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状況20〜21は、現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言を収録しています。

ウカマウ集団の長征(7)――映像による「帝国主義論」の試み


作家の船戸与一は、ホルヘ・サンヒネスのことを「人種的逆越境を試みる殉教志願者」と名づけたことがある(船戸稿「ホルヘ・サンヒネスの苦悩」、『第一の敵』上映委員会編『ただひとつの拳のごとく――ボリビア・ウカマウ集団シナリオ集』所収、インパクト出版会、1985年)。白人エリートの出自でありながら、先住民インディオの解放をこそ第一義的に重要なことと考え、そのような価値意識の転換を通してメスティソ(混血)と白人もまた、その多くが陥っている精神的な疎外状況の克服に至るのだ――とするホルヘ・サンヒネスの立ち位置は、「果敢な試み」でありながら、同時にきわめて困難な問題も孕んでいることを率直に指摘した言葉であろう。

その観点から見ると興味深いのだが、ウカマウ集団の初期の長編『ウカマウ』と『コンドルの血』に対して先住民が示した反応の形がある。それは、私たちがメキシコで別れる前の最後の話し合いの中で、ホルヘが教えてくれたものである。『ウカマウ』は、仲買人のメスティソに妻が暴行・殺害された先住民の青年が、こと切れる直前の妻の言葉から犯人をすぐに突き止めるが、仲買人がひとりになる機会をじっくりと待ち、一年後についに決闘によって復讐を遂げるまでの物語である。アイマラ文化圏に属する、チチカカ湖上の太陽の島で撮影された。静かな緊迫感に満ちた映画で、先住民とメスティソの間に横たわる文化的相違や価値観の違いも的確に描かれていて、私は好きな作品だが、アイマラ先住民からの批評は散々なものだったそうだ。被害者の青年が、あんな風に孤独に、ひとりで引きこもって苦しみ、悩み、その挙句に復讐を遂げるなどということは、私たちの生活様式からは考えられない、と。「個」と「全体」の問題は繰り返し現われることになるから、あとで詳しく触れる機会があるだろう。

ホルヘは、また、こうも言う。ぼくが白人だからなのか、先住民の人たちはどうにも打ち解けてくれない。警戒心を解こうとしない。ところが、プロデューサーのベアトリスがいくと、彼女はメスティサだし、先住民の母語を話すことができるから、直ちに心をゆるして、迎え入れてくれるんだ――ホルヘが抱え込んだこの葛藤が描かれるさまを、私たちはやがて『鳥の歌』(1995年)で観ることになるだろう。

*         *       *

メキシコにおけるホルヘ・サンヒネスとの討論の中でもっとも印象に残った言葉は「映像による帝国主義論」をぼくらは試みている、というものだった。確かに、『コンドルの血』(1969年)→或る事故によって永遠に失われた映画『死の道』(1970年)→『人民の勇気』(1971年)→『第一の敵』(1974年)→『ここから出ていけ!』(1977年)→『ただひとつの拳のごとく』(1983年)と並べていくと、60年代末から80年代初頭にかけてのウカマウ集団の映画は、それぞれの時代の国内支配体制の背後にあって、これを支えている世界的な帝国のあり方を浮かび上がらせることに心を砕いていることに気づくだろう。

『コンドルの血』は、富める国による「低開発国援助」という「慈善」の事業が、大国の利害計算に基づいた巧妙な意図を秘めている場合もあることを暴露した。

『死の道』は、1950年代後半、鉱山労働者の強力な組合運動の進展を危惧した米国が、地域に住まう二つの民族の一方を扇動し、争いごとを起こさせ、その平定を口実に介入しようとした史実を描いた。文化人類学的研究を利用しながら或る民族の特徴を捉え、それを政治・軍事の局面に生かすというのは、米国が一貫して行なってきた異世界統治の方法であった。それを暴いたこの作品は、西ドイツ(当時)の現像所に持ち込まれたネガに細工が施され(技術者が買収され、露出時間が引き延ばされたせいだと、ウカマウ側は考えている)、誰の目にも触れられぬまま、永遠に失われた。この話を思い出すたびに、ホルヘが「従来の映画からの質的飛躍であり、過去との決別を意味する映画」と自負する作品の喪失が、彼らにとってどれほど悔しいことであろうか、と思う。もちろん、私たち観客にとっても。

『人民の勇気』は、ボリビアでチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ闘争がたたかわれていたとき、これに連帯しようとした鉱山労働者や都市部の学生の動きが実在したが、それが一段階の飛躍を遂げようとした時点を定めて、これを事前に察知した政府軍が武力によって鎮圧した史実を描いた。キューバ革命の出現を不覚にも「許して」しまった米国が、「第二のキューバ」の登場を阻止するために、当時ラテンアメリカ各国で行なっていた「軍事顧問」的な動きを見れば、この作戦の背景が浮かび上がろう。

『第一の敵』は、帝国の利害がかかっている地域/国での民衆の闘争が、国内的な秩序をめぐる攻防の段階を越えたときに、帝国の軍事顧問団はより具体的な指示を当該国の政府軍に与えるようになる姿を描いている。

『ここから出ていけ!』は、『コンドルの血』で描かれた「低開発国医療援助」グループが、その犯罪的な行為のせいで追放されてからしばらくのち、今度は宗教布教グループの外皮をまとって潜り込み、一部の住民を精神的に解体して住民間の対立を煽る一方、多国籍企業の尖兵になって、その国の鉱物資源などの探査を行なう姿を描いている。

『ただひとつの拳のごとく』は、1970年代以降、地域全体がほぼ軍事体制によって覆い尽くされることによって世界に先駆けて新自由主義経済秩序に席捲されたラテンアメリカの姿を描いている。それは、やがて、グローバリゼーションという名の、市場経済原理を唯一神とする現代資本主義の台頭の時代に繋がっていくのである。

こうして、帝国主義には、さまざまな貌がある――援助の貌、軍事の貌、経済の貌、宗教の貌、政治的介入の貌、文化浸透の貌――などである。それはすべて、他を圧するほどの力を持つ、総合的な支配体制である。

幸徳秋水、ホブスン、レーニン――書物による帝国主義論は、それまでにもいくつか読んできた。そこへ跳び込んできた「映像による帝国主義論」を志すというホルヘ・サンヒネスの言葉。そこには、きわめて魅力的な響きがあった。日本もまた、帝国主義の側に位置している以上、別な視線でこれを対象化する映画作品には、独自の意味があるだろう。日本へ帰国したら、ぜひとも、ウカマウ集団/ホルヘ・サンヒネス監督の映画が上映される条件をつくるために努力しよう――ホルヘたちにそう約束して、私たちは別れた。私の手には、ホルヘに託された『第一の敵』の16ミリ・フィルムがあった。

(3月31日記)

追記:これ以降は、1980年、日本における自主上映運動の開始の段階に入ります。少しの時間をおいて、書き続けます。

ウカマウ集団の長征(6)――コロンビアとメキシコで


1976年の半ばだったろうか、帰路北上する私たちを、ホルヘとベアトリスはコロンビアで待ち構えていた。往路もそうだったが、帰路でもまた、コロンビアには私たちに住居を無料で貸し与え、一定額の奨学金を供与してくれる日本人移住者がいた。経済的な成功を収めたその人は、大学や研究所の後ろ盾もないままに彼の地の旅を続けながら、歴史と文化を学んでいる人間だと私たちのことを捉えて、資金援助を申し出てくれたのだ。そのために、コロンビアでの滞在は長めにすることが可能だった。

