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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[79]フィデル・カストロの死に思うこと


『反天皇制運動 Alert』第6号(通巻388号 2016年12月6日発行)掲載

1972年、ポーランド生まれのジャーナリスト、K.S.カロルの大著『カストロの道:ゲリラから権力へ』が、原著の刊行から2年遅れて翻訳・刊行された(読売新聞社)。71年著者の来日時には加筆もなされたから、訳書には当時の最新情報が盛り込まれた。カロルは、ヒトラーとスターリンによるポーランド分割を経てソ連市民とされ、シベリアの収容所へ送られた。そこを出てからは赤軍と共に対独戦を戦った。〈解放後〉は祖国ポーランドに戻った。もちろん、クレムリンによる全面的な支配下にあった。

1950年、新聞特派員として滞在していたパリに定住し始めた。スターリン主義を徹底して批判しつつも、社会主義への信念は揺るがなかった。だからと言うべきか、「もう一つの社会主義の道」を歩むキューバや毛沢東の中国への深い関心をもった。今ならそのキューバ論と中国論に「時代的限界」を指摘することはできようが、あの時代の〈胎動〉の中にあって読むと、同時代の社会主義と第三世界主義が抱える諸課題を抉り出して深く、刺激的だった。カロルの結語は、今なお忘れがたい。「キューバは世界を引き裂いている危機や矛盾を、集中的に体現」したがゆえに「この島は一種の共鳴箱となり、現代世界において発生するいかに小さな動揺に対しても、またどれほど小さな悲劇に対してであろうとも、鋭敏に反応するようになった」。

本書の重要性は、カストロやゲバラなど当時の指導部の多くとの著者の対話が盛り込まれている点にある。カストロらはカロルを信頼し、本書でしか見られない発言を数多くしているのである。だが、原著の刊行後、カストロは「正気の沙汰とも思えぬほどの激しい怒り」をカロルに対して示した。カストロは「誉められることが好きな」人間なのだが、カロルは、カストロが「前衛の役割について貴族的な考え方」を持ち、「キューバに制度上の問題が存在することや、下部における民主主義が必要であることを、頑として認めない」などと断言したからだろうか。それもあるかもしれない。同時に、本書が、刺激に満ちた初期キューバ革命の「終わりの始まり」を象徴することになるかもしれない二つの出来事を鋭く指摘したせいもあるかもしれない。

ひとつは、1968年8月、「人間の顔をした社会主義」を求める新しい指導部がチェコスロヴァキアに登場して間もなく、ソ連軍およびワルシャワ条約軍がチェコに侵攻し、この新しい芽を摘んだ時に、カストロがこの侵攻を支持した事実である。侵攻は不幸で悲劇的な事態だが、この犯罪はヨリ大きな犯罪――すなわち、チェコが資本主義への道を歩んでいたこと――を阻むために必要なことだったとの「論理」をカストロは展開した。それは、1959年の革命以来の9年間、「超大国・米国の圧力の下にありながら、膝元でこれに徹底的に抵抗するキューバ」というイメージを壊した。

ふたつ目は、1971年、詩人エベルト・パディリャに対してなされた表現弾圧である。

詩人の逮捕・勾留・尋問・公開の場での全面的な自己批判(そこには、「パリに亡命したポーランド人で、人生に失望した」カロルに、彼が望むような発言を自分がしてしまったことも含まれていた)の過程には、初期キューバ革命に見られた「表現」の多様性に対する〈おおらかさ〉がすっかり失せていた。どこを見ても、スターリン主義がひたひたと押し寄せていた。

フィデル・カストロは疑いもなく20世紀の「偉人」の一人だが、教条主義的に彼を信奉する意見もあれば、「残忍な独裁者」としてすべてを否定し去る者もいる。キューバに生きる(生きた)人が後者のように言うのであれば、私はそれを否定する場にはいない(いることができない)。その意見を尊重しつつ、同時に客観的な場にわが身を置けば、キューバ革命論やカストロ論を、第2次大戦後の世界史の具体的な展開過程からかけ離れた観念的な遊戯のようには展開できない。それを潰そうとした米国、それを利用し尽そうとしたソ連、その他もろもろの要素――の全体像の中で、その意義と限界を測定したい。(12月3日記)

死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も12回目――第12回「大道寺幸子・赤堀政夫基金 死刑囚表現展」応募作品に触れて


『出版ニュース』2016年11月中旬号掲載

刊行されたばかりの『年報・死刑廃止2016』(インパクト出版会)の「編集後記」の末尾には「本誌も通巻20号、死刑が廃止にできず続刊することが悔しい。」とある。これに倣えば、「死刑制度廃絶の願いをこめて始めた死刑囚表現展も第12回目。世界に存在する国家社会のおよそ3分の2に当たる140ヵ国近くでは死刑が廃止されているのに、私たちはいつまでこれを続けることになるのだろうかと慨嘆する」とでもいうことになるだろうか。同時に、次のことも思い出す。2014年秋、東京・渋谷で開いた「死刑囚絵画展」を観に来てくれた友人が言った。「ここまでの作品が寄せられているのだから、もう、辞められないね」。そう、死刑制度は無くしたい。同時に、実際に存在している死刑囚の人びとがここまで「表現」に懸けている現実がつくり出されている以上、少なくとも制度が続いている間は、表現展を辞めるわけにもいかない。私たちの多くもずいぶんと高齢になってしまい、どう継続できるかが大きな問題なのだが――そんな思いを抱きながら、去る9月中旬に開かれた選考会議に臨んだ。

加賀乙彦、池田浩士、北川フラム、川村湊、香山リカ、坂上香、そして私、の七人の選考委員全員が出席した。運営会のスタッフも10人ほどが傍聴している。

すでに私の頭に沁み込んでいた句があった。作品としてとりわけよいとは言えないが、死刑囚が外部に向かってさまざまな形で表現している現実を、ずばり(少しユーモラスな形で)言い当てていると思えたのである。

〇番区まるで作家の養成所

拘置所で収用者番号の末尾にゼロがつくのは重罪被告で、死刑囚が多い。そこから、それらの人びとが収容されている番区を「〇番区」と呼ぶことになったようだ。思えば、選考委員の加賀さんには『ゼロ番区の囚人』と題した作品がある。加賀さんは東京拘置所の医官を勤めていた時期があるから、その時の経験を作品化したのである。確かに、死刑囚表現展がなされる以前から、ゼロ番区からは、多くの表現者が生まれ出た。正田昭、島秋人、平沢貞通、永山則夫……。この句の作者は、そのことの「意味」を、あらためて確かめているように思える。

作者とは、兼岩幸男さんである。常連の応募者だが、昨年時事川柳というジャンルを開拓して以来、その表現に新しい風が吹き込んできた感じがする。掲句同様、ユーモアを交えて、死刑囚である自分自身をも対象化している句が印象に残る。

死刑囚それでも続けるこのやる気

就活と婚活してる死刑囚

拘置所へ拉致に来るのをじっと待つ

もちろん、昨年同様、社会の現実に向き合った作品にもみるべきものはある。

マスメディア不倫で騒ぐ下世話ぶり

選挙前基地の和解で厚化粧

日々の情報源は、半日遅れの新聞とラジオ・ニュースのみ、それでも、見える人には、事態の本質が見える。溢れかえる情報に呑み込まれて、情報の軽重を見失いがちな一般社会に生きる私たちに内省を迫る。ただし、他の選者の評にもあったが、直截的な社会句には、俗情に阿る雰囲気の句もあって、それは私も採らない。この人独自の世界を、さらに未知の領域に向けて切り拓いていくことを、切に望みたい。

