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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

[書評]寺尾隆吉=著『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』(水声社)


「日本ラテンアメリカ学会会報」2013年7月31日号掲載

1960年代以降、いわゆる「ラテンアメリカ文学ブーム」を牽引しながら、現代世界文学の最前線に立っていた同地の作家たちのうち、ある者はすでに幽冥境を異にし、ある者は高齢化して筆が滞り始めた。代わって、次世代の作家たちが台頭し、日本での紹介も進み始めている。このような変革期を迎えたいま、ブームを担った巨匠たちの遺産=「魔術的リアリズム」の概念をあいまいなままに放置しておくべきではない。そう考えた著者は、「魔術的リアリズム」という概念の、錯綜した道を踏み分けて進む。

中心的に取り上げているのは、アストゥリアス、カルペンティエール、ルルフォ、ガルシア=マルケス、ドノソの5人の作家たちである。まず、先行する世代のアストゥリアスとカルペンティエールが、それまでは「野蛮」という眼差しで見られる対象でしかなかった先住民族インディオとアフリカ系黒人が持つ文化に、それぞれ注目した過程がたどられる。1920年代から30年代にかけてのパリには、のちにラテンアメリカ文学の興隆を担うことになる作家たちが続々と集まっていたが、その中に、グアテマラとキューバを出身地とする前述のふたりの作家もいた。ヨーロッパの芸術家の中では20世紀初頭から、非西欧世界の文化に対する評価(「崇拝」と表現してもいいような)が高まっていた。加えて、シュルレアリスムの芸術思想・運動も展開されていた。その思潮に揉まれて、アストゥリアスは『グアテマラ伝説集』の、カルペンティエールは『この世の王国』の創造へと至る。いずれも「魔術的リアリズム」の出発点を告知するような秀作だ。だがその後は、二人ともその道を突き進むことができない。西欧的教養を身につけた知識人が、「他者として」インディオや黒人の世界に精神的な越境を試みて作品を創造し続けることの困難性が立ちはだかるからである。先駆者の「栄光」に敬意をはらいつつ、他の論者の論考も参照しながら、二人の「限界」を容赦なく指摘する筆致に惹きつけられる。

他者に先駆けて「魔術的リアリズム」を実践した二人の作家は、やがてその道から外れた。それに続く作家が登場するうえでの条件を用意したのは、メキシコである。1910年のメキシコ革命以降の文化政策の積み重ねの上に、50年代に入って作家の卵への奨学金給付制度ができたことの意義が強調される。ルルフォが『ペドロ・パラモ』を執筆したのは、この制度の下であった。一見は両立が不能に思える「制度」と「文学創造」を、密接に結びつけて論じる著者の観点が刺激的だ。今後は、1959年キューバ革命後に設けられた「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関がその後持ち得た意義とも合わせて論じられることになるだろう。

この後も著者は、『ペドロ・パラモ』の内在的な作品分析を行ない、さらにマルケス『百年の孤独』、ドノソ『夜のみだらな鳥』へと説き及ぶ。終章に向けては、魔術的リアリズムの「闘い」とそれが「大衆化」していくさまが具体的な作品に即して論じられていく。

異質な作家たちへの目配りも利いていて、さながら、「時代の精神史」を読むような充実感を味わった。(7月2日記)

『棺一基 大道寺将司全句集』刊行に寄せて 


『北海道新聞』2012年6月20日夕刊掲載

去る4月に刊行されたばかりの句集がある。『棺一基 大道寺将司全句集』と題されている(太田出版)。作者は現在64歳。27歳のとき企業爆破事件の被疑者として逮捕され、その後死刑が確定しているから、獄中生活は37年間に及んでいる。2年前から多発性骨髄腫を病み、その後闘病中である。因みに、釧路出身で、高校卒業時までそこに暮らした。

作者が俳句をつくり始めたのは、16年ほど前のことである。当時は存命中であった母親宛ての手紙の末尾に一句を添えるようになった。最初の句は、「友が病む獄舎の冬の安けしを」であった。それを手始めにつくられた、およそ1200句が本書には収録されている。わずか17文字の作品であるが、文学表現としての自立性は高いから、作者の実生活上の経歴を離れて作品それ自体を鑑賞することは、もちろん、可能であり、本来はそれが好ましい読み方なのであろう。

