発疹チフス予防のための各種措置 捕虜収容所でも大流行

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために ― 論証と資料

映画「シンドラーのリスト」が訴えた“ホロコースト神話”への大疑惑

初出『噂の真相』(1994.9) レポーター・木村愛二(フリージャーナリスト)

その6:発疹チフス予防のための各種措置

 『世界大百科事典』に戻ると、「発疹チフス」の項目では、「シラミが寄生するような衛生状態の不良なところに流行が発生し、〈戦争熱〉〈飢饉熱〉〈刑務所熱〉〈船舶熱〉などの別名でも呼ばれた」とし、「第二次世界大戦でも発疹チフスは将兵をおそい、多くの日本軍兵士の命を奪った。さらにアウシュヴィッツなどのナチスの捕虜収容所でも大流行」したと説明している。

 ユダヤ人の強制収容それ自体も残虐行為である。私にはいささかもナチスを免罪する気はない。

 だが私にも、戦後の中国からの引き揚げ家族の一員としての、ささやかな収容所経験がある。当時の衛生環境の収容所で、発疹チフスが発生したら大変な騒ぎになっただろうと思う。日本に帰国して上陸した途端には、大男のアメリカ兵に頭から袋をかぶせられ、DDTの噴射で全身真白にされたものだ。

 となると大量の死体だとか、裸の人の群れだとか、衣服や髪の毛の山だとか、これまでに何度も見た写真などの各種の資料についても、次のような説明が自然に思えてくる。

 「発疹チフスの流行下、ユダヤ人を大量に強制移送したドイツ軍は、彼らを収容所に入れる前に、それまで着ていた衣服を全部脱がせ、シラミの卵が植え付けられている可能性の高い髪を刈り、シャワーを浴びさせた。衣服は別室にまとめ、殺虫剤チクロンBで薫蒸することよってシラミを殺した」

 さらに決定的な証言もある。アメリカ軍とともにドイツのダッハウなど約20箇所の収容所に入り、発見した死者約百体の解剖検査をした「唯一の法医学者」、チャールス・ラーソンは、「毒ガスによる死亡例は一つも見つからなかった」と報告している。

 チクロンBおよびガス室に関しては、アメリカでの裁判で、専門業者による鑑定が行われている。アメリカには、ガス室での死刑を実行している州があり、実際にそのガス室を建造した業者がいるのだ。

 その専門業者のロイヒターは、アウシュヴィッツの現地でのサンプル採集などの調査を行い、詳細な鑑定書を作成し、法廷に提出している。私の手元にも鑑定書のコピーがある。鑑定を要約すると、「ガス室」とされてきた建物の構造は青酸ガスに不向き、チクロンBによる大量虐殺は不可能だとして、完全に否定的である。

 死体の焼却炉があったことも、欧米では虐殺の証拠とされている。日本では火葬が義務づけられているが、欧米では土葬が普通である。ところがこれも発疹チフスの流行を防止するための措置だと考えることができる。

 なお、その種の映像作品では必ず、煙がモクモク上がる煙突が背景に使われている。これも台詞抜きで「ユダヤ人の大量虐殺」を暗示するシーンだ。『シンドラーのリスト』でも、そうだった。

 ところが1979年になってCIAは、米軍の飛行機がアウシュヴィッツの上空で撮影した航空写真を公開した。戦争末期の1944年、まさに「大量虐殺」と「死体焼却」の真っ最中だったはずの時期に、何度も上空を飛んで撮影したものである。だがそのどれにも、「まったく煙が写っていない」のだ。

 「ガス室」問題を含む戦争中の反ナチ宣伝についての研究もあるが、連合軍の側は早くから「ガス室でユダヤ人を大量虐殺」と宣伝をしていた。つまり、現地で証拠を発見する以前に、宣伝の方が先行していた

 ところが、大量に押収された文書の中には一つとして証拠になるような文章は発見されていない。ドイツの降伏後にはニュールンベルグで軍事裁判が行われた。「ガス室」を認める証言もあった。それらの証言に関してホロコースト否定論者は、その数々の矛盾とともに「拷問」による自白の強要を指摘する。「拷問」した事実を認める当時の連合軍側兵士の告白さえある。

 しかも、すでに1960年までには、西側占領地域にあった収容所には「ガス室はなかった」というのが、定説になってしまった。残ったのは旧ソ連占領地域の収容所であり、その中心がアウシュヴィッツだった。「ホロコーストはなかった」論者はこういう。

 「ソ連のいうことをすべて否定してきた西側諸国の支配者が、なぜアウシュヴィッツに関してのソ連の報告をそのまま認めるのか」

 すくなくとも再調査は必要だろう。

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