高井空さんの「三つの選択し」は、ショートショートの創作。確定死刑囚が突然理由も知らされることもなく、航空機でどこかへ移送される。着いたところは、海外の戦場だった。自衛隊も含めて憲法9条の縛りで戦争には参加できない。その点「働きもせず、税金も納めず、ただで飯を食って、どうせ殺す死刑囚であれば」戦力になり得る、しかも「奴らは、既に、人を殺した経験がある」。国内的には、死刑囚・某の死刑が執行された、ということにしておけばよい――動員した側の言い分はこうだ。そんな世界に抛り込まれた死刑囚の心象がクールに描かれてゆく。確定死刑囚ならではの、迫りくる「戦争の時代への危機感」が吐露されていて、緊張した。後述する響野湾子さんの短歌にも、こんなものがあった。

裁判員制度のやふに 赤紙がいつか来るはず確定囚にも

獄にある確定死刑囚は、独特の嗅覚をもって、獄外で――つまり自らの手が及ばぬ世界で――進行する政治・社会状況を読み取っているのかもしれぬ。時代に対するこの危機意識には、獄壁を超えて連帯したいと、心から思った。高井さんが、別な名で応募された従来の作品については(とりわけ、自らがなした行為を振り返った作品については、読む者の胸に響くものが少ないがゆえに)ずいぶんと酷評した記憶があるが、この作品からは、今までになかった地点に踏み出そうとしている心意気を感じ取った。書き続けてほしい。

さて、常連の響野湾子さんである。短歌「蒼きオブジェ」575首、俳句「花リンゴ」250句、書き散ら詩「透明な一部」から成っていて、今年も多作である(「透明な一部」は、本名の庄子幸一名も連記した応募である)。短歌の冒頭に曰く「執行の歌が八割を占めています 意識的に詠んでいます 死刑囚徒だから 死刑囚の歌を詠わねば 誰れが?」。選者である私たちが、死刑執行をテーマにした作品が多く、重いとか息苦しいとかいう感想を漏らしたことへの応答だろうか。そう、言われる通りです、というしかない。この作品を読む前に、私は拘置所で或る死刑囚と面会した。彼はぽつりといった。「他人を殺めた者でなければ分からないことがある」。ふたりは、死刑囚としての同じ心境を、別々のことばで語っているように思える。そこで生まれるのは、贖罪の歌(句)である。

眠剤に頼りて寝るを自笑せり我が贖罪の怪しかりけり

痛みなくばひと日たりとも生きられぬ壁に頭を打ちて耐えをり

生活と言へぬ暗さの中に生き贖罪(ルビ:つみ)てふ見へぬものと闘ふ

贖罪記書けず閉ず日や有時雨

短歌集の表題「蒼きオブジェ」に見られるように、「蒼」をモチーフとした作品に佳作が

目立った。

溜息は一夜で満ちる独房は 海より蒼し 私は海月

海月より蒼き体を持つ我れは 独房(ルビ:へや)で発光しつつ狂(ルビ:ふ)れゆく

絵心の無き性なれど この部屋を歌で染めあぐ 蒼瑞々しく

主題を絞り込んだ時の、表現の凝縮度・密度の高さを感じた。他に、私には以下の歌が強く印象に残った。

いつからか夜に知らぬ人現われて 一刷毛闇を我に塗りゆく

責任を被る狂気の無き人の 筆名の文学に色見えてこず

井上孝紘、北村孝、北村真美さんの作品は、もちろん、個別に独立したものとして読まなければならないのだが、関わりを問われた共通の事件が表現の背後に色濃く漂っていて、関連づけて読むよう誘われる。弟(孝紘さん)は兄(孝さん)と母親(真美さん)の無実を主張する文章を寄せており、孝さんは無実を訴える。真美さんはその点には触れることなく、10年の歳月、同じ拘置所の「同じ空間に居た」女性死刑囚が処刑された日のことを書く。「死刑囚が、空気に消える時、そこに涙は無い。死刑囚が、消える時、何も変わらない一日となる」。弟は、捜査員の誘導で、罪なき兄と母を「共犯」に仕立て上げる調書を取られたことを悔やむ。その心境を、こう詠む。

西仰ぎ 見えろと雲に 兄の笑顔(ルビ:かお)

各人の「表現」が今後いかにして事件の「闇」に肉迫してゆけるか。刮目して、待ちたい。

昨年、初の応募で「期待賞」を受賞した高田和三郎さんが、詩・詞編とエッセイ「若き日の回想」を寄せられた。詩篇もまた、利根川の支流に近い故郷を思う慕情に溢れている。エッセイの末尾には「この拙文は自分が少年であった当事に経験した非生産的な生活状況について、恥を忍びながら書かせていただいた」とある。身体的な障がいをもつことによって「非生産的」と見なした世間の目のことを言っているのだろうが、それは、今回の相模原事件と二重写しになって見える。その意味で、社会の変わらなさに心が塞ぐ。ただ、もっと書き込んでいただきたい。今回で言えば、郷里が近い石川三四郎に触れた一節があるが、思想史上に独自で重要な位置を占めるこのアナキスト思想家に、名前だけ触れて済ませるのは惜しい。なぜ、名前が心に残っているのか。郷里の大人たちがどんな言葉遣いで石川三四郎のことを語っていたから、高田少年の頭にその名が刻み込まれたのか。掘り下げるべき点は、多々あるように思われる。

さて、数年前、もやしや大根の姿を、黒地を背景に絶妙に描いた絵が忘れられない高橋和利さんは、今回は大長編『凸凹三人組』を応募された。自らの少年時代の思い出の記である。几帳面な方なのだろう、幼い頃からつけていた膨大な日記を、いったん差し入れてもらい、それを基にしながらこの回想記を記したもののようだ。だから、戦時中の焼夷弾の作り方など、記述は詳細を極めて、面白い。戦後も、子どもたちの要求によって男女共学が実現する過程など、今は何かと分が悪い「戦後民主主義」が生き生きと機能していた時代の息吹を伝えて、貴重だ。いささか冗漫にすぎる箇所はあり、唐突に幼い少女の腐乱死体が出てきて終わるエンディングにも不満は残る。推敲を重ねれば、戦中・戦後の一時代の貴重な証言文学足り得よう。添えられた挿絵がよい。あのもやしや大根を描いた才は、高橋さんの中に根づいている。

若い千葉祐太郎さんは、無題の作品を寄せた。四行か五行を一区切りとする詩文のような文章が続く。難解な言葉を使い、メタファーも一筋縄ではいかない。自らが裁かれた裁判の様子と処刑のシーンを描いているらしいことはわかる。供述調書の作られ方に納得できないものを感じ、自らがなしたことへの悔悟の気持ちも綴られている。本人も難解すぎると思ったのか、後日かみ砕いた解説文が送られてきた。こんなにわかりやすい文章も書ける人が、あえて選んだ「詩的難解さ」は、若さゆえの不敵な挑戦か。悪くはない。

いつも味わい深い作品を寄せる西山省三さんは、「天敵の死」という詩と川柳10首。「人の死を笑ったり喜んだりしてはいけませんよ」と幼い作者を諭した母に謝りながら歓喜するのは鳩山邦夫が死んだから。法相時代13人の死刑囚の執行を命じた人。母の教えを大事に思いつつも、ベルトコンベアー方式での死刑執行を口走った、「一生使いきれないお金を持った」人の早逝をめぐる詩を、作者は「天敵鳩山邦夫が死んだとさ」という、突き放したような語句で締め括る。論理も倫理も超えて溢れ出る心情。半世紀以上も前のこと、戦争をするケネディが死んだのはめでたいといって赤飯を炊いて近所に配ったら隣人に怪訝な顔をされたといって戸惑っていた故・深沢七郎を、ゆくりなくも、思い起こした。この種の表現は面白い、という心を抑えることはできない。だが、これは、やはり、おもしろうて、やがて、哀しき……か。