私は、往路でも、コロンビアの在野の社会学者、ビクトル・ダニエル・ボニーヤ(Victor Daniel Bonilla)に何度も会って、彼の著書『神の下僕か、インディオの主人か』(”Siervos de Dios y Amos de Indios”)の理解できない箇所について質問していた。日本出発前に、私はこの本の英語訳を読んでいた。当時、ペリカン・ブックスが「ラテンアメリカン・スタディーズ」とでもいうようなシリーズを刊行していた。それはチェ・ゲバラの『ゲリラ戦争』、ブラジルの都市ゲリラのカルロス・マリゲーラ、コロンビアのカトリック神父で反体制ゲリラに身を投じたカミーロ・トレス、従属理論のガンダー・フランクらの書物を揃えていて、そのラディカルな企画・編集の姿勢から私は多くを学んでいた。ボニーヤのその本は、20世紀に入ってからの時代になってなお、コロンビア南部の一先住民村落に、徹頭徹尾植民地主義を実践しながら浸透したキリスト教宣教会の姿を描いていて、私は大いなる関心を抱いていた。日本へ帰国したらこの本を翻訳して出版しようとすら考えていたので、帰路でも原著者に質問すべきことはたくさんあった。それを行なうためにも、加えて、ウカマウのホルヘたちとの再会を果たすためにも、コロンビア滞在が長引くことは大歓迎だった。【因みに、ボニーヤの著書は、前記のタイトルに「アマゾニアのカプチン宣教会」というサブタイトルを付して1987年に刊行できた(現代企画室)】。

コロンビアでは、ホルヘたちが懇意にしているこの国の映画作家の作品をいくつか見せてもらった。マルタ・ロドリゲス監督の『チルカレス13』などが記憶に残っている。レンガ職人の過酷な労働を描いたものだった。そのような労働現場を知らない「プチブル」のこころは打つ作品だ。敢えてそのように言うのは、わけがある。ホルヘたちの出発点は、『革命』(1962年、10分)と『落盤』(1964年、20分)という短篇2作品だ。ボリビアの底辺に生活する人びとの現実を描いた作品だが、ほどほど以上の暮らしはできる、「良心的な」人びとのこころは打った。だが、ホルヘたちがこの映像を最も見てもらいたいと考えていた、まさにそこに描かれている人びとに見せると、意想外な感想が戻ってきたという――自分たちが日々暮らしている生活のありのままが画面に出てきても、何よりも自分のこととして知っていることなのだから、別に面白くもない。私たちが知りたいのは、なぜ私たちはこんなに貧しいのか、なぜこんなことになってしまうのか――その原因を突き止めることだ。どうすればよいのかを考えるきっかけが欲しいのだ。

なるほど、言われてみれば、その通りだ。納得したホルヘたちは、その後作り始める長編作品では、人びとの貧困や貧窮の実態をリアリズム風に撮る方法を遠く離れて、事態が斯く斯く云々になっている原因を問いかける工夫を、物語展開の中に据えていくことになるのだ。

*           *         *

その後数ヵ月して、ホルヘたちと私たちは別々な行路を辿ってメキシコへ着き、そこで再度落ち合った。『第一の敵』を16ミリフィルムで見せてもらった。大きく言えば、1960年代のラテンアメリカにおける反帝ゲリラ闘争の総括を試みようとしているような作品であった。先住民の村の様子、人びとの関係のあり方、都市から来たゲリラと先住民農民の出会い方などが描かれるなどキメの細かい組み立てが工夫されているが、骨格を言えば、そうである。すでに触れたように、この映画が採用した物語は、1965年ペルーでのゲリラ闘争の経験に基づいていることは、キトで会ったときに聞いた。今回ホルヘが付け加えて言うには、同じくペルーのクスコ周辺のラ・コンベンシオン村における先住民農民の土地占拠闘争の経験もまた参照している、と。米国の第4インター系の出版社は、この闘争の指導者が第4インター系のウーゴ・ブランコであることを強調して、彼が書き表わした小さな本の英語版を複数冊出版していたので、私はそれらを取り寄せて、日本出発前に読んでいた(しかも、それはその後、私たちが日本を離れた翌年だったが、ウーゴ・ブランコ著『土地か死か――ペルー土地占拠闘争と南米革命』、山崎カヲル訳 柘植書房、1974年、となって翻訳・出版された)。

こうして、この映画の背後には、特定されているわけではないにしても、60年代ラテンアメリカにおける具体的な闘争がさまざまにちりばめられている。時は1976年――チェ・ゲバラがボリビアで死んだのは1967年だから、それから9年後のことである。チェ・ゲバラの記憶は、日本でもまだ人びとの心に焼きついている。ホルヘたちとの別れのときも近づいていて、そろそろ、今後どんな協力体制が可能かを検討する話し合いも始まっていた。『第一の敵』なら、日本上映のきっかけになり得るかもしれない。私たちは次第に、そのような気持ちに傾いていた。

メキシコでは、ホルヘを媒介にして、いろいろな出会いがあった。ボリビアの社会学者のレネ・サバレタ・メルカード(René Zavaleta Mercado)に会った。最初にメキシコに住んでいた時だったと思うが、彼の著書『ラテンアメリカにおける二重権力――ボリビアとチリのケースの研究』( ”El poder dual en América Latina : estudio de los casos de Bolivia y Chile ”)などを読んでいて、注目していた。彼を私たちに紹介するとき、ベアトリスは「世が世なら、大統領になるべき人です」と言った。最新作『叛乱者たち』には、サバレタ・メルカードの言葉が引かれるシーンがある。字幕特有の、厳しい字数制限の関係上もあって、日本の観客が知る由もない彼の名前は字幕には登場しない。ボリビアとパラグアイとの間で戦われたチャコ戦争(1932~35年)は、膨大な死者数と領土喪失という結果で近代ボリビアにとって癒しがたい禍根を残したが、それをサバレタ・メルカードは「その結果、われわれは自分が何者であるかを知ったのだ」と表現した。こういう文脈で、彼の言葉は出てくるのである。

ホルヘ・サンヒネスは亡命の身ではあっても、制作・撮影・上映などの現場から離れるわけにはいかないという考えから、チリ、ペルー、エクアドル、コロンビア、メキシコと転々としながら仕事を続けているが、家族はキューバにいた。メキシコは、久しぶりの合流には格好の場所である。4人の子どもたちにも会った。娘ふたり、息子ふたり。4,5歳から15,16歳。小さなパーティの場では、キューバの「革命教育」の成果だろう、長女がしっかりとした社会意識に基づいた挨拶をした。思えば、『コンドルの血』には、もっと幼かったこれら4人の子どもたちがブルジョワ家庭の子ども役で「出演」していたではないか。この作品の制作・撮影は1969年のボリビアで行なわれたから、それが可能だったのだ。そう言えば、『第一の敵』終幕近くの、ゲリラと政府軍の銃撃戦の場面では、あそこで銃を撃っているのはぼくだよ、とホルヘは言っていた。家内制手工業のような仕事ぶりに、思わず笑った。乏しい資金で賄う映画制作の現場とは、このようなものなのだろう。

(3月26日記)

ウカマウ集団の長征(5)――チリで


アルゼンチン南部のネウケン経由で国境を超えると、テムコというチリの町に着く。1976年の2月のことだから、1973年9月11日の軍事クーデタから数えて2年半ほど過ぎたころである。ブエノスアイレスで親しく付き合った若夫婦の、妻のほうがチリ人だった。紹介された親戚の家を、テムコで訪ねた。軍事クーデタから10日後の1973年9月23日、その状況に絶望するかのようにして「憤死」した詩人、パブロ・ネルーダの縁者の家だった。ネルーダの自宅がそうされたように、この家もクーデタ直後に家宅捜査され、書物はほとんど焼かれてしまったと家人は言った。焼け残った書物が、わずかにあった。

