今日の社会をどう考えるか?/マスメディアのセンセーショナリズム

今日の社会をどう考えるか?
 社会の閉塞感が言われだしてからもすでに久しいが、どうみてもこの息苦しい社会、単に格差社会というだけではなく、管理社会、監視社会の様相を濃くしているのだ。監視カメラ・マイナンバーカード・銀行預金等も特徴的だが、それだけではなく、学校制度・資格制度・就職システムによってもわれわれは縛られており、不自由だ。誰かに自分の生き方を決められてしまう、誰かが自分の生き方を決めてくれる、そういう社会になってきたと考えざるを得ない。私のような老人でさえ生きにくいのだから、若い人たちにとっては尚更であろう。
 そのような社会を受け入れざるを得ず、自分の才覚でなんとか乗り切ろうとしている多くの人がいるし、競争に生き残ることを当面の目標として自らに鞭を当てている人もいる。

マスメディアのセンセーショナリズム
 マスメディアが画一的に大騒ぎする事件、なかんずく犯罪事件が引き続いている。家族内事件が多く、自分の欲求不満を近くにいる人にぶつけざるを得ない人がいかに多いかがわかる。
 一方でマスメディアが流し続ける“家庭の幸せこそ最高の価値観”が、完全に揺らいでいることは明らかだが、その現実を切開する論評は少なく、価値観そのものを疑うことを避ける風潮が強固だ。殺人事件の統計的数値は減少方向に向かっているというが、過去にはなかったような、一見原因不明の殺人事件が次から次に起きているように感じられる。
 マスメディアは真の原因を探ることをせず、どちらかと言えば“とんでもない悪人がとんでもない事を引き起こしてくれた”という結論のない結論で次の大騒ぎになだれ込んで行くばかりである。
 マスメディアは常に“正義”を装うことしかしない。泥棒側の三分の理を追及する作業は常に不十分にしか行われない。日本的冤罪事件は相変わらず引き続き、その原因追及も常におざなりだ。この問題になると、権力は“国家無答責”という明治時代の国家原則に立ち戻ってしまう。“悪人”を死刑にするなど処罰することで日本の安全は確保され経済は安定的に成長するという幻想だ。
 2016年の障害者施設やまゆり園で起きた殺人事件から、最近の川崎カリタス学園スクールバス停事件、そして京都アニメーションガソリン放火殺人事件などにショックを受けたわれわれの心情は、解釈不能の歪んだ不安にさい悩ませられているとさえ言える。むろんこの傾向は、2000年代になってからでも、大阪池田小事件、秋葉原トラック突入事件などとして格差社会の宛先不明の憎悪の噴出であったに違いないのだ。追い詰められた人の破滅的事件、“個人テロ”とでも言うしかない。