『亜空間通信』237号(2002/04/21) 阿修羅投稿を02.12再録

ホロコーストの嘘と911謀略を見抜けぬか素知らぬ振りの「善人」どもに告ぐ!

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『亜空間通信』237号(2002/04/21)
【ホロコーストの嘘と911謀略を見抜けぬか素知らぬ振りの「善人」どもに告ぐ!】

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 転送、転載、引用、訳出、大歓迎!

 本日(2002/04/21)の午後一杯、次第に募る退屈と眠気と尻と腰の痛みを堪えに堪えて、下記の退屈で長ーあーあーいー亡国植民地根性片仮名語の題名の16ミリフィルム映画、『マニファクチャリング・コンセント ──ノーム・チョムスキーとメディア』とやらを見てきた。何度か居眠りしたが、肝心の部分は、しっかりと見てきた。

 肝心の部分とは、下記の紹介の文章の最後、「ロベール・フォーリソン(フランスの歴史修正主義者、チョムスキーは彼の言論の自由を擁護してバッシングを受けたことがある)」に関する部分のことである。

**************** 上映会のお知らせ *********************
マニファクチャリング・コンセント ──ノーム・チョムスキーとメディア
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監督:マーク・アクバー、ピーター・ウィントニック
カナダ/1992/英語/16mm/165分/日本語字幕あり
1993年山形国際ドキュメンタリー映画祭インターナショナル・コンペティション出品作品
15の国際映画賞を受賞、世界300以上の都市で商業上映、カナダのドキュメン
タリーでは最大の興行成績を記録

日時: 4月21日(日) 13:30~、17:00~ 二回上映
会場:キノ・キュッへ(木乃久兵衛) 
〒186-0012東京都国立市西2-11-32
料金:当日 1200円 予約 1000円
(定員 40名ほど、あまり入れません)
予約・問い合わせ先 042-577-5971キノ・キュッヘ
(メイル予約→ mailtomakiko@yahoo.com:
 お名前と連絡先、人数、時間を明記してください)
主催:エル・エスパシオ・ラ・ペリクラ
協力:山形国際ドキュメンタリー映画祭事務局

内容紹介

[中略]

<<<<<<<<豪華絢爛ひとくせもふたくせもありの登場人物たち >>>>>>>>>>>

[中略]

* ロベール・フォーリソン (フランスの歴史修正主義者、チョムスキーは彼の言論の自由を擁護してバッシングを受けたことがある。

[後略]

 以上で引用終わり。

 私は、この上映会の申し込みの電子手紙に、わざと次のように記した。

 日本の歴史見直し研究会代表の木村愛二です。

 上映会予約申込みします。

 で、以下 [ここでは上記] の映画の中の「ロベール・フォーリソン」とは、著書を読んだのが1994年で、1995年以来、文通、電話、パリで同宿し、数日の裁判傍聴、談論の関係ですが、彼はrevisionist(見直し論者)と名乗っており、「否定論者」(negasionist) は悪口なのです。「歴史修正主義者」も、「修正主義」の語感が悪いので、私は採用しません。御検討下さい。

 以上で引用終わり。

 主催者からは、以上の私の私見に関する反応はなかった。その意図は分からない。

 で、我慢して見てみると案の定、チョムスキーはフォーリソンの言説に関する「言論の自由」だけは擁護するが、騒ぎになってからは逃げ出して(一応は本人の反省の弁あり)いるし、肝心要の「ホロコーストの大嘘」には同意していないことが、確認できた。

 一方、この映画の監督の方は、フォーリソンの出番の後にわざわざ、私の表現では映像詐欺の典型、「解放」されたナチ収容所における英米軍による死体の後始末情景を説明なしに加えて重ね、重々しい背景音楽を轟かせ、具体的な論証を抜きにして、フォーリソンの言説自体を犯罪的と思う込ませる手法を駆使していた。

 監督の意図は明らかである。彼が、ホロコーストの大嘘を見抜けぬのか、それとも知っていて素知らぬ振りなのかは不明であるが、こうしなければ欧米での商業的な流通は不可能であることだけは確かである。

 チョムスキー自身については、だいたいの検討が付いていたが、その通りだった。

 私は、アメリカの歴史見直し研究所に赴いた際、本物の登山用背嚢一杯の書籍を買い求めたのだが、その中にチョムスキーの著書が3冊ほど入っていた。しかし、私の主眼の「ホロコーストの大嘘」に関しては、ほとんど無意味なので、めくってもみなかった。その他の情報によっても、チョムスキーは、決して本物の反体制派の活動家ではなくて、言語学者としての地位を確立してから、ヴェトナム戦争反対の学生運動に担がれたと判断できたから、それほどの興味は抱いていなかった。

 上記の映画によると、1964年に学生運動に連帯するのだから、私が1960年の安保闘争で「左傾」して人生が狂ったのよりも4年後のことになる。彼は私より9歳年上だから逆算して加算すると、私よりも13年も年を食ってから「左傾」したのであって、それまでは「乳母日傘」のボンボン学者だったわけである。