秦の始皇帝による「焚書抗儒」以来、古今東西、時の権力者が気にくわぬ書物を焼き捨てるという所業のことは数多く聞いてきたが、ヘスス・ララの本のことといい、ここチリでの出来事といい、焼け残った現物を目にすると、いわく言い難い、不快な思いがこみ上げてきた。加えて言うと、「抗儒」にひとしい所業もまた、軍事政権下のあの時代には、ラテンアメリカのどこでも行なわれていて、ウカマウはのちに『地下の民』において、官憲に逮捕された反体制活動家が、自分が埋められることになる穴を自ら掘るよう強制されるシーンを挿入している。現実に起こった出来事から採った、痛ましい挿話だったのだろう。

テムコのその家では、夜、縁者がみんな集まってくると、みんなは声を潜めて、抵抗歌を歌った。「ベンセレーモス」はじめ、ビクトル・ハラなどが歌っていたそれらの歌は、私たちもよく知っていたので、その密かな声に唱和した。

*         *        *

これから書くことは、ホルヘ・サンヒネスたちとのつき合いが深まってから知ったことである。ホルヘは、ラパスの大学で哲学を学んでいたころ、チリのコンセプシオンという町の大学の夏季講座を受講した。政治・社会的な意味での進取性と戦闘性においてよく知られた町だという。1950年代半ばから後半にかけての、いずれかの年のことだったであろう。講義科目の中に、映画講座があった。ホルヘと同国人の建築技師、リシマコ・グティエレス(愛称マコ)が、一本の映画も撮ったこともないのに、ただ映画好きだというだけの理由で映画講座を担当していた。ホルヘのなかでの、映画への関心も、社会的な関心も、このマコとのつき合いによって生まれた、と彼は述懐している。付き合っている時には知らなかったが、彼は実は、チェ・ゲバラやインティ・ペレードと同じくボリビアのELN(民族解放軍)に属していて、その後ボリビアの官憲に殺害されている、という。

その講座では台本コンクールがあって、一番になるとその台本に基づいた映画を作るという特典が得られる。ホルヘがそれに当たった。そこで「たった二分間の映画を作った」。ホルヘは言う。

映画ではたった一分間でも多くのことが表現できる、とマコは言っていたけれど、実にそのとおりだった。その二分間で、ひとつの物語を作り上げた。一人の浮浪児が、禁止の立札だらけの公園を歩き回っている。「さわるべからず」「踏むべからず」「寝そべるべからず」「すわるべからず」。その子はしばらく前から何も食べていない。物乞いをするにも誰もくれはしないから、もう疲れた。新聞にくるまって門口で寝るのも、もう飽きた。公園の花を見るが、飾りとか自然の詩としてそれを見ることができない。彼にとっては、花さえもが、生きるか死ぬかの鍵を握っている。彼は何本かの花をもぎ取って逃げる。公園の管理人が追いかける。逃げおおせて、花を売る。それで得た金でパンを買い、小路に座って食べようとする。ところが、一部始終を見ていた二人の乞食がパンを奪って逃げる。子どもはまた公園へ戻って花を見つめる。さまざまな角度から撮ったその子の顔、花、立札、見張りの管理人が並置される。涙あふれる子どもの顔………これでおしまい。

ホルヘ・サンヒネス『革命映画の創造』(太田昌国訳、三一書房、1981年)

8ミリで作ったというこの小品で音楽を担当したのは、当時コンセプシオンに住んでいたビオレッタ・パラだった。彼女もマコらの仲間で、後年ほど有名ではなかったが、彼女に宿る、歌の天賦の才能は誰もが知るところだった。「彼女のギターから生まれたその曲を」ホルヘはとても気に入っていたが、事故のためにそのフィルムは失われて、今は存在しない、ということだ。【因みに、帰国してのち、唐澤は詩人の水野るり子さんお願いして、ビオレッタ・パラの『人生よ ありがとう――十行詩による自伝』を編集・刊行した(現代企画室、1987年)。この本に付した付録に、ホルヘ・サンヒネスは「ビオレッタの思い出」という文章を寄せてくれた。】

これが、ホルヘの映画的な出発点だった。チリは、したがって、彼にとって忘れがたい土地だった。チリはその後も、ホルヘにとって重要な土地となる。キトで初めて出会ったとき、1971年以後の亡命による「放浪」か「流浪」の旅のことを語った時、彼はペルー、エクアドルの前にはチリにいた、と語った。アジェンデ社会主義政権の成立は1970年だった。それ以降、軍事クーデタでそれが倒される73年9月までの3年間、軍事体制から逃れたラテンアメリカ各国の革命家と反体制活動家が、数多くチリに庇護を求めた。ホルヘもそのひとりであった。ホルヘだけではない、知り合ったラテンアメリカの知識人、作家、映画人などの証言によると、アジェンデ政権下の文化活動はこれらの亡命者の参加なくしては考えられないくらいに重要な役割を担ったという。広い意味で考えても、私も従来から強調してきたように、チリ革命の重要な性格のひとつとして、その文化革命的な要素を挙げることができる。アリエル・ドルフマンらが学生の協力を得て行なった、ディズニー漫画に見られる支配的な表現に対する批判(『ドナルド・ダックを読む』、晶文社、1984年)や、いわゆる女性雑誌が読者に植え付ける常識的な価値観と固定観念(それこそが、読者から批判的な主体性を奪い、支配的な文化に奉仕するものとなる)についての批判的な分析など、見るべき成果があった。その仕事を囲い込むように、チリに亡命していた大勢の文化活動家たちの働きがあったのだろう。

キトでは多くを語らなかったが、ホルヘはその活動が目立った人物のひとりだったのかもしれない。73年9月11日のクーデタの直後、実権を握った軍事体制は多数の外国人亡命者の逮捕命令を下した。ホルヘもそのひとりだった。彼の場合は「見つけ次第、射殺するも可」との命令が下されたようだ。クーデタの準備は時間をかけて企てられていて、その間に「要注意人物」リストも出来上がっていたのであろう。「アンデス越えをした」とホルヘは語った。あまりに生々しい体験だろうから、その詳細を聞き出す「勇気」が、その時の私たちには、なかった。

「アンデスを越えて」73年末か74年初頭にペルーに行き着いた彼は、その74年にペルーで『第一の敵』を撮影・制作するのである。

(2014年3月19日記)

ウカマウ集団の長征(4)


ボリビアの書店へ行ってボリビア関係の書物を見ていると、Editorial “Los Amigos del Libro” (本の友社)という名前の出版社のものが目立った。Enciclopedia Bolivianaと総称して、ボリビアに関するさまざまなテーマの書物を出版していた。いくつもの本を束ねて、「ボリビア百科事典」的な叢書になることを目指しているのだろう、と思えた。ケチュア語やアイマラ語の辞書もあって、当然にもラパスで購入した。これらも、のちにウカマウ映画の字幕翻訳作業を行なう際には大いに役立つことになる。その後、コチャバンバという都市へ行く機会があった。(因みに、永井龍男に「コチャバンバ行き」という短篇がある。1972年の作品だが、行く前に読んだのか帰国してから読んだのか、今となっては定かではない。)それはともかく、コチャバンバには「本の友社」の本社がおかれていることを思い出し、寄ってみた。社長自ら応対してくれた。Werner Guttentag T. という、ドイツ系移民の末裔だった。南米各国にはドイツ系移民がけっこう多い。

