米国が「反テロ戦争」なる名目の下に、アフガニスタンに対する一方的な攻撃を開始して間もないころ、「国家の体をなしていない国は、いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が聞こえてきた。米国の政治・軍事指導部から出てきた言葉だ、と当時のメディアは伝えていた。大国の政治指導者が「無意識に」抱え込んでいる本音がむき出しになったこの言葉を聞いて、植民地主義を肯定する植民者の意識の根深さを思った。

このような意識が根拠づけられる素材は、日常性のいたるところに転がっているように思える。これはアフガニスタンをめぐって吐かれた言葉であっただけに、私はすぐ、コナン・ドイルの第1作『緋色の研究』(1887年)を思い出した。この作品の冒頭では、やがてシャーロック・ホームズに出会うことになるワトソン博士は、イギリスがすでに植民地化していたインドに派遣されたのだが、イギリスはアフガニスタンの植民地化をめざして第2次アフガニスタン戦争(1878〜80年)を開始していたためにその戦争に従軍し、そこで負傷して帰国した、という設定になっていたことが頭に浮かんだのである。久しぶりにこれを再読してみると、負傷したワトソンは、「献身的で勇敢な部下」が「私を駄馬に荷物のように乗せて、ぶじに英軍の戦線まで連れ帰ってくれたから助かったようなものの」、そうでなければ「残虐きわまりない回教徒戦士の手におちてしまっていただろう」という表現も出てくるのだった(創元推理文庫、1960年、阿部知二訳)。侵略行為の罪は不問に付して、相手側の「残虐」性を言うこの倒錯!

この作品には、カンダハルやペシャワールなどの地名も出ており、19世紀後半当時7つの海を制覇していたイギリス帝国の内部における世界認識が、植民地支配を通していかに広がりをもっていたかを、言外に語るものでもあった。このあと書き続けられることになるシャーロック・ホームズの一連の作品においても重要な脇役を演じるワトソンの履歴に、「植民地獲得戦争で負傷して帰国した」という味付けを施すことで、同時代に生きるイギリス人読者から「国民」としての一体感が得られるだろうという計算を、巧妙にも、コナン・ドイルはしたのであろうか。

他方、同じ事態を異なる視点から捉える人物も、同時代的に存在する。ドイツに生まれたカール・マルクスとフリードリッヒ・エンゲルスはコナン・ドイルとほぼ同時代人であったと言えようが(三者の生年はそれぞれ順に、1818年、1820年、1859年)、エンゲルスには、1857年8月頃に執筆したとされる「アフガニスタン」と題する論文がある(大月書店版『マルクス=エンゲルス全集』第14巻所収)。

翌年『ザ・ニュー・アメリカン・サイクロペディア』に発表されたものであるが、それは当時の米国の進歩的ブルジョアジーが企画した百科全書的な媒体であったから、またその原稿を書くことは当時のエンゲルスにとって(マルクスにとっても)重要な生計手段であったから、目的に即した客観的な地誌・民族・宗教・歴史の叙述となっている。19世紀に入って、この地を支配しようとした帝政ロシアとイギリスの角逐にも当然触れているが、すでにインド大陸を植民地支配していたイギリスがインダス河を越えてアフガニスタンに軍事的展開をする段(1839~42年の第1次アフガニスタン戦争のこと)の記述に至ってもエンゲルスは場を弁えて客観的な立場に徹してはいるが、イギリスのアフガニスタン征服の策動が(エンゲルスがこの論文を執筆した時点では)失敗に終わっていく過程を鋭く分析して、記述を終えている。

後世の目で見れば、当時のマルクスとエンゲルスには、イギリス資本主義による、たとえばインドに対する植民地支配の「非道なやり口」という批判的な分析はあっても、頑迷なインドの共同体構造をイギリスが破壊することによって、インド近代化の道が開けるという「資本の文明化作用」に期待を寄せていた点が、批判の対象となっている。私も、この批判的な捉え方に部分的には共感する者だが、それでもなお、19世紀後半のアフガニスタンにわずかなりとも触れた世界的に著名な著作として、コナン・ドイルとエンゲルスのそれを対照的に取り上げること、そこから、当時すでに相当な程度まで世界に進出していたヨーロッパ地域の人間たちが、意識的にか無意識的にか抱えていた「進出対象」の異境に対する捉え方を導き出すこと――「帝国」内の意識は継続していると考えられる以上、それは重要な、過去へのふり返りの方法だと思える。