 私の分類では、彼は自称または他称の「善人」である。他の例を引くと複雑になるから避けるが、同種の彼らが反体制の立場を取っていても、決定的に排除されないのは、私の表現では、体制の役に立つ「限界内文化人」だからである。現代の自称「民主主義」体制の下では、「言論の自由」の張り紙を貼りまくる必要上、彼らのような肝心要の所での「日和見文化人」は、むしろ必要不可欠な「猿芝居」の「脇役」または「引き立て役」としての必需品なのである。

 この種の「善人」に関しては、別途、イギリスの警句、「偽の友は公然の敵より悪い」または「公然の敵の方が偽の友より良い」や、思考停止の狂信者との関連で論じてきたが、最近、次の引用を発見した。

「確信は真理にとってウソより危険だ(フリードリッヒ・ニーチェ)1878年」

 今から114年前の警句である。

 で、本日は、就寝前の気分直しのために、これらの「善人」どもに「告ぐ!」警告を発したくなった。

 以下の旧稿が「悪人礼賛」の鍵言葉で電網から容易に取り出せたので、これを再び広める。わが「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」(その16)の一部である。

http://www.jca.apc.org/~altmedka/pro-16.html

[前略]

 怪しげな「善人」「正義の味方」気取りの連中を考える上で、私は、日本共産党の「科学的社会主義」などという言葉の遊びよりも、イギリスで最初の共和制を実現したピューリタン革命(1640-1660)期の思想の代表作『リバイアタン』(Leviathan,1651)の著者、ホッブズ(Thomas Hobbes,1588-1679)の「万人の万人に対する戦い」、さらには「人は人に対して狼である」という喝破を推奨する。

 そして、閑話休題。偽善に飽き飽きしたところで、一服の清涼剤と、今後の議論の参考のために、それらのイギリスの思想潮流に通じていたはずの中野好夫の短文を紹介したい。

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悪人礼賛
(1949.10)

 ぼくの最も嫌いなものは、善意と純情との2つにつきる。

 考えてみると、およそ世の中に、善意の善人ほど始末に困るものはないのである。ぼく自身の記憶からいっても、ぼくは善意、純情の善人から、思わぬ迷惑をかけられた苦い経験は数限りなくあるが、聡明な悪人から苦杯を嘗めさせられた覚えは、かえってほとんどないからである。悪人というものは、ぼくにとっては案外始末のよい、付き合い易い人間なのだ。という意味は、悪人というのは概して聡明な人間に決っているし、それに悪というもの自体に、なるほど現象的には無限の変化を示しているかもしらぬが、本質的には自らにして基本的グラマーとでもいうべきものがあるからである。悪は決して無法でない。そこでまずぼくの方で、彼らの悪のグラマーを一応心得てさえいれば、決して彼らは無軌道に、下手な剣術使いのような手では打ってこない。むしろ多くの場合、彼らは彼らのグラマーが相手によっても心得られていると気づけば、その相手に対しては仕掛けをしないのが常のようである。

 それにひきかえ、善意、純情の犯す悪ほど困ったものはない。第一に退屈である。さらに最もいけないのは、彼らはただその動機が善意であるというだけの理由で、一切の責任は解除されるものとでも考えているらしい。

 かりにぼくがある不当の迷惑を蒙ったと仮定する。開き直って詰問すると、彼らはさも待っていましたとでもいわんばかりに、切々、咄々としてその善意を語り、純情を披瀝する。驚いたことに、途端にぼくは、結果であるところの不当な被害を、黙々として忍ばなければならぬばかりか、おまけに底知れぬ彼らの善意に対し、逆にぼくは深く一揖して、深甚な感謝をさえ示さなげればならぬという、まことに奇怪な義務を負っていることを発見する。驚くべき錦の御旗なのだ。もしそれ純情にいたっては、世には人間40を過ぎ、50を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいるのだ。だが、40を越えた純情などというのは、ばくにはほとんど精神的奇形 [ルビ:モーローン。註] としか思えないのである。

註 [2001.6.8.]:原語はmoron。ギリシャ語の「愚か」に由来し、わがiMac内臓の小学館ランダムハウス辞書には、「【1】?(一般に)愚か者,ばか,まぬけ.【2】心理☆ぢ軽度精神薄弱者. 【3】性的変質者.」とある。

 その意味からいえば、ぼくは聡明な悪人こそは地の塩であり、世の宝であるとさえ信じている。狡知とか、奸知とか、権謀とか、術数とかは、およそ世の道学的価値観念からしては評判の悪いものであるが、むしろぼくはこれらマキアベリズムの名とともに連想される一切の観念は、それによって欺かれる愚かな善人さえいなくなれば、すべてこれ得難い美徳だとさえ思っているのだが、どうだろうか。

