「人権と報道」概論:はじめに

 〈報道被害〉という言葉がある。本来、市民の人権を守るために存在するメディアが、取材や報道によって市民の人権を侵害していること、つまりメディアが、取材・報道された人に被害をもたらす〈加害者〉となっている現実を端的に物語る言葉だ。
 この言葉が広く知られるようになったのは1980年代半ば、「ロス疑惑」報道(★1)に対する市民の批判の高まりの中でのことだ。週刊誌の「保険金殺人疑惑」報道に始まり、メディア総ぐるみで一市民を「疑惑人」に仕立てた報道は、市民の間に興味本位なメディアの取材・報道のあり方に対する大きな疑問と批判を呼び起こした。
 しかし、報道被害は近年になって起き始めたものではない。
 警察に逮捕された被疑者を犯人と断定し、実名・顔写真入りで大々的に報じる。被疑者の生い立ちから私生活、家族のことまでプライバシーを暴きたてる。そうして、「残虐」「狡猾」などの形容詞で「悪人視」し、世間のさらし者にする。その結果、報道された人は、裁判を受ける前に社会的に葬られ、家族も世間の冷たい視線に苦しめられる。
 こうした報道は、江戸時代の「瓦版」以来、事件報道を「売れる商品」として扱ってきたメディアの伝統的手法だった。にもかかわらず、報道被害(報道加害)が長らく社会問題としてクローズアップされなかった理由は、報道被害者が泣き寝入りを余儀なくされてきたことにある。一人で立ち向かうには巨大過ぎるメディアの壁。「新聞やテレビがウソを報道するはずがない」という世間のメディアに対する信頼感。無数の報道被害者たちは、一方的な報道に悔しい思いをしながらも、「仕方ないのか」と涙と怒りを飲み込んできた。
 しかし、80年代半ば以降のメディア批判の中で、人権と報道・連絡会(★2)など報道被害をなくそうという市民運動が立ち上がり、報道被害者がメディアに抗議、訂正を求めるなど声を上げ始めた。こうして報道被害は社会問題化し、メディア側も89年に被疑者の呼び捨てを廃止するなど「報道改革」に取り組み、問題は解決に向かうかに見えた。
 ところが……。94年6月に起きた松本サリン事件(★3)報道は、問題の根深さを示した。警察情報を鵜呑みにし、メディアぐるみで河野義行さんを「毒ガス男」に仕立てた報道は、報道被害の深刻さとともに、それがメディアの構造的問題であり、「いつでも、だれにでも」降りかかってくるものであることを改めて明らかにした。松本サリン事件報道は、その後、90年代後半以降に深刻化した「集団的過熱取材」のハシリでもあった。
 重大事件が発生すると大量の取材陣が現場に殺到し、被害者にカメラを向け、マイクを突きつける。被害者のプライバシーも「報道商品」化され、事件の被害者も報道被害に苦しめられる。記者たちが「にわか探偵」となって犯人探しに奔走、時には「怪しい人物」の自宅を取り囲んで24時間監視する。市民の日常生活を破壊し、地域を疑心暗鬼状態に陥れる。過熱する報道競争は「地域取材報道被害」という新たな報道被害を作り出した。
 さらに、インターネットがこうした報道被害を増幅する。新聞などの報道が、検索エンジンでいつでも容易に検索でき、それが誤報であっても訂正されないまま、いつまでも残る。少年法で守られるべき少年の実名や顔写真、プライバシーもネットで流される。
 深刻化した報道被害は、直接被害を受けない一般市民にとっても、無関係ではなくなった。報道被害を口実にしたメディア法規制が進行し、「言論の自由」「報道の自由」が危機に瀕している。報道被害をなくすこと。それは、権力による報道介入を阻止し、メディアを真に市民の「知る権利」に奉仕する存在にするためにも不可欠な課題になっている。

★1 1981年11月、米ロサンゼルスで三浦和義さんと妻が銃撃され、妻が1年後に死亡した。『週刊文春』は84年1月、「保険金殺人疑惑」報道を開始。テレビ、週刊誌、新聞も追随し、三浦さんに「情報の銃弾」を浴びせた(ワイドショーは、文春報道開始後3か月間に計140回以上も報道)。三浦さんは500件以上の対メディア訴訟を起こし、約8割で勝訴した。2003年3月、「銃撃事件」で最高裁が検察の控訴棄却、三浦さんの無罪が確定。

★2 報道による人権侵害をなくそうと1985年、報道被害者、弁護士、研究者、ジャーナリスト、市民が参加して発足。報道被害者を支援する一方、定例会やシンポジウムを開き、報道被害をなくすための活動、メディア内部での報道改革に取り組んでいる。
(URL http://www.jca.ax.apc.org/~jimporen/welcome.html 報道被害に関するさまざまなホームページにリンクしている)

★3 1994年6月27日深夜、長野県松本市の住宅街で毒ガスが発生し、7人が死亡、150人以上が重軽症を負った。警察は当初、第一通報者の河野さんを容疑者扱いしたが、毒ガスはサリンとわかり、95年7月、オウム真理教幹部らが殺人罪などで起訴された。

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