2、植民者と被植民者

2001年の「反テロ戦争」を「植民地主義の継続」(註1)という問題意識で思い起こすとき、触れるべきもうひとつの課題がある。それは過去に遡及するものではなく、まさに同じ年の2001年8月31日から9月8日まで、南アフリカのダーバンで開かれていた国連主催の国際会議について、である。「人種主義、人種差別、排外主義、および関連する不寛容に反対する世界会議」(以下、ダーバン会議と略称)がその会議の呼称なのだが、「人道に対する罪」というべき奴隷制、奴隷貿易、植民地主義に対する歴史的な評価を下す場であった。

この会議については、日ごろは国際的に重要な課題に対するアンテナの精度が高くはないと私が考えている日本の新聞各紙でも、一定のスペースを割いた報道が連日なされていた。この会議が開催されることを事前には知らなかった私は、事態はここまで進んだのか、と感慨深いものがあった。

思えば、この種の課題に関して、世界的にみて潮目が変わったのは、1992年だというのが私の考えである。それは、1492年の「コロンブス航海」から500年目の年であった。500年前のこの出来事を決定的な契機として、ヨーロッパによる異世界征服の「事業」が開始された。先駆けて進出したのは、ヨーロッパの「辺境」に位置し、大西洋に面するイベリア半島のスペイン・ポルトガルの両国で、差し当たっての具体的な征服対象はアメリカ大陸諸地域であったが、やがて、ヨーロッパ全域がアメリカ、アフリカ、アジアに対する植民地支配を拡大していくことに繋がっていく。常に勝者によって書き綴られてきた世界史は、この出来事を「大航海時代」とか「新大陸の発見」と名づけてきた。いわば、それが偉大なる「事業」だとするヨーロッパ的な視点で解釈されてきたのである。

だが、「コロンブス航海」から500年目を迎えた1992年――世界じゅうで、人びとの歴史意識は現実から大きな挑戦を受けていた。前年末、74年間続けられてきたソ連型社会主義体制は崩壊した。20世紀を生きた人びとの価値意識を大きく規定してきた「資本主義 vs 社会主義」の対立構造は、この段階でいったん終わりを告げた。資本主義の担い手たちは、当然にも、資本主義システムの勝利を謳歌した。あらゆるものを商品化し、それらを単一市場での自由競争の試練に曝し、すべての欲望を解き放つことへの、手放しの賛歌! 合唱隊に加わる者も多かったが、その価値観を懐疑し、批判し、疑問を提起する者が絶えたわけでもなかった。解消できない南北格差、全地球的な環境問題の深刻化――その根源を追求しようとする「南」の世界の人びとが声を挙げ始めた。ソ連の崩壊によって「東西冷戦」構造が消滅したことで、いままで隠蔽されてきた矛盾が誰の目にも明らかになった、とも言える。

他方、欲望のおもむくままに人びとを消費に駆り立ててきた高度産業社会の中心部に広がる空虚な疲弊感――「北」の世界でも、産業社会そのものに対する懐疑が広範に生まれていた。それは、資本主義的発展が可能になった根拠までをも問い直す懐疑であった。

「南」と「北」は、20世紀末に人類が直面している諸問題の根源にまで行き着く共通の問いかけを持った。資本主義が世界を制覇するきっかけとなった「コロンブス航海」の時代にまで遡って歴史過程を総括すること、これである。アメリカ大陸の民衆は、この期間を「インディオ・黒人・民衆の抵抗の500年」と捉えて、ヨーロッパによって剥奪されてきた権利を奪い返す運動を開始した。欧米諸国や日本などの産業社会では、私たちが東京で開催した「500年後のコロンブス裁判」のように、植民地支配・奴隷の強制連行と奴隷制などを通して実現された資本主義近代を問い直す催し物が開催された。それは、世界に共時的な動きであった。「潮目が変わった」と私が表現したのは、このことを指している。