 友情というものがある。一応常識では、人間相互の深い尊敬によってのみ成立し、永続するもののように説かれているが、年来ぼくは深い疑いをもっている。むしろ正直なところ真の友情とは、相互間の正しい軽蔑の上においてこそ、はじめて永続性をもつものではないのだろうか。

「世にも美しい相互間の崇敬によって結ばれた」といわれるニ-チェとワーグナーの友惰が、僅々数年にしてはやくも無残な破綻を見たということも、ぼくにはむしろ最初からの当然結果だとさえ思えるのだ。伯牙に対する鍾子期の伝説的友情が、前者の人間全体に対するそれではなく、単に琴における伯牙の技に対する知音としてだげで伝えられているのは幸いである。伯牙という奴は馬鹿であるが、あの琴の技だけはなんとしても絶品だという、もしそうした根拠の上にあの友情が成立していたのであれば、ぼくなどむしろほとんど考えられる限りの理想的な友情だったのではないかとの思いがする。

 友情とは、相手の人間に対する9分の侮蔑と、その侮蔑をもってしてすら、なおかつ磨消し切れぬ残る1分に対するどうにもならぬ畏敬と、この両者の配合の上に成立する時においてこそ、最も永続性の可能があるのではあるまいか。10分に対するベタ惚れ的盲目友情こそ、まことにもって禍なるかな、である。金はいらぬ、名誉はいらぬ、自分はただ無欲でしてと、こんな大それた言葉を軽々しく口にできる人間ほど、ぼくをしてアクビを催させる存在はない。

 それに反して、金が好きで、女が好きで、名誉心が強くて、利得になることならなんでもする、という人たちほど、ぼくは付合いやすい人間を知らぬのだ。第一、サバサバしていて気持がよい。安心して付き合える。金が好きでも、ぼくに金さえなければ取られる心配はないし、女が好きでも、ぼくが男である限り迷惑を蒙るおそれはない。名誉心が強ければ、どこかよそでそれを掴んでくれればよいのだし、利得になることならどんなことでもするといっても、ぼくに利権さえなければ一切は風馬牛である。これならば常に淡々として、君子の交りができるからである。

 金がいらぬという男は怖ろしい。名誉がいらぬという男も怖ろしい。無私、無欲、滅私奉公などという人間にいたっては、ぼくは逸早くおぞ気をふるって、厳重な警戒を怠らぬようにしてきている。いいかえれば、この種の人間は何をしでかすかわからぬからである。しかも情ないことに、そうした警戒をしておいて、後になってよかったと思うことはあっても、後悔したなどということは一度もない。

 近来のぼくは偽善者として悪名高いそうである。だが、もしさいわいにしてそれが真実ならば、ぼくは非常に嬉しいと思っている。ぼく年来の念願だった偽善修業も、ようやく齢知命に近づいて、ほぼそこまで到達しえたかと思うと、いささかもって嬉しいのである。

 景岳橋本左内でないが、ぼくもまた15にして稚心を去ることを念願とした。そしてさらに20代以来は、いかにして偽善者となり、いかにして悪人となるかに、苦心修業に努めて来たからである。それにもかかわらず、ぼく自身では今日なお時に、無意識に、ぼくの純情や善意がぼくを裏切り、思わぬぶざまな道化踊りを演じるのを、修業の未熟と密かに深く恥じるところだっただげに、この定評、いささかぼくを満足させてくれるのだ。

 もっとも、これはなにもぼくだけが1人悪人となり、偽善者たることを念願するのではない。ぼくはむしろ世上1人でも多くの聡明なる悪人、偽善者の増加することを、どれだけ希求しているかしれぬのである。理想をいえば、もしこの世界に1人として善意の善人はいなくなり、1人の純情の成人小児もいなくなれば、人生はどんなに楽しいものであろうか、考えるだけでも胸のときめきを覚えるのだ。その時こそは誰1人、不当、不法なルール外の迷惑を蒙るものはなく、すべて整然たるルールをまもるフェアプレーのみの行われる世界となるだろうからである。

 されば世のすべての悪人と偽善者との上に祝福あれ!

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 私は、以上のような本音の人間観察、自己評価の上に立つことなしに、唯物論だの社会主義だのと正義の味方面して論じるのは、偽善に他ならないと思う。[後略]

 以上で引用終わり。

 上記の内、「世には人間40を過ぎ、50を越え、なおかつその小児の如き純情を売り物にしているという、不思議な人物さえ現にいる」という部分が、チョムスキーにも当て嵌まると言ったら、おそらく同種の「善人」の崇拝者たちは、きっと怒るだろうが、憎まれ愚痴を叩くのは、わが努め、いや、正直に悪人振ると最高の趣味なのである。

 蛇足になるが、ホロコーストの大嘘を守護し、911の謀略を疑わずに、イスラエルのパレスチナ侵略、アメリカのアフガン侵略に反対して、だから自分は善人だと思いこんでいるのは、やはり、「精神的奇形 [ルビ:モーローン] としか言いようがないのである。

 以上。


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