「轢かれたのは零時だった」 5

(文学青年としての木村愛二)

『軌』14号 24-41頁に掲載 (12月会・1962.8.10発行)征矢野愛三

5 何さ、あんたら学生だろ

 最終のバスの時間が過ぎてから、踏切事故は回復し、上りと下りの電車がすれ違って、空気は悲鳴を上げ、飲屋のガラス戸をビリピリとふるわした。私はその音波にはじかれて何度目かに気付いた。今日はあの日なのだ。私は召集令状を受け取ったら一週間以内に重役の娘を強姦しようと思った。私はその一字一句を心に刻みこんでゆっくりと口の中で怒鳴った。俺・は・重・役・の・娘・を・強・姦・す・る・ぞ!  学生達は酔っており、皮肉な笑いを浮べ、彼等の抽象論を突き崩そうとする高校教師との会話は段々と訳が分からなくなって来た。高校教師は宣言した。

 「もし君達が本当に労働者と同じ気持ちになって行動出来るんなら、あの娘のお尻を撫でてみなさい。」

 「お尻を撫でるなんてことは‥‥」

 「いや、大事なことだ。それによって君等と労働者とをへだてている垣根は取り払われるんだ。やりなさい。」

 「……」

 「君等はなにが怖いんだ。」

 高校教師はこの会話でやけくそになり、不愉快であり、大笑いをした。学生は怒り、

 「何も恐くはありません。やりますよ。」

 と叫んだ。仕切り前の気合がこもって来た。学生ののどはつぶれ、彼は低くいった。

 「おねえさん、一寸。」

 娘は気だるく腰を起し、

 「なあに。」

 といい、空の皿を片付けようとした。学生はぶっきらぼうにそのお尻を撫でおろした。だが、全ては違っていた。彼女の眼は凍りつき、身体は硬直した。彼女の顔は蒼く、唇はわなないて、声がなかった。

 

 (一同、沈黙の内に娘と学生を交互に見る)

娘   「……。何さ、あんたら学生だろ。」

 (中年の飯場工、よろよろと立上る。)

中年の飯場工「おい、学生さん、おめえ、何をやらかしたんだ。」

学生  「(口ごもり)何もしやしない。一寸さわっただけなんだ。」

 (中年の飯場工にどぎつい照明)

中年の飯場工「(低く、恨みがましく)学生さんよ。おめえ、そんなことをしていいと思ってるのかよ。みろ、この娘は泣いちまうぞ。」

 (娘、泣き出す一飯場工達、つめよる)

中年の飯場工「おい、学生さん、良いと思ってるのかよ、こんなことをして。」

 (学生、黙ってうつむく)

中年の飯場工「おい、学生さん。何とか言わねえか。いやに不服そうな面をしているじゃねえか。えっ。良いと思ってるのかよ。」

学生  「そんなこといったって、あんたたちだって、お尻を撫でてふざけてたじゃないか。」

中年の飯場工「ふざけただと。何だ、その言い草は。俺達がやってたからって、お前等のような学生さんが真似して良いってのか。俺達は土方だぞ、ドカチンだぞ、お前等とは違うんだぞ。(段々と威勢が良くなり、アジ演説の口調になる)ドカチンは仕事中にでも若い娘が通りかかれば助平なことをわめきたてるんだぞ。手近な所に女がいれば尻を撫でるんだ。うまくいきさえすりやあ、押し倒してしまうんだぞ。俺達はドカチンなんだからな。だけどお前等は学生だろ。学生さんが俺達の真似をして良いと思ってるのかよ。あんまり勝手なことをするもんじゃないよ。」

 (効果をたしかめ、一息いれる)

 「俺が兵隊に引っぱられていた頃にゃな、女郎にも兵隊用と将校用との区別があったもんだ。どちらも女郎には変りはねえ、ちゃんとした女さ。だけども相手が違うんだ。誰がどうやって分けるか知らねえけども、違うことになってんだ。

  それがよ、或る時、ばったり幼な馴染の女に会ったんだ。俺の村の娘っ子よ。もう俺には見分けのつかねえ程にお自粉焼けして変ってたがよ、向うは良く覚えてたんだ。俺もずいぶん長いこと兵隊にとられてたけどな、野良で百姓して陽に焼けるのも、行軍で焼き上げられるのも見た目に変りはねえからな。

  あいつは俺にしがみついて泣きやがったんだぜ。なつかしいわ、ってな。ところがよ、学生さん。あいつは将校用の女郎だったんだ。最初はな、それで良いと思ってたんだ。兵隊の方が数が多いし、大変だからな。俺達は並んで順番を待ってたもんだ。

