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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国の夢は夜ひらく[26]米日「主従」関係を自己暴露する、耐え難い言葉について


『反天皇制運動モンスター』第28号(2012年5月15日発行)掲載

一、「TPP(環太平洋経済連携協定)をビートルズに喩えれば、日本はポール・マッカートニーのようなもの。ポールなしのビートルズは考えられない。ジョン・レノンはもちろんアメリカです。この二人がきっちりハーモニーしなければならない」

二、「自分はバスケットボールのポイントガード。チームワークを重んじる。目立つ選手ではないが、結果を残していく」

前者は、3月24日、日本の現首相がTPP加盟を推進する意向を強調して行なった、東京における講演の一節である。私は、この日、いつものながらでテレビのニュースをつけていて、喩えの出鱈目さに驚倒して耳をそばだてた。全体を聞き取った自信はなかったが、事後的に調べると発言の内容は確かにこうであった。

後者は、4月30日、ワシントンを訪れた日本首相が、米国大統領との会談時に行なった発言だ。これも、いくつかのルートで確認した。バスケットボールに詳しくはないが、ポイントガードとは、知る人が言うところでは、ドリブルして主役にいい球をパスする役割だという。スポーツ競技での役割分担として見るなら麗しいことだが、政治の場で使うべき喩えとは言えない。バスケット好きのオバマの気を惹くために、外務官僚が思いついて首相に焚きつけた文句なのだろう。「主役」は、もちろん、米国大統領であり、共同会見時には首相はその人物を「相手守備に切り込んで得点を稼ぐパワーフォワードだ」とまで持ち上げたという。これに対して大統領は「首相は柔道の専門家、黒帯だ。記者団から不適切な質問が出たら、守ってくれるだろう」と応じたという挿話さえ付け足されている。

私は、民族的義憤とも国民的憤怒とも無縁な人間なので、その種の思いはない。しかし、人間としての、譬えようもない恥じの感覚が、この一連の言葉を聞いて生まれる。自虐的な、あまりに自虐的な! ウィットからも、文学的・芸能的なセンスからも限りなく遠い、おべっかとへつらい。他人事ながら、恥じらいのあまり身悶えるほどである。他人事とはいっても、私が否応なく所属させられている国家社会にあって、政治的代表であることを表象する人物の言動が、これなのである。

その恥じらいは、翌日には憤怒と化す。5月1日付け読売新聞は言う。「大統領選挙まで半年となり、活動の多くを全米各地の遊説に費やしている大統領が野田首相がらみで約3時間の時間を割くのは、首相への期待度の高さを物語る」。同じ記事が、加えて言うには、リチャード・アーミテージ元国務副長官は、仙石由人などの超党派議員訪米団と会見し、歴代首相で誰を評価しているかと問われて(そんな頓馬な質問をする議員がいることも驚きであり、恥じでもあるが)「一に中曽根、二に小泉。その二人に野田は匹敵する。日米同盟の意義を理解しており、消費税やTPPも一生懸命やっている」と答えたという(ワシントン支局・中島健太郎記者)。

どのエピソードからも、「主人と下僕」という関係を内面化している政治家とジャーナリストが記した言葉であることが、否定しようもなく立ち上ってくる。これらは、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約が、不可分の一セットで発効した1952年4月28日から、60年目を迎える日々に吐かれた言葉である。

『続 重光葵手記』(中央公論社、1988年)によれば、60年前の日々対米交渉に当たっていた外相の同氏は、那須で天皇裕仁から「日米協力反共の必要、駐屯軍の撤退は不可なり」との「下賜」を受けた(55年8月20日)。駐留米軍全面撤退構想すら持っていた重光は、なぜかそれを取り下げ、今日まで続く「主従」としての米日関係が固定化し始めた。それは、沖縄を切り捨て、日米一体となってそこへの植民地主義的支配を貫徹してゆくことになる節目の日々であった。

沖縄の「役割」を軸にした、自民党政権時にも不可能であった水準の米日主従関係の固定化――私たちが直面している事態は、これである。これへの反発を反米民族主義として表現しないためには、1952年(講和条約+日米安保)→1972年(「復帰」=再併合)→2012年(現在)より射程を伸ばし、1879年(琉球の武力併合)以来の植民地主義史として捉え返すことで、ようやく主体的な問題設定となると思う。(5月12日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[25]「海上の道」をたどる軍事力の展開――70年前の史実と、現在と


反天皇制運動『モンスター』27号(2012年4月10日発行)掲載

オーストラリア連邦北部ノーザンテリトリ準州にダーウィンという町がある。ティモール海に面し、オーストラリアのなかではもっともアジアに近い町だ。真珠湾奇襲攻撃から2ヵ月後の1942年2月、日本軍はこの町を空襲した。日本軍がオランダ領東インド諸島(その後のインドネシア)を占領したことに対して、連合国側がオーストラリア北部にある基地から反撃に出ることを封じるための先制攻撃である。日本軍占領によって追われた植民者・オランダ人の一部がオーストラリアへ逃げ、日本軍は続けてティモールをも占領した史実を重ね合せると、確かにオーストラリア北部はアジア多島海の延長上に位置する地勢上の要件を備えていることがわかる。

