「厭な奴」

(文学青年としての木村愛二)

『俺たちは天使じゃない』第1号 65-71頁に掲載
(東京大学教養学部 32L25・昭和33年7月3日発行) 木村愛治
(2019.4.10収録)

 この小品の登場人物、舞台とも完全に空想力の所産であって、何等モデル的なものは存在しない。

 

 第一印象が悪くても、あとから仲々良い奴だと思うこともある。だが村田の場合はその印象が減法悪かったし、その時感じたように東野という奴は、いつみてもいやに自信たっぷりで、押付けがましい信念の持主であった。少なくとも村田の限にはそう映っているのである。東野は度の強い近眼鏡をかけ、猫背で、そのくせ歩き方は、ゆっくりと肩をゆすって中肉中背の身体をすこしでも大きく、ゆたかにみせようとでも思っているかのように気取ってみえるのであった。そんな様子が、入社試験で顔を合せた村田に、先ず反感を起させたのである。

 「厭な感じの奴だな。あんなのは絶対落ちるにきまっている。さもなきや俺を落とすだろうな」

 村田はその時こう思ったのである。それなのに二人共その東亜証券の渋谷営業所勤務ということになった。男の新入社員はこの二人だけだったから、自然と話し合わざるを得なかった。これも村田の側からの考え方であって、東野の方では恰好の話し相手と思ったのかもしれない。

 営業所はいつも、株価の数字で満ちている。Aが上げている、Bが下げている。やれ増資だ、無配だ、と電波のように目まぐるしく、言葉が数字とごっちゃになって頭上をとびちがっている。入社したての彼等は、その切れっ端を拾って組みたてては何だかだとうろ覚えに議論していた。といっても主に喋るのは東野で、村田はそれを我慢して聞いているのが常であった。その上、村田にとって不愉快なことには、帰りの電車が新宿迄一諸なのである。

 仕事が終ってからも、東野のお喋りを聞かされちゃかなわない。あの早口でまくし立てる、蛇みたいにしゅっしゅっいう声を聞かされると晩飯が不味くならあ。そう思いながらも安月給の身には、会社が引けてから毎日遊ぶことも出来ず、月半分ぐらいは真直帰らざるを得ないのであった。それも東野の方で、いつでも「帰ろう」と呼びかけてくるので、「映画をみるんだ」といっても彼を避けることが出来ず、つい一緒に見るということもあるのであった。

 東野はこんな風に話すのである。

 「船株はどうしても半値以下に下げるよ。景気が一番極端に反映するのはどうしても船株だからね。みていたまえ、どうしても一月たてば総くずれで額面を割っちゃうよ。そりゃ勿論、船株だけじゃないさ。だけど船株はこんな時にはどうしても安定性がないんだよ。」

 丁度金融引締めなど景気の後退が表面化している時期であった。

 東野は、確かに、分りきったことをさも自信あり気にくどくどしく言うのである。そして村田にとって、段々その不愉快さを増していく根拠ともいえるのが、「どうしても」とか「みていたまえ」、「そりゃ勿論」という口癖の連発であった。前二者は東野の押し付けがましい喋り方を代表しているものであり、「そりゃ勿論」で陣だてを完璧にされると、もともと口下手な村田は全然言い落す元気を失ってしまうのである。東野のサ行の発音は裕気音というか、蛇のように感ぜられるのであって、村田は、この「そりゃ」には生理的な嫌悪さえ覚えた。もうすこし詳しく云うと彼の「そりゃ」は「そりゃあ」ではなく、相手の発音を封じようとでもするかのように早口に発音するのである。むしろ「すりゃ」であり、“Shrya”と書けばより正しいであろう。

 株価の話ばっかりしているのでは勿論なかった。

 「僕はどうしても洋画しか見る気がしないね。近代人にはどうしてもスピード感が必要だよ。それに日本映画は合理性を欠くことが多いんだよ。わびとかさびとかいったって、理論的な基礎を持たない感情はどうしても滅んでいくよ。そりゃ勿論、僕だって日本文化を認めない訳じゃないよ。でも文化ってものは固定的なもんじゃないからね。日本文化が本当に我々近代人の感覚に合うものになるように変ってこなくちゃ、どうしても捨てざるを得ないと思うね。」

 こんな具合である。それに対して村田は、時として、一寸抵抗してみる。

 「俺は案外日本映画を見るぜ。近頃は良いのが出来てるじゃないか。」

 「そりゃ、日本映画はみんなテンポが遅くって非合理的とは言わないよ。君が見ている程度の作品が全般的になってくれば、その時は僕だって見るよ。そのためには、どうしても日本文化全体が変って来なくちゃいけないんだよ。そりゃ勿論、日本文化自体の良い所を残してだよ。アウフヘーベンが必要なんだよ。」

