「轢かれたのは零時だった」 2

(文学青年としての木村愛二)

『軌』14号 24-41頁に掲載 (12月会・1962.8.10発行)征矢野愛三

2 今日は召集令状の来る日

 今日は色々と暗示的な出来事のある日だ。だから私は今日こそ待ちに待った召集令状の来る日だと信じ始めていた。

 会社の用事で外出して、帰りの地下鉄の駅でも妙だった。ベンチに腰掛けて、次の電車は四谷駅を出ました、という照明がつくのを待っていると、突然にブザーが鳴り出した。耳に指で栓をしなくては頭が割れる程の激しいものだった。電車は来ないし、乗客は溜まる一方で、駅員が出て来て旗を手に心配顔で歩きまわっているのだが、彼等の間で何を相談しているのか分らない。私は空襲が始まったのだと判断したが、どうしようもない。乗客達は冷静に耳に手をやり、今更慌てても仕方ないと考えている。驚いたことには私自身、非常に落着いているのだ。だがそれも考えてみればもっともなことで、水爆が落された時に慌ててみても始まらないのだ。乗客達はだから私と同じように冷静に考えているのだ。私も冷静に考え、今日こそは、もし生命が保障されるとしたら、召集令状を受け取ることになるだろうという確信に達した。

 毎日繰り返しに飽き果て、口を開けばついつい、何か面白いことはないか、といってしまう私にとって、召集令状だけが新しい転機に応えるものである。人生の経験が浅く、まだ可能性という言葉に意味を見出せた時代には召集令状を受け取ることは、可能性の限定と思えていたのだが、今では、召集期間が終ったあとに来る自由さえおそろしく思える程に私は限定そのものを欲するようになっていた。それは可能性の限定こそが自分を自由にするのだと考えるからでもあった。つまり、限定されない私は、これからの人生の可能性を自分で追求しなければならず、私はその選択の義務に押し潰されていたのである。私は他人に選択される方が楽なのだ。

 私は召集令状を受け取ることによって、現在の日常的な束縛の一切から自由になるだろう。会社の上役にも同僚にもそれらを知らせ、もう私は彼等の自由にはならず、気兼ねをせずに異なった次元から彼等を見下すことが出来るのだと告げてやろう。それと家族に知らせなければならないだろう。家族は悲しんで、普段ならば気にしない私の健康を問題とし、大事にするようにしつこくいうに違いない。だが家族はそれ程に問題ではない。私は下宿しており、わざわざ出掛けていって存在を認めさすのは愚かだ。これは時間潰しにならないように気を付けねばならぬ問題だ。

 私が第一にしなければならないのは、Sに身体を要求することだ。欺(だま)すことになるかもしれないが、こんな場合にそれを問題とするのは野暮だし、召集されれば、私の生命の保障はないのだから、いくら疑い深いSでも、今度ばかりは拒めないだろう。Sが身体に自信がありながら、結婚までは許さないというのには色々ともっともらしい理由をつけてはいるのだが、召集令状の前には一言もないに決っている。

 私としては、Sを恋人に選び、婚約までしたのは、決して肉欲的な動機によるものではなく、将来の私の社会的地位にふさわしい結婚相手だと考えたからなのだ。だから現在の日常が続くかぎり、Sのいささか気取り過ぎる態度には不満はなく、それどころか、私自身も新婚旅行という一生に一度の機会に期待するところが大きいので、最初の快楽を充分に味わいたいと思い、一向に焦ったりしないのだ。無気力な話だが、一時に燃え上る情熱がない代りに、除々に起きてくる馴れ合いの暖もりが私を安心させてくれる。私はいつも、劇的要素を持たない私達の関係は恥じてはいるのだが、Sとこのような調子で取引を進めて行きさえすれば、他所目には順調な青春を仕上げ終せることが出来るのだ。

 もちろん私はこんな馬鹿馬鹿しいゴマカシにはとうに腹を立てている。自分に飽き飽きしているのだ。だから召集令状を待ち焦れ、こんな状態を打ち破ろうともくろんでいるのだ。ともかく自分の人生を始めなくてはいけないと思っている。だが私はエゴイストにはなり切れず、むしろ自己犠性に魅力を覚えたりする方なので、決して自分だけの快楽を求めているのではない筈だ。だから私がもしSを欺すことになったとしても、それは私が、私達の関係に、もっと意義のある充足感を求めたからに他ならず、妙な論理だが、Sを本当に愛している結果なのだと思う。つまり私は、事態さえ変れば、恋愛小設の主人公のようにSを愛してやれると感じているのだ。だから私は召集令状によって私の身辺に変化が起きたならば、それは同時に私が自分自身と同じように愛しているSにも変化をもたらさなくてはいけないと考えるのだ。

