「轢かれたのは零時だった」 1

(文学青年としての木村愛二)

『軌』14号 24-41頁に掲載 (12月会・1962.8.10発行)征矢野愛三

1 交通事故数掲示板の自動化を巡る駅前踏み台演説

 K駅に降りると寒かった。いつものことだが、やはり口の中で、畜生!といってみたい気がした。銀座から地下鉄、西武線と、満員の電車の中で息の詰まる思いで消極的な運動をして蓄えた湿っぽい汗の暖かみは、ビュンビュンと吹きつけるこの武蔵野の空っ風が一息で奪い去ってしまう。

 生憎なことに、バスは出たばかりらしく、私の停留所には一緒に電車からはきだされたらしい顔付きの勤め人たちが早速にオーバーの衿を立て、小刻みに身体を揺すぶりだしている所だった。私は外廻りの仕事をして足が疲れていたので、尻の冷えるのは覚悟してベンチに腰をおとした。ところが勤めの人達は私を疑い深く眺めているし、中でも顔見知りの一人は長々と私の全身を見廻して、新しいことでもあったのではないかと考え、羨むべきか否かを決定しかねているので、私はだるそうに首を振り、吐息をついて、鼻汁をすすり、風邪を引きかけているのだと思わせることにした。すると彼は安心して、自分でも風邪を引きかけているような様子を示しだした。

 それで私も落着きを取り戻し、尻の筋肉を少しずつ動かして冷たさを耐えようと努力するのだった。その私の目の前には交番がある。私の目は自然にそこの掲示板を見る。交通事故の件数を読まされる。ここ迄は毎日の日課のようなものだ。ところが今日は、カチッと音がして数字が変ったので、びっくりして立ち上がり、そこに近寄った。驚いたのは私だけでなく、事情を知らない勤め人達はみんな、私の後から詰め寄せ、とうとう自動式になったのかと緊張した囁きを交わした。すると交番から若い警官が得意顔で出て来て、説明を始めた。もう何度か復唱したような調子で彼は声を張り上げるのだった。

 「――交通事故を確認した担当の警官がその交番のボタン、軽症、重症、死亡とあります。それを押すと都内の全ての掲示板に自動的に数字が加算されます。これはもしも同時に別の交番でボタンが押されたとしても、間違いないようになっています。つまりボタンを一回押す時に流れる電流の量がきまっているのです。」

 勤め人達は感心して唸り、私の顔見知りの男は、

 「パチンコの連チャンのようなことですね。」

 と警官の同意を求めた。すると警官は彼の期待に反して憤然として、

 「馬鹿なことを言わないで下さい。パチンコと交通事故をゴッチャにするような真似はしませんよ。この仕掛はもっと正確に出来ているし、いいですか、将来のことも考えて、同時に百のボタンが押されても良いようになっているのです。」

 と語気強く言い放った。勤め人達は、勿論パチンコと同じ仕掛けでは困るが、と警官に媚びた上で、しかし、そんなに交通事故がふえる予想なのかと質問した。私もこれはもっともな質問だと思い、警官の返事を待ったが、彼としてはつい口をすべらせたものなので、慌てた表情で、早口に弁解を始めた。

 「――警察としては交通事故の絶滅を志していまも新法案の検討をしている所です。ですから、これは、いわば、万全の処置ということに過ぎず、皆さんの御心配には及びません。」

 若い警官は言い終わると、そそくさと交番に入ってしまった。中には火鉢が入って暖かそうであり、中にも掲示板と同じ数字のでる黒板があるので、何の不便も感じないのである。

 外に残された勤め人達はガヤガヤと論議を始めた。私ももっと良く知りたいと思ったので、あちこちと耳を向けてみた。するとその中から甲高い声が上がり出し、やがて他の声を沈黙させてしまった。これは相当な物知りらしく、誰もが耳を傾けていた。彼もそれに気付いて、もう一度始めから声を張り上げることにした。

 「ここのは安物なんですよ。T駅のはもっと素晴らしいし、複雑なんです。是非一度行ってごらんなさい。まだ今の所は都内の人にだけしか役に立ちませんが、それでも大したものです。あそこには、その日その日の事故だけでなく、もっと統計的な数字が出るんです。つまり、交通事故と都内の人口との有機的な関連が表わされているのです。」

 勤め人達は眼を輝かせ、もっとよく聴こうと、輪をちぢめて来た。そこで物知りの男は世話好きな男が持って来た踏み台の上に登ることにした。

 「都内の人口は毎秒毎に変っています。ですから、先ず産婦人科の医者が赤ん坊を取り出すとボタンを押す必要があります。次には住民登録を受けた役人がボタンを押します。これが増える方です。それから交通事故で死んだ数が次々に引かれていくのです。」