 村田は段々に、東野のような奴は、反論すれば、それだけ相手を喋りづかせるだけだ、ということを悟って、時々「うん」とか「そうだな」とか言うだけにした。

 月末に素寒貧になった時には、東野が喋り出すと癪にさわってなぐりつけたいような気がすることもあった。だが、学生時代、運動家であった彼は、東野のような勉強家型の人間には、いつも反パツを覚えながらも、何か抵抗しきれない割切れぬ感情を抱いていた。頭から軽蔑してかかる仲間もいたのであるが、村田は芳ばしくない成績通知表をかかえて、同意見にはなりきれず、眼鏡の底に光るおとなしい目をもどかしい違和感を持って避けるようにしていた。そして明らかに“俺より弱い”と分かっているのに、腕力に訴えて黙らせることは、彼には出来ないのであった。

 ところで、一緒に入社した女の子で一寸可愛いいのがいた。名前は平田陽子である。村田はこの子をお茶に誘ったり、映画を奢ったりしていた。何もホレタという程のことはないのである。それを東野は時々話の中に折込んでからかい気味にけしかけるので、村田の機嫌は増々悪くなった。

 或る日の帰り途、渋谷駅の階段の中程でそれが爆発した。村田の一緒に帰りたくない気分がそれを手伝ったのである。

 「おい、いい加減にそんな風に言うのは止めたらどうだ。俺は何も平田さんをどうこうしようなんて考えちゃいないんだぜ。」

 「そうむきになるのは可笑しいな。そりゃ勿論君の気持も分るよ。きっと真剣なんだろうからね。」

 東野はおだやかになだめるような限付きで村田をみつめていた.

 「馬鹿野郎! もう君とは口をきかんぞ」

 村田はむしろ、東野と絶交する機会を握んだ、と思って満足であった。だが、これは東野が思ったように「単なる口げんかだ。大したことはない」のであった。

 そして村田が、「東野の奴は女の子と遊んだことがないもんで、男と女が仲良くすれば、たちまち恋愛ときめ込んじまうんだ。いよいよもって厭な奴だ。」と考えながら、人混みをかき分けて足早やに歩いていた時、東野の方では、「村田って、案外純情なところがあるんだな。女に持てそうな面をしている癖にまだ初恋なのかな。」とほほえましい気持で村田の立去った階段の下を眺めていたのである。そういったわけで、村田の思ったようには、絶交は成立しなかった。東野には「村田を怒らしてやろう」というような茶目っ気は全然なかったので、平田嬢についてはそれ以後一言も口にしないように努めたのではあるが、相変らず話しかけるのをやめず、村田は失望した。

 

 東亜証券は山中湖畔に社員寮を持っていた。夏になって、渋谷営業所は全員でそこへ遊びにいくことになった。二、三時間もある電車の中で、東野のお喋りの相手をさせられては耐らないと思った村田は、努力したかいあって別のボックスに腰かけることが出来た。内心ほくそ笑みながら、東野の方をうかがうと、平田陽子と向い合いに席を占めて、早くも、あの調子で話しかけているのである。村田は一瞬、不愉快な奴だと癪に障ったが平田嬢に未練はない、というのは事実であって、それ程残念とも感じなかった。それでも、時々、平田嬢の笑い声が聞えてくると「あの野郎、厭な奴だな。」とつぶやいてみたくなるのであった。

 山中湖に着いた翌日、平田陽子は村田に向って言った。

 「村田さん、ヨットがあるのよ。貴方操縦出来る?」

 「ああ出来るよ。操縦という程難しいものじゃないんだ。」

 「乗せて下さらない?」

 「そうだな、行こう」

 ヨットに二人だけ乗って、沖へ出ると、村田はあんまりそんなことには頓着しないのであるが、平田陽子の様子がいつもと少し違うようだ、と感じた。然し、湖は良いわね、とか、ヨットに乗るのはこれが初めてよ、とか、その他、社員の噂話などしている中に忘れてしまった。ところがこんなことをいいだした。

 「東野さんから貴方のこと伺ったわ。」

 そこで岸の方を眺めていた村田が平田陽子の顔をまじまじとみつめたので、急に赤くなって、そっぽをむいて、言葉をつづけた。

 「あの人貴方のことをとてもほめていらっしゃったわ。卒直で男らしいって……」

 村田は突然気が付いた。前の晩に食事が終ってから、食堂に東野と平田陽子だけ残って、しばらく話していたのだが、そのあと平田陽子は室に引こもって出て来なかったのである。彼の最初に思いついたことは、この話をやめさせなくてはいけない、ということであった。彼は棹を急に引いて、廻転させた。

 「危ない! 頭を引っこめて!」

 帆を反対側に移して岸の方へ向けておいてから、彼は言った。

 「ごめん、ごめん、ついぼんやりして、風向きが変ったのに気がつかなかったんだ。何だが雨でも降りだしそうな感じだから帰ろうや。あそこに黒雲が出て来ているだろ。山では天気が変りやすいんだ。」