林眞須美さんは、その名もずばり「眞須美」と題したルポを応募。粗削りな文章だが、大阪拘置所で彼女がいかにひどい処遇を受けているかという実情は伝わる。日本の監獄がどんなところであるかを暴露するに、気の毒にも彼女はもっとも「適した」場所に――苛め抜かれているという意味で。しかも彼女はそれに負けないで、さまざまな方法を駆使して闘い続けているという意味も込めて――置かれているのかもしれない。

俳句・短歌・川柳を寄せる何力さんの表現に変化が見られる。「短歌(うた)不評俳句の方が無難かな」には、選者として苦笑する。広辞苑と大辞泉を「良友」として日本語を懸命に勉強している感じが伝わってくる。「死刑支持・中国嫌い同率だ 我の運命二重奏かな」は、日本社会に浸透している不穏な「空気」を、自己批評を込めて詠んでいて、忘れ難い。

音音(ねおん)さんからは、101までの番号を付した歌が送られてきた。言葉の使い方は、相変わらず軽妙だし、獄の外で進む新たな現象への関心も旺盛だが、例年ほどの「冴え」が見られないのはなぜだろうか。末尾に置かれた歌

被害者らの未来のすべて黒く塗り 何が表現ズルいと思う

にうたわれた思いが、作者の心に重い影を落としているのだろうか。これは、2014年の死刑囚絵画展(渋谷)の際のアンケートに一来場者が残した言葉からの一部引用歌だ。私がこの年の表現展の講評で、この批評に触れた。この問いかけから逃げることはできない。だが、向き合って、さらに「表現」を深めてほしいと望むばかりだ。

なお、河村啓三さんの長編「ほたるいか」は第7章まで届きながら未完に終わったので、選考対象外とした。ただし、娘の視点から父親である「自分」を語らせるという方法は、興味深いながらも、娘の感情を自分に都合よく処理している箇所があって、綻びが目立つ。

もっと深く書けるはずの人だという声があがったことを、来期には完成させて応募されるであろう作者のために書き留めておきたい。

絵画作品に移ろう。

伊藤和史さんの昨年の応募作品には、驚かされた。白い色紙に、凹凸の彫りが施されているだけだ。裸眼には、よく見えない。今年も同じ趣向だ。表現展運営会スタッフが、工夫してダンボール箱に作品を掛け、対面には紙製暖簾を掛けた。観る者は、用意されたライトを点灯して、暖簾をかき分けて暗い内部に入る。色紙に斜めからライトを当てると、凹凸が浮き彫りになって見える。この工夫と丁寧な作業ぶりに、あらためて驚く。

井上孝絋さんは、いつもの入れ墨用の彫りもの作品に加え、「独裁暴権」現首相の顔に「こいつが……ニクイ!」と書き込んだ。何を描いても、基本があるので、巧みだ。

加藤智大さんの「艦これ――イラストロジック65問▼パズル201問」は、昨年同様、私にはお手上げだ。だが、この集中力は何なのだろう。コミュニケーションの可能性や方法について、あれこれ考えさせられる、独自の密度をもった「表現」なのだ。

金川一さんの作品には、表現展のごく初期から惹かれてきた。「点描の美しさ」と題して、しゃくやくの花などを描いた今回の3点の作品にも、うまい、と思わず唸る。

奥本章寛さんは、初めての応募だ。「お地蔵さま」など5作品が、観る者のこころに安らぎを与えてくれるようなたたずまいで並んでいる。「せんこうはなび」の描き方には、とりわけ、感心した。

北村孝さんの「ハッピー」は、作者がおかれている状況を知っていると、胸に迫る。絵の中にある「再審」「証人」「支援」「新証拠」などの文字は、冤罪を訴える作者の切なる叫びだ。それぞれ星形に入れられてはいるが「希」と「望」の文字の間には大きな隔たりがある。このように表現した時の作者の思いを、及ばずながら、想像したい。

西口宗宏さんは、20点もの作品を応募。何らかのモデルがあって、それを真似しているのだろうが、「月見(懺悔)」のように、自らの内面の描写か、と思われる作品もちらほら。北川フラム氏が言うようにに、本来「グジャグジャな、本人の生理」が前面に出てくれば、化けるのだろうと思わせるうまさを感じとった。

風間博子さんは昨年、作家・蜷川泰司氏の『迷宮の飛翔』(河出書房新社)に挿絵を提供した。物語だけを読んで、想像力を「飛翔」させて描いた16枚の作品の豊かさに私は注目した。表現展への従来の応募作品に見られた「定型化」を打ち破るエネルギーが溢れる「命――2016の弐」の行方を注視したい。

紙幅が尽きてきた。高尾康司さん、豊田義己さん、原正志さん、北村真美さんからも、それぞれに個性的で、心のこもった作品が寄せられた。年数を積み重ねている人の作品には、素人目にも明らかな「変化」(「進歩」とは言いたくない)が見られて、うれしい。自らへの戒めを込めて言う、日々書く(描く)、これが肝心なのだ、と。

最後に、受賞者は以下の方たちに決まった。文字作品部門では、響野湾子さんに「表現賞」、兼岩幸男さんに「努力賞」、高橋和利さんに「敢闘賞」。絵画部門では、西口宗宏さんに「新人賞」、金川一さんに「新境地賞」、風間博子さんに「光と闇の賞」。

そして、さらに記しておかなければならないことがある。東京拘置所在監の宮前一明さんは、絵画作品を応募しようとしたが、拘置所側から内容にクレームがつけられ、とうとう出品できなかった。また、名古屋拘置所在監の堀慶末さんは、応募しようとした長編作品が、拘置所側に3ヵ月間も留め置かれ、9月3日になってようやく発信されたが、選考会の日までには届かなかった。拘置所が採った措置については、何らかの方法によって、その責任を追及していきたい。

以前にも触れたことのある人物だが、ウルグアイの元大統領、ホセ・ムヒカ氏が今春来日した。1960年代~70年代に活動していた同国の都市ゲリラ組織トゥパマロスに属していた人物だ。長期にわたって投獄され、2度脱獄もしている。民主化の過程で釈放され、同組織も合法政党となって、国会議員となった。やがてその政策と人格が認められ、一般選挙で大統領にまで選出された。「市場は万能ではない」「質素に生きれば自由でいられる」などの端的な言葉で、世界全体を支配している新自由主義的な市場原理に「否!」を唱え、その発言は世界的な注目を集めている。日本を支配する、死刑制度を含めた行刑制度の頑迷さに嘆息をつくたびに、「元武装ゲリラ+獄中者+脱獄者」を大統領に選ぶ有権者が住まう社会の豊かさと奥行きの深さを思う。刑罰を受けて「獄」にある人びとの表現は、どの時代・どの地域にあっても、私たちが住む社会の〈現実の姿〉を映し出す鏡なのだ。

「時代の証言」としての映画――パトリシオ・グスマン監督『チリの闘い』を観る


『映画芸術』2016年秋号/457号(2016年11月7日発行)掲載

2015~16年にかけて、われらが同時代の映画作家、チリのパトリシオ・グスマンの作品紹介が一気に進んだ。比較的最近の作品である『光のノスタルジア』(2010年)と『真珠のボタン』(2015年)を皮切りに、渇望久しくも40年ほど前の作品『チリの闘い』3部作(順に、1975年、76年、78年)がついに公開されるに至った。

前2作品を観ると、グスマンは、現代チリが体験せざるを得なかった軍事政権の時代を、癒しがたい記憶として抱え込んでいることがわかる。映画作家としての彼の出発点がどこにあったかを思えば、その思いの深さも知れよう。チリに社会主義者の大統領、サルバドル・アジェンデが登場した1970年、29歳のグスマンは映画学徒としてスペインに学んでいた。祖国で重大な出来事が進行中だと考えた彼は、71年に帰国する。人びとの顔つきとふるまいが以前とは違うことに彼は気づく。貧しい庶民は、以前なら、自分たちの居住区に籠り、都心には出ずに、隠れるように住んでいた。今はどうだ。老若男女、家族連れで街頭に出ている。顔は明るい。満足そうだ。そして、「平和的な方法で社会主義革命へと向かう」とするアジェンデの演説に耳を傾けて、熱狂している。貧富の差が甚だしいチリで、経済的な公正・公平さを実現するための福祉政策が実施されてきたからだろう。日々働き、社会を動かす主人公としての自分たちの役割に確信を持ち得たからだろう。