この延長上で注目されるべき2001年ダーバン会議の成果は、閉幕3日後に起きた「9・11」事件とそれに引き続く「反テロ戦争」の衝撃によって、世界じゅうに十分には浸透しないままに終わった。植民地支配や奴隷貿易などの「人道に対する罪」が、初めて世界的な規模の会議で討議されてから間もないころに、いまなお植民地主義的ふるまいを続けている超大国の為政者内部では、自国が無慈悲な一方的爆撃を実施しているアフガニスタンを指して、「いっそのこと、植民地にしてしまうほうが楽だな」という言葉が吐かれていたのである。

こうして、植民地主義を歴史的根源に遡って批判することを通してその理論と実践を廃絶しようとする動きと、なおそれを延命させ継続させようとする動きとは、21世紀初頭の世界的現実の中で対峙している。しかし、時代状況は、もはや揺り戻しの効かない地点にまで来たのではないだろうか。今年10月には、名古屋で国連生物多様性条約第10回締約国会議が開かれたが、そこでの討議においても、「大航海時代」以降と植民地時代に行なわれてきた動植物資源収奪に対する賠償・補償の必要性をアフリカ諸国の代表は主張した。先進諸国は、そんな過去にまで遡って賠償だ、補償だ、と言い出したら、世界は大混乱に陥る、と悲鳴を挙げている。だが、列強が異境を植民地化し、奴隷を強制連行した時点で、それらの現地は大混乱に陥ったことを忘れるわけにはいかない。

解決の方法は、私たちの/そして今後来るべき人びとの知恵に委ねるほかはないが、植民地支配がもたらしたものをめぐる問題設定は、揺るぎなくなされるに至った、と言える。それは、「人類」という意味での私たちが獲得している、決して小さくはない歴史的成果のひとつである。

東アジアで

1、秀吉の朝鮮侵攻を引き継ぐ意識

「韓国併合」から100年目の年を迎えた今年、過去をふりかえるためのさまざまな文献を参照した。その時どきの、さまざまな社会層の象徴的な発言をいくつもメモしたが、紙幅の制約上から傾向を2,3に絞って挙げると、16世紀末の1592年と1597年に行なわれた豊臣秀吉による朝鮮侵攻と結びつけて、自らがなした行為の意義を浮かび上がらせる表現が、近代日本の軍人あるいは軍人兼政治家の中に目立った。

有名な逸話だが、併合した際の「祝宴」の場で、朝鮮総督・寺内正毅は詠んだ。

小早川加藤小西が世にあらば今宵の月をいかに見るらむ

小早川、加藤、小西はいずれも秀吉が朝鮮侵攻のために動員した巨万の軍勢を率いた大名たちの名前である。寺内は、その後1916年には首相に就任し、成立したばかりのロシア革命に干渉するシベリア出兵を1918年に強行した。それを引き継いだ宇垣一成は、職業軍人としてやがて国家総動員体制の確立に努めることになる人物だが、シベリア撤兵の日(1922年10月25日)の日記に書き記した。

「大正十一年十月二十五日午後二時十五分は之れ浦潮(ウラジオストック)派遣軍が愈々西伯利(シベリア)撤兵最後の幕切れでありた。神后以来朝鮮に占拠せし任那の日本府の撤退、太閤第二次征韓軍の朝鮮南岸の放棄を聯想して実に感慨無量、殊に渾身の努力を以って西伯利出兵に尽したる余に於ては一層痛切なり。(……)捲土重来の種子は此間に蒔かれてある。必ずや更に新装して大発展を策するの機到来すべきを信じて疑わぬ。又斯くすべきことが吾人の一大責務である!!