このダーウィンに、去る4月3日、米海兵隊の第一陣二百人が本拠地ハワイから到着した。昨年11月、豪州を訪問した米国大統領は、豪首相との会談で、ダーウィン近郊の豪軍施設を利用して米海兵隊を駐留させることで合意した。五年後の2017年(ロシア革命百周年! と書いても、虚しくも意味ないか)には2千5百人規模にする計画である。70年前の日本軍の海洋展開を頭に描きながら、中国の「海洋進出」を警戒して仕組まれた米豪軍事協力体制が確立したのである。米国はさらに、豪西部パースの海軍基地の利用拡大や、インド洋の豪領ココス諸島を無人機基地として利用する可能性も検討しているという情報もある(4月5日付しんぶん赤旗)。世界規模での米軍再編は、豪州地域で先行的に展開されている。去る2月の米豪軍事共同訓練には日本の航空自衛隊が初めて参加しており、さらに経済面では日本はオーストラリアにとっての最大の貿易相手国であることを考え合わせると、私たちが日常感覚として持つ「オーストラリアの遠さ」は、為政者たちが取り仕切る政治・経済・軍事の領域での実態とはかけ離れているのであろう。

ここから、二つの問題を考えておきたい。一つ目は「米軍の世界展開」の現状である。昨年末時点での米国防総省の統計に基づいた数字がある(3月25日付朝日新聞)。米国内の基地と領海には122万人の兵士がいる。国外には30万人の兵士が駐留している。合計152万人の兵士を抱え、年間軍事支出は50兆円に上る。特徴的なことを挙げてみる。

一、ドイツに5万3526人、イタリアに1万817人、日本に3万6708人の米兵士が駐留している。欧州とアジア太平洋の枠組みでそれぞれを見ると、いずれも突出した数字である。第2次大戦の敗戦国への「仕打ち」が60年有余以後の今なお継続している。帝国主義間戦争とはいえ、日独伊がファシズム国家であったことから、連合国側は道義的な「優位性」を保持し得たが、その「成果」を米国が独り占めして現在に至っている。

二、アフガニスタンには9万1千人の兵士が駐留している。イラクからは完全撤退したが、クウェートなど周辺地域には4万人程度を残していることからわかるように、原油確保とイランに向けた戦略は十分に担保されている。

三、中南米・カナダの駐留数は1970人とされている。中南米は、かつてなら「裏庭」意識で思うがままに利用してきた地域だが、政権レベルでも民衆レベルでも対米従属を絶ち、自立的な動きが高まった結果と見るべきだろう。東アジア、日本にとって、もって他山の石となすべき教訓だと言える。

二つ目は「北朝鮮が打ち上げる『衛星』に対する破壊措置令」の意図である。部品落下の可能性に向けての措置としては、きわめて異常な警戒態勢が準備されている。沖縄本島、宮古島、石垣島へ地上発射型迎撃ミサイルPAC3を配備したことは、2010年の「防衛計画の大綱」が言及した、中国を意識しての「南西防衛」構想の具体化のための一里塚であろう。日米軍事同盟の下にある限り、この構想は「海上の道」をたどって、冒頭で見た米豪軍事協力体制とも結びつくだろう。

どの国の為政者も、隣国の軍事的脅威を言い募っては、自国の軍事力強化の口実としている。東アジアのこの悪循環を断ち切るために「他山の石」から知恵を得たい。切に、そう思う。(4月7日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[24]3・11から一年、忘れ得ぬ言動――岡井隆と吉本隆明の場合


反天皇制運動機関誌『モンスター』26号(2012年3月6日発行)掲載

3・11の事態から一周年を迎えるいま、山のような言説の中からふり返っておきたいいくつかの発言がある。私が共感をもつことができた言葉や分析に、ここであらためて触れても意味はないだろう。疑念か、批判か、苛立たしい哀しみかを感じた発言を挙げておくのがよいだろう。「幻想」を持ち続ける、わが身の至らなさの証左にもなるだろうから。

ひとつ目は、歌人・岡井隆の発言である。岡井については、別件ではるか以前にも批判的に触れたことがある。岡井はかつて、私のように短歌の世界に格別に通じているわけでもない若者にとっても避けては通れぬ表現者であった。だから、学生時代からその歌集や評論を読んでいた。歌会始に選者として関わる歌人に対して、そんな文学以前の行事に関わるなら皇族の歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけよ、と迫るような人物で、1960年の岡井は、あった。心強い存在だった。その彼が1993年になると、歌会始の選者になって、その「転向」の上に居直る発言を繰り返した。思想は変わってもよい、変遷の過程を文学・思想の問題として説明せよ、というのが私の批判の核心だった。

その岡井が『WiLL』 11年8月号に「大震災後に一歌人の思ったこと」という短文を寄せている。岡井と共にこの雑誌の目次に居並ぶ者たちの名をここに書き写すことは憚られるほどに内容的には唾棄すべきものなのだが、そこに岡井の名を見ると「哀しみ」か「哀れみ」をおぼえる程度には私は岡井のかつての、および現在の一部の作品を依然として「愛している」あるいは「無視できぬ」ものと捉えているのである。岡井は、3・11前後の自詠の歌を挟み込みながら、書いている。「原子核エネルギーとのつき合いは、たしかに疲れる。しかしそれは人類の『運命』であり、それに耐えれば、この先に明るい光も生まれると信じたいのだ」。雑誌の発行日からすれば、この文章は昨年7月に書かれている。原発事故発生後4ヵ月めの段階である。事故の現況を知りつつ「耐えれば」という根拠なき仮定法を、岡井は自己の内面でいかに合理化できたのか。過去の歌論の確かさを知る者には、不可解の一語に尽きる。

亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこに暗くにごれば

岡井の思想は、83年のこの歌の世界を超えることは、もはや、ないのか。論理的に成立し得ない仮定の後に続く「この先に明るい光も生まれる」という言葉が、他ならぬ岡井のものであるだけに、よけいに虚しく響く。

ふたつ目は吉本隆明だが、彼が『インタビュー 「反原発」異論』で登場しているのは、『撃論』3号(11年10月、オークラ出版)誌上である。誌名もすごいが、目次に並ぶ人物にも驚く。我慢して書いてみる。町村信孝、田母神俊雄、高市早苗、稲田朋美、西村真悟……! 推して知るべしの編集方針を持つ雑誌であるが、吉本はそこに編集部の言によれば「エセ共産主義者との戦いに命がけで臨みながら生きてきた真正の共産主義者」として紹介されている。彼の主張は、原発は人類がエネルギー問題を解決するために発達させてきた技術的な成果であるから、これを止めてしまうことは、近代技術/進歩を大事にしてきた近代の考え方そのものの否定であり、前近代への逆行である、というに尽きる。国家は開かれ、究極的には消滅させられるべきだという吉本の信念に変わりはないようだから、末尾ではレーニンの『国家と革命』を援用しながら、政府無き後に「民衆管理の下に置かれた放射能物質」(!)という未来の展望が語られている。

だが、原発問題は安全性をどう確保するかに帰着するとの立場から、「放射能を完璧に塞ぐ」ために、放射能を通さない設備の中に原子炉をすっぽり入れてしまうとか、高さ10kmの煙突を作り放射性物質を人間の生活範囲内にこないようにするなどいう程度の「対案」を、非現実的ですがと断りながら語る吉本を見ることは、私にとってはなかなかに辛い。それはすべて、現段階でも眼前に透視できるはずの、大地・大気・海洋の汚染に苦しみ、生活圏を放棄せざるを得ない「原像」としての福島県の「大衆」の姿を見失った地点で語られる戯言にしか聞こえないからである。戦後文学論争の中で某氏が吐いた「年はとりたくないものです」という有名な言葉で揶揄して済ませるわけにはいかない点に、いずれも80歳を超えた(心の奥底では健在を祈りたい)岡井と吉本の言動の、真の悲喜劇性が現われている。  (3月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[23]「敵」なくして存在できない右派雑誌とはいえ……


反天皇制運動『モンスター』25号(2012年2月7日発行)掲載

上丸洋一というジャーナリストが、『諸君!』や『正論』という雑誌は『「敵」を必要とする、自己の存在理由を「敵」に依拠する点、アメリカという国家に似ている』と述べたことがある。産経新聞社発行の『正論』は、今なお健在で、次々と臨時号も出しているから、街なかの書店を覗いて雑誌コーナーへ行くと、幾種類もの『正論』が面出しで並んでおり、そのそばには『歴史通』だの『SAPIO』だの『撃論』だのの〈粗雑〉誌があって、その表紙や目次を見ると、彼らからすれば「敵」に他ならない中国か北朝鮮との間で戦火が今にも火を吹くかのような雰囲気が煽られていて、すさまじい時代に生きているものだなあ、という感じがつくづくする。

居丈高なナショナリズムを煽る諸雑誌が居並ぶそのコーナーから『諸君!』が消えたのは、いまからおよそ3年前の2009年5月のことだった。消えた理由は覚えてもいないが、今になって、それが突如復活したのである。文藝春秋2月臨時増刊号『諸君! 緊急復活 北朝鮮を見よ!』である。かの国では、金正日総書記が死去し、その三男正恩氏が後継者に就任したが、かくしてついに三代にわたる世襲制が登場した機を掴んでの復活である。「敵」が蠢動すると自らも活気づく性質は、確かに上丸が言うように、文藝春秋社には変わらず宿っているものらしい。

私はかつて「右派言論を読む」作業を自分に課していた。ソ連崩壊前後からだから、もう20年ほど前になるか。私が見たところ、そのころ、体制への対抗言論はずるずると後退し始めた。同時に、勝利を謳歌する右派言論の台頭が目覚ましかった。読むに堪えない煽動と悪罵の言葉は多かったが、それが一定の人びとの心を捉えているからにはその根拠を探らなければならず、また我慢して読めばその言動には進歩派と左派の「弱点」を衝くものもないではないというのが、私の考えだった。(今日であれば、コネのある人しか採用しないと公言した岩波書店の偽善性を衝き、「進歩派・左翼の正体を見た!」という言動を嬉々として行なうだろう)。そこに私たちの現在を照らし出すものがあるならば、そこすら学びの場と思うほど、私たちはゼロの地点に立っていると考えていた。その思いだけで、激烈な言葉が満載の右派雑誌を買い求め読むという、経済的にも時間的にも虚しい行為を長いこと続けていた。お蔭で、進歩派と左派を客観化する姿勢が、私には身についた。

『諸君!』は、その間必読の雑誌であった。私にはそこまでの時間はなかったが、冒頭で触れた朝日新聞記者・上丸洋一は、右派雑誌の目次をデータベース化し、関心のある論文をすべてコピーして読み、『『諸君!』『正論』の研究――保守言論はどう変容してきたか』(岩波書店、2011年)という大著を著した。靖国神社を国家管理に移すことを企図した「靖国神社法案」が初めて国会に提出された1969年に『諸君!』は発刊されたが、それ以降40年間の保守言論の変遷を知るうえで、実に有益な書物である。

