『湾岸報道に偽りあり』(22)

第二部:「報道」なのか「隠蔽」なのか

電網木村書店 Web無料公開 2001.2.1

第四章:ジッダ会談決裂の衝撃的事実 2

クウェイトもだましたのがアメリカのヤクザ戦法

 続く『噂の真相』(91・5)で私は、さらに次のように指摘した。

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 クウェイトがCIAと密約し、OPEC協定に違反して石油価格を引き下げ、イラクの経済破綻を計ったことは、最早明瞭である。問題は、なぜクウェイトがCIA、もしくはアメリカのいいなりになったか、という疑問の解明である。別に、イラクの虎のヒゲを引っ張る趣味があったわけではないのだから、合理的な説明を加えなければならない。

 歴史と事実を正確に踏まえた心眼で見ると、ことは簡単である。

 イラクは八年間のイラン・イラク戦争で七百五十億ドルもの負債を背負い、経済的に破綻していた。湾岸六ヵ国のGCCなどに融資を申し入れたが、それをすげなく断わられたばかりか、戦争中の融資を返せと迫られた。アラブ世界では従来、この種の借金は、そのうちにバクシーシ(贈り物)として棒引きする習慣があったというから、これは異常事態である。

 ルメイラ油田はイラクが自力開発した虎の子の宝物であるが、クウェイトは国境線の反対側から四十本もの油井を掘り、イラクが戦争中に油井を閉鎖していた間に大量に汲み出した。イラクは盗掘だと非難する。確かに国境さえなければ、同じ行為は盗掘以外のなにものでもない。昔のテキサスあたりなら、ズドンと殺されても文句はいえない行為である。国境線を理由にクウェイトを擁護する論者もいるが、国境線はイギリスなどが勝手にテーブルの上で地図に引いただけのもので画定していない。イラクはクウェイトが四キロ侵入したと主張しているし、いずれ、同じアラブの国同士の争いだから別問題である。だから、一時はクウェイトも損害賠償に応ずる気配を見せたのだが、なぜか、態度をひるがえし、そのほかの問題もふくめて、会談は八月一日に決裂した。

 クウェイトは、一九八五年の数字によると、一六〇万の人口のうち、クウェイト国籍を持つものが六〇万のみで、それも一級から七級までの差別[★実質的な評価基準によるもの]がある。選挙の有権者は一級かつ国籍取得十五年の男子のみで、わずか五・八万人。しかも、憲法は停止中で、一級市民の中にも反対派がいる。なんとも大変に不安定なアパルトヘイト国家である。

 サウジアラビアもふくむ湾岸GCC諸国は、すべてカイライ型旧族長国家である。GCCは一九八一年に三〇五億ドルもの軍事費拠出を決め、合同防衛軍を設置しようとした。だが、アラブ側の軍事強化を嫌うイスラエルの猛反対に会って、アメリカが武器を供給できない。合同防衛軍構想はうやむやのまま今日に至った。

 しかし、この経過を心眼で見ると、本気で軍隊を強化する気があったのかどうかが、疑わしいのである。オイル・ダラーあふれるアラブ諸国は、武器密輸商人の聖域であった。問題は武器の供給ではなく、軍隊そのものにあったと考えられるのだ。今度の戦争の始めにも、サウジのファハド王が一番心配したのは、自分の国の軍隊の反乱だったという内幕話があった。事実、カイライ君主のほとんどは足元の軍人のクーデターによって倒されている。下手に軍隊を強化すると命取りにもなりかねない。そこでアメリカとの協力関係が進む。ここらで傭兵の影がチラチラし始めるのだ。日本の古代天皇が薩摩隼人を近衛兵としたように、外国人に身辺警護を頼む方が裏切りを防ぐには好都合なのである。アメリカは一九七三年の第一次石油ショック以来、サウジ駐留計画の構想を明らかにしていたから、GCCのトップとアメリカの軍事的提携は双方望むところ。つまり、クウェイトとGCC諸国は、イランのイスラム革命が脅威だったときには、イラクを援助したが、事情が変わるとアメリカを頼るようになったのである。