偉人英傑の偉大なる力にて捲起さるる風雲は、人間生活を沈滞より活気の中に導き、弛緩より緊張の世界に躍進させ得る。」(『宇垣一成日記』1、みすず書房、1968年。原文ママ。括弧内のみ引用者)。

宇垣の場合には、神功皇后→任那日本府→太閤秀吉→シベリアの諸経験を時空を超えて結びつけ、すべてに共通する「撤退」への無念の思いを吐露している。

これと対照的な表現をなした同時代の人物を挙げるなら、芥川龍之介だろう。「金将軍」(1924年)はわずか数頁の小品だが、小西行長が「征韓の役」の陣中に命を落したという朝鮮での虚偽の言い伝えに示唆を得て、緊張感にあふれた伝説の世界を作り出している。言わずもがな、のことだろうが、そこからは寺内や宇垣とは対極にある歴史意識を感じとることができる。芥川はまた、日露戦争の「英雄」にして日本軍国主義の「軍神」=乃木希典を「将軍」(1922年)で取り上げ、残酷な行為の果てに勲章に埋まる人間に対する懐疑を表明した。芥川が、寺内や宇垣などの政治・軍事指導者が表明する価値観に強く同調しながら形成されてゆく当時の「世論」と一線を画し得た事実から、私たちが学ぶべきことは多いだろう。文学者で言えば、夏目漱石の朝鮮観については、すでにいくつもの重要な分析を行なった書が出ているが(註2)、漱石は一時期、1895年日本軍兵士と壮士が韓国王妃を殺害したことを「小生近頃の出来事の内尤もありがたきは王妃の殺害」(1895年11月13日付正岡子規宛て書簡)とまで述べて、やがて韓国を植民地していく日本社会の風潮にしっかりと同調していた。隣国の王宮に押し入った日本の兵士が王妃を虐殺するという驚くべき事件を、漱石がこのように受けとめたという帝国内部の「意識の日常性」は、現在にも引き続くものとして問い直すべきだろう。同時に、その漱石の価値観は、日露戦争を経て揺らぎ始め、晩年には戦争や侵略をめぐって別な世界に歩み出ようとしていたと思われる表現もあって、その「可能性としての」変貌の過程は、漱石が近代文学史上でもつ重要性に鑑みて、再検討されるに値すると思われる(註3)。

2、領土抗争をめぐって急浮上する植民地主義の継続

寺内正毅が秀吉軍の大将たちが抱いた朝鮮征服の夢を思い浮かべた歌を詠んでから百年後の今年、日本社会は改めて、自らの植民地主義を継続するのか否か、の問いに向かい合っている。だが、問われているのがそのような問題であるという自覚は、私たちの間に広く浸透しているとは言えない。それは、かつて植民地を保持した「帝国」が、それをはるか以前に失ってからも、例外なく抱え続けている問題である。

この年、日本ではまず、日米安保条約と憲法九条の関係性如何という問いが、沖縄の米軍基地問題をめぐって提起された。この課題に関わっての民主党政権の迷走と、それに随伴した「民意」を分析してみると、平たい言葉で表現するなら「戦争は厭だが、中国や北朝鮮の脅威があるから日米安保で守られているほうがよい」となるほかはない。

憲法9条が成立し得る根拠は沖縄に米軍基地があるからだ。それがあって日本国が守れるという担保の構造を日本国も良しとしてきた――という趣旨のことを語ったのは、2005年の新川明だった(「世界」20045年6月号、岩波書店)。新川はさらに言う、沖縄は戦後60年間ずっと「国内植民地」だったのだ、と。私は「植民地」の前に「国内」を付することだけは留保して、新川の分析方法に基本的に納得するが、そうだとすれば、問題はここでも「植民地主義の継続」なのだ(註4)。

さらに今年九月に入って、中国との間で尖閣諸島(釣魚島)領有権問題まで発生することで、「植民地主義」という問題性を帯びた問いはいっそう切実感を増している。なぜなら、民主党政権は「尖閣は明白に日本に帰属」と主張しているが、日本国が尖閣の領有権を主張したのは日清戦争後の1895年で、それは下関条約に基づいて台湾を植民地化した時期に重なっていることが明らかになるからだ。さらに、沖縄の人びとの生活圏の一部として尖閣を位置づける場合には、今度は、1879年に明治国家が行なった「琉球処分」という名の沖縄植民地化の過程を問い質す課題が必然的に生まれてくるからだ。

こうして、すでに60年前に終焉の時を迎えたはずの植民地主義支配の遺制は、「帝国」を、抜け出ることのできない蜘蛛の巣に絡め取っている。その遺制が、旧植民地主義支配国と被支配国との間の、現在における力関係(政治・経済・文化的影響・開発と低開発などの面で)の落差を規定している以上、支配された側はその遺制の撤廃と解決を求めるのが当然だからである。最近の国際会議の場における「南」の諸国の主張は、その線に添ってなされていると解釈できる。問いかけが発せられたからには、植民地主義が生み出した諸問題を解決するためのボールは、いまは、支配した側の手中に握られている。

