参院選を巡り/真のNHK批判とは

参院選を巡り
 政治、つまり行政・立法・裁判がそれぞれ独立して一種の権威と誇りをもって公正な判断をしているとは、どうしても思えない情況が続いている。官僚をはじめ企業組織にも“忖度”が深く定着しているし、あらゆる人がマスメディアにどういう反応が起こるか、それは自分の利益になるかを推し量ってから動いているのではないかと思わざるを得ない。
 昨年7月の参議院選挙にしても上記の傾向は顕著で、山本太郎氏のれいわ新選組はこれまでの選挙とは相当に異なる快挙を成し遂げたとも言えるが、山本氏にして、ほとんど生活・経済に絞った政策方針で既成政党に飽き足らない人々の心情を掴んだのであって、“左派ポピュリズム”と評されている。
 NHKから国民を守る党は、これまた今までにない奇策によってNHKテレビ画面のなかで「NHKをぶっつぶせ」と絶叫するという“怪挙”を遂げ、NHK電波をスクランブル化しそのチューナーを持つ人だけが視聴料を払うシステムを提唱したが、実現性はない。NHKだけが問題なのではなく、民放テレビの現状は目を覆うばかりであって、私は、NHK・民放を通して健闘している番組がいくつかあることを十分に認めつつ、地上波テレビの堕落・凋落は止まらないと言うしかない。それは資本・人事で提携関係にある新聞にも深く影響を及ぼしている。マスメディア全体の堕落を問わざるを得ない。

真のNHK批判とは
 NHKの問題は単に視聴料金徴収関係のことだけではない。多くの番組内容そのものの思想性を検証してみるべきである。それを一切しない政治家(保守も革新も)私は信用しない。問題はニュースの在り方だけではなく、一般に娯楽番組とされているものに、あからさまな思想性が表れているのだ。
 顕著な実例として「鶴瓶の家族に乾杯」という長寿番組を、私はNHK問題、テレビメディア問題として提起したい。
 この番組は、テレビメディアの特性を生かしているという意味では出色、巧妙な番組である。タレントの鶴瓶氏らが、ぶっつけ本番のやりかたで旅をしていくという建前の構成で、多くの場合過疎の地方で生活している人々を突然訪問して話を聞く、その会話のなかから家族構成を聞き出し、あるいはすぐに電話をかけて家族を集めるという展開となる。そのように“取材”していくなかで、夫婦の巡り会いや家族への愛情、生活意識を聞いて鶴瓶氏は、なかば冗談を言いながら庶民の生活意識を褒めあげ、こんなに素晴らしい人々が生活の根をおろしていることを確認するという番組なのである。鶴瓶氏らの“取材”に対して撮影を拒む人はほとんどいない。いや、撮影を嫌う人が皆無であるはずはないのだが、当然その部分は編集でカットされているに違いない。
 多くの人々は鶴瓶氏を見ると、あの有名なタレントがどうして自分の目の前にいるのかと驚き、そしてその後ろに付き従うテレビカメラやガンマイクを構えた数人のスタッフを見て、ただちに巨大なNHKの姿を感じ取って、その前に礼儀正しく、親しみを込めて、ひれ伏す行為を選ぶのである。
 驚きとともにいささか迷惑を感じているらしい人もたまには写ることがある。しかし、“取材”そのものを拒否する人は極端に少ないのだ。NHKのカメラが入り鶴瓶氏が来れば、それはその過疎の町にとってありがたいことなのだということを、多くの人はよく承知している。NHKにとりあげられれば、町は全国に知られることになり、ひいては町おこしに繋がるということを、人々は敏感に意識している。
 しかもこの番組の仕掛けは、ぶっつけ本番だけにあるのではない。その“取材”ビデオは編集され、NHKのスタジオの中にいる鶴瓶氏とゲスト、全体に目を配るアナウンサー、さらにはスタジオに招かれた(?)一般観客の前で上映され、鶴瓶氏らが感想を語り観客は大いに笑い声を上げるという巧妙な構成をとっている。観客は笑い声だけで顔は写らない。役回りをよく理解している観客だから、ちょっとしたギャグで大笑いするのだ。笑い声を気にして見ていると、実にいやらしい。わざとらしい笑いさえ散見できる。しかも、ほとんどの場合、ぶっつけ本番で“取材”した町には後日スタッフが再度“取材”して“家族の皆さん”を集め、「鶴瓶さーん!また来てねー」と合唱するところを撮影(やらせ)するのである。
 私は、メディアの“作り手”と“受け手”という対比語はすでに死語となったと感じていたが、この番組については、あまりにも幸せな、あまりにも異常な関係が成立していると言うしかない。NHKのプロデューサーやディレクターがどこまで意識しているかどうかを問わず、私はこの番組が、この国の大多数の人々に対して、NHKメディアの巨大な力を強烈に意識させる、もう少し丁寧に言えば、巨大な力を人々の無意識の中に注入する役割を果たしている番組であると断定する。