いま目撃しつつあるこの事態を映像記録として残さなければ、と彼は思う。『最初の年』(1971年)はこうして生まれた。翌72年10月、社会主義革命に反対し、これを潰そうとする富裕な保守層とその背後で画策する米国CIAは、チリ経済の生命線を握るトラック輸送業者にストライキを煽動する。食糧品をはじめ日常必需品の流通が麻痺する。労働者・住民たちはこれに対抗して、隠匿物資を摘発し、生産者と直接交渉して物資を入手し、自分が働く工場のトラックを使って配送し、公正な価格で平等に分配した。グスマンはこの動きを『一〇月の応答』(72年)として記録した。労働者による自主管理の方法を知らない人びとが参考にできるように。

73年3月、事態はさらに緊迫する。総選挙で形勢を逆転させようとしていた保守は、アジェンデ支持の厚い壁を打ち破ることができなかった。米国の意向も受けて、反アジェンデ派は、クーデタに向けて動き始める。軍部右派の動きも活発化する。今こそ映像記録が必要なのに、米国の経済封鎖による物不足はフィルムにまで及んでいた。グスマンは、『最初の年』を高く評価したフランスのシネアスト、クリス・マルケルにフィルムの提供を依頼する。マルケルはこれに応え、グスマンはようやく次の仕事に取り掛かることができた。これが、のちに『チリの闘い』となって結実するのである。

この映画でもっとも印象的なことのひとつは、人びとの顔である。チリ人のグスマンも驚いたように、街頭インタビューを受け、デモや集会、物資分配の場にいる民衆の表情は生き生きとしている。もちろん、73年3月以降、クーデタが必至と思われる情勢の渦中を生きる人びとの顔には悲痛な表情も走るが、革命直後には、人びとの意気が高揚し、文化表現活動も多様に花開くという現象は、世界中どこでも見られたことである。チリ革命においても、とりわけ71~72年はその時期に当たり、グスマンのカメラはそれを捉えることができたのだろう。カメラは、また、富裕層の女性たちの厚化粧や、いずれクーデタ支持派になるであろう高級軍人らのエリート然たる表情も、見逃すことはない。人びとの顔つき、服装、立ち居振舞いに如実に表れる「階級差」を映し出していることで、映画は十分に「時代の証言」足り得ていて、貴重である。この映画が、革命によって従来享受してきた特権を剥奪される者たちの焦りと、今までは保証されてこなかった権利を獲得する途上にある者たちとの間の階級闘争を描いていると私が考える根拠は、ここにある。

従来の特権を剥奪される者が、国の外にも存在していたことを指摘することは決定的に重要である。チリに豊富な銅資源や、金融・通信などの大企業を掌握していた米国資本のことである。アジェンデが選ばれることになる大統領選挙の時から反アジェンデの画策を行なってきた米国は、三年間続いた社会主義政権の期間中一貫して、これを打倒するさまざまな策謀の中心にいた。反革命の軍人を訓練し、社会を攪乱するサボタージュやストライキのためにドルをばら撒いた。先述した73年3月の総選挙の結果を見た米大統領補佐官キッシンジャーは、それまでアジェンデ政権に協力してきたキリスト教民主党の方針を転換させるべく動き、それに成功した。この党が、73年9月11日の軍事クーデタへと向かう過程でどんな役割を果たしたかは、この映画があますところなく明かしている。このキッシンジャーが、チリ軍事クーデタから数ヵ月後、ベトナム和平への「貢献」を認められて、ノーベル平和賞を受賞したのである。血のクーデタというべき73年「9・11」の本質を知る者には、耐え難い事実である。米国のこのような介入の実態も、映画はよく描いている。

グスマンの述懐によれば、この映画はわずか五人のチームによって撮影されている。日々新聞を読み込み、人びとから情報を得て、そのときどきの状況をもっとも象徴している現場へ出かけて、カメラを回す。当然にも、すべての状況を描き尽くすことはできない。地主に独占されてきた「土地を、耕す者の手に」――このスローガンの下で土地占拠闘争を闘う、農村部の先住民族マプーチェの姿は、映画に登場しない。チリ労働者の中では特権的な高給取りである一部の鉱山労働者が、反革命の煽動に乗せられてストライキを行なう。世界中どこにあっても、鉱山労働者の背後には鉱山主婦会があって、ユニークな役割を果たす。彼女たちはどんな立場を採ったのか。描かれていれば、物語はヨリ厚みを増しただろう。全体的に見て、民衆運動の現場に女性の姿が少ない。これは、チリに限らず、20世紀型社会運動の「限界」だったのかもしれぬ。現在を生きる、新たな価値観に基づいて、「時代の証言」を批判的に読み取る姿勢も、観客には求められる。

自らを「遅れてやってきた左翼」と称するグスマンは、なるほど、いささかナイーブに過ぎるのかもしれない。当時のチリ情勢をよく知る者には深読みも可能だが、映画は、左翼内部の分岐状況を描き損なっている。アジェンデは人格的にはすぐれた人物であったに違いなく、引用される演説も心打つものが多い。彼を取り囲んだ民衆が、「アジェンデ! われわれはあなたを守る」と叫んだのも事実だろう。同時に、先述した自主管理へと向かう民衆運動には、国家権力とは別に、併行的地域権力の萌芽というべき可能性を見て取ることができる。いわば、ソビエト(評議会)に依拠した人民権力の創出過程を、である。アジェンデを超えて、アジェンデの先へ向かう運動が実在していたのである。

軍事クーデタの日、グスマンは逮捕された。にもかかわらず、この16ミリフィルムが生き永らえたことは奇跡に近い。それには、チリ内外の人びとの協力が可能にした、秘められた物語がある。ここでは、ともかく、フィルムよ、ありがとう、と言っておこう。

追記――文中で引用したグスマンの言葉は、El cine documental según Patricio Guzmán, Cecilia Ricciarelli, Impresol Ediciones, Bogotá, 2011.に拠っている。

太田昌国のみたび夢は夜ひらく[78]コロンビアの和平合意の一時的挫折が示唆するもの


『反天皇制運動Alert』第5号(通巻87号、2016年11月8日発行)掲載

国際報道で気になることがあると、BSの「世界のニュース」を見たり、インターネットで検索したりする。今年9月から10月にかけての、南米コロンビア報道はなかなかに興味深かった。50年もの間続いた内戦に終止符を打ち、政府と武装ゲリラ組織との間に和平合意が成る直前の情勢が報道されていたからである。ゲリラ・キャンプが公開されて、各国の報道陣が入った。ゲリラ兵士の家族の訪問も許された。名もなきゲリラ兵士が「これからは銃を持たずに社会を変えたい」と語っていた。幅広い年齢層の女性の姿が、けっこう目立った。FARC(コロンビア革命軍)には女性メンバーが多いという報道が裏付けられた。「戦争が終わるのを前に、FARCがウッドストックを開催」というニュースでは、ゲリラ兵士が次々と野外ステージに立っては歌をうたい、さながらコンサート会場と化した。平和の到来を心から喜ぶ姿が、あちこちにあった。

キューバ革命の勝利に刺激を受けて1964年に結成されたFARCは、闘争が長引くにつれて初心を忘れ、麻薬の生産や密売で資金を稼いだりもしていた。彼らによる殺害、誘拐、強制移住の犠牲者は民間人にまで広がり、数も多かった。それでもなお、若いメンバーの加入が途絶えることがなかったのは、絶対的な貧困が社会を覆い、働く者の手に土地がなかったからである。9月26日に行われた和平合意文書への署名式で、ゲリラ指導者は「我々がもたらしたすべての痛みについてお詫びする」と語った。対するサントス大統領にしても、前政権の国防相として行った苛烈なゲリラ壊滅作戦では事態が解決できなかったからこそ、大統領就任後の2012年以降、キューバ政府の仲介を得ての和平交渉に臨んできたのだろう。