 これではイラクの立場はない。使い捨てではないか。フセイン政権は国内でもインフレにあえぎ、支配の危機に直面している。前門の狼、後門の虎。引くに引けないサダムは、昨年七月二十五日にアメリカのイラク大使エイプリル・グラスピーを呼んだ。

 問題は、各種メディアがこの会談の記録を正確に伝えていないことにある。特に、どこが中心点なのかを考える必要があるのだ。

 サダムは、アメリカのCIA、国務省、メディアをあげての「イラク誹謗のキャンペーン」を非難した後に、こう語っている。

「われわれは、誇りなき生より死を選ぶ。イラクの一発に対してアメリカの百発のミサイルが発射されようと、恐れずに戦う」

 つまりサダムは、八月二日のクウェイト侵攻以前に、アメリカとの生死を賭けた戦いを覚悟していたのである。アメリカ側に立つ論者は、これを単にサダムの脅しと解釈し、サダムを誹謗する。しかし、二桁も三桁も違う国力の差は、サダムも十分に知っていたのだ。これが果たして脅しがきく関係であろうか。クウェイトへの侵攻は、この会談の際のサダムの言葉をそのまま使えば、「破れかぶれ」の一揆のような行動だったのではなかろうか。

 ここまでフセイン政権を追い込んだ手口は、一応お見事といっておこう。ブッシュは国連大使もやっているから、国連フィクションの利用法も心得ていた。CIA長官経験者としては史上初めてのアメリカ大統領である。レーガン時代の副大統領のときにもCIAを使いこなした。 『CIA』の記述を借りると、「『ブッシュ・リーグ』と称せられる非公式の団体があって、それは世界各地を定期的に往来する元CIA職員から成り、メンバーは帰国すると」ブッシュに会い、「情報問題について状況説明を行って」いたという。まさにCIAの権化、つまりはアメリカ帝国主義の悪行の数々の象徴ではないだろうか。

 しかし、冒頭にも述べたように、謀略の証拠は次々と明らかにされるに違いない。ブッシュらの罪状が全面的に裁かれる日は、意外にも近いであろう。

 たとえば、すでに戦争中に、アメリカと同盟関係にあったエジプトの知識人ですら、こう語っている。

「イラク破壊、米の意図」「『平和』の陰に『新植民地主義』」という見出し。

「米国は世界平和のためという以上に、石油確保のための『新植民地主義』を中東に持ち込もうとしている」(『朝日』91・2・1)

「ハッサン・ラガブ氏(エジプト・アルアクバル紙副編集長、カイロ・アメリカン大学教授)」の発言である。彼は決してサダム支持者ではない。「フセイン大統領は米国と対決するアラブの英雄気取りだが、米国に中東における確固とした足場を与えたのは彼自身だ。その責任は大きい」とも語っている。

 ことの真相を正確に読み取るためには、歴史的観点が不可欠である。「歴史は現代を正しく映すための鏡である」というのが、現代歴史学の基本認識となっている。日本でも昔は『大鏡』『今鏡』といった呼名で歴史がつづられたものである。

 イギリスのジャーナリストで、植民地解放戦争にも従軍したアフリカ史研究家、バジル・デヴィッドソンは、次のような趣旨のことを書いている。

「アフリカの植民地化の歴史を論ずるときに、ヨーロッパの歴史家が陥りがちな過ちがある。歴史家はえてして、ヨーロッパ人とアフリカ人との紛争を、あたかも刑事事件の現場検証のように微に入り細をうがつ。どちらが先に手を出したかといったふうな、重箱の隅をほじくるような手法を取る。しかし、その土地はもともとアフリカ人の土地なのであって、基本的な侵入者はヨーロッパ人なのだ」

 十九世紀末にヨーロッパがアフリカを本格的に侵略したときの口実は、アラブ人が奴隷狩りや奴隷貿易をしている、それをやめさせるのがキリスト教文明の使命だということだった。次には、現地のさまざまな王国や民族が抵抗すると、その野蛮さが強調された。侵略戦争を有利に進めるためには、カイライの族長を抱き込むのが、常套手段だった。