  だから俺はあいつがしつこくって助平な少佐のじじいの話をしてたぶんにゃ、楽に暮せりゃあいいって慰めてたんだ。俺達ぁ人目につかねえように隠れて会ったさ、でもすぐにいちゃついたと思っちゃいけねえよ。俺達ぁそんな気になれなかったんだ。だがな、その内にあいつが若憎のな、学生上りの生意気な士官候補生の話をはじめだすと、俺はなぐさめてるだけじゃ気がすまなくなったんだ。口惜しくってな、どうしようもなかったんだ。

  分るかね、その時の俺の気持を。俺の隊にも一人いたんだよ、何も知らねえ癖に横柄な士官候補生がな、戦闘になるとカラダラシのねえ癖に、一寸ばかりの学問を鼻にかけやがって、キザなこと抜かしやがる。俺はあいつがそんな奴等に否応なしに抱かれているのかと思うとはらわたがでんぐり返ったよ。

  それからは何度も会ったよ。俺達ぁ夢中だった。会ってねえ時は生きた心地がなかったものよ。……だけどとうとうみつかってな。それもその生意気な候補生野郎がヤキモチを焼いてあいつの跡をつけて来たんだ。俺はもうどうなってもかまわねえ気分だった。でもな俺は候補生野郎を殺そうと思ったけど足がすくんで動けなかったんだ。野郎は俺にビンタを喰わせやがった。俺はあいつの見ている前で若憎の学生上りの士官候補生野郎にブン殴られて手出し一つ出来なかったんだよ。

  だけどな、学生さん(嬉しそうに笑う)もうそんな勝手な真似は出来ねえぜ。いいかい、もう戦争はねえんだからな。俺達は赤紙一枚で召集されたりはしねえんだ。」

 

 「うそだ!」

 私は立ち上った。

 「うそだ! 私は今日召集令状を受け取ることになっているのだ。戦争がもうないなんて、うそだ。」

 中年の土工は私をつき突ばした。

 「何! うそとは何だ。俺の言ったことがうそだというのか。お前は勤め人だな。お前なんかに俺の気持が分るもんか。」

 土工達は私につめより、私の視界はかすみ、暗くなった。急に立ち上った私は一時に酔いが廻り、貧血を起しかけていた。中年の土工はその私の胸倉を掴まえて前後にゆすぶった。私は意識の遠のいていく快感と闘いながら必死に叫んだ。

 「うそだ! うそだ!」

 だが私は中年の土工に崩れかかっており、私の叫びは声にならず、私は汚物を土工に吐きかけているのだった。

 

 ぐいぐいと胸元を引かれ、ネクタイが締めつけられる苦しさで私の意識は回復してしまった。中年の土工は段々と激しく、

 「この野郎、ふざけるな。お前のような勤め人……」

 とわめきたて、私はどうしても彼の敵意の的になり、恐怖に捉えられていなければならないのだ。私はいそのこと首をもっと強く締められて死んでしまえばいいのだと感じているのだが、私は苦しさて負けてしまい、彼を足蹴にしていた。中年の土工は驚き、ちらりと自分の立場を考えてしまったので、手を突きはなし、私は勢いよくのめって入口のガラス戸を頭で割り、その上に倒れた。

 ガラスの崩ける音は派手であり、鋭く鼓膜に突きささるので、私達は絶望的になり、断崖に立たされた。しかし私には勇気がなく、私は仁王立ちの若い土工達の形相におびえ、吐瀉物をまきちらし、這いつくばって逃るのだった。吐潟は私に掛かる重力を二倍にし、私はへとへとで、無力であり、土工達との間の問題を解決するどころか、いよいよ難しくしてしまう愚かな小心者なのだ。私は恥かしさに蒼ざめ、空虚にさえなり得ない。私は酸っぱい胃袋を押さえてよろめき、逃げまどうだけなのだ。

 

 外は雨になっていた。それは冷たく私を打ち、快かった。私は洗われ、罪と屈辱の骨格はむきだされ、私はそれを自覚して重く沈んでいった。私は歩を早め、冷たく喘ぎ、固くつきつけられる批判の視線を避けようと走りまくった。ぬれた髪をかきむしる手はポマードですべり、いっこうに徹底しないのだった。私は貧弱な体力を使い果して倒れるまで、あてもなく盲目減法に走り廻り、逃げ続けなければならないのだ。


6(チカラさんなら私を救い出せるかもしれない)に続く