(註1) この表現をそのまま表題としている著書に、次のものがある。岩崎稔ほか編著『継続する植民地主義――ジェンダー/民族/人種/階級』(青弓社、2005年)。また同じ問題意識に貫かれた著書に、永原陽子編『「植民地責任」論――脱植民地化の比較史』(青き書店、2009年)がある。

(註2) 最近でも、小森陽一『ポストコロニアル』(岩波書店、2001年)、同『漱石――21世紀を生き抜くために』(同、2010年)、金正勲『漱石と朝鮮』(中央大学出版部、2010年)などがある。

(註3) 松尾尊兊「漱石の朝鮮観 手紙から探る」(朝日新聞2010年9月17日付け)に示唆を受けて、未読だった漱石書簡集に目を通した。

(註4) この問題を多面的に深く分析したのが、中野敏男編『沖縄の占領と日本の復興――植民地主義はいかに継続したか』(青弓社、2006年)である。

太田昌国の夢は夜ひらく[9]メディア挙げての「チリ・地底からの生還劇」が描かなかったこと


反天皇制運動機関誌『モンスター』第10号(2010年11月9日発行)掲載

チリ・コピアポの鉱山で生き埋めになった鉱山労働者33人の救出作業は、テレビ的に言えば「絵になる」こともあって、世界じゅうで大きく報道された。

地底で極限状況におかれた人びとがそれにいかに耐えたか、外部の人間たちが彼らの救出のためにどんなに必死の努力をしたか。それは、どこから見ても、人びとの関心を呼び覚まさずにはおかない一大事件ではあった。

メディアの特性からいって、報道されることの少なかった(すべてを見聞できたわけではないから「皆無だった」と断言する条件はないが、気分としては、そう言いたい)問題に触れておきたい。

メディアが感動的な救出劇としてこの事件を演出すればするほど、北海道に生まれ育った私は、子どもの頃から地元の炭鉱でたびたび起きた坑内事故と多数の死者の報道に接していたことを思っていた。

九州・筑豊の人びとも同じだっただろう。事故が起こるたびに、危険を伴なう坑内労働の安全性について会社側がどれほどの注意をはらい、対策を講じてきたのか、が問われた。

鉱山労働者の証言を聞くと、身震いするほど恐ろしい条件の下での労働であることがわかったりもした。

一九六〇年――「60年安保」の年は、石炭から石油へのエネルギー転換の年でもあった。九州でも北海道でも閉山が続いたが、「優良鉱」だけはいくつか残された。

当時の世界の最先端をゆくと言われていた「ハイテク炭鉱」北炭夕張新炭鉱で、今も記憶に鮮明な事故が起こったのは一九八一年十月であった。

坑内火災を鎮火するための注水作業が行なわれたのは、59人の安否不明者を残したままの段階であった。

「お命を頂戴したい」――北炭の社長は、生き埋めになっているかもしれない労働者の家族の家々を回り、こういう言葉で注水への同意を得ようとした。「オマエも一緒に入れ!」と叫んだ人がいた。

結局亡くなったのは93人だった。翌年、夕張新鉱は閉山した。他の炭鉱も次々と閉山して、炭鉱を失った夕張市が財政破綻したのは四年前のことである。私の目に触れた限りでは、10月14日付東京新聞コラム「筆洗」がこれに言及した。

遠いチリの「美談」の陰から、 近代日本がその「発展」の過程で経験したいくつもの鉱山での人災を引きずり出せたなら、すなわち、一人の絵描き・山本作兵衛か、一人の物書き・上野英信の感性を持つ者が現代メディアにいたならば、問題を抉る視点はもっと確かなものになっただろう。

チリ現地からの報道では、救出される労働者をカメラ映りの良い場所で迎える大統領セバスティアン・ピニェラについての分析が甘く、「演出が鼻につく」程度の表現に終始した。