私が注目したのは、和平合意の内容である。FARCは政党として政治参加が認められ、2018年から8年間、上・下院で各5議席が配分される。犯罪行為を認めた革命軍兵士の罪は軽減される(8年の勤労奉仕)。FARCの側でも、土地、牧場、麻薬密輸や誘拐・恐喝で得た資金の洗浄に利用した建設会社などすべての資産を、内戦の犠牲者への賠償基金として提供する。合意成立後180日以内にすべての武器を国連監視団に引き渡す――などである。

中立的な立場からして、政府は大きくゲリラ側に譲歩したかに見える。ここに私は、政治家としてのサントス大統領の資質を見る。同国を長年苦しめてきた悲劇的な内戦を終結させるためには、この程度の「譲歩と妥協」が必要だと考えたのだろう。歴代政府とて、そしてそれを支える暴力装置としての国軍や警察とて、無実ではない――そう思えばこその妥協点がそこにあったのだろう。サントスはブルジョア政治家には違いないが、こういう態度こそが、あるべき「政治」の姿だと思える。

サントスは、政治家としての責任感から、人びとより「先」を見ていた。果たして、合意から1週間後に行われた国民投票で、和平合意は否決された。投票率は低く、僅差でもあったから、この結果が「民意」を正確に反映しているかどうかは微妙なところだ。だが、「ゲリラへの譲歩」に納得できないと考える被害者感情が国民投票では勝ったのだ。

教訓的である。アパルトヘイトを廃絶した南アフリカの1990年代半ば、従来のように報復によってではなく、真実の究明→加害者の謝罪→犠牲者の赦し→そして和解へと至るという、画期的な政治・社会過程をたどる試みがなされた。南アフリカにおいても、加害者にあまりに「寛大な」方法だとの批判は絶えずあった。それでも、その後、かつて独裁・暴力支配などの辛い体験をしたさまざまな国・地域で、同じような取り組みがなされて、現在に至っている。コロンビアの人びとが、この重大な局面での試練に堪えて、和平のためのヨリよき道を見出すことを、心から願う。

日本社会も応用問題を抱えている。南北朝鮮との「和平合意」をいかに実現するかという形で。「慰安婦問題」や拉致問題の解決がいまだにできないのは、過去の捉え返しと、それに基づく対話がないからである。責任は相互的だが、「加害国」日本のそれがヨリ大きいことは自明のことだ。コロンビアの和平合意の過程と、その一時的挫折は、世界の他の抗争/紛争地域に深い示唆を与えてくれている。(11月5日記)

太田昌国の みたび 夢は夜ひらく[77]独裁者の「孤独」/「制裁」論議の虚しさ


『反天皇制運動 Alert』第4号(通巻386号、2016年10月4日発行)掲載

『将軍様、あなたのために映画を撮ります』という映画を観た。原題は ”The Lovers and the Despot” (恋人たちと独裁者)。監督は、イギリス人のロス・アダムとロバート・カンナンで、2016年制作。出演は崔銀姫、申相玉、金正日その他。この映画のことを知らぬ人は、出演者の名に驚かれよう。金正日は、まぎれもなく、2011年に死去した朝鮮労働党総書記・国防委員長、その人である。記録映像による動画や「主人公」三人の3ショット写真も挿入されているが、彼の場合は、監督によって録音されていた音声「出演」を通して語られる内容こそが面白い。

ことの顛末を簡潔に記す。崔銀姫と申相玉はそれぞれ、1970年代韓国の著名な映画女優であり、監督であった。かつては夫婦であったが、わけあってすでに離婚していた。朴正煕の軍事政権下、映画造りにはさまざまな制約が課せられ、自由も仕事もない。1978年、まず崔銀姫が、仕事を求めて出かけた香港で行方不明になる。事態を知った申相玉も事実の究明のためにそこを訪れるが、彼もまたさらわれる。種を明かせば、二人は、映画好きで、『映画芸術論』と題した著書もある金正日の指令で、低水準の北朝鮮映画界のテコ入れのために映画造りに専念させるべく、拉致されたのである。金正日自身が、録音されていた申相玉との対話の中で語っているのだから、その通りなのだろう。因みに、拉致されてピョンヤンの外港に着いた崔銀姫は或る男の出迎えを受けた。男は言った。「ようこそ、よくいらっしゃいました。崔先生、わたしが金正日です」( 同映画および崔銀姫/申相玉『闇からの谺』上下、文春文庫、1989年)。

二人が北朝鮮で映画制作に携わったのは三年だったが、「厚遇」を受けて17本もの作品を生み出した。女優は悲しみに暮れながらも「協力」させられ、モスクワ映画祭で主演女優賞を得た作品もあった。他方、監督は、金正日から与えられた豊富な資金と「自由な」撮影環境を存分に「享受」して、映画制作に熱中した。最後には二人して脱出に成功するのだが、映画も本も、そのすべての過程を明かしていて興味深い。

独裁者・金正日は孤独である。自分が「泣き真似すると、そこにいる人たち全員が泣く。それを見て哀しくなって、わざと泣いてみたりした」と監督に語ったりする。その近現代史において幾多の独裁者を生んだラテンアメリカ各国では、優れた文学者がそれらをモデルとして描いた「独裁者小説」ともいうべきジャンルが生み出された。現実の独裁制下で生きざるを得ない人びとにはたまったものではないが、文学の力は、凶暴な権力者にだけ留まることのない「人間」としての独裁者を造型して、問題の在り処を深めた。すなわち、例えば、人びとがもつ権力への恐怖と畏怖ばかりか、独裁者の思いを忖度して競って泣くような、「馴致」された人びとの精神状況をも描き出してしまったのである。それを哀しむ金正日の言葉が挿入されていることで、この映画を単に「反金正日」キャンペーンのために利用しようとする者は裏切られよう。もっと深く、ヨリ深く、問題の根源へと向かうのだ――という呼び掛けとして、私はこの映画を理解した。

この映画が公開されているいま、世の中には(日本でも、世界中でも)、対北朝鮮「制裁」強化の声が溢れかえっている。北朝鮮が第五回目の核実験を実施したばかりだからである。

独裁者は、映画の世界に浸って生きることができれば幸せだったかもしれない男の三男に代わっている。現在の独裁者は、その視野がヨリ狭いような印象を受ける。軍事的誇示によってではなく、「ここで跳ぶのだ、世界に向かって」と虚しい声掛けをしたくなる。

他方、「制裁」を呼号する者たち(国連、各国首脳)の呼ばわりも虚しい。君たちの怠慢が、東アジアに平和な状況を創り出す強固な意志の欠如が、この事態を引き出したのだ。とりわけ、日本政府の責任は重い。安倍晋三が2002年小泉首相訪朝に同行して対北朝鮮外交の先頭に立って以来、(病気や下野の期間も挟むが)14年の歳月が過ぎた。これだけの年数を費やしながら、拉致問題解決のメドも立たず、北朝鮮の軍事的冒険を阻止することもできなかった。北朝鮮の核実験は、すなわち、安倍外交が失敗したことを意味する、との批判的な分析こそが必要なのだ。 (10月1日記)