 彼は、その黒雲に気づいていたことを非常な好運と思った。平田陽子は話の腰を折られて黙ってしまった。岸へ近づけながら、村田は東野の姿を限で探していた。彼は岸の砂浜でバレーボールを円陣をつくってやっている中にいた。平田陽子は何気ない様子を装ってヨットを岸につけるとその方へ戻っていった。バレーボールの連中は彼等二人を見付けると口々にからかいの言葉を投げかけたのであるが、その中で、彼等がそろって黙りこくっているのに気が付いたのは東野だけであった。彼はそのあと、帰り途にも村田に話しかけようとする気配を何度も示したが、村田の激しい眼付にあって口をつぐんでしまった。村田としてはそれほど怒っていなかった。前の時と同じに、東野のお喋りを封じるいい機会だと思ったのである。それに女から告白されかけたということは悪い気のするものではない筈だ。

 

 それ以来、東野のお喋りは少しばかりではあるが生彩を欠くようになった。それでも、株式市場に関しては、それこそ、どうしても話し合うのである。昼休みに東野が口を切った。

 「三本製鋼が動いているだろう。近く増資の噂があるんだぜ。それに玄人筋がいじっているんだ。だからこいつは相当上げるぜ。」

 「そうかい」

 村田が浮かぬ相槌を打ったので、東野は話を中断したらしかった。以前なら、こんなことでひるむような男ではなかった。

 その翌日のことである。村田が客の応待をしていると、山下というお得意の婦人投資家がやって来た。婦人といっても、中年過ぎた厭味の女であったが、仕事だから大事に扱わざるを得ない。

 「村田さん、三本製鋼が動いているっていうじゃないの。どうかしら?」

 東野の云った言葉を思い出して、村田はすぐ返答しようと思った。以前は癪にさわりながらも東野の方が何かにつけて仕事に詳しいので、便利がって聞いてもいたし、信じてもいたのである。だがこの時、村田の胸の中を何かが横切った。彼はこう答えたのである。

 「あれは手を出さない方がいいでしようね、奥さん。ただ玄人がいじっているだけで物になりませんよ。損するだけです。すぐ下げてしまいますよ。」

 彼は罪人のような気持でその婦人投資家を送りだした。東野の云うことは今迄大抵当っていた。それは何の変哲もないことである。何故ならば、彼は証券市場で当然と取り沙汰されていることをあのさも自信あり気な調子で繰りかえしていたに過ぎなかったからだ。

 ところがこの時の村田は、東野に対して不信と反抗のかたまりであった。

 

 二三日経って、外から戻ってきた村田は所長に呼ばれた。

 「村田君、君は何だって、山下さんに、三本は駄目だなんて言ったんだね、山下さんは十万円の損だって怒っていたぞ。馬鹿も良い加減にしないか。大体あれは週間推薦株の中に入っていたのに、それを忘れたのか!

 君は大体証券会社で働く資格がないよ。不熱心だよ、君は!

 山下さんのような大事な客を失くしたら大変だ。君の首なぞ切ったって引合わんよ。戻りたまえ。」

 村田は席に戻って、がく然と首をたれた。

 「東野は正しいんだ。あの厭な奴はこんな間違いはしないんだ。」

 帰りに、彼は近くの喫茶店によって隅のボックスに一人でぼんやりと考え込んでいた。しばらくして、彼は東野の声を聞いたように感じて、我に帰った。やはりそうだった。東野と所長と一緒であった。仕切りのガラス板を通してささやくように話しているのであるが、村田には、あの特長ある声がよく聞きとれるのである。

「…… 村田はいつも僕の意見に賛成するんです。彼はあまり熱心じゃないのは確かですが、決して今迄間違った判断を下していたことはないんです。僕といつも同意見だったってことは、どうしてもそういうことになるんです。ところがですね所長、彼は今個人的に悩んでいることがあるんです。そのせいだと思うんですよ。それに昨日の昼休みに、あの三本製鋼の話をしたばかりなんですよ。彼奴が途中で開くのを止めたんで、僕もよしちゃったんですが、きっと中途半端な聞き方をしたんですよ。どうしてもそうとしか考えられないんですよ。そりゃ勿論僕が間違える筈はないんです。そんな訳ですからね、村田を許してやって下さいよ。ここで彼を怒りつけては彼はお終りですよ。僕は彼の親友として黙って見てはいられないんですよ……」

 村田は激しく唇をかんで怒号を押えつけた。そして彼等が出て行く迄、耳を両手でおおい、全身を縮こませて身をかくしていた。飲みさしのコーヒーは、手をつけられないままに泡が消え、湯気も立たなくなって冷めてしまった。

(完)
1959.4.19