現代チリについて想起すべきは、まず一九七〇年に世界史上初めて選挙による社会主義政権が成立したこと、新政権下での銅山企業国有化などによってそれまで貪ってきた利益を剥奪された米国政府・資本がこれを転覆するために全力を挙げたこと、その「甲斐あって」一九七三年に軍事クーデタを成功させ社会主義政権を打倒したこと、の三点である。

さらに、21世紀的現代との関連では、軍政下のチリがいち早く、いま世界じゅうを席捲している新自由主義経済政策の「実験場」とされたことを思い起こそう。

貧富の格差が際立つチリ社会にあって、社会主義政権下と違って、社会的公正さを優先した経済政策が採用されたのではない。

外資が投入されて見せかけの繁栄が演出された。経済秩序は、雇用形態・労働条件・企業経営形態などすべての面において、チリに暮らす民衆の必要に応じてではなく、米国や国際金融機関が描く第3世界戦略に沿って組み立てられたのである。

現大統領ピニェラの兄、ホセ・ピニェラは、軍政下で労働相を務め、鉱業の私企業化と労働組合の解体に力を揮った。

新自由主義経済政策は国外からの投資家に加えて、国内の極少の経済層を富ませるが、ピニェラ一族はまさに、世界に先駆けてチリで実践された新自由主義的政策によって富を蓄積し、鉱業・エネルギー事業・小売業・メディア事業などに進出できたのだった。

もちろん、そこでは、労働者の安定雇用・労働現場の安全性を含めた労働条件の整備などが軽視されていることは、日本の現状に照らして、確認できよう。

救出された労働者を笑みを浮かべて迎えた大統領の裏面を知れば、チリの今回の事態も違った見え方がしてこよう。

(11月5日記)

韓国哨戒艦沈没事件を読む


『反改憲運動通信』第6期No.2掲載

(以下の文章においては、朝鮮民主主義人民共和国を「北朝鮮」と表記している。)  3月26日、韓国の西側にあって、南北朝鮮の領海を隔てている黄海上の周辺海域で、韓国海軍の哨戒鑑「天安」が沈没し、乗員104名のうち46名が死亡・行方不明となった。

韓国における当初の報道を思い起こすと、北朝鮮による攻撃の可能性を示唆するものは少なく、内部的なミスに起因するという見方が有力だった。

軍は、爆発時間の説明を二転三転させ、沈没前後の交信記録の情報公開にも消極的だった。

世論形成に影響力を持つ韓国メディアが、4月に入って「北朝鮮関与説」を報道し始めた。

李明博政権は、国際軍民合同調査団なるものを設置し、韓国一国の利害を離れた地点での「国際的で、客観的な調査」に判断を委ねる態度を取った。

事故からおよそ2ヵ月近く経った5月20日、調査団は「北朝鮮の小型艦・艇から発射された魚雷による水中爆発」によって事件は起こったと断定した。

北朝鮮の国防委員会報道官は、同日、調査団報告は「でっち上げだ」とする声明を発表し、韓国が制裁措置を講じるなら「全面戦争を含む強行措置」を取ると主張した。

この段階での、日本社会での受けとめ方を考えてみる。普天間問題で苦慮していた前首相はこの事件を奇貨として、北東アジア情勢の不安定性を強調し、在沖縄米海兵隊が持つという「抑止力」なるものへの信仰を突然のように語り始めた。

それは、6月2日、首相辞任を表明した民主党議員総会での発言に至るまで続いた。

大方のメディアも、ほぼ同じ論調に依拠している。韓国哨戒艦沈没事件という悲劇は、日本の前首相や日米安保信奉者に向かっての「追い風」となったのである。

まこと、軍事の論理は輪廻する。その車輪の中で生きようとする者すべてを、他者の死を前提とした、終わりのない/極まりのない戦時の世界へと導くのである。

問題は、民衆レベルでの受け止め方であろうが、「あの国なら、やりかねない」という捉え方があっても、反駁する方法はなかなかに難しい。そのことが悩ましい。

私個人の問題として書いてみる。国際社会への復帰を試みている北朝鮮が、いまさらこんな軍事冒険主義に走るはずはないとするのが、解釈する側にあり得べき理性的な判断である。