いろいろと話しているうちに、すでに幾冊かの本を購入していた作家、ヘスス・ララ(Jesús Lara)の話題になった。メキシコに滞在していた時に、”Guerrillero Inti Peredo”(『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』)と題する彼の本を読んでいた。インティとココのペレード兄弟は、チェ・ゲバラ指揮下のELN(ボリビア民族解放軍)に属していた。インティは、1967年ゲバラ隊が壊滅されたときにも生き延びて、その後「われわれは山へ帰る」と題する声明を発表したこともあったが、1969年にラパス市内の隠れ家で見つかって、結局は殺されてしまった。ヘスス・ララはインティの義父に当たるが、コチャバンバに住んでいるという。グーテンターク氏は、その場で作家に電話して、日本からの旅人が会いたがっているよ、と伝えてくれた。すぐ訪ねてみた。ここでも話はずいぶんと弾んだが、作家は、官憲の手入れのあとで焚書された自分の本、『ゲリラ戦士 インティ・ペレード』の焼け焦がれた残骸写真を見せてくれたうえで、焼増しを一枚贈ってくれた。その写真は、前回触れたドミティーラの『私にも話させて』を刊行する際、関連する記述があったので収録した(焼かれたのは、他ならぬ「本の友社」版である。私がメキシコで読んだ版は、メキシコの出版社から出ているものであった)。

その後、帰途ペルーのリマに滞在していた時、ヘスス・ララ原作の演劇『アタワルパ』がリマ郊外で上演されるというニュースを新聞で知った。アタワルパは、スペイン人征服者によって処刑された、実質的なインカ帝国最後の皇帝である。その夜、リマ郊外へ出て山あいに入ると、両側のかがり火が迎えてくれる。野外という雰囲気も手伝ったのだろうが、内容的にもなかなかに感動的な舞台であった。コチャバンバの作家に、舞台を観た感想を書き送った。彼も、自作が上演される機会に私たちが偶然にも居合わせたことを心から喜んでくれた。ホルヘたちに再会した時、このことも話題にした。彼らも作家とは知り合いのようだが、長引いている亡命生活の中で音信も途絶えていたので、私たちから氏の元気な様子を聞いてうれしいようだった。こうして、これもまた、どこかでウカマウに繋がっていく物語ではある。

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ボリビアの南の端と国境を接する国のひとつはアルゼンチンである。そこへ移った。白人国と呼ばれることが多い。さまざまな先住民族が住まう土地に、征服者としてヨーロッパ人が侵入し、そこを植民地化し、植民地経営のために西アフリカから膨大な数の黒人奴隷を強制連行し、しかもこれらの諸民族の血が複雑に交じり合い――という過程を経たのだから、現在あるラテンアメリカの国々は、複合的な多民族社会を形成している場合が多い。ウカマウ集団の出身国であるボリビアは、2006年のエボ・モラレス大統領誕生を契機に行なわれてきた改革政策のなかで、国名も「ボリビア多民族共和国」と改めた。それでも、国によって、その民族構成には大きな差が見られるから、人口構成に占める白人の率によっては「白人社会」という呼称が成立してしまうのである。そうであれば、ウカマウに即して先住民族の存在を重視するという観点から見るなら、アルゼンチンには見るべきことはないのか。

日本を出る前、この地域に関する多くの書物を読んだ。中でも印象的な1冊は、ダーウィンの『ビーグル号航海記』だった。チャールズ・ダーウィンは、1831年から5年間、イギリス海軍の測量船ビーグル号に乗って、南米大陸沿岸からガラパゴス島へ、さらに南太平洋地域をめぐりながら、航海記を記録する。記述されるのは主として地質や動植物の観察記録だが、時代はまさしくラテンアメリカ各国がスペインからの独立を遂げた直後のこと、陸地内部の社会・政治状況に触れる個所もないではない。独立直後のアルゼンチンが、ローサス将軍の下、先住民族の徹底的な「殲滅作戦」を展開したことは、当時日本でも読める一般的な歴史書でも書かれていたから、まさしくそれと同時代にアルゼンチン沿岸を通ったダーウィンの反応を知りたかったのだ。

記述によれば、ダーウィンはローサス将軍にいちど出会っている。率いる軍隊が「下等な、強盗のような」本質をもつことに気がつきつつ、将軍の、非凡で熱情あふれる性格を肯定的に述べている。過酷な運命を強いられる先住民への「同情」を示す記述もあるが、その「掃討戦」は無理からぬことというのが、彼が行き着いている結論である。ひとつ関心を引くエピソードがある。先住民「殲滅戦争」に参加したスペイン人から、その戦いぶりを聞いたダーウィンは、その非人道性に抗議する。答えは、次のようなものだった。「でも止むを得ません。どんどん産みますからね」。これこそ、まさしく、本連載1回目で触れたウカマウ集団の作品『コンドルの血』に登場する、20世紀米国の「後進国開発援助」グループの意識でもあった。

さて、アルゼンチンの先住民人口は、総人口の0.5%を占めるにすぎないが、そこにも「動き」はあった。首都ブエノスアイレスにいたとき、新聞で知ったのだろう、先住民の集まりがあるという告知があり、そこへ出かけた。会場はバスク会館といった。スペインのバスク地方からの移住者たちが独自に持っている会館なのだろう。その集まりがどんなものであったかは、もはや覚えてはいない。それでも、そこでの出会いから始まって、対権力との関係上から公にはできない集まりへも誘われた。それは、なんと、ウカマウの『コンドルの血』の上映会であった。どこからともなく現われた50人近くの、主として先住民系の人びとが、スクリーンに見入った。

ボリビアは、米国「平和部隊」の恣意的な「援助計画」に翻弄された当事国だった。対象とされた先住民人口も総人口の過半を占めており、問題はあまりに深刻で、政府も「平和部隊」の追放まで行なうだけの、社会的・政治的基盤はあった。翻って、きわめて少数の先住民人口しかいないアルゼンチンにおいては、先住民は、また別な困難さに直面しているのだろうと、私は考えていた。

(2014年3月19日記)

ウカマウの長征(3)


キトでホルヘたちと別れるとき、私たちがやがてボリビアへ行くことを知っていながら、彼らは誰かへの伝言を託したり、誰それに会ってほしいと望んだりすることはなかった。軍政下の政治・社会状況は苛烈で、ウカマウのフィルムを持っていただけで逮捕されたり家宅捜索を受けたりする人もいた時代だった。外国人の私たちに「不用意な」ことを依頼して、相手にも私たちにも「迷惑」がかかることを避けたのだろう。

だから、ウカマウ集団の本拠地である肝心のボリビアで、私たちの滞在中にこれといって直接的に関わり合いのあることができたわけではない。だが、広い意味で考えるなら、結果的には、間接的にではあるがさまざまに「繋がる」エピソードがなかったわけでもない。ここでは、そのうちのいくつかのことを書き留めておきたい。

とある講演会でファウスト・レイナガという文筆家に出会った。ラパスの知識人たちが集まっているその講演会が終わりかけたころ、「君たちは、ケチュアやアイマラなどの先住民族の現実を少しも知ることなく、太平楽なおしゃべりをしている」と激しい口調で糾弾したのだ。関心をもって、声をかけた。ケチュア人であった。この人物については、私の新刊『【極私的】60年代追憶――精神のリレーのために』(インパクト出版会、2014年)の第8章「近代への懐疑、先住民族集団の理想化」で詳しく触れた。ご関心の向きは、それをお読みくだされば幸いである。ここでは最小限のみ言及しておきたい。