今回「緊急復活」を遂げた『諸君!』は、上丸がこの書で分析したように、相変わらず自らを問うことなく、外部の「敵」のあり方のみを言い募る点で、伝統を墨守する内容であった。植民地支配・侵略戦争・従軍慰安婦などの諸問題について、謝罪したことも謝罪する気持ちも、おそらく持たない人間が、「日本はいつまで謝り続けなければならないのか!」といきり立つ様が貫徹しているのである。自衛隊元特殊部隊隊長に「命令があれば拉致被害者は奪還できます」と語らせて「我国には任務の犠牲になることをいとわない覚悟の優れた特殊部隊がある」ことを誇示しているほどである。

それでも読みでがある記事と言えば、ソウルで収録された『脱北「知識人」大座談会』だろう。6人の共和国難民が脱北の経緯、金正日という人物、死後の状況などについて語り合っている。それは、5号を数えるに至った『北朝鮮内部からの通信 リムジンガン』(アジアプレス出版部)の内容とも響き合って、かの地の実情を垣間見せてくれる。虚偽で厚化粧した三代世襲体制が持続している限り、これを恰好の「敵」に見立てた言論が一定の力をもって日本社会に浸透していく。ここから私たちは逃れるわけにはいかないのだ。

(2月4日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[22]『方丈記』からベン・シャーンまで――この時代を生き抜く力の支え


反天皇制運動連絡会「モンスター」24号(2012年1月10日発行)掲載

3・11以後、鴨長明や、その小さな作品が触れた事態からほぼ8世紀の時間を超えた東京大空襲を重ね合せて書かれた堀田善衛の作品を読み耽ったと吐露する文章をいくつか見かけた。私も、あの3・11の衝撃的な津波映像をテレビで見たその夜、少しでもこころを落ち着かせたいと思って手を伸ばしたのは、『方丈記』と『方丈記私記』であった。それまでにいく度か読んできたはずのふたつの作品から、今までに感じたことのない感興を私はおぼえた。声高に言うことではないかもしれないが、文学の力とはこういうものか、と心に沁みた。

それは、直接的な被害者ではないことからくる、いくらかなりとも余裕のある、感傷的な態度であったかもしれない。だが翌日からは、もちろん、福島原発をめぐる深刻な事故状況が、東電と政府による恥じを知らない隠蔽工作を見透かすように、明らかになり始めていた。私の場合、『方丈記』は、安吾の『堕落論』にとって代わった。そして、つまらぬ歌手やスポーツ選手が現われて「日本は強い」とか「日本はひとつのチームなんです」とか声を張り上げるにつれて、今度は石川淳の『マルスの歌』に手が伸びるのであった。高見順の小説のタイトルそのままに「いやな感じ」を、そんな言葉が横行する時代風潮に見てとって。

人によっては、もちろん、別な文学作品を、あるいは音楽を、あるいは映画や芝居を、はたまた美術作品を挙げるであろう、3・11以後のこの10ヵ月間を生きるために、何を読み、何を聴き、何を観てきたか、と問われたならば。

事が自然災害と原発事故なる人災の結果にどう対応するかという緊急の課題である以上は、まずは社会や政治の局面で考え/行動すべき事態であることは自明のことだ――「個」から出発しながらも集団的な形で。同時に視野をいくらかでも拡大するならば、それが、私たちが築いてきた/依存してきた文明の根源に関わる問題でもあると気づけば、人は自らの存在そのものの根っこまで降りていこうとするほかはない。ふだんは「無用な」文化・芸術が、そのとき、集団から離れて「個」に立ち戻ったひとりひとりの人間に、かけがえのない価値を指し示す場合がある。示唆を与える場合がある。多くの人は、そのことを無意識の裡にも感じとって、たとえば『方丈記』に手に伸ばしたのではなかったか。

私は、昨年90歳を迎えた画家・富山妙子が、それまで百号のキャンバスに描いていたアフガニスタンに関わる作品を3・11以後はいったん中断し、津波と原発事故をテーマにした三部作を描く姿を身近に見ていたこともあって、この期間を生き延びるにあたって絵画に「頼る」ことが、ふだんに比べると多かった。戦後にあって、炭鉱、第三世界、韓国、戦争責任などを主要なテーマに作品を描き続けてきた富山は、私が知り合って以降の、この20年間ほどの時代幅でふり返ると、より広い文明論的な視野をもって、物語性のあるシリーズものの作品を創造してきた。年齢を重ねるにしたがって一気に色彩的な豊かさを増した作品群は、確かな歴史観に裏づけられて描かれていることによって、リアリティと同時に物語として神話的な広がりをもつという、不思議な雰囲気を湛えるようになった。今回完成した三部作「海からの黙示―津波」「フクシマ―春、セシウム137」「日本―原発」は、今春以降の列島各地を駆けめぐることになるだろう(因みに、彼女の作品シリーズは、http://imaginationwithoutborders.northwestern.edu/で見ることができる。米国ノースウエスタン大学のウェブサイトである)。

年末から年始にかけては、映画『ブリューゲルの動く絵』(レフ・マイェフスキ監督、ポーランド+スウェーデン、2011年)と展覧会「ベン・シャーン展」(神奈川県立近代美術館 葉山。以後、名古屋・岡山・福島を巡回)に深く心を動かされた。時代に相渉り、それと格闘する芸術家の姿が、そこには立ち上っているからである。シャーンには、第五福竜丸事件に触発された連作がある。久保山愛吉さんを描いた「ラッキー・ドラゴン」と題された作品の前に立つとき、そして福竜が「ラッキー・ドラゴン」なら福島は「ラッキー・アイランド」だと書かれたカタログ内の文章を読むとき、私はあらためて、今回の事態にまで至る過程を、内省的に捉え返すよう促されていることを自覚する。(1月6日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[21]「無主地」論理で勃興し、「無主物」論理で生き延びを図る資本主義