 顔見知りの男は、またでしゃばって口を出した。

 「それじゃ、都内の人口が分かるだけじゃありませんか。」

 この不服そうな声に物知りの男は腰を折られたので露骨に不快の表情を示した。熱心な聴衆である勤め人達は一斉に非難の唸り声を発し、静かに聞こうと主張した。私はとんでもない分からず屋の男と顔見知りであることを恥じて小さくなっていた。幸いにまだ口をきいたことがなかったので、これを機会に、もう全く縁のないものと諦めさせようと決心した。物知りの男はようやく機嫌を直して説明を続けた。

 「これで人口がいつも正確に表わされるということがお分かりと思いますが、更に重大なことは、統計的な役割なのです。つまり、何年何月何日の人口というものが別に分かるようになっており、その減少の様子が常に報告され、そこから、グラフの推定的な減少速度が割り出されているのです。ということは、何年何月何日に生れてきていた人達が完全に死に絶えてしまう日が予測出来るということです。これが何を意味するかは簡単にお分りと思います。交通事故が現在のように規則正しく起っている限り、我々の生命の何百万分の一かがその度毎に失われ、私達は統計表の示す通りに車に礫かれで死ぬのです。つまり、いつ礫かれるかが分ってしまうのです。こんな安心なことはありません。」

 物知りの男は勤め人達の拍手を浴びて踏台を降りた。

 

 また下りの電車が来て、新しい群衆が掲示板の前に集った。若い警官が出て来て説明をし、物知りの男がつけ足した。バスがなかなか来ないのでいらいらしていた私は同じ説明を繰り返して聞き、改めて感心した。ところが今度は前よりも念の入った話し方をしているので予想より長びいた。私は拍手をしようと待ちくたびれていた。そこへ近くで若い女の悲鳴が上がり、罵り声が聞えた。勤め人達の注意はそちらに向ってしまった。

 横丁から銀髪の重役に脇をつかまれた諾い土工が出て来た。頑丈な身体に酔いが廻り、疲れが浮き出ていた。

 「何をいってやがんでえ。俺が何か悪いことでもしたってえのか。」

 などと口汚くわめき、自由になろうともがくのだが、学生時代には揉道部の主将をしていた重役はそう簡単にはいかないとばかり、土工の腕を捻じ上げるのだ。土工はやけになり、勤め人の見物が多いのに腹を立てて、

 「この野郎、飯場に来やがったらただじゃ置かねえぞ。」

 と必死で凄むのだ。

 交番の火鉢に手をかざしていた若い警官は仕方なさそうに出て来た。重役は得意になって、土工を引き渡すと、説明した。

 「こいつは女の子に乱暴しようとしたのだ。私は悲鳴を欄きつけるとすぐに車を飛び降りて、女の子を助け、こいつを投げ飛ばして、押えつけたんだ。年はとってもまだまだ若い者に負けはせん。柔道五段の腕だからな。」

 といって、その内の二段は実力とは関係のない加増だということは内緒にした。警官は黙ってそれを聞き、一方では、土工が、

 「俺は女の子の尻を撫でただけで何も悪いことはしちゃいない。」

 と主張しているので、簡単な調書を取ってあっさりと土工を放した。すると今度は重役が怒り出した。

 「君等は税金で傭われているんだぞ。こんな簡単な処置でごまかすとは何事だ。私は高額納税者として強く抗議する。」

 警官は面倒臭そうに呟いた。

 「私の給料は安いし、今日は疲れているんです。別に交通事故が起ったということでもなければ静かにしていたいのです。」

 重役はこれを聞いて増々怒った。

 「君の給料が安いのは君が仕事に不熱心だからだ。事件が起これば名を上げることが出来ると思って、こういう交番にまかされた日常的な問題をなおざりにしていては到底出世は出来んよ。私などは若い頃からどんな小さなことでもおろそかにせず努力して来たんだ。」

 「貴方の自慢話を聞きたいとは思いません。」

 ついに警官は交番のガラス戸をピシャンと閉めてしまった。今晩は宿直なのだから、風を入れぬよう注意するのは当然の処置だ。

 重役は憤満やるかたなく、私達に呼びかけて来た。

 「君等も勤め人として良識の持主だ。私と一緒に抗議しよう。あれでは交番などあって無きが如しだ。」

 勤め人達は重役の意図を推し測ろうとした。風俗事犯と経済事犯とを混同されることを怖れたのである。そこで

 「年末手当闘争が解決しない内は交番のことなど考えたくありません。」

 と返答してみた。すると重役は、それとこれとは話が違うと確認した上で、勤め人の方が人数が多いから、代表を出してくれ、といった。しかし私達は警官の給料が安いのは、決して彼の仕事振りのせいではなく、一人で社会正義を振りかざしている重役に反感を覚えていたので相手にならなかった。


2(今日は召集令状の来る日)に続く