ファウストには『インディオ革命』など十数冊の著作があるが、いずれも、インカ時代のインディオ文明に対する全面的な賛歌と、翻ってそれを「征服」し植民地化したヨーロッパ(白人)文明 に対する批判と呪詛に満ちた文章で埋め尽くされている。植民地主義の犠牲にされた人びとが、過去から現在にかけての植民地主義を批判するときに、ときどき見られる立場である。植民地主義の論理と心理が染みついている植民者とその末裔たちの在り方を思えば、まずは、この問いかけに向き合わなければならないというのは、私の基本的な態度としてある(ありたい、と思い続けている)。だが、当時ファウストと話していても思ったのだが、対立・敵対している(かに見える)二つの立場を、一方を〈絶対善〉、他方を〈絶対悪〉と捉える立場は、討議・論争を不自由にする。この不自由さは、両者の関係性に負の影響を及ぼす。多くの場合、そのような立ち位置は、植民者の側に加害者としての自覚が欠けているときに現れる、被植民者側の怒りと苛立ちと絶望の表現である、ことは弁えるとしても。

誰にしても、この世に生を享けたときの諸条件が絶対化され、生きていく中で、活動していく中で、思考していく中で――「変わる」ことの可能性が否定されるなら、それはすなわち、人間の〈可変性〉を否定されることを意味する。私は、若いころからの、アイヌや琉球の人びとや在日朝鮮人とのつき合いのなかで、そのことを実感した。

のちにホルヘたちと再会したとき、ファウスト・レイナガのことは話題に上った。ホルヘたちも、当然にも、ファウストのことは知っていて、その立場は往々にして「逆差別」に行き着くしかないのだ、と結論した。私もその意見には同感だった。ウカマウの2005年の作品『鳥の歌』には、スペイン人による5世紀前の「征服」の事業を批判的に捉えようとする白人たちの映画撮影グループに属する一青年に対して、「ここは多数派の俺たちの土地だ。ここに白人は要らない。マイアミにでも行ったら、どうだ」と叫ぶ先住民の青年が登場する。ふたりは激しく言い争いをするのだが、ホルヘたちはここで、「可変的」である人間の価値を、生まれ・育ってきた存在形態の枠組みに永遠に封じ込めて、静的に判断することの間違い、あるいは虚しさを語っているのだと言える。逆に言えば、「矛盾」があるからこそ、その解決に向けて、ひとは行動する。その行動のなかで、ひとは変わり得る。そのことへの確信とでも言えようか。民族・植民地問題が人びとのこころに刻みつける課題は、重い。どの立場を選ぼうと、〈錯誤〉を伴う〈試行〉でしかあり得ない。現在の時点から俯瞰してみると、ウカマウ集団は、この課題と真っ向から取り組んで〈長征〉を続けてきたのだと言える。

あとになっての、もう一つの間接的な「繋がり」――それは、ボリビアと言えば忘れるわけにはいかない鉱山地帯への旅から生まれた。ポトシ、オルロ、シグロ・ベインテ、ヤヤグアなどの鉱山町へ、である。征服者フランシスコ・ピサロの一隊がインカ帝国を征服したのは1533年だが、1545年には海抜4000メートル以上の高地に位置するポトシ鉱山に行き着き、これを「発見」している。銀を求めて人びとが殺到し、ポトシはたちまちのうちに当時の世界でも有数の人口を抱える都市となった。そして採掘された銀はヨーロッパへ持ち出され、それが「価格革命」をもたらしたことは有名な史実である。これまたよく引用されることだが、スペインの作家セルバンテスが『ドン・キホーテ』を書いたのは1605年だが、その中では「ポトシほどの価値」と表現を使って、巨きな富を言い表わしている。もちろん、この繁栄を可能にしたのは、危険かつ過酷な鉱山労働に従事した(強制労働として従事させられた、という方が正確だろう)先住民の犠牲によって、である。ポトシには、博物館となっているカサ・デ・モネダ(造幣局)があって、経済的な繁栄の様子にも厳しい労働のありようにも想像力を及ぼすことができる装置は残っていた。だが、次いで訪れたヤヤグアやシグロ・ベインテの炭住街区の現実には胸を衝かれた。そこは、のちに知ったところによれば、鉱山で働く労働者の宿舎を建てることで成立した集落であり、いわば「野営地」にひとしいようなところを、鉱山労働者とその家族は住まいとしていたのであった。ボリビアの一作家は次のように表現したという。「人間がいかに我慢強いものであるかを知るには、ボリビアの鉱夫の居住区を知るにこしたことはない! ああ! 鉱夫と赤子はなんというさまで、生活にしがみついていることか!」。

私たちがここを訪ねた時点では未見だが、ウカマウは1971年にシグロ・ベインテを主要な舞台に『人民の勇気』というセミ・ドキュメンタリー作品を制作している。1967年6月、鉱山労働者と都市から来た学生たちは、当時ボリビア東部の密林地帯で戦っていたチェ・ゲバラ指揮下のゲリラ部隊に連帯する坑内集会を開こうとしていた。これを事前に察知した政府は、夜陰に乗じて軍隊を派遣し、炭住街区を襲撃して大勢の労働者を殺した。この史実に基づいて、鉱山労働者と家族がおかれてきた状況を再構成した作品である。この作品には、シグロ・ベインテの実在の住民で、鉱山主婦会のリーダーのひとりであったドミティーラが出演している。彼女はその後1975年メキシコ市で開かれた国連主催の国際婦人年世界会議に招かれ、政府代表の官僚女性や「先進国」フェミニストの発言に対して、火を吹くような批判の言葉を投げつけた。

帰国後しばらくして、唐澤秀子は、このドミティーラの聞き書き『私にも話させて――アンデスの鉱山に生きる人々の物語』を翻訳した(現代企画室、1984年)。炭住街区の様子やドミティーラの思いを日本語に置き換えていく過程で、この時の鉱山町訪問の経験が生きたと思う。

http://www.jca.apc.org/gendai/onebook.php?ISBN=978-4-7738-8403-6

(3月14日記)

ウカマウ集団の長征(2)


エクアドルの次にはペルーへ行った。ウカマウとの関係でのみいうなら、ホルヘ・サンヒネスとベアトリス・パラシオスは前年の1974年にはペルーに滞在していて、クスコ地方のティンクイ村を舞台に『第一の敵』(1974年)を撮っていた。結果的には、私たちはこの映画の16ミリフィルムをホルヘたちに託されて、日本での公開の可能性を探るべくその後帰国することになるのだが、75年に二人にキトで会ったときには観る機会を持つことはできなかった。だから、ペルーに滞在している間は、この映画が基となる史実を借用したという、ペルーのゲリラ・民族解放軍(ELN)指導者、エクトル・ベハール(Hector Bejar)が獄中で書いた証言記録( ”Las Guerrillas de 1965 : balance y perspectiva“ 『1965年のゲリラ――その結果と展望』)を読むに努めた。この本の英語訳は、当時ラテンアメリカ解放闘争の記録を積極的に出版していた米国のマンスリー・レヴュー社から刊行されていたので、日本を出る前に読んではいた。だから、まだ映画それ自体は観ないまでも、ホルヘたちが、1960年代のラテンアメリカにおけるゲリラ闘争をふりかえる物語構成を考えた時に、この本の記述に一定依拠したことを本人たちから聞いて、浅からぬ縁は感じた。一年後メキシコでホルヘたちに再会し、『第一の敵』も見せてもらい、さらに話を続けたとき、この映画が参照して描いたのは、ベハールの書の「アヤクチョ戦線」の章からであることがわかった。「アヤクチョ」については、後に触れる。