この理性的な判断の下では、あえて過去は問わない。大韓航空機爆破も、拉致も、不審船も、工作船も、“もはや”過去のことだ、と考えよう。

その程度の信頼感をもって、相手との付き合い方を考えよう――と、そこでは思うのである。

同時にまた、こうも考える。軍事路線を優先し、軍事の力によって大国の譲歩を引き出し、貧しい社会の中で軍人層を手厚く処遇する先軍政治を、この国の指導部は放棄してはいない。

責任逃れの論理を使って金日成・金正日父子がよく言った(言う)ことばを使えば、今回の魚雷発射事件が「私のあずかり知らないところで、英雄主義に駆られた一部機関の者が仕出かしてしまった」可能性を、全面的に排除することもできない。

しかも、伝えられる経済危機は深刻だ。「やりかねない」。ここが、私が佇むジレンマの地点である。

だが、後者の可能性を考えるとき、私は問題を普遍化して、特殊に北朝鮮だけを名指しして言うのではないと考えて、辛うじて「理性」を保つ。

日本、韓国、中国、ソ連、ロシア、米国、イスラエル……およそ、人類史上に存在してきた〈国家〉なるものが、ある所与の時代に、所与の条件の下でなら「やりかねない」非行として、この種の出来事を捉えるのである。

〈国家〉の「非理性」を、〈国家〉を担うと自惚れている政治家や、軍人や、官僚たちの、そして付け加えるなら、時にそこへ哀しくも巻き込まれてしまう大衆の「非理性」を、その程度には「確信して」いる。

その意味では、古今・東西・左右のいかなる〈国家〉も、「非理性的であること」において等価である。

イスラエル国家が、封鎖されているパレスチナ自治区ガザへ救援物資を届けようとしていた非武装の船舶を攻撃したように。

北アメリカ国家が、自らは傷つかない無人爆撃機できょうもアフガニスタンやイラクの民衆の上に爆撃を加えているように。

革命後の中国国家が、チベットや新彊ウィグル自治区などで、恐るべき強圧的なふるまいを続けてきたように。

そして、日本国家が……(読者よ、皆さんの見識に基づいて、このあとを続けてください)。 したがって、仮に北朝鮮を疑う目をもつとして、その目は他国へも及ぶ。

前述の調査団報告が出た同じ日に、40近くの韓国民主運動団体が連名で、「調査内容、調査過程と方向、調査主体など、あらゆる側面から調査の科学性と客観性、透明性と公正性を認めることはできない」との声明を発表している。

それは、「反北」の感情を煽ることに利益を見出す政権と軍の拙速な論理だと批判して、慎重な対応を求めている。6月2日の韓国統一地方選挙において、与党ハンナラ党が敗北したのは、民衆レベルで広く同じ感情があることの証左なのだろう。

北朝鮮による哨戒艦撃沈説が、そのまま、反北ナショナリズムに行き着いてはいない点は、健全だと言える。

韓国では、この事件をめぐって別な情報も報道されているから、判断のための選択肢が広いのだろう。

たとえば、事件と同時刻に、同じ海域で訓練していた米軍潜水艦が沈没したが、事件は密かに処理されたという報道があった。

仮にこの事件と哨戒艦沈没事件に関わりがあったとして、米国がこれを隠蔽することは過去の歴史からみて「やりかねない」。

また前述の調査団員として「座礁・沈没」説を主張した委員が、その後公安当局の捜査を受けているという報道もある。

これまた、現韓国政権の性格からみて「やりかねない」。

総合すると、真実はまだ「藪の中」だと言える。問題は、またしても、日本社会での受け止め方である。多様な情報に接することもないままに、調査団報告を聞いてすぐ対北制裁強化を率先して主張した人物が、新首相になるようだから。(6月4日朝記す)

太田昌国の夢は夜ひらく[1]横断的世界史を創造している地域と、それを阻んでいる地域


反天皇制運動「モンスター」2号(2010年3月9日発行)掲載

東欧近現代史の研究者・南塚信吾が「注目集める横断的世界史」という文章を書いている(朝日新聞2月20日付け夕刊)。

従来の国別・地域別の歴史を並列することでは、同時代を生きる国々・諸地域が相互に関連し接続している現実を見失い、全体としての世界の歴史を再構成することにはならないという反省からきているという。