反天皇制運動連絡会『モンスター』第23号(2011年12月6日発行)掲載

権力機構としての国家=政府なるものに対して、私は根本的な懐疑と批判を抱いてきた。それは、資本主義であることを標榜する国家体制に対してばかりではない。20年前に無惨にも自滅したような、自称社会主義国家体制に対しても、同じである。

また、資本主義的企業の論理と倫理に関わる不信と疑念が、私の心から容易に消えることはなかった。それは、プルードンやマルクス(ふたりの名を並列することにこだわりたい)以降積み重ねられてきた資本主義批判の論理に依拠するばかりではない。水銀を垂れ流して水俣病を発生させたチッソやカドミウムを排出してイタイイタイ病を発生させた三井金属など大手会社の企業活動の実態を、同時代的に目撃したことにも基づいている。

さらには、アカデミズムという砦の内部で培養された「専門知」から繰り出される高説に対しても、一九六〇年代後半に試みられたそれへの徹底的な批判の時代を共有しているだけに、十分な警戒心をもって対してきた。

「3・11」の前であろうと、後であろうと、そのこと自体には、何の変りもない――と、いつ頃までだろうか、私は考えていた(ように思う)。甘かった。「3・11」以降9ヵ月が過ぎ去ろうとしている今ふり返ってみるならば、この日付以前の日々に私が抱いていた国家=政府、企業及び知的専門家に対する疑念と不信の思いは、まだまだ牧歌的で、甘かった。これらの者たちの思想と行動にも、究極的にはせめても、いくらかましな論理性と、ないよりはましな程度の倫理性くらいは孕まれている、あるいは、孕まれたものであってほしい、と私は考えていたようなのだ。自分のことなのに「いたようなのだ」とは、はて面妖な、と思われるかもしれない。だが、推測するに、このような思い――それが深いか浅いかは別として――を持つ人は、けっこうな数に上るのではないだろうか。

「3・11」以降の9ヵ月間、国家=政府、企業体=東京電力、原子力および医学の一部専門家から、私たちが否応なく見聞してきた言動をふりかえってみて、そう思う。〈私たちの〉国家=政府は、〈私たちの〉企業は、〈私たちの〉専門家は、ここまで論理を欠くものであったのか、倫理的にかくまで低劣で無責任であったのか――と嘆息せざるを得ないような日々であった。それぞれの人びとが直面している重大な問題、重要だと考えている問題に即して、無数の例が挙げられることだろう。

こんなことをつらつら考えていたところへ、さらに重要な問題が浮かび上がった。朝日新聞が10月17日以降連載している「プロメテウスの罠」は、マスメディア上の言説としてはもっとも重要な情報と論点を提出してきている。その第4シリーズは「無主物の責任」と題されて、11月24日に始まった。それによれば、二本松市のゴルフ場が東電に汚染の除去を求める仮処分を東京地裁に申し立てたのは8月だった。東電の答弁書曰く「原発から飛び散った放射性物質は東電の所有物ではない。したがって東電は除染に責任をもたない」。なぜなら放射性物質は「もともと無主物であったと考えるのが実態に即している」からである。「所有権を観念し得るとしても、既にその放射性物質はゴルフ場の土地に附合しているはずである。つまり、債務者が放射性物質を所有しているわけではない」。10月31日、地裁はゴルフ場の訴えを退けた。私が迂闊だったのか、この事実を知らなかったが、調べてみると報道自体もかなり遅く、かつ小さめなものであった。東電と地裁の言い分に孕まれる「事の本質」の重大性に照らすなら、即時に、大きく報道されるべきものであった。

「無主物」と聞いて思い起こすのは「無主地」である。15世紀末、異世界征服に乗り出したヨーロッパは、「無主地」の先占は「実効的占領」を要件として成立し得るという近代国際法を創出した。植民地主義をこうして正当化した欧州は、それによって得た〈蓄積〉をも根拠にして資本主義を発達させた。それから5世紀有余後の現在、世界を制覇したグローバル資本主義は、「核開発」にルネサンスを見出して生き延びようとしている。ここでは、自らの製造物が事故によってどこへ飛散していこうと、それは「主なき」物質だから、責任を問われる謂れはない、と居直るのである。「無主」なるものを、融通無碍に解釈して、かつて資本主義は勃興し、今は生き延びようとしている。ここに問題の本質がある。

(12月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[20]「官許」――TPP問題と原発問題で立ち塞がるこの社会の壁


反天皇制運動『モンスター』22号(2011年11月8日発行)掲載

そのむかし、私が愛読した書物のなかに、在野の哲学者・三浦つとむの著書があった。彼の書物から受けた「恩義」はいまも忘れてはいない。辞書にもある用語だが、彼がよく用いたことばに「官許」というのがあった。辞書で言えば「政府からの許可」とか「政府が民間に与えた許可」となるが、左翼である三浦の場合は「官許マルクス主義」のように使うのである。生きた時代の必然性からいって(1911~89年)、スターリン主義のような俗流マルクス主義の言語論・芸術論・組織論とたたかった三浦は、自称前衛党もアカデミズムも自らを支える背景としては持たない場所に、ひとり立ち続けた。だから、「官」なるもの、すなわち、政府・国家・前衛党など支配権力を持つ立場やその御用学者から繰り出される議論や言説に孕まれる虚偽と歪曲をいち早く嗅ぎ当て、それを徹底して批判する立場に立ったのである。