 ベルが鳴り止んだ。急に頭のたがが外されて、乗客達の顔は呆けて見えた。駅員がメガホンを持ち出して来て、池袋でポイントの故障があり電車が遅れてまいります、と叫んだ。私はそれを冷静に受け入れた。

 電車は待たされた乗客で混んでいた。ラッシュアワーと違って活気のある混み方だ。客種が違っているのだ。私の傍には盛装のハイティーンのお嬢さん達がかたまっていた。これからダンスパーティーにいく所なのだ。男性と接触する予感から彼女達は興奮しており、縁もゆかりもない私にまで身体をこすりつけてくる。弾力のあるお尻が私のそれをプリプリとこすって、実に健康な快感を覚させてくれる。Sを抱いて踊る時にはこんなにさわやかな感じではないと思った。Sも相当に若さを失いかけているのだ。私を逃してしまえば、適齢期を外すことになるのだ。それで最近ではヤキモチを焼くようにもなった。しかし私は彼女を見かえたりはしないだろう。私も彼女を必要としているのだ。もうこれから新しい相手に自分を適合させる程の気力はない。彼女とは見合いではないのだけが自慢の仲だが、長い付合いでお互いに馴れ合いの場を作り上げて来たのだ。その安楽な場所から私は動きたくない。

 

 バスはまだ来ない。単調な生活のみを特徴とする勤め人にとって時刻表の乱れほどいらだたしいものはない。通勤電車に飛び込み自殺があっても、顔色一つ変ず、死体が引き出される迄の時間を惜しんでいるのが勤め人の本当の気持なのだ。

 下りの電車は次々に勤め人を吐き出した。上りがさっぱり来ないことから推測されたとおり、バスは踏切事故を起していた。私はもともと真直ぐに下宿に戻る気はなかったのであり、都心で時間を潰さなかったのは、月末の金詰りのせいであったので、バスを待つのを止めて、いきつけの飲屋に入ることにした。口では勤め人達と調子を合せてバスの事故を非難していたが、飲屋に立ち寄る口実が出来たことを喜んでいたのだった。しかも、今日こそ召集令状が届いていると信じていたから、それを受取る時の楽しみを引延ばすことにもなるので余計にうれしかった。Sにしたって私の収入が少ないといって結婚を急がないのは、婚約時代の楽しみを味のうすれたチューインガムを惜しむように、いつまでもしゃぶっていたいからなのだ。私も男として、召集令状を受取る前の緊張感をもう少し味わいたい。しかし、早く受け取って準備をしなくてはいけないのだとも考え、踏ん切りがつかなかった。だから、バスの事故などという絶好の口実が出来て安心していた。これなら会社に遅刻した時でも大威張りで言える代物なのだ。

 

「飲屋の登場人物は、この私、若い平凡なサラリーマンとその話し相手の中年の高校教師、飲屋の女将と若い女が一人、若い土工が二人と中年の土工が一人、それに政治運動に熱心な学生が二人です。

 この近辺にも団地が出来始め、段々と新しい人種がふえて来きました。先ず現れたのが建築工事にたずさわる飲場労働者、土工たちです。私はこの連中が怖いのです。私達のようなサラリーマンとは皮膚の色からして違う人種なのです。今迄に人間が怖いと思ったことはありません。鬼畜米英といわれていた外国の兵隊達も、よく知ってみれば、無邪気な所があり、私を脅かすようなことはありませんでした。愚連隊のチンピラは何を仕出かすか分らないので物騒ではありますが、私は彼等を軽蔑し、無視することが出来ます。もし掛わり合いを持つとすれば、彼等を悪の道から救い上げ、善導するという形になるのでしょう。何といっても彼等は働いていない人種なのですから、私が引け目を感ずる必要はないのです。ところが飯場労働者というのは私達のようなインテリのサラリーマンとは全く違う性質の仕事ではありますが、非常な重労働をやっているのです。そのことで先ず私は肉体働な劣等感を持ってしまう。それは知的な優越感とバランスをとろうとしており、私は彼等の側に逆のバランスを見出しかけているので、ついつい色々な感情のこもった目で彼等を見てしまう。するとそこには会社の同僚達のものとは全く異質の視線があって、私との感情のコミュニケイションは拒否されている。私は非難されているのだと感じ、それは不当な誤解によるものだが、それを伝える手段がない。私は少なくとも、『君等と仕事は違っても私だって一介の労働者なのだ。』と言ってみようかと思うのだが、とうてい信じてもらえそうにないのですごすごと引き下がるのです。