トリニダード・トバゴの首相も務めたエリック・ウィリアズムの『コロンブスからカストロまで』のように、カリブ海域史を世界史との繋がりの中で書き切った優れた先例は、夙に一九七〇年に生まれているが、確かに、日本の歴史書を観ても、20世紀末以降、そのような問題意識に基づく書物が増えている。また、国境を超えた協働作業で地域史を綴る試みも目立ってきた。

この歴史意識の変化は、一九七〇年代後半以降急速に進んだグローバリゼーション(全球化)によってもたらされている一面もあるだろうが、世界的な趨勢として確立されている以上、今後は現実に先駆け、いわば「未来からの目」として機能することもあるだろう。この観点から、二つの地域の昨今の動きをふり返ってみよう。

一つ目は、ラテンアメリカ地域である。去る2月、中南米・カリブ海統一首脳会議が開かれ、「ラテンアメリカ・カリブ諸国共同体」(仮称)を来年7月に発足させることを決めた。

51年に発足した米州機構には米国とカナダも加盟しており、59年のキューバ革命以後はキューバを孤立化させる役割を担ってきたが、今回の共同体は、逆に米国とカナダを除外し、クーデタによって生まれた政権の支配下にあるホンジュラス以外の32ヵ国が参加した。

一昨年、コロンビア軍がエクアドルに越境攻撃を行なったが、この事態を収拾するために動いたのがこの地域の諸国だった。

それが今回の、米国抜きの新機構設立に繋がった。参加国政府の対米姿勢には違いがある。

設立条約作成・分担金確定なども今後の課題であり、前途にはさまざまな困難があるだろう。

しかし、地域紛争を解決するための具体的な努力の過程を経てここに至ったこと、自己利害を賭けて常に紛争を拡大する火種である米国を排除していること、それが従来は米国の圧倒的な影響下におかれてきた地域で起きていること――その意義は深く、大きい。

世界銀行やIMF(国際通貨基金)は、世界に先駆けてこの地域に新自由主義経済政策を押し付けてきた張本人だが、最近、世銀の担当者は、「経済の多様化と富の再分配を通して貧困層を支援する」政策を採用している南米諸国のあり方を高く評価したという。

3月1日にウルグアイの大統領に就任した元都市ゲリラ=ホセ・ムヒカが年俸の(月給ではない)87%相当の一万二千ドル(約一二三万円)を住宅供給のための住宅基金に寄付したというニュースも、政治的・社会的状況の変革のなかで、政治家が身につけたモラルの高さを示している。

彼の地の人びとは、横断的地域史・世界史の創造が、日々の理論的・実践的な課題である時代を生きている。

二つ目は東アジアである。この国では、「平時」を「戦時」にするための努力が、新政権の閣僚と首相によってなされている。

鳩山政権が実施しようとする「高校無償化」をめぐって朝鮮学校をここから外そうとする動きがあるからである。

最初に言ったのは中井拉致担当相だが、彼が識見も政治哲学も欠く人物であることは、就任会見時からわかっていた。

今回の発言に怒りと哀しみと恥ずかしさはあるが、驚きはない。

その発言に、首相が乗った。「国交のない国だから、教科内容の調べようもないから」と。

日朝首脳会談以降の日本の社会・思想状況が、自らを顧みることなくして排外主義に走っている点でこれほどの惨状を呈しているのは、横断的な地域史・世界史の視点を社会全体が欠いているからである。

未だに「国史」の枠内に身を置いて恥じない地点から、中井や鳩山のような発言が飛び出してくる。

「未来からの目」どころの話ではない。首相の言う「東アジア共同体」が、彼のなかで現実感を伴っていないことも、よくわかる。したがって、と言うべきか、私たちには、この現状を変えるという課題が目前にある。まだ国会審議は続いている。

(3月6日記)

追記:生活と仕事の時間からくる制約上、原稿は深夜に書く。夜更けて、25時26時27時と、机に向かう。だいたいは、とりとめもない妄想が、そして時には、夢が、ひらいてくる。故に、ご覧のような連載タイトルとなった。乞う、ご寛容、および同志的な批判。