このところ、しきりに三浦のことが思い出されるのは、虚偽と歪曲に満ちた「官」の横行があまりに目立つからであろうか。日本的な構造なので、この場合は、霞が関「官僚」による情報統制の下で、自らの意思を持たない「閣僚」が完全に支配されている事態を指している。現象的には、前者の「官僚」と後者の「閣僚」が一体化して、「政府」として立ち現れているのである。それを「科学的な知見」に基づいて支える立場から、専門家や研究者たちが登場していることは、言うまでもない。

いまや、小さなかけらのような記憶になってしまったが、民主党政権が成立した当初には、官僚支配の政治を打破するという明確な意思表示が、まだしも、なされた。在沖縄米軍基地のあり方を見直すという形で、既存の日米関係をほんの少し変えようとした鳩山政権は、「日米同盟は不変」との信念を持つ外務・防衛両省の官僚たちからの黙殺と妨害にあって、あえなく潰された。福島原発事故の重大性に鑑みて、少なくとも「脱原発」の方向性に向かおうとした菅前首相は、原発推進に固執する経済産業省の官僚たちと経団連によるエネルギー危機の扇動と、政策次元よりも菅直人という政治家が嫌いなだけの与野党・マスメディアからの集中攻撃にさらされて、〈個人的に〉失脚した。二代続いた民主党政権下にあっては、官僚支配が打破されるどころか、逆に、その支配力の強さを見せつけられたのである。

ご面相を見ただけで、自民党時代に逆戻りしたのか、とつくづく思わせられる現首相の登場は、「日本を根本のところで統治しているのは自分たちだ」と考えている霞が関官僚たちを、自民党政権時代以上に安心させたに違いない。自民党にもできなかったことをやる用意のある政権だ――就任以来の首相のさまざまな発言(むしろ、肝心な箇所での「発言の無さ」と言うべきかもしれない)から、官僚たちは、野田政権の性格をそう読んだと思われる。

そのことがいま集中して現われているのは、TPP(環太平洋経済連携協定)交渉への参加問題である。昨秋、菅首相が突然のように打ち出したこれへの参加方針は、マスメディア挙げての支持を受けた。いくらか社会的に開かれた形で議論が起ころうとしていた時期に、「3・11」が起こった。社会全体が、その後の7ヵ月間は、震災からの復興問題と原発事故への対処が主要な関心事であった。その間に、官僚たちは着々と参加の基盤づくりを行なっていたようだ。野田政権の成立を待つかのように、この1ヵ月間TPPに関する情報が小出しに漏れ始めた。「11月にハワイで開かれるアジア太平洋経済協力会議(APEC)の場で参加表明することが、米国が最も評価するタイミング」との政府文書の存在が明らかになったのは10月27日のことだ。この「政府」文書は「官僚」文書と読み替えるべきだろう。米通商代表部高官が「日本の参加を認めるためには議会との協議が必要で、参加承認には半年必要」と語ったことを明らかにした「政府内部文書」も11月1日に明らかになった。すべてを時間不足に追い込んで、ドサクサまぎれの首相決断に委ねること――TPP問題についても、原発問題についても、経済産業省に巣食う高位の官僚たちの恣意のままに操作されているのが、この社会の現状なのだ。(11月5日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[19]「占拠せよ」(occupy)という語に、なぜ、私はたじろぐか


反天皇制運動『モンスター』21号(2011年10月11日発行)掲載

「ウォール街を占拠せよ!」のスローガンの下、ニューヨークで「格差NO」の動きが始まったのは9月17日のことだった。それは10年目の「9・11」から間もないころだったので、私の関心はどうしても、次の点に集中した。すなわち、経済格差や高い失業率に異議を唱えてウォール街に集まっている人びとは、米国のこの現状と、自国が10年間にわたって続けてきているアフガニスタンとイラクに対する戦争とを、いかに結びつけているのだろうか。

10月6日になって、ワシントンのホワイトハウスの近くで開かれた反戦集会には、「反ウォール街」を掲げる人びとも参加して、「アフガニスタンではなくウォール街を占拠せよ!」とのスローガンを叫んだという。当然のことながら、「強欲なウォール街」の論理に基づく戦争に対して「反戦」の課題を立てる一群の人びとが存在しているのであろう。

では「占拠せよ!」はどうだろう? それは、もうひとつのスローガン「われわれは99%だ」と共に、わかりやすく、人目を惹きつける語句である。しかし、私のように生活する言語としてではなく、文学や歴史を解釈する言語として一定の範囲内で英語に触れてきた立場からすると、occupy やoccupationには、どこか心騒ぐものがある。繰り返し言うが、生活言語として英語を使っているわけではない私にとっては、この単語は、米国が近現代史のなかで、世界中で行なってきた「軍隊による占領」をしか意味しないからである。侵略戦争を仕掛けて勝利した後の数々の「占領」。日本との帝国主義間戦争に勝利した後の「占領」。21世紀の現在なおアフガニスタンとイラクで行なってきている「占領」。この単語にも孕まれているのであろう豊富な語感を感じとることができない私は、そのゆえにであろうか、小さなこだわりを感じてきた。