太田昌国の、みたび夢は夜ひらく[75]「beautiful Japan !!!!!」に、何との因果関係を見るのか


『反天皇制運動 Alert』2号(通巻384号、2016年8月9日発行)掲載

現代世界において、とりわけ、21世紀に入って以降、世界各地で頻発する「テロリズム」の行動について、私は、それが「反テロ戦争」と因果の関係にあると一貫して主張してきた。2001年「9・11」の事件が、いかに悲劇なものであったとしても、攻撃されたのが超大国の経済と軍事を象徴する建造物であったことを思えば、それが強欲な資本主義に対する底知れぬ憎悪を示す行動であったことは、誰の目にも明らかであった。ならば、超大国には、この憎悪が映し出した現代世界の「病」の依って来る由縁をこそ見つけ出し、それを除去する方策を模索することこそが求められていた。それは、自らが抱える「病根」を抉り出す手術になるはずだった。だが、周知のように、ブッシュ政権下の米国は、その内省の道を選ぶことなく、「反テロ戦争」という報復の道を選んだ。

『カンダハール』などの作品を創ったイランの優れた映画監督、モフセン・マフマルバフの優れたメタファーを借りるなら、貧しさに喘ぐ人びとが住まう土地に超大国が落としたのは、住民が切実に求めているパンや本ではなく、忌み嫌われている爆弾だったのである。それから 15年、アフガニスタンの乾き切った大地の一部は、戦乱の中にあっても止めなかったペシャワール会などが行なう灌漑用水路を備えた農業事業で緑の大地と化している。他方、反テロ戦争の標的となった土地では数知れぬ人びとが殺され、爆弾その他の近代兵器によって大地は荒廃し、住まう条件を奪われた多数の人びとが難民となって異邦の地を流浪することを余儀なくされている。

「反テロ戦争」はアフガニスタンに留まることなく、〈世界性〉を帯びた。「反テロ戦争」が作り出した諸状況に憤激し、これへの絶望的な反抗を、憎悪に満ちた暴力で発動する「テロリズム」もまた同様に〈世界性〉を帯びて、今日に至っている。両者の因果の関係を見据えなければ、その双方を止揚する道は見つからないのだ。

因果の関係といえば、ここで、去る7月26日早暁、相模原で起こった障害者施設襲撃・19人刺殺事件を取り上げたい。すべての報道に接しているわけではないが(特に、テレビニュースは、その低劣さに辟易しているので、ほとんど見ない)、この事件をこの間の日本の社会・思想状況と重ね合わせて論じる視点が少ないように思える。容疑者が事件に先立つ五ヵ月前に衆院議長(大森理森)に宛てた「障害者を殺害する」とする書簡では、「障害者総勢470人を抹殺する」計画が述べられているが、中段の「革命を行い、全人類のために必要不可欠であるつらい決断」に対する衆院議長の理解を求める文面の次には「ぜひ、安倍晋三様のお耳に伝えていただければと思います」とある。末尾は、「安倍晋三様にご相談いただけることを切に願っております」という文章で締め括られている(「要旨」しか掲載しなかった新聞では、安倍に言及した箇所は省かれている。省くべき箇所ではないだろう。「異常」にも思える容疑者の心情は、この箇所において、政治の最高責任者という公人への訴えを通して社会性を獲得していると読むべきなのだから。ここでの引用は、7月27日付東京新聞朝刊による)。

しかも、犯行後現場を離れた容疑者は、5分後にはツイッターに「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!」と書き込んでいると報道されている。安倍晋三には『美しい国へ』と題した本がある(2006年、文春新書)ことは周知の通りである。容疑者が、安倍に対して大いなる親近感か共感をもっているらしいことをここから推察することは、不当なことではない。首相になって以降の安倍には、政治状況を配慮しながら言葉を「慎む」場合もあるとはいえ、その歴史修正主義者の本質には、いささかの疑念もない。自国が犯した歴史上の過ちと正面から向き合ってそれを克服するのではなく、姑息な方法でごまかしては、自国を「美しい」と言い募るのである。「美しい日本」という言葉の背後には、ナチスの優生学的な民族主義的なスローガンにも似た響きがある。

容疑者の背後にちらつく社会的な影は、ひとり安倍晋三だけではない。石原、猪瀬、舛添、小池を選び続けている都民も、橋下を選んでいた府民・市民も、信じ難いことに実在していることを考えれば、歴史修正主義の考え方および雰囲気が、ここまで社会を覆い尽してしまったことを認めざるを得ない。恐るべき相模原事件の依って来る由縁を、容疑者の個人史と資質に還元せずに、この社会を覆う政治思想、すなわち、経済的・身体的・歴史的な強者のためのスローガンが大手を振って罷り通る現実との因果関係で捉えなければならない。

(8月3日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[73]先住民族と、ひとりの作家の死


『反天皇制運動カーニバル』38号(通巻381号、2016年5月10日発行)掲載

去る2月に急逝した作家・津島佑子の作品には、初期のころから親しんでいた。ある時、某紙に載った彼女のエッセイを読むと、しばらくのフランス滞在中に、アイヌの神話・ユーカラのフランス語訳出版に協力していたという。彼女の作品には、北方、ひいてはそこに住まう先住民族と、山への関心が深まっていく様子を見て取ることができるようになった。父親が青森県、母親が山梨県の出身だから、「北」と「山」の文化への興味がわいた、とどこかで語ったことがあったようだ。20数年前、先住民族=アイヌの権利獲得の一環として、アイヌの人びとが働き、集うことができる料理店「レラ・チセ(風の家)」建設のための活動をしていた私たちは、この未知の作家に手紙を書き、レラ・チセ建設活動の呼びかけ人となってくれることを依頼した。快い承諾を得て、彼女はさらに身近な存在になった。

『アイヌの神話 トーキナ・ト ふくろうのかみの いもうとのおはなし』という絵本がある(福音館書店、2008年)。翻案された文は津島、挿画に使用されているアイヌ刺繍は宇梶静江の手になる。アイヌ文化活動家の宇梶も、レラ・チセ初期の担い手のひとりであり、現在にまで至るその活動は目覚ましい(存在感のある俳優、宇梶剛士は。彼女の長男である)。レラ・チセは十数年間に及ぶ営業ののち事情あって閉店したが、当時の若い担い手が数年前から、東京・新大久保で「北海道・アイヌ料理店/ハルコロ」(アイヌ語で、おなかいっぱい、の意)を運営している。朝鮮、中国、ベトナム、タイなどの料理店や食材店が林立し、東南アジアの人びとで賑わう「イスラーム横丁」もある新大久保に、ハルコロがあるのは似つかわしい。数年前、恥ずべき「ヘイトスピーチ(差別煽動表現)」のデモ行進現場ともされた新大久保界隈は、外部から悪煽動のためにやって来る者たちがいない限りは、日常的にはほんとうは、多民族共生・多文化表現の場所である。

津島佑子急逝の衝撃から書き始めたので、思わず、回顧的な書き方となったが、もう少しそれを続ける。その後、彼女の知遇を得た私は、アンデスの先住民族の世界を描いたボリビア映画上映時の対談相手をお願いしたり、彼女が高く評価するアジア女性作家の小説を翻訳・紹介する出版企画で協働したりしてきた。「3・11」後には、経産省包囲行動の現場で偶然出くわしたこともあった。その作品には、時代への危機意識が顕わになっていた。

津島の死後、早くも、遺作と最後のエッセイ集が刊行された。前者は『ジャッカ・ドフニ―海の記憶の物語』(集英社)、後者は『夢の歌から』(インスクリプト)である。時空を超えて展開する壮大な物語『ジャッカ・ドフニ』は、もちろん、興味深いが、ここでは、後者に「母の声が聞こえる人々とともに」と題した後書きを寄せている津島香以の文章で描かれている作家の晩年の姿に触れたい。2015年4月、通院治療の段階に入っていた津島は、中学校の一歴史教科書に文科省が行なった検定結果を報道した小さな新聞記事を、怒ったようにして、娘に示す。そこには「政府は、1899年に北海道旧土人保護法を制定し、狩猟採集中心のアイヌの人々の土地を取り上げて、農業を営むようにすすめました」となっていた記述が、「誤解を生む」との文科省の指摘で、「アイヌの人々に土地をあたえて」と変更されたと記されていた。土地を「取り上げた」を「与えた」と変えさせるような詐術を、文科省に巣食う歴史修正主義官僚は事もなげに行なうのである。保護法には、確かに、アイヌ家族一戸当たり一定の土地を「無償下付」するとの規定があったが、それが農地に適さないものであったという事実や、それ以前の段階での土地収奪などをも無視した教科書の記述は、「歴史を偽造する」ものでしかない、と作家は怒りをもったのだろう。

