『湾岸報道に偽りあり』(27)

第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか

電網木村書店 Web無料公開 2001.3.1

第五章:イラク「悪魔化」宣伝の虚実 3

「侵略主義者」サダムはイラン「征服」を狙ったか

 サダムは「侵略主義者」であり、クウェイトばかりかサウジアラビアまで狙っていた。それがなにより証拠には、クウェイトの前にはイランを侵略したではないか、という趣旨の論評があった。テレビ解説などは、これが確定的な事実であるかのように論じていた。サダムが「イラクと隣接するイランの油田地帯フゼスターン州の併合」を狙っていたというまことしやかな説もあり、これなどは「クウェイト侵攻の狙いと一致する石油支配戦略だ」とされていた。

 だが本当にサダムは、イランを占領し続け、隣接の油田地帯を支配下におくつもりだったのであろうか。この歴史的経過を実証的に調査した報道は、私の知るかぎりでは、皆無であった。皆が皆、他人の台詞の猿真似でしゃべっていたのである。いわくヒットラー並の「侵略主義者」、いわく「日本の大陸侵略と同然」、いわく「覇権主義」、といった具合だった。

 ここでもまず第一に確認しておきたいのは、アメリカの二枚舌、ダブル・スタンダード問題である。アメリカは、イラン・イラク戦争に際して、「イラクの侵略」を国連に訴えたりしなかった。ラムゼイ・クラークらが組織した「国際戦争犯罪法廷のための調査委員会」による「告発状」の「背景事実」は、その事情を次のように鋭く要約している。

「イラン国王が倒され、テヘランのアメリカ大使館人質事件が起こってから、アメリカは、イランとの戦争において、ソ連、サウジアラビア、クウェイトおよび大部分の首長国と同様、イラクに軍事援助と支援を与えた。一八八〇年から八八年までの悲劇的な八年戦争における合衆国の政策をおそらく最も巧みに要約しているのは、ヘンリ・キッシンジャー(当時、米国務長官)がその初期に述べた次の言葉であろう。『彼らが互いに殺し合うことを希望している』」

 事実、この戦争中にアメリカのトップとCIAは、イラン・コントラゲート事件として表面化した際に明らかにされただけでも、イスラエルと組んでイランに二千数百基ものミサイルを売却していた。それらはイラクに降り注いだのだ。

 私はすでに本書の第一章でふれたように、『イラン・イラク戦争』という六五二ページの大著を読んでいた。

 この本の初版は一九九〇年七月。つまり、同年八月二日に起きたイラクのクウェイト侵攻以前に出版されており、文章そのものの執筆は、かなり前に終了している。つまり、クウェイト危機をまったく予測し得ない時期に書かれたものだから、それなりの客観性を保持していると思われる。

 著者の鳥井順は、巻末の「著者紹介」によると、九州大学の経済学部を出てすぐに自衛隊に入隊し、部隊勤務で副師団長、昔の陸軍大学に当たる幹部学校で副校長などを歴任し、イラン・イラク戦争末期の一九八七年に陸将補で退職。以後は、防衛庁防衛研究所で、アジア地域および第三世界を担当する室長の立場にあり、自らは中東地域の政治・軍事を専門分野としてきた。軍人というよりも、軍学者の立場であろう。『イラン・イラク戦争』の「主要参考文献」リストは五ページにおよび、そのうち単行本は一五六冊(上下などの巻数は除く)である。およそ入手できるかぎりの資料に当たった労作だと評価できる。

 私はこの『イラン・イラク戦争』の記述のすべてに賛成するわけではない。問題そのものの複雑さもあってか、色々な角度からの論評を併記しているために、論点がはっきりしない部分もある。だが、資料の考証もそれなりになされており、一応の客観性を備えた研究書として考えてよいと思う。戦争の経過については、当然、当事者双方の「大本営発表」以外に情報が得られない場合もあるが、その部分は(イラン発表)とか(イラク発表)などと注記されている。  

 こうした資料の実証的な分析から、鳥井はイラン・イラク戦争の原因として、ホメイニ師による 「イスラム原理主義の脅威」などを位置づけている。

「歴史的・民族的・宗教的な」「相互不信」が背景にあり、「七九年に始まるイランのイスラム革命により、両国関係は一段と悪化したといってよい」とする。「イラクは、イラン側の働きかけにより国民の過半数を占めるシーア派教徒や少数民族のクルド人が刺激を受け、彼等が反政府運動に走り、国内結束に影響が及ぶのではないかと懸念した。実際、南部のシーア派居住地域において大きな反政府デモが発生するなど、支配勢力である少数派のスンニー派に対し、各種の圧力が加わりつつあった」というのが、基本的な状況判断である。