その違和感を共有している文章に出会った。カナダで “rabble.ca” と題したウェブマガジンが出ている(http://rabble.ca)。「無秩序な群衆、やじうま連、暴徒」と「撹拌棒」の二つの意味がある単語だが、前者の意味で使われているのだろうか。2001年4月、ケベック市で開かれる米州サミットに抗議して、「進歩的なジャーナリスト、作家、芸術家、アクティビスト」が集まって「他では容易に入手できない」情報の伝達のために創刊したという。読み応えがあって、ときどき目を通している。その10月1日号に、ジェシカ・イェーという人物が「ウォール街を占拠せよ――植民地主義のゲームと左翼」と題する文章を寄せている。彼女が冒頭で端的に言うのは以下のことである。「合州国はすでにして占領地である。ここは先住民族の土地なのだ。しかも、その占領はもう長いこと続いている。もうひとつ言わなければならないことは、ニューヨーク市はHaudenosaunee 民族の土地であり、他の多くの最初からの民族の土地だということだ。どこかでそのことが言及されることを、私たちは待ち望んでいるのだ。」

北米先住民族の末裔であるらしいジェシカと、蝦夷地に対するコロン(植民者)の末裔である私とでは、歴史的に位置している立場が異なる。だが、私はジェシカの問題意識を共有する。彼女は「アメリカを民衆のもとに取り戻せ」とデモ参加者が叫ぶとき、その「民衆」とは誰なのか、先住民族はあらかじめ排除されているのではないか、愛国的な帝国主義言語に絡め捕られて先住民族の存在を忘却しているのではないか、と問うている。歴代の進歩主義者や左翼が、先住民族の「同意」を得ることもないままに「解放の戦略」を提示し続けてきたことに対する、抜きがたい不信を抱いている。彼女も資本主義とグローバリゼーションに終止符を打つことには賛成だが、ウォール街で立ち上がっている人びとが「国家と大資本」を批判するばかりで、植民地主義に関する自らの「共犯性と責任」に無自覚であることに(しかも、それがあまりにも長いあいだ続いていることに)苛立っている。

これは、ウォール街での新たな胎動に冷水を浴びせる言動ではない。歴史的な過去の累積の上に現在がある以上、そこで不可避的に生まれた異なる民族同士の、支配・被支配の関係性に目を瞑るな、という呼びかけである。「継続する植民地主義」という問題意識がそこから生まれるのである。(10月8日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[18]すべての根源には「米国問題」がある――9・11から10年を経て


反天皇制運動連絡会機関誌『モンスター』第20号(2011年9月6日発行)掲載

9・11から10年目を迎えるいま、私の頭に去来する思いは、世界中で人類が抱える最大の問題の根源を一口で言えば、それは、畢竟、「米国問題」に他ならないという単純な事実だ。黒人問題・アイヌ問題・在日朝鮮人問題など、そこで名指しされている人びとが、あたかも「問題」の原因であり所在であるかのような物言いは、今までも絶えることはなかった。それらは、それぞれ、白人問題・日本人問題と呼ばれるべき性格のものであることは、少数ではあっても一部の人びとの間では周知のことであった。これと同じ意味で、9・11はその原因において「米国問題」であることを、私は事件直後の「図書新聞」のインタビューで語った(同紙2001年10月6日号「批判精神なき頽廃状況を撃つ」)。結果においてもそれは「米国問題」でしかないことが紛れもなく明らかになるという形で、私たちは事件から10年目の秋(とき)を迎えている。

米国以外の国・地域に住む者であれば、9・11のような人為的な悲劇は、世界のあちらこちらで起きてきたことを身に染みて知っている。しかも、それを為してきたのが、ほかならぬ米国であることも。海兵隊の派遣・上陸と軍事作戦の展開、海上からのミサイル発射、今であれば無人機爆撃、その前段階としての政治的・経済的な浸透と、米国の必要に応じての社会的な攪乱工作――米国が世界帝国であり得ているのは、このような身勝手極まりない所業を躊躇うことなく続けてきており、超絶した大国が為すことゆえに、その多くが「成功」してきたことの結果である。戦争によって数千、数万、時に数十万の死者を生み出し、化学兵器を使う現代の戦争になってからは幾世代にも影響を及ぼす深刻な後遺症で人びとを苦しめ、インフラを含めた経済秩序を破壊し、社会的にも混乱の極みに捨て置いて、一連の作戦が完了する――それは、幾度となく私たちが目撃してきた、米国が主体となってつくられてきた世界各地の近現代史の姿である。

したがって、9・11の悲劇を米国は独占してはならず、むしろ、そこに自らが為してきたことの影を見て、内省の契機とすること。心ある帝国内少数派が主張したように、9・11で米国が問われたのは、このことに尽きた。しかし、この10年間の米国の動きは真逆であった。そこに、アフガニスタンの、イラクの、世界全体の、そして米国自身の悲劇が生まれた。それを否定できる者は名乗り出よ! と言いたいほどに、自明のことだ。

9・11から10年目を迎えているいま、もっと長い射程で歴史を振り返るよう私たちを誘ういくつかの報道があった。中米グアテマラで、米国公衆衛生当局の医師らは1946年から48年にかけて、性病の人体実験を行ない、1000人以上を故意に感染させたうえで、うち83人が「実験中に」死亡した。ある研究者がこの事実に気づいたのは昨年で、直ちに大統領直属の調査団がつくられ、その調査に基づいて報告書がいうのである。19世紀後半以降、米国企業が広大なバナナ農園を保持し、現地の人びとを見下して「緑の法王」としてふるまった国・グアテマラでは、いかにもありそうな出来事である。「最低限の人権尊重すら怠った」と報告書は指摘しているが、しかし、1946年という年号に注目するなら、それは米国が広島と長崎に原爆を投下した翌年である。間もなく現地に入った米国の医療チームが「治療」には関心を示さず、もっぱら「核」が人体に及ぼした影響如何を調査するばかりであったこともよく知られている。米国側が人種差別意識を隠しようもなく持っている異民族に対する態度としては、いずれも例外的なことがらではない、と言うべきだ。