ところで、著者エクトル・ベハールのその後を知るためにインターネットで検索してみた。リマのサンマルコス大学で社会学を研究する学者になっていた。ペルー国内はもとより国際問題の論評も精力的に書き続けているようだ。現在書いていることの中身を読むのはこれからだが、半世紀前の武装ゲリラ指導者の人生がこんな風に続いているのを知ることはわるいことではない、と思った。→http://www.hectorbejar.com/ ウルグアイの大統領ホセ・ムヒカも、元は都市ゲリラ・トゥパマロスの活動家で脱獄経験もあるし、ブラジルの大統領ジルマ・ルセフも軍事政権下では非合法の左翼組織に属して武装闘争にも関わっていた、という。このような経歴の人物が、初志の延長上で(おそらくは、緩やかな変化を遂げながら)政治や研究の世界の前線にいるのだから、ラテンアメリカの社会は、変わることなく、おおらかで、懐が深い。もちろん、元ゲリラたちの資質と生き方にも、社会が受け入れる何かが備わっていたのだろう。

リマで読もうとした(十分に理解できたとは言えない)もう一冊の本は、詩人、ハビエル・エラウド(Javier Heraud)の詩集だった。1942年生まれの彼は、早熟な才能を示した詩人だった。キューバに留学していたが、密かに帰国した時にはベハールと同じELNに属していて、すぐにゲリラ根拠地に入り63年政府軍との戦闘に斃れた。21歳だった。日本にいる時から彼の名は聞いていて、作品を読みたいと思っていたのだ。詩の真髄を理解するには、私のスペイン語読解力は不足していた。後智慧だが、作家、バルガス・リョサはハビエルの親友で、その死に際して心に染み入る追悼文を書いた。当時のリョサは、キューバ革命を熱烈に支持し、一般論としても社会主義的な未来に希望を託している段階だったのだ。その後の彼の思想的変貌の過程には、上に触れた人びととは異なる次元だが、私は興味をそそられていろいろと参考文献を読み、「憂愁のバルガス・リョサ」という文章を『ユリイカ』1990年4月号に書いた(太田著『鏡のなかの帝国』所収、現代企画室、1991)。こうして書いていると、〈過去〉と〈現在〉が自由気ままに往還していくが、そこに何かしらの「繋がり」が見えてこないこともない点がおもしろい。

40年前に話を戻す。首都リマにしばらく滞在した私たちは、世界最高の高度を通る列車に乗ってアンデスを越え、以後ワンカーヨという町からクスコへ着くまで、地元の住民が利用する乗り合いトラックに乗って、途中のいくつかの町に泊まっては旅した。初めて目にするアンデス高原を幌もなくひた走るトラックの上は、風は冷たく、寒かった。ごく稀に停留所があって、町の市(いち)に物売りに行ったのだろう先住民の農民がひとり降りて歩き始めたりするのだが、見渡すところ人家も人影もまったく目にすることができず、いったいあの人はどれほどの距離を歩いて目的の家にたどり着くのだろうと、訝しく思ったりもした。トラックの上に残って旅を続ける者(都会から来た人間だったろう)からは、「おーい、こんなところで降りて、家はあるのかい?」などという声が投げかけられたりした。のちに『第一の敵』を観ると、先住民はまさにあの高原を、途方もない長い時間をかけて、勁い脚力で歩いているのだった。

途中にアヤクチョという町があった。スペイン植民地からの独立をめざすシモン・ボリーバル指揮下の軍隊がペルー副王軍と戦って勝利した会戦の場所だから、歴史書にも出てくる地名で、記憶にはある。夜更けに着いた町のホテルは、なにかの会議開催中とかで旅人が多く、空きはなかった。宿にあぶれたペルー人と外国人旅行客の数は数十人のかたまりになった。夜中に空いている公共機関は警察しかないな、と誰かが言い、みんなで警察署を訪れた。当直の警官と押し問答を繰り返した挙句、それなら仕方がない、ここに泊まっていいといって、彼は留置場を解放してくれた。

翌日、アヤクチョの町を歩いた。さまざまな意味合いで、「アンデス最深部」という言葉が浮かんでくるような町だった。「先住民性」を色濃く感じたせいだろう。ちっぽけな書店に入ると、『アメリカニスモ』辞典があった(”Diccionario de Americanismos “, Alfred N. Neves, Editorial Sopena Argentina, 1973)。「正統派」のスペイン語だけではない、ラテンアメリカ各地で使われる先住民の母語に派生する語句、いくつかの言語の混淆語などの特有の単語が収められている。何の役に立つかも知らぬまま、辞書好きの私は買い求めた。それには、アンデス先住民の母語であるケチュア語やマイマラ語の単語もけっこう収められていて、結果的には、その後ウカマウ集団の映画を次々と輸入して、字幕の翻訳作業を行なう時に少なからぬ働きをしてくれることになるのである。すでに述べたように、ウカマウの映画には、ケチュアとアイマラの民が常に登場し、その言語がスクリーン上に炸裂するからである。

こうして、アヤクチョの町も、ウカマウとの関係で何かにつけて思い出される町となった。この訪問から5年後の1980年、アヤクチョ地域を根拠地とした反体制武装運動「センデロ・ルミノソ(輝ける道)」の活動は開始される。これは、ベハールの時代のそれとはまったく異なる性格を持つ運動で、その性格に深い衝撃を受けた私は、カルロス・I・デグレゴリ他著『センデロ・ルミノソ――ペルーの〈輝ける道〉』と題する翻訳書を出版して、長文の解説を付した(現代企画室、1993年)。それはまた、別な物語となるので、ここで止めておきたい。

(3月13日記)

太田昌国の、ふたたび夢は夜ひらく[46]アメリカ大陸の一角から発せられた「平和地帯宣言」


『反天皇制運動カーニバル』第11号(通巻354号、2014年2月4日発行)掲載

1月29日、アメリカ大陸の一角から「平和地帯宣言」が発せられた。武力の不行使と紛争の平和的解決の原則を明記した諸国間文書が採択されたのである。

この発表は、キューバの首都ハバナで開催されていた「ラテンアメリカ・カリブ海諸国共同体(CELAC)」の第二回首脳会議においてなされた。CELACは、同地域のすべての独立国33ヵ国で構成される地域機構である。2010年2月に創設されたばかりで、域内総人口はおよそ六億人になる。この地域には、伝統的に、1951年に創設された米州機構(OAS)が存在している。米ソ冷戦下に成立しただけに、事実上は、米国の圧倒的な影響力が及ぶ「反共同盟」的な性格を有し、したがって1962年には、革命後3年目を迎えたキューバを除名した。キューバを域内で徹底的に孤立させ、経済的に締め上げる機構として、米国はこれを十二分に利用してきた。

しかし、多くは軍事独裁政権下にあって、大国主導の新自由主義経済政策という「悪夢」を世界に先駆けて経験せざるを得なかったこの地域の諸国は、20世紀末以降、次第に「民主化」の過程をたどり始めた。そこで成立した各国の政権は、かつてなら稀に存在した根本的な社会改革を志す政権ではない場合であっても、その社会的・政治的任務にまっとうに取り組もうとする限りは、新自由主義経済政策が残した傷口を癒し、ヨリ公正な経済的秩序を作り上げる努力をすることとなった。そのことは、もちろん、米国が変わることなく強要する新自由主義路線に反対し、それとは異なる原理に基づいた自主・自立的な政策を採用することを意味する。米国からの「離反」は次第に拡大し、ついには4年前に、米州機構とは逆に、同じ大陸に位置する米国とカナダを除外し、キューバが加盟するCELACが成立したのである。