先住民族は、歴史上のどこかの時点で植民地主義支配を実践した欧米日諸国によって必然的に生み出された存在である。歴史的にも、国際法上も「不法な」ところ一点の曇りもない洗練された国家であることを誇りたい欧米日諸国にとっては、国家成立の根源を問い質す存在である。国際的には、先住民族と規定された人びとに対して各国政府が特別な権利を保障しなければならないとする動きが加速している。当該の政府は、それを拒絶したい。そのせめぎ合いが、いま世界的に進行している。日本では、アイヌと琉球の地で。

「近代」が孕む問題と真正面から向き合って、文学的な格闘を続けた作家の、早すぎる死を悼む。(5月4日記)

太田昌国の、ふたたび、夢は夜ひらく[72]米大統領のキューバ訪問から見える世界状況


『反天皇制運動カーニバル』37号(通巻390号、2016年4月5日発行)掲載

私が鶴見俊輔の仕事に初めて触れたのは、高校生のころに翻訳書を通してだった。米国の社会学者、ライト・ミルズの『キューバの声』の翻訳者が鶴見だった(みすず書房、1961年)。表紙カバーには、原題 “Listen , Yankee” (『聴け、ヤンキー』)の文字が浮かび上がっていた。1960年夏まで(ということは、キューバ革命が勝利した1959年1月からおよそ1年半の間は)ミルズはキューバについて考えたこともなかった、という。だが60年8月、キューバの声は「空腹民族ブロックを代表する」(原語はどうだったのか、「空腹民族」とは言い得て妙な、「面白い」表現だ)ひとつの声だと悟ったミルズは、急遽キューバを訪れ、フィデル・カストロやチェ・ゲバラはもとより市井の多くの人びとと会って話を聞き、それを「代弁」するような書物を直ちにまとめた。米国は「空腹世界のどのひとつの声にも耳をかたむけることをしないということが許されないほどに強大で」あることに気づいたからである。原書は60年末までに刊行されたのであろうが、61年3月には日本語版が発行されている。改訂日米安保条約強行採決に抗議して東工大教官を辞したばかりの翻訳者・鶴見をも巻き込んでいた「時代」の熱気を感じる。

オバマ米大統領のキューバ訪問についての報道を見聞きしながら思い出したことのひとつは、ミルズのような米国人も存在していたのだということである。当時のケネディ大統領も含めた米国の歴代為政者が、もしミルズのような見識(他民族・他国の独自の歩み方を尊重し、米国がこの国に揮ってきた政治・経済の強大な支配力を反省する)の持ち主であったならば、半世紀以上にもわたって両国間の関係が断絶することはなかったであろう。軍事侵攻によってキューバ革命の圧殺を図った過去を持つ米国の大統領としてキューバを訪れたオバマは、人権問題をめぐってキューバに懸念を示す前に、言うべき謝罪の言葉があったであろう。キューバが深刻な人権侵害問題を抱えているというのは、私の観点からしても、事実だと思う。だが、自国の過誤には言及せず、サウジアラビアやイスラエルによる人権侵害状況にも目を瞑り、むしろこれを強力に支えている米国が、選択的に他国の人権問題を批判することは、二重基準である。米韓合同軍事演習は、通常の何気ない言葉で表現し、朝鮮が行なう核実験やミサイル発射のみを「挑発」というのと同じように――大国とメディアが好んで行なうこの言語操作が、いつまでも(本当に、いつまでも!)人びとの心を幻惑しているという事実に嘆息する。

1903年以来米国がキューバに持つグアンタナモ海軍基地を返還するとオバマが語ってはじめて、キューバと米国は対等の立場に立つ。グアンタナモとは、裁判もなく米軍に囚われて虐待されているアルカイーダやタリバーンなどの捕虜の収容所だけなのではない。1世紀以上の長きにわたって、米軍に占領されているキューバの土地なのだ。他国にこんな不平等な関係を強いて恥じない大国の傲慢さを徹底して疑い、批判するまでに、世界の倫理基準は高まらなければならない。

オバマはキューバからアルゼンチンへ向かった。後者には、十数年ぶりに右派政権が成立したからである。各国が軒並み軍事独裁政権であった時代に、米国主導の新自由主義経済政策によって社会に大混乱をもたらされたラテンアメリカ諸国には、20世紀末から次々と、米国の全的支配に抵抗する政権が生まれた。二十数年間続いてきたこの流れは、この間、一定の逆流に見舞われている。だが、全体を見渡すと、この地域に、いま戦乱はない。軍事的緊張もない。1962年のキューバ・ミサイル危機を思い起こせば、感慨は深い。東アジア、アラブ、ヨーロッパ、北部アフリカなどの地域と比較すると、それがよくわかる。かつてと違って、米国の軍事的・経済的・政治的なプレゼンス(存在)が影をひそめたことによって、社会の安定性が高まったからである。巨大麻薬市場=米国と、悲劇的にも国境を接するメキシコが、10万人にも上る死者を生み出した麻薬戦争の只中にある事実を除けば。

米国の「反テロ戦争」を発端とするアラブ世界の戦乱が北アフリカ地域にも飛び火している、悲しむべき状況を見よ。60年以上も続く、朝鮮との休戦協定を平和協定に変える意思を米国が示さぬために、米韓合同軍事演習と朝鮮の「先軍路線」の狭間で、「(金正恩の)斬首作戦」とか「ソウルを火の海にする」とか、熱戦寸前の言葉が飛びかう東アジア情勢を見よ。

米国の「存在」と「非在」が世界各地の状況をこれほどまでに左右すること自体が不条理なことだが、その影響力を減じさせると、当該の地域には「平和」が訪れるという事実に、私たちはもっと自覚的でありたい。(4月1日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[71]「世界戦争」の現状をどう捉えるか


『反天皇制運動カーニバル』第36号(通巻379号、2016年3月8日発行)掲載

アラブ地域の現情勢を指して、「世界戦争」とか「第三次世界大戦の始まり」と呼ぶ人びとが目立つようになった。いわゆるイスラーム国には、欧米を含む世界各地から数多くの義勇兵が駆けつけている。シリアに対する空襲は、国連安保理常任理事国を構成する5ヵ国のうち中国を除く米英仏露の4ヵ国によってなされている。この構図を見るにつけても、「世界戦争」という呼称は、あながち、大げさとは思えなくなる。その社会的・政治的メッセージの鮮烈さにおいて群を抜く現ローマ教皇フランシスコは、2015年11月13日パリで起きた同時多発攻撃事件を指して「まとまりを欠く第三次世界大戦の一部である」と表現した。国家単位の戦闘集団ではないイスラーム国が、世界各地に自在に軍事作戦を拡大する一方、これに対して「反テロ戦争」の名目で諸大国が(あくまでも表面的には)「連携している」という意味で、第一次とも第二次とも決定的に異なる、現下の「世界戦争」の性格を巧みに言い当てているように思われる。