同時に、作者の稀な境遇を知ってしまえば、それに即した読み方が可能になり、読者からすれば、それによって読みが深まるということも否定し得ない事実である。1970年代初頭当時の作者たちは、戦争責任に頬かむりしたままの戦後日本国家と大企業の責任を問うて、爆弾を用いて象徴的な建造物に対する一連の爆破行為を行なった。それは、三菱重工ビルを目標としたときに、8人の死者をはじめとする多数の重軽傷者を生んだ。人的殺傷は意図していなかったから、本人たちにとっても結果は衝撃的だった。

大道寺俳句はこの事実に向き合おうとする。「死者たちに如何にして詫ぶ赤とんぼ/春雷に死者たちの声重なれり/方寸に悔数多くあり麦の秋/死は罪の償ひなるや金亀子/まなうらに死者の陰画や秋の暮/ゆく秋の死者に請はれぬ許しかな/夢でまた人危めけり霹靂神/笹鳴や未明に開く懺悔録/いなびかりせんなき悔いのまた溢る/ででむしやまなうら過る死者の影/寝ねかねて自照はてなし梅雨じめり……」

句集は今回で3冊目、獄中書簡集も2冊刊行している。自著を出版できるというのは、一般的には晴れがましいことだが、彼は最初の本を刊行したとき以来、その思いを自らに禁じているように見える。被害者との〈絶対的な関係性〉において自己の存在があることを、片時も忘れることはないからである。そして、これらの表現が、死者の無念さに届いているか、家族の怒りと憎しみに届いているか――そう問われるならば、それが不可能であることを、作者はおそらく知っている。だからこそ、再び、句をつくる。その〈思いの深さ〉は、第三者でしかない私たち読者は、容易には感受できないものであろう。

『棺一基』は、作者と交流のある作家・辺見庸氏の強い勧めによって実現した。辺見氏のこの間のエッセイには、大道寺俳句と彼自身に触れたものが散見される。それらが「跋文」として収録され、さらに新たに書かれた「序文」が読書案内の役割を果たしてくれる。

31文字で表現される短歌の場合、その抒情性において読む者の心に訴える作品があり得る。それがうまくいっていない場合なら「抒情に流れすぎる」との批評も可能だ。短歌よりわずか14文字少ないだけだが、俳句の場合はそうはならない。抒情も思いも断ち切った、ギリギリの表現。それが、句境の深まりとなった稀有な例が『棺一基』である。

絵が浮かぶ句「独房の点景とせむ柿一個」。香りが漂う句「遠くまで沈丁の香を追い掛けし」。実存句「身を捨つる論理貧しく着膨れぬ」。獄中でも感じられるささやかな季節の変わり目を告げる句「女囚らの声華やげる弥生かな」。狭い独房から生まれた多様な世界が、そこにはある。

私が好きな一句は「風に立つそのコスモスに連帯す」である。「コスモス」を作者の名に置き換えて、季語を欠いたその句をそっと呟いてみる。

太田昌国の夢は夜ひらく[24]3・11から一年、忘れ得ぬ言動――岡井隆と吉本隆明の場合


反天皇制運動機関誌『モンスター』26号(2012年3月6日発行)掲載

3・11の事態から一周年を迎えるいま、山のような言説の中からふり返っておきたいいくつかの発言がある。私が共感をもつことができた言葉や分析に、ここであらためて触れても意味はないだろう。疑念か、批判か、苛立たしい哀しみかを感じた発言を挙げておくのがよいだろう。「幻想」を持ち続ける、わが身の至らなさの証左にもなるだろうから。

ひとつ目は、歌人・岡井隆の発言である。岡井については、別件ではるか以前にも批判的に触れたことがある。岡井はかつて、私のように短歌の世界に格別に通じているわけでもない若者にとっても避けては通れぬ表現者であった。だから、学生時代からその歌集や評論を読んでいた。歌会始に選者として関わる歌人に対して、そんな文学以前の行事に関わるなら皇族の歌を一つ一つ自己の文学観に照らして価値づけよ、と迫るような人物で、1960年の岡井は、あった。心強い存在だった。その彼が1993年になると、歌会始の選者になって、その「転向」の上に居直る発言を繰り返した。思想は変わってもよい、変遷の過程を文学・思想の問題として説明せよ、というのが私の批判の核心だった。

