岡崎哲くん 殴打死事件 ( 事例No.981008 )
TAKEDA 上申書


 以下は、「学校を訴えている裁判」の一審敗訴を受けて、控訴審の準備書面のひとつとして、私が岡崎さんから依頼を受けて東京高等裁判所に提出した「上申書」です。短期間に作成しなければならない事情があり、後から考えれば、あれも盛り込めばよかった、これも盛り込めばよかったと思える不完全なものです。また、被害者よりの内容で公平な見方ではないと言われるかもしれません。しかし、これがこの事件に対する現在の私の見方、考え方です。
 そして、結果は、この上申書は元より、他の方の上申書、意見書、岡崎さんの切実な訴え、何ひとつ裁判官に顧みられることはありませんでした。それは論点や文章の未熟さによるものではないと思います。審議を尽くす前にすでに、裁判官たちによって最初から結論は用意されていたと感じざるを得ません。
 この国で被害者に人権などない、1985年に国連が採択した「国連被害者人権宣言」( STEP3 参照 )などなにひとつ守られていない、と感じます。



                                上 申 書

東京高等裁判所第22民事部 御中
                                                  住     所
                                                  S.TAKEDA      印
             
1.牛久市中学生暴行死事件に対する私の見方
 私は三多摩「学校・職場のいじめホットライン」という市民団体に所属し、いじめや体罰など学校で起きた事件・事故、少年事件等に関心を寄せる横浜の一市民です。
岡崎哲君が亡くなった後、事件のことを知って裁判の傍聴に行き、岡崎さんご夫妻と知り合いました。それまではご両親や哲君とも面識もありませんし、牛久一中とも一切関わりのない人間です。しかし、だからこそ第三者の目でこの事件のことを見られるのではないかと思います。
事件の詳細については新聞や雑誌、遺族に聞いた話から情報を得ています。東京地裁の加害少年と両親を訴えた裁判や水戸地裁土浦支部で行われた牛久市と牛久市立第一中学校を訴えた裁判の公判も、何度か傍聴させていただきました。


(1)少年たちの証言から 

 水戸地裁の公判のなかで、とりわけ印象的だったのは、2001年6月26日のT君とY君の証言です。
原告弁護士の質問に対し2人はまるで誰かに入れ知恵されてきたかのように、「わからない」「覚えていない」を繰り返しました。何か少しでも思い出したことを話してほしいと言われても、「何も思い出さない」と答えていました。事件はほぼ2年半前ということで、彼らは本当に覚えていないのでしょうか。何もかも忘れてしまったのでしょうか。

 私は学校事故の裁判で、当時の生徒たちが何人も証言するのを聞いたことがあります。6、7年も前のことなのに、法廷で証言した3人ほどの元生徒たちはみな、自分のいた位置や教師のいた場所、当日の様子など、とてもよく覚えていました。被告側弁護士の「昔のことなのにずいぶんよく覚えているね」という反対尋問に、「目の前で同級生が亡くなってショックでした。自分にとって特別なできごとです。はっきりと記憶しています」と答えていました。
 この学校事故があったのは元生徒たちが中学3年生、14歳から15歳の時です。岡崎君の事件も同じ中学3年生時であり、条件にさほど違いがあるとは思えません。

 T君やY君の場合、覚えていることと覚えていないことの差が激しいというのが、証言を聞いた私の印象です。
ある程度、事前に予想がつく質問に対しては、自信をもって「覚えていません」「わかりません」と答えるのに対し、予想外の質問をされると、どう答えてよいかわからず、ついうっかりと本音がポロリ、ポロリと出てしまったように感じました。
 なかでもY君の証言は衝撃的でさえありました。H君グループの一員であるにもかかわらず、彼は事件時には現場にいませんでした。その理由というのは、カバンを預かって自転車でH君の家まで届けていたからだと言います。塾に行くのに時間がないので、玄関の中には入らず家の外に置いていたと言いました。しかも、この日だけでなく3年生になってからずっと続いていた日課だということでした。あとでY君の通っていた塾はH君の家とは逆方向だと聞きました。塾に行くための時間が切羽詰まっているにもかかわらず、毎日、H君のカバンを塾とは反対方向の自宅まで届ける。身軽になったH君は心おきなく仲間たちと遊んで帰れるということでしょうか。
 こうした行為を子どもたちの間では「パシリ」(使い走りの意)と言います。このエピソードは、グループ内でのH君とY君の位置関係を語っていると思います。多くの非行少年グループ内でピラミッド型(人数構成から言えば釣り鐘型)にメンバーの序列が決められています。その頂点にH君がいて、中間にT君やその他の仲間が、一番下にパシリとしてY君がいたのではないかと思われます。


(2)予想される暴行の理由

 少年たちのリンチ事件の多くで、集団で1人もしくは2、3人を取り囲んで暴行していることは、新聞記事などで周知のことです。その場合、必ずしも被害者にリンチを受けるような原因があったり、両者の利害関係が対立しているとは限りません。特に中学2年生から3年生にかけて反抗期であること、受験へのストレス、成長期のホルモン分泌など身体的なこともあって、子どもたちはイライラします。ムカツク気持ちを発散するために、子どもたちは、いじめや恐喝、暴力を振るいます。現に牛久第一中学校も当時、万引きが横行したり、けんかも日常的にあるなど、たいへん荒れていたと聞きます。事件の少し前に、同中PTA役員のお子さんが鉄道自殺を遂げたことも聞き及んでいます。