 私が彼等に会う時は決まって一人ぼっちだということは私にとって不利でした。私は彼等に囲まれてしまい、余計なことをいえば彼等の硬い目付が殺気を帯びると感じだし、何もいわずにいると彼等との間の空間には気まずい不信の濁りがたまってしまうのを知っていました。そして結局のところ、私は彼等に何も伝えることは出来なかったし、彼等と別れることが出来ると、重荷をおろしたと思い、ほっとして溜息をつくのです。しかし、私にはいつまでもこの未解決な状態を続けていくことは出来ないのだと分っていました。私は自分にこの問題を解決する能力があるとは思っていませんでしたが、ともかくその時の覚悟だけはきめて置かなくてはと思いました。」

 

飯場工1「ヤキトリが淋しくなって来たな。」

娘   「まだあんじゃないのさ。」

飯場工1「ねえといっちゃいねえよ。淋しいってんだ。二、三本しかねえと落着いて喰えねえだろ、なあ。」

娘   「気取ってんのね。持ってくりゃいいでしょ。」

飯場工2「おい、まだ注文したわけじゃねえんだぜ」

娘   「勝手にしな。」

(腰を浮かして、すぐに坐りかけるが、飯場工2がその尻の下に手をやるので、飛び上り、嬌声を発する。)

中年の飯場工「いやあ、うめえもんだ。」

(飯場工達と一緒になって娘も笑う。)

娘   「この人ったら、油断も隙もありゃしないんだから。」

飯場工2「ところがよ、おめえ、さっき駅前通りで若い子の尻をツルリと撫でてやったらよ、助けて!って抜かしやがったんだぜ。キョトンと俺の面を見上げてから、真蒼になりやがってさ。俺もびっくりしたぜ。そうしたら、白髪の妙なじじいがすっとんで来やがってな、俺の腕を掴まえやがんだ。何をしやがると思っていると交番迄引っぱって行きやがってな、俺を突き出しやがんだ。あの若憎のポリ公も面喰ってたぜ。あの野郎だって若い女の子の尻を撫でてえに違いねえや。」

(飯場工達と娘、笑う。)

飯場工2「ところがよ、やっとお許しが出て表に出てみると、先刻のじじいがまだ頑張っていやがってな、俺をつき戻しやがんだ。しつこい野郎だと思ってると、じいさん今度はポリ公と喧嘩よ。なんで俺をブタ箱にぶち込まねえかってわめきやがんのさ。馬鹿な野郎さ、良い年をしてな。しめにゃ、おめえ、わしは税金を払ってポリ公を傭っているんだなんて威張り出してよ、ヤジ馬が集まってケッサクだったぜ。俺はその間に逃げ出しちゃってるのによ。(皆、笑う)だけど考えてみりゃ癪にさわるぜ、女の子の尻を憮でた位で何だってんだ、へっ、助けて!なんてこきやがって、ふざけんじゃねえや。てめえはたかが小娘のビジネスガールのくせしやがって、あれきしのことで蒼くなるたあ、オーバーも良い所よ。会社の上役にならオッパイ握られてもニッコリ笑うんじゃねえか。畜生!」

(飯場工1は怒り上戸なので、コップ酒を煽り、残りのヤキトリをむしゃぶり、まだ気がおさまらない)

飯場工1「ねえちゃん、酒をもう一杯ずつにヤキトリだ。」

娘   「今度はたしかに注文だね。」

飯場工2「当たり前よ。ぐずぐずいわずに持って来りゃいいんだ。」

(娘の立ち上がる所を、飯場工2、また尻を撫でる)

娘   「(蓮っ葉に)いやあね、この人。」

中年の飯場工「うめえもんだ、さすがに。」

(飯場工達と娘、大声で笑う)


3(困るのは労働者だけで女性は救われない)に続く