その岡井が『WiLL』 11年8月号に「大震災後に一歌人の思ったこと」という短文を寄せている。岡井と共にこの雑誌の目次に居並ぶ者たちの名をここに書き写すことは憚られるほどに内容的には唾棄すべきものなのだが、そこに岡井の名を見ると「哀しみ」か「哀れみ」をおぼえる程度には私は岡井のかつての、および現在の一部の作品を依然として「愛している」あるいは「無視できぬ」ものと捉えているのである。岡井は、3・11前後の自詠の歌を挟み込みながら、書いている。「原子核エネルギーとのつき合いは、たしかに疲れる。しかしそれは人類の『運命』であり、それに耐えれば、この先に明るい光も生まれると信じたいのだ」。雑誌の発行日からすれば、この文章は昨年7月に書かれている。原発事故発生後4ヵ月めの段階である。事故の現況を知りつつ「耐えれば」という根拠なき仮定法を、岡井は自己の内面でいかに合理化できたのか。過去の歌論の確かさを知る者には、不可解の一語に尽きる。

亡ぶなら核のもとにてわれ死なむ人智はそこに暗くにごれば

岡井の思想は、83年のこの歌の世界を超えることは、もはや、ないのか。論理的に成立し得ない仮定の後に続く「この先に明るい光も生まれる」という言葉が、他ならぬ岡井のものであるだけに、よけいに虚しく響く。

ふたつ目は吉本隆明だが、彼が『インタビュー 「反原発」異論』で登場しているのは、『撃論』3号(11年10月、オークラ出版)誌上である。誌名もすごいが、目次に並ぶ人物にも驚く。我慢して書いてみる。町村信孝、田母神俊雄、高市早苗、稲田朋美、西村真悟……! 推して知るべしの編集方針を持つ雑誌であるが、吉本はそこに編集部の言によれば「エセ共産主義者との戦いに命がけで臨みながら生きてきた真正の共産主義者」として紹介されている。彼の主張は、原発は人類がエネルギー問題を解決するために発達させてきた技術的な成果であるから、これを止めてしまうことは、近代技術/進歩を大事にしてきた近代の考え方そのものの否定であり、前近代への逆行である、というに尽きる。国家は開かれ、究極的には消滅させられるべきだという吉本の信念に変わりはないようだから、末尾ではレーニンの『国家と革命』を援用しながら、政府無き後に「民衆管理の下に置かれた放射能物質」(!)という未来の展望が語られている。

だが、原発問題は安全性をどう確保するかに帰着するとの立場から、「放射能を完璧に塞ぐ」ために、放射能を通さない設備の中に原子炉をすっぽり入れてしまうとか、高さ10kmの煙突を作り放射性物質を人間の生活範囲内にこないようにするなどいう程度の「対案」を、非現実的ですがと断りながら語る吉本を見ることは、私にとってはなかなかに辛い。それはすべて、現段階でも眼前に透視できるはずの、大地・大気・海洋の汚染に苦しみ、生活圏を放棄せざるを得ない「原像」としての福島県の「大衆」の姿を見失った地点で語られる戯言にしか聞こえないからである。戦後文学論争の中で某氏が吐いた「年はとりたくないものです」という有名な言葉で揶揄して済ませるわけにはいかない点に、いずれも80歳を超えた(心の奥底では健在を祈りたい)岡井と吉本の言動の、真の悲喜劇性が現われている。  (3月3日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[22]『方丈記』からベン・シャーンまで――この時代を生き抜く力の支え