国家間紛争の平和的な解決・対等な国際秩序の構築など、大まかに一致している共通目標はあるが、各国間で政体は異なる。端的に言えば、左派政権もあれば、右派もいる。そのような地域機構が、創設後四年目にして、政府・経済・社会体制の違いを越えて、他の諸国との間で友好と協力の関係を促進する立場を宣言したのである。「平和地帯宣言」はテーマ別文書のひとつだが、もちろん、全体的な最終文書「ハバナ宣言」も採択された。そこでは、途上国に一方的に不利な条件を課すことのない国際経済体制を作り上げること、この地域に多い天然資源を国有化したり、自国産業を保護する政策を採用したりすると、そこへの介入を企図する多国籍企業から訴訟を起こされる例が増えていることから、外国企業を一概に排斥するわけではないが、進出先の国の政策と法制を理解して責任ある態度を取ること、各国の主権を尊重して受け入れ先の国民の生活向上に資するよう心がけることなど、外部から関係してくる経済大国と企業の責任を問う条項もある。

域内協力の課題としては、持続可能な開発によって貧困と飢餓を一掃する経済政策の推進、CELAC加盟国間での「相互補完・連帯・協働」関係の強化などが謳われている。一時期、新自由主義経済政策に席捲された後遺症なのだろう、いまだ非正規雇用が目立つことから「正規雇用の恒常的な創出」の必要性が強調されていることも印象的だ。いったん発動され定着した不当な政策を矯正するのは、こんなにも時間がかかることなのだ。

仮に歴史を40年でも遡ると、この地域の33ヵ国間で、このような合意文書が採択されることはおろか、会議そのものが開かれることすら不可能だった。キューバの存在を軸に、対立と抗争に明け暮れていたからだ。事態の変化の鍵は、各国が超大国=米国への依存度を減らしたこと、代わって対等な域内協力関係を強化したこと、それによって米国の存在感が希薄になったことが挙げられよう。約めて言えば、米国の軍事的プレゼンスがなくなれば地域は平和になり、多国籍企業の活動が規制されれば(現状では、まだ不十分なのだが)経済は安定化へと向かう――という方向性を見出すことができよう。

この宣言が発表された同じ日、国連安保理では「戦争、その教訓と永続する平和の探求」と題した討論が行なわれていた。中国と韓国の代表が「戦争についての審判を覆し、戦犯を擁護する」日本政府のあり方を厳しく非難した。東アジア情勢の異様さと、その主要な責任はどの国が背負うべきかは、国際的に明らかになっていると言えよう。(2月Ⅰ日記)

「もうひとつの9・11」――チリの経験はどこへ?


DVD BOOK ナオミ・クライン=原作 マイケル・ウィンターボトム/マット・ハワイトクロス=監督作品

『ショック・ドクトリン』解説(旬報社、2013年12月)

2001年9月11日米国で、ハイジャック機による自爆攻撃が同時多発的に起こった。この事件を論じることがここでの目的ではない。少なからずの人びと(とりわけラテンアメリカの)が、この事件によって喚起された「もうひとつの9・11」について語りたい。それは、2001年から数えるなら28年前の1973年9月11日、南米チリで起こった軍事クーデタである。その3年前に選挙によって成立した世界史上初めての社会主義政権(サルバドール・アジェンデ大統領)が、米国による執拗な内政干渉を受けた挙句、米国が支援した軍部によって打倒された事件である。

2001年9月11日以降、米国大統領も、米国市民も、なぜ米国はこんな仕打ちを受けるのかと叫んで、「反テロ戦争」という名の報復軍事作戦を開始した。「もうひとつの9・11」は、実は、1973年のチリだけで起きたのではない。世界の近現代史を繙けば、日付は異なるにしても、米国が自国の利害を賭けて主導し、引き起こした事件で、数千人はおろか数万人、十数万人の死者を生んだ事態も、決して少なくはない。そのことを身をもって知る人びとは、2001年の「9・11」で世界に唯一の〈悲劇の主人公〉のようにふるまう米国に、底知れぬ偽善と傲慢さを感じていたのである。

同時に、ラテンアメリカの民衆は、1973年の「9・11」以降、世界に先駆けて、チリを皮切りにこの地域全体を席捲した新自由主義経済政策のことも思い出していた。アジェンデ政権時代には、従来の社会的・経済的な不平等にあふれた社会で〈公正さ〉を確立するための諸政策が模索されていた。外国資本の手にあった鉱山や電信電話事業の公共化が図られたのも、その一環だった。軍事クーデタは、これを逆転させた。すなわち、新自由主義政策が採用されたからだが、日本の私たちも、遠くは1980年代初頭の中曽根政権時代に始まり、近くは2000年代の小泉政権時代に推進されたこの政策に、遅ればせながら晒されていることで、その本質がどこにあるかを日々体験しているのだから、政策内容の説明はさして必要ないだろう。

1980年代初頭に制作されたボリビアのドキュメンタリー映画に、印象的なシーンがある。軍事政権時代に莫大に流入していた外国資本からの借款が、どこへいったのかと人びとが話し合う。高台にいる人びとは、下に見える瀟洒な中心街を指さし、「あそこだ!」と叫ぶ。そこには、シェラトン、証券会社、銀行などが入った高層ビルが立ち並んでいる。周辺道路もきれいに整備され、さながら最貧国には似つかわしくない光景が、そこだけには現われている。「あそこで使われた金が、いま、われわれの背に債務として圧し掛かっているのだ」と人びとは語り合うのである。これは、新自由主義経済政策下において導入された外資が、その「恩恵」には何ら浴すことのない後代の人びとに債務として引き継がれる構造を、端的に表現している。

だが、世界に先駆けて新自由主義経済政策の荒々しい洗礼を受けただけに、ラテンアメリカの人びとは、その本質を見抜き、それを克服するための社会的・政治的な動きをいち早く始めた、と言えるだろう。国によって時間差はあるが、20世紀も終わりに近づいた1980年代以降、次第に軍事政権を脱して民主化の道をたどり始めた彼の地の人びとは、新自由主義によってズタズタにされた生活の再建に取り組み始めた。旧来の左翼政党や大労働組合は、この経済政策の下で、また世界的な左翼退潮の風潮の中で解体あるいは崩壊し、この活動の中軸にはなり得なかった。民衆運動は、地域の、生活に根差した多様な課題に取り組む中で、地力をつけていた。新自由主義政策が踏み固めた路線に沿って、さらに介入を続ける外国資本を相手にしてさえ人びとは果敢に抵抗し、ボリビア・コチャバンバの住民のように、水道事業民営化を阻止するたたかいを展開した。

政治家にあっても、社会改良的な立場から自国の政治・経済・社会の状況に立ち向かおうとすると、既成秩序の改革が必要だと考える者が輩出し始めた。彼(女)らの関心は、差し当たっては、新自由主義が根底から破壊した社会的基盤を作り直すことであった。20世紀末以降、ラテンアメリカ地域には、世界の他の地域には見られない、「反グローバリズム」「反新自由主義」の顕著な動きが、政府レベルでも民衆運動レベルでも存在しているのは、このような背景があるからである。

「もうひとつの9・11」――チリの悲劇的な経験は、それを引き継ぎ、克服しようとする人びとの手に渡っているというべきだろう。

[書評]寺尾隆吉=著『魔術的リアリズム――20世紀のラテンアメリカ小説』(水声社)