また、1953年日米両政府は、在日米兵の公務外犯罪に関して、重要事件以外は日本が裁判権を放棄するとの密約を交わしていたという。日本側の弱腰もあるが、当時の二国間関係からいえば、米国は明らかに「尊大な」要求を強制したと推察できよう。傲慢なふるまいを背景に、世界じゅうに抜き差しならない国家間・民族間矛盾を生み出す――米国に、このような政策の変更を強いる力を、米国以外の世界全体が持つまでは、私たちは深刻な「米国問題」を抱え続けるほかはないのだ。

(「9・11から10年」というテーマに関しては、『インパクション』181号、『反改憲運動通信』第7期第6号にも書いた。違う角度から書くよう工夫したので、併読いただけるとありがたい。)

(9月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[17]大量の被災死/未来の「死」を準備する放射能/刑死


反天皇制運動『モンスター』19号(2011年8月9日発行)掲載

困難な諸懸案に直面しているはずの民主党の政治家たちが、驚き呆れるほどの停滞と劣化ぶりを示しているなかで(自民党・公明党については、言うも愚かで、論外)、実に久しぶりに、政治家の、考え抜いた発言を聞いた。それは、最後の死刑執行から1年目を迎えた7月28日付読売新聞のインタビューに答えた江田五月法相が発したものである。江田とて、他の諸案件に関しては、菅直人の「現在」を支える役割しか果たしていないが、このインタビューで、江田は次のように語っている。

「人間というのは理性の生き物なので、理性の発露として、(死刑で)人の命を奪うのは、ちょっと違うのではないか。(死刑の)執行が大切だということも一つの国家の正義で、そのはざまで悩んでいる」「3月11日(の東日本大震災)があり、これほど人の死で皆が涙を流している時だ。(死刑執行で)命を失うことを、あえて人の理性の活動として付け加えるような時期ではないと思う」

1年前、千葉景子法相の指令に基づいたふたりの執行直後、確定死刑囚の数は107人だった。この1年間で新たに16人の死刑が確定し、3人が病死しているから、現在の確定者は120人で、過去最多の数字である。また、この間制度化された裁判員裁判では一審段階で、少年に対するものも含めて8件の死刑判決が出ており、うち2件では被告による控訴取り下げが行なわれて、死刑が確定している。状況的には、一般市民が参加した法廷で下された判決を基にして死刑が執行されかねない事態が、すぐそこまできているのである。死刑制度が存在している社会において、検事の求刑に応えて「職能」として死刑判決を下すのは裁判官だけであった時代は終わりを告げ、複数の「市民」がひとりの「市民」を死刑に処するという判断を「合法的」に行ないうる時代が、私たちの心性の何を、どう変えることになるか。それは、軽視することのできないほどに重大なことだと思える。

このような現実を背景におくと、江田が踏み留まろうとしている地点が、よく見えてくる。欲を言えば、震災による大量死との関係で死刑への思いを語った後段の発言は、より詳しく展開してほしかった。この問題については、江田とはまったく異なるが、私なりの捉え方がある。自然災害としての地震・津波と、人災としての原発事故に対する国家(この場合は、=政府)の政策を見ていると、その無責任さと冷たさが否応なく痛感される。国家(=政府)は、人びとの安全な生活を保証してくれる拠り所だという「信仰」が、人びとのなかには、ある。そうだろうか、と疑う私は、最悪の国家テロとしての戦争を発動し外部社会の他者(=敵)の死を望み/殺人を自国兵士に扇動し命令できること、死刑によって内部社会の「犯罪者」を処刑できること――に、国家の冷酷な本質を見てきた。国家は、個人や小集団を超越した地点で、なぜ他者に死を強いるこの「権限」を独占できるのか。この秘密を解くことが、国家・社会・個人の相互関係を解明する道だと考えてきた。

しかし、人に死を強いるうえで、もっとさりげなく、〈合法的な〉方法がある。それを、私は、被災と放射能汚染に対する現政府の無策と放置に感じ取っている。これは、特殊に現代日本だけの問題ではなく、世界じゅうの国家(=政府)が抱える問題に通底するものだろう。これは、おそらく、現在のレベルで行なわれている〈政治〉の本質に関わってくるものだと思える。

1年前にふたりの死刑執行を命じた千葉景子元法相も、選挙区であった地元の神奈川新聞のインタビューに応じている(7月28日)。死刑廃止の信条に矛盾する決定をしたが、それは、刑場公開や死刑制度に関する勉強会の設置など一つでも進めるためには法相としての責務を棚上げにはできない、死刑問題を問いかけるためには決断が必要だった――との見解を示している。死刑制度の是非を問いかけるために、ふたりを処刑したというのが、詰まるところ、千葉の弁明の仕方である。この弁明が通用すると千葉が誤解しているところにこそ、国家が行使しうる権力の秘密の鍵が隠されている。

国家に強制される死に馴れないこと。生み出された大量の被災死と、未来における〈死〉を準備している放射能が飛散するなかで、そう思う。(8月6日記)