この「世界戦争」という構図の枠外に位置しているかのように見える、残りの安保理常任理事国=中国も自らの版図内に、北京政府から見れば「獅子身中の虫」たる新疆ウイグル自治区を抱えている。多数のイスラーム信徒が住まうこの自治区は、世界的な「反テロ戦争」のはるか以前から、中国内部に極限された「反テロ戦争」の中心地であった。北京政府の強権的な政策(ウイグル人の土地の強制収用、漢民族の大量移住計画、ウイグル人に対する漢民族への徹底した同化政策、信仰の自由に対する抑圧など)に反対する人びとによる爆弾闘争が散発的に繰り返され、これに対する弾圧も厳しかったからである。圧政を逃れて、トルコなどへ亡命しているウイグル人も多い。その人びとの心の奥底に、イスラーム国に馳せ参じる若者たちに共通の心情が流れていても、おかしくはない。事実、2013年10月には、ウイグル人家族がガソリンを積んだ車で天安門に突入し自爆する事件も起こっている。北京政府を標的にした軍事攻撃は、イスラーム国のそれにも似て、すでにして辺境=新疆ウイグルに留まることなく、首都中枢にまで拡散しているのだといえる。

私は、今年1月に行なわれた中国の習近平主席のサウジアラビア、エジプト、イラン訪問に(訪問先の選び方も含めて)注目したが、各紙報道にも見られたように、これは明らかに、ユーラシアをシルクロードで結ぶ「一帯一路」の経済圏構想を具体化するための布石であった。これを実現するためには、新疆ウイグル自治区の「安定」が不可欠である。だが、同時に、習近平は知っていよう――新疆ウイグル自治区は、イスラーム国の浸透が顕著なカザフスタン、キルギス、タジクなどのイスラーム圏共和国と天山山脈を境にして接する同一文化圏にあることを。中国政府は、現在、チベットや新疆ウイグル自治区に対する政策を人権侵害だとする欧米諸国からの批判は「二重基準(ダブル・スタンダード)」だとして反発している。だが、この地域での蠢動を続けるイスラーム国の軍事攻撃が、さらに国境を超えていくならば、現在は別個に行なわれている欧米諸国と中国の「反テロ戦争」が、共通の「敵」を見出して合体するときがくるかもしれない。そのとき、ローマ教皇がすでに始まっているとみなしている「第三次世界大戦」はいっそうの「世界性」を帯びざるを得ない。

他方、中国は、中央アジアを離れて、東アジア地域においても重要な位置をもっている。去る3月2日、国連安保理事会は、朝鮮民主主義人民共和国が行なった核実験と「衛星打ち上げ」に対して、同国に出入りするすべての貨物の検査を国連加盟国に義務づけ、同国への航空燃料の輸入禁止を含む大幅な制裁決議を採択した。制裁強化を躊躇っていた中国も、最終的にはこれに賛成した。中国の四大国有商業銀行は、従来は米ドルに限っていた朝鮮国への送金停止措置を、人民元にまで拡大している。

3月7日には、朝鮮が激しく反発している米韓合同軍事演習が始まる。朝鮮半島は、残念なことに、「第三次世界大戦」の一翼を担う潜在的な可能性をもち続けている。

ここでは、否定的な現実ばかりを述べたように見える。もちろん、たゆまぬ反戦・非戦の活動を続ける人びとが世界的に実在している(いた)からこそ、世界はこの程度でもち堪えている(きた)ことを、私たちは忘れたくない。(3月5日記)

太田昌国のふたたび夢は夜ひらく[70]国際政治のリアリズム――表面的な対立と裏面での結託


『反天皇制運動カーニバル』第35号(通巻378号、2016年2月9日発行)掲載

朝鮮民主主義人民共和国(以下、朝鮮)が予告した「衛星打ち上げ」についての報道状況を知るために、久しぶりにNHKのテレビニュースを点けた。たまに観るだけだが、ちょうど桜島噴火報道と重なったために、朝鮮報道と災害報道に懸けるNHKの「熱意」は半端なものではない、とあらためて思う機会ともなった。いずれも、視聴者の危機感を煽りたてるためには、この上ない材料なのであろう。神戸大震災と「3・11」を経験したいま、万一の場合に備えて、時々刻々の災害報道が必要なことは言を俟たない。そのことを認めたうえで、NHK的な危機煽りの報道によって「組織」される人びとの心の動きを注視することも、止めるわけにはいかない。

朝鮮の「衛星打ち上げ」についても、飛行経路に近い地域の自治体の対応ぶりが事細かに報道されている。ミサイルの2段目ロケットが上空を超えることになる沖縄県宮古市、同じ先島諸島の石垣市、地対空誘導弾パトリオット3(PAC3)が配備されている航空自衛隊基地のある那覇市などの動きに加えて、「部品が落下する恐れがある」航行危険区域を示す漁業安全情報が各漁協に徹底周知されたなどという文言に接すると、ひとは当然にも、「今、ここにある危機」を持つよう、精神的に駆り立てられる。ひとというものは、ときに哀しい存在だとつくづく思う。情緒に巻き込まれ、自らすすんで「危機」を択びとってしまうのだ。

しかも、この情景には既視感がある。日米防衛協力のために新ガイドライン(指針)を実施に移すための、周辺事態法などの関連法案が国会で審議されていた小渕政権下の1998-99年の時期である。ソ連体制はすでに崩壊し、旧ソ連の日本侵攻を想定して作られていた旧ガイドラインは実質的に失効した。今や朝鮮半島有事などの「周辺事態」に際しての物資の輸送や補給など米軍への後方支援や、米軍に民間の空港・港湾を使用させることなどおよそ40項目を盛り込んだ対米支援策が論議されていた。

そのさなかの1998年8月、金正日指導下の朝鮮はいわゆるテポドンを発射した。それは東北諸県を横切って、三陸沖に落下した。翌99年3月、朝鮮の高速艇が能登半島沖に現われた。これを「不審船」による領海侵犯と見た海上自衛隊と海上保安庁が追跡し、威嚇射撃も行なった。この段階で、「朝鮮有事」は実際にあり得ることだとの実感が、人びとの心に浸透した。ガイドライン法案は国会を通過した。

このころ、元陸上自衛隊人事部長・志方俊之はいみじくも述懐している――日本人には、太平洋戦争の経験に基づく本能的な恐怖がふたつある。空襲とシーレーン喪失の恐怖である。テポドン発射と不審船の横行は、まさにこの恐怖心の核心を衝くものだった。民心は大きく動き、自民党政権が何十年もかかってもできなかった新段階の防衛政策の採用へと大きく前進することができた、と(『諸君!』1998年12月号)。彼が言外に語っていることは、以下のように解釈できよう。表面的には激しく対立しているかに見える日米の軍産複合体支配層と朝鮮の独裁体制は、その軍事優先政策を国内的に納得させるためには、裏面で手を結び合っている、と。国家の枠組みの中での駆け引きとして行われる国際政治に貫かれているこのリアリズムを、私たちは頭に入れておかなくてはならないと私は思う。

朝鮮といえば、蓮池透著『拉致被害者たちを見殺しにした安倍晋三と冷血な面々』(講談社、2015年)と題する本を読んだ。同氏と私が『拉致対論』(太田出版)を刊行したのは2009年だった。民主党政権成立時に重なり、対朝鮮外交への提言的な要素も盛り込んだ。だが、それまで自民党政権を支えてきた外務官僚が急に発想の転換を行なうはずもなく、それを促す力量が政権に備わっているわけでもなかった。民主党政権の3年間は無為に過ぎた。そのあとには、何かといえば拉致問題解決のために「あらゆる手段を尽くす」と見栄を切る安倍晋三が再登場したが、対朝鮮外交における無為無策は一目瞭然である。しびれを切らした蓮池は、「拉致問題を利用して首相にまで上り詰めた」人物に過ぎない安倍の姿を描いている。この問題の裏面を知り尽くしているだけに、視界が開ける。同時に蓮池は、拉致被害者家族会事務局長を任じていた時期の自分が、政府を対朝鮮強硬路線に駆り立てた過去にも、自己批判をこめて触れる。

朝鮮と日本の関係性をめぐる問題は、さまざまな顔貌をして、私たちの眼前にある。情緒に溺れることなく、歴史的な視点を手放さずに、冷静に向き合い続けたい。(2月6日記)