反天皇制運動連絡会「モンスター」24号(2012年1月10日発行)掲載

3・11以後、鴨長明や、その小さな作品が触れた事態からほぼ8世紀の時間を超えた東京大空襲を重ね合せて書かれた堀田善衛の作品を読み耽ったと吐露する文章をいくつか見かけた。私も、あの3・11の衝撃的な津波映像をテレビで見たその夜、少しでもこころを落ち着かせたいと思って手を伸ばしたのは、『方丈記』と『方丈記私記』であった。それまでにいく度か読んできたはずのふたつの作品から、今までに感じたことのない感興を私はおぼえた。声高に言うことではないかもしれないが、文学の力とはこういうものか、と心に沁みた。

それは、直接的な被害者ではないことからくる、いくらかなりとも余裕のある、感傷的な態度であったかもしれない。だが翌日からは、もちろん、福島原発をめぐる深刻な事故状況が、東電と政府による恥じを知らない隠蔽工作を見透かすように、明らかになり始めていた。私の場合、『方丈記』は、安吾の『堕落論』にとって代わった。そして、つまらぬ歌手やスポーツ選手が現われて「日本は強い」とか「日本はひとつのチームなんです」とか声を張り上げるにつれて、今度は石川淳の『マルスの歌』に手が伸びるのであった。高見順の小説のタイトルそのままに「いやな感じ」を、そんな言葉が横行する時代風潮に見てとって。

人によっては、もちろん、別な文学作品を、あるいは音楽を、あるいは映画や芝居を、はたまた美術作品を挙げるであろう、3・11以後のこの10ヵ月間を生きるために、何を読み、何を聴き、何を観てきたか、と問われたならば。

事が自然災害と原発事故なる人災の結果にどう対応するかという緊急の課題である以上は、まずは社会や政治の局面で考え/行動すべき事態であることは自明のことだ――「個」から出発しながらも集団的な形で。同時に視野をいくらかでも拡大するならば、それが、私たちが築いてきた/依存してきた文明の根源に関わる問題でもあると気づけば、人は自らの存在そのものの根っこまで降りていこうとするほかはない。ふだんは「無用な」文化・芸術が、そのとき、集団から離れて「個」に立ち戻ったひとりひとりの人間に、かけがえのない価値を指し示す場合がある。示唆を与える場合がある。多くの人は、そのことを無意識の裡にも感じとって、たとえば『方丈記』に手に伸ばしたのではなかったか。

私は、昨年90歳を迎えた画家・富山妙子が、それまで百号のキャンバスに描いていたアフガニスタンに関わる作品を3・11以後はいったん中断し、津波と原発事故をテーマにした三部作を描く姿を身近に見ていたこともあって、この期間を生き延びるにあたって絵画に「頼る」ことが、ふだんに比べると多かった。戦後にあって、炭鉱、第三世界、韓国、戦争責任などを主要なテーマに作品を描き続けてきた富山は、私が知り合って以降の、この20年間ほどの時代幅でふり返ると、より広い文明論的な視野をもって、物語性のあるシリーズものの作品を創造してきた。年齢を重ねるにしたがって一気に色彩的な豊かさを増した作品群は、確かな歴史観に裏づけられて描かれていることによって、リアリティと同時に物語として神話的な広がりをもつという、不思議な雰囲気を湛えるようになった。今回完成した三部作「海からの黙示―津波」「フクシマ―春、セシウム137」「日本―原発」は、今春以降の列島各地を駆けめぐることになるだろう(因みに、彼女の作品シリーズは、http://imaginationwithoutborders.northwestern.edu/で見ることができる。米国ノースウエスタン大学のウェブサイトである)。

年末から年始にかけては、映画『ブリューゲルの動く絵』(レフ・マイェフスキ監督、ポーランド+スウェーデン、2011年)と展覧会「ベン・シャーン展」(神奈川県立近代美術館 葉山。以後、名古屋・岡山・福島を巡回)に深く心を動かされた。時代に相渉り、それと格闘する芸術家の姿が、そこには立ち上っているからである。シャーンには、第五福竜丸事件に触発された連作がある。久保山愛吉さんを描いた「ラッキー・ドラゴン」と題された作品の前に立つとき、そして福竜が「ラッキー・ドラゴン」なら福島は「ラッキー・アイランド」だと書かれたカタログ内の文章を読むとき、私はあらためて、今回の事態にまで至る過程を、内省的に捉え返すよう促されていることを自覚する。(1月6日記)