 日本が中国大陸に侵略を繰り広げたときには、中国東北政権のトップ張作霖は「馬賊上がり」だと宣伝され、「暴戻(人道にはずれた)なる支那軍を膺懲(うちこらす)べし」という大義名分が立てられた。列車を爆破して張作霖を暗殺しても、「満州某重大事件」としか報道されず、天皇は機嫌を損ねただけ。下手人の軍人は罪を問われなかった。  

 近代に入ってからのことにかぎると、侵略される側の国は、政治的にも遅れているのが普通であった。理想的な民主主義国(そんな国はどこにもないが)であるはずがない。逆に、侵略する側は近代ブルジョワ革命を経ており、「法治主義」だとか「自由・平等・博愛」の三色旗を掲げていたりしたのである。現地政権トップが独裁者だったり乱暴者だったりすれば、侵略を合法化する口実にこと欠かないから、大歓迎であった。

 これとまったく同じことがアラブの世界で再び行なわれたという基本認識が、最初に確認されるべきである。歴史的に見れば湾岸戦争は、軍事大国による新たな侵略のやり直し以外のなにものでもない。侵略を「正義」と認め、出征兵士に祝福を与えるオーソリティーが、教会や神社から国連フィクションに変わっただけの話なのだ。今度の戦争でも、まず最初に問われなければならないのは、だれが先に手を出したかではなくて、アラブ人の土地で爆弾をボカボカ落とし、大量殺戮したのはだれか、でなければならない。

 テレビに映ったアラブ民衆のデモのプラカードにも、「US、ゲット・アウト・オブ・アラブ・ワールド」と大書されていたのが印象的だった。

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「カイライの族長」たちの現状に関しては、『石油資源の支配と抗争/オイル・ショックから湾岸戦争』の分析が最も鋭い。サウジアラビア、クウェイト、アラブ首長国連邦は「富裕な産油国」として、他の貧しいアラブ諸国との「二極分解」をきたしているばかりでなく、国内の階級矛盾をも深めていた。欧米への投資による収入も激増し、「カイライの族長」たちは「多国籍企業」財閥の一族としての性格を強めていた。

 クウェイトの場合は、亡命政権が海外資産を確保するために動いた結果、クウェイト国有の海外資産が千六百億ドルに対して、サバハ一族の海外資産が二千六百八十億ドルにも達していたことが明らかになった。しかも、それだけの巨額な個人資産を国民の目から隠匿しながら、「無思慮な」クウェイトのサバハ一族は、不安定なアメリカの金融市場を嫌い、ヨーロッパ市場などに資金を回し始めていた。たとえばエンジニアリング業界の仕事では、日本への発注が増えていた。アメリカの危機感は強まる一方であった。

 彼らの国際的および国内的地位は、つい最近フィリピンを追われた独裁者マルコスとアメリカとの関係を思い起こせば、より鮮明になるだろう。しかも世襲君主制の独裁者だから、二十世紀末現在の世界では飛び抜けて異常な売国的カイライなのである。現在の国連加盟国は一六六だが、そのうち君主制はたったの二八。そのうちの六ヵ国が湾岸のGCC諸国であり、しかも最も独裁度が強いのだ。

 こういう時代錯誤もはなはだしい独裁国を、以前にはイギリス、今はアメリカが擁護し、大事な同盟国扱いしている事態こそが湾岸危機の基本構造だったのだ。

 当然、国内での政治矛盾も激しくなる一方だった。

 サウジアラビアでは一九七九年、イラン革命の影響下、メッカのモスクに男女百数十名が武装して立てこもり、政府軍と十日間も戦った。彼らは、「コーランはいかなる王も王家も認めていない」「腐敗した指導者を打倒せよ」などと記したビラを巡礼者に配っていた。

 クウェイトでは湾岸危機直前の一九九〇年一月、集会やデモを禁止する命令に逆らって議会の再開を要求する集会が開かれ、六千名以上が参加。警官隊の弾圧で多数の負傷者を出していた。


(23) 「致命的な侮辱」の背後にいた「強力な友人」たち