 開戦当初についての観測は、次のように要約されている。

「イラクの戦争目的は、直接的には『アルジェ協定の破棄』-→領土権の回復』と、『バース党政権に対するイスラム革命の脅威の除去-→ホメイニ体制の崩壊』であったと考えられる。また究極的には、ペルシャ湾周辺地域において、イラクを盟主とする新たな秩序の強要、次いでアラブの盟主としての地位の確立を狙ったものと思われる」

 要するに、戦争目的は領土の完全な占領とか併合を意図したものではなく、「限定的だった」という判断である。

「アルジェ協定」についても、全体としてイラク側の屈辱条約であったとする。イランがイラク側のクルド人ゲリラへの軍需物資の供給を続けていたため、クルド人の反乱に手を焼いたイラク政府が、その供給停止を主要条件にして、やむなく妥協に応じたものである。鳥井の分析によれば、代償の最も大きな部分は「自国からペルシャ湾に抜ける唯一の水路……シャト・アル・アラブ川の領水(注、それまでイラクは、同川東岸の線を国境と主張)の半分をイランに割譲するという大譲歩」であった。「にもかかわらずイランは、条約に明記された各種の基本的条項を履行しなかった。例えば、シャト・アル・アラブ川水路の権利は両国に平等に分割されるはずであったが、イランはそれを無視して同川の水上交通を完全に支配した」

 この「水上交通」が、イラクにとっていかに重大な問題であるかは、すでにクウェイトとの国境紛争に関して紹介した通りである。駐日大使アルリファイの『アラブの論理』によれば、ホメイニ師の新イラン政権がさらにこの「アルジェ協定を犯し続け」たことになるが、どうやらこれも事実らしい。今度の湾岸戦争の停戦後にもあったことだが、イラク南部のシーア派が多数の地域に対しては、反乱をそそのかす部隊を送り込んでいたようである。イラク側の主張には一定の根拠があるのだ。

 戦争の開始時期については、イラク側はアルジェ協定の破棄通告をした一九八〇年九月十七日が、「宣戦布告」の日に当たると考えているようである。

 しかし、両国の国境地帯では、すでに前年の四月から、お互いに越境を繰り返す紛争が続いていた。一九八〇年四月五日には、アジズ副首相暗殺未遂事件が起こっている。イラン人が葬式の列に手榴弾を投げ込み、一人の死亡者が出た。「フセイン大統領は、『今日流された血は絶対に忘れないと三回誓う』と叫び、『このいまわしい襲撃は、カディスィーアの報復を計っている奴らの仕業だ』とつけ加えたそうだ(九月二四日仏紙ルモンド)」、と鳥井は記している。「カディスィーア」は、六三七年にアラブがペルシャに勝利した戦場の地名だが、この戦いの件は日本のテレヴィ解説でも何度か聞いた。しかしそれはサダムが、イランを侵略するに際してアラブ民族の歴史的な戦いになぞらえ、戦いをあおるために使ったという文脈であった。出発点では被害者側としての発想だから、いささかニュアンスが違っているようだ。

 以後、双方が負けず劣らず、お互いに国境を越えて攻撃し合っているようだ。

 そして、アルジェ協定の破棄通告から六日後のこと、鳥井の記述によれば、

「九月二三日払暁、少なくとも機甲・機械化・歩兵師団各二個を含む総勢五万人以上のイラク軍第一線部隊が、ソ連製T─62戦車、BMP─1装甲歩兵戦闘車などを中核として、イランとの中、南部国境数ヵ所を一斉に踏み越えて攻撃、局地的制限紛争の枠を破り、砂漠の戦火は一挙に燃え上がった」

 この攻撃が一般には「イラン侵攻」とされ、八月二日のクウェイト侵攻と対比して語られているようである。だが鳥井は、この攻撃の目的を先に示したように「限定的」なものと考えており、それ以後の長期化はサダムの「誤算」によるものという判断を示す。

 サダムは、ある程度の優勢を確保したところで、平和的解決を探るつもりだったらしい。事実、九月二十三日の五万人規模の攻撃の六日後、九月二十九日には国連の緊急安全保障理事会が開かれ、当事国の一方であるイラン代表欠席のまま、満場一致で「停戦決議」を採択。同日イラクは、イラン側が応ずることを条件にして決議を受諾し、十月五日から四日間の一方的停戦を宣言した。

 この際のイラクの「平和的解決の条件」を鳥井が要約しているが、注目すべき点を指摘すると、その要求の中には、「イラクと隣接するイランのフゼスターン州の油田」などはふくまれていなかった。ペルシャ湾への水路関係をのぞけば、重要な問題はやはり「近隣諸国への内政不干渉(イスラム原理主義の輸出禁止)」であった。


(28) 長期紛争の原因はイラン側の主体的条件