「日本ラテンアメリカ学会会報」2013年7月31日号掲載

1960年代以降、いわゆる「ラテンアメリカ文学ブーム」を牽引しながら、現代世界文学の最前線に立っていた同地の作家たちのうち、ある者はすでに幽冥境を異にし、ある者は高齢化して筆が滞り始めた。代わって、次世代の作家たちが台頭し、日本での紹介も進み始めている。このような変革期を迎えたいま、ブームを担った巨匠たちの遺産=「魔術的リアリズム」の概念をあいまいなままに放置しておくべきではない。そう考えた著者は、「魔術的リアリズム」という概念の、錯綜した道を踏み分けて進む。

中心的に取り上げているのは、アストゥリアス、カルペンティエール、ルルフォ、ガルシア=マルケス、ドノソの5人の作家たちである。まず、先行する世代のアストゥリアスとカルペンティエールが、それまでは「野蛮」という眼差しで見られる対象でしかなかった先住民族インディオとアフリカ系黒人が持つ文化に、それぞれ注目した過程がたどられる。1920年代から30年代にかけてのパリには、のちにラテンアメリカ文学の興隆を担うことになる作家たちが続々と集まっていたが、その中に、グアテマラとキューバを出身地とする前述のふたりの作家もいた。ヨーロッパの芸術家の中では20世紀初頭から、非西欧世界の文化に対する評価(「崇拝」と表現してもいいような)が高まっていた。加えて、シュルレアリスムの芸術思想・運動も展開されていた。その思潮に揉まれて、アストゥリアスは『グアテマラ伝説集』の、カルペンティエールは『この世の王国』の創造へと至る。いずれも「魔術的リアリズム」の出発点を告知するような秀作だ。だがその後は、二人ともその道を突き進むことができない。西欧的教養を身につけた知識人が、「他者として」インディオや黒人の世界に精神的な越境を試みて作品を創造し続けることの困難性が立ちはだかるからである。先駆者の「栄光」に敬意をはらいつつ、他の論者の論考も参照しながら、二人の「限界」を容赦なく指摘する筆致に惹きつけられる。

他者に先駆けて「魔術的リアリズム」を実践した二人の作家は、やがてその道から外れた。それに続く作家が登場するうえでの条件を用意したのは、メキシコである。1910年のメキシコ革命以降の文化政策の積み重ねの上に、50年代に入って作家の卵への奨学金給付制度ができたことの意義が強調される。ルルフォが『ペドロ・パラモ』を執筆したのは、この制度の下であった。一見は両立が不能に思える「制度」と「文学創造」を、密接に結びつけて論じる著者の観点が刺激的だ。今後は、1959年キューバ革命後に設けられた「カサ・デ・ラス・アメリカス」という文化機関がその後持ち得た意義とも合わせて論じられることになるだろう。

この後も著者は、『ペドロ・パラモ』の内在的な作品分析を行ない、さらにマルケス『百年の孤独』、ドノソ『夜のみだらな鳥』へと説き及ぶ。終章に向けては、魔術的リアリズムの「闘い」とそれが「大衆化」していくさまが具体的な作品に即して論じられていく。

異質な作家たちへの目配りも利いていて、さながら、「時代の精神史」を読むような充実感を味わった。(7月2日記)

太田昌国の夢は夜ひらく[39]諜報・スパイ騒動においても、裏面で作用する植民地主義的論理


『反天皇制運動カーニバル』第4号(通巻347号、2013年7月9日発行)掲載

7月2日早朝、いつものようにパソコンでteleSURを観ていた。ベネズエラのカラカスを本拠に発信されているテレビ放送のウェブ版である。ラテンアメリカの数ヵ国の共同出資で運営されている。情報大国の通信社・テレビ局・新聞社に占有されてきた国際問題に関わるニュースを地元から発信しようとする試みで、私にとってはそれだけでも貴重な情報源である。キューバの「反体制ブロガー」として有名なヨアニ・サンチェスが言うような、それゆえに起こり得るかもしれない情報の一面性や歪み(すなわち、政府広報的な性格)は、その受け手が別な局面で対処すべき問題だろう。

この地域では、いま、かつて圧倒的な影響力を及ぼしていた米国の存在感が薄れ、まさにそれゆえにこそ、「紛争」案件が目に見えて減っている。基本的には平和な状態下で、新自由主義経済政策を批判的に克服し、貧困問題の解決を軸とした社会・福祉政策に重点を置く諸政府が成立している。各国間の相互扶助・協働・友好関係の進展もめざましい。個別に見ていけば、コンフェデレイションズ・カップ開催を批判したブラジルの大規模デモに見られるように、それぞれ重大で深刻な問題と矛盾を抱えていることも事実だが、大局を見るなら、なかなかに刺激的な地域だ。つまり、それは、米国による政治・経済・軍事の干渉さえなければ、ある地域一帯の平和と安定がいかに保障されるか、ということを実証しているにひとしいからである。その意味で、20世紀末以降のラテンアメリカ地域は、世界秩序がどうあるべきかという問題意識に照らした場合に、ありうべきひとつの範例である。

さて、7月2日早朝のtele SURに戻る。天然ガス産出国会議が開かれていたモスクワを発ったボリビアのエボ・モラレス大統領の搭乗機がポルトガルとフランスでの給油のための着陸はおろか上空通過も許可されず、オーストリアのウィーン空港に強制着陸させられたとの急報が報じられていた。そのためにきわめて危険な飛行を強いられた、とも強調されていた。理由は、モスクワ空港の乗継地域に留め置かれていた米中央諜報局(CIA)元職員のエドワード・スノーデン氏が、ボリビアへ向かう大統領専用機に搭乗しているとの噂が流れたせいという。

オーストリア当局は13時間ものあいだ離陸を認めず、そのかん機内捜索を要求し続けているとの続報もあった。ボリビア側はこれを重大な主権侵害だとして抗議したが、最終的にはオーストリアの入国管理当局職員が、同機内にはスノーデン氏が不在であることを現認し、エボ大統領はようやく帰国できた。

2004年に発足したUNASUR(南米諸国連合)はボリビア第二の都市コチャバンバで緊急首脳会議を開き、帰国直後のエボ大統領も参加して、今回の事態について検討した。会議の最後に採択された共同声明は、フランス、ポルトガルに加えて同様な態度を示したスペイン、イタリアなど四ヵ国は「21世紀の今日にありながら、新植民地主義的なふるまいをラテンアメリカの一国に対して行なった」ことに関して、公式に謝罪すべきであると要求したが、スペインは直ちにこれを拒否した。スノーデン氏の搭乗に関して信頼に足る情報があったからというだけで、情報源は明らかにしていない。それが、米国政府筋であることを疑う者はいないだろう。7月5日、南米諸国連合の加盟国であるベネズエラのマドゥロ大統領は、人道主義的な立場からスノーデン氏の亡命を受け入れると表明した。同じ日、中米ニカラグアのオルテガ大統領も、「状況が許せば」同氏を受け入れると語った。

今回の諸事態からは、現代の世界地勢地図がうかがわれて、語弊があるかもしれないが「おもしろい」。諜報・スパイ問題は、もっぱら欧米的な文脈の中で語られている。オバマが居直ったように、どこの国だってお互いに同じ諜報作戦を展開しているのだから「おあいこ」だとする「論理」である(その言い分は、戦時下の「慰安婦」問題をめぐる大阪市長Hの言い分に似通ってくるところが、両者ともに、耐え難い)。その論理を貫徹していくにあたって、欧米では(意識的にか無意識的にか)「植民地主義」がはたらき、その身勝手な世界秩序から排除すべき「第三者」をつくり出していることを見抜くこと。ボリビア、ベネズエラ、ニカラグア――今回の事態の裏側を陰画のごとく浮かび上がらせる国名を観ながら、私の頭には、〈奴らの〉それとは異なる世界地図が描かれていく。(7月7日記)