 少年たちはグループの中での地位を保持するために、けんかや暴行という手段を使って、仲間に自らの力を誇示します。「さなぎの家 同級生いじめ殺人事件」(西山明・T周紀著/小学館文庫)のなかでは、「パワーゲーム」と表現されています。
 事件当日、3年3組の教室でH君が動きやすいようジャージに着替え、周囲の生徒に、これからけんかをすることをわざわざ話していたというのも、自分のパワーを誇示したいがための行動ではなかったでしょうか。一方で哲君は、自分の周囲にけんかをすると吹聴するようなことはしていません。少なくとも彼にとってけんかは自らの力を誇示する手段ではなかったのでしょう。

 警察発表を元にした事件直後に出た新聞報道や加害少年の供述では、哲君のほうから「けんかができないんだろう」とH君にしつこく言い寄り、けんかを強要したことになっています。少年を訴えた東京地裁の裁判でも、哲君にも非があったとして2割の過失相殺がされています。被害者の哲君は非常にけんか好きで、加害者のH君はけんかを極力避けていたにもかかわらず、やむなく応じた結果、不幸な事故となってしまったというような印象を受けます。しかし、事件以前の二人を比べた時に、その印象がまるで逆になるのはなぜでしょう。

 事件直前のトイレでの事件でも、口論の末、H君が哲君の腹付近を1回蹴るなどしたという証言がありますが、哲君は声を荒げることをしても手は出していません。そして、居合わせた教師に対しても暴行を受けた事実を告げずに、自分がへんなことを言ったからH君が怒ったのだと、H君をかばうようなことを言っています。(当の教師は哲君以外には目撃していないと裁判で証言しましたが。)
 写真で見た哲君の遺体の顔には抉られたような鋭い傷跡がありました。遺族が哲君の遺体の写真を何人もの医師や拳法をやっている人などに見せて聞いた結果、顔の傷は素手ではできない、表面が粗い鈍器のようなもの、例えばメリケンサックのようなものを使用したのではないかと言われています。
事件翌年(1999年)1月25日、司法解剖をした筑波大学教授の三澤省吾解剖医から遺族が話を聞いた際も、顔の傷の一部はメリケンサックを使用した可能性があることがジェスチャーを交えて説明されたということです。また、哲君の手、腕、足には相手を殴ったり、蹴ったり、また防御した痕跡すらないということでした。

 死に至る攻撃を受けながら、素手でさえ相手を殴った形跡がないという哲君一方で、気が弱い少年が保身用に持ち歩くこともあるナイフではなく、メリケンサックのような自らが積極的に攻撃行動に出なければ使えない武器を使用したというところに、私自身は加害少年のけんかへの慣れを感じます。
日頃、けんかをしない少年が、動きやすいようにジャージに着替えたり、学校の行き帰りのオモチャ屋などで簡単に手に入るはずのないけんか用武器を携帯し、仲間を引き連れて人目につかない場所まで哲君を誘導するでしょうか。
また彼は、グループの頂点にいて同級生の少年を毎日のように自らのパシリとして使えるような位置にどうやって上りつめることができたのでしょうか。

 一方で、サッカーに将来の夢を託し、日々練習に励み、着実に実績を積み上げてきた哲君が、けんかでエネルギーを発散したり、けんかという手段を使って自分の力や存在を周囲にアピールしなければならないとは、とても思えないのです。
過去にも哲君は殴ってきた相手に対して、「殴ったら友だちでなくなるから」と言って殴り返すことをせずに仲直りをしたというエピソードがあります。「三発殴ったな。覚えておくぞ」この言葉は、H君とのいざこざの際、大きな声をあげはしても手は出さなかった哲君の姿勢とも通じるものです。

 また、事件2週間くらい前に、H君とも仲の良い少年に自宅から呼び出された時も、けんかになるのではという家族の心配をよそに、哲君は話し合いで解決をしています。「話をすることで、お互いが何を思っていたか理解できたから、そんなに心配することはない。あいつも、ああいうふうに見えるけれど、いいやつなんだよ」と彼は家族に言っています。
 あくまで私の想像ですが、これらの経験から哲君は、かつては親しかったこともあるH君とならなおさら、どんなことがあっても話し合いで解決できるという強い自信を持ったのではないでしょうか。哲君のほうは暴力で解決しようとは思っていなかったからこそ、わざわざジャージに着替えたH君を前にしても、制服のままついて行ったのではないでしょうか。そうでなければ、H君の仲間が何人も一緒についてきて、けんかをすれば圧倒的に不利だと誰にでもわかる状況下で、逃げることもせず、助けを求めることもせず、一人のこのこついていくとは考えがたいでしょう。

 岡崎哲君の暴行死事件を、証拠もなく集団リンチだと断定するつもりはありません。ただ、他の多くの少年事件をみていると、その可能性が十分に考えられる事件だと思います。その疑念を残したままでは、遺族は到底、子どもの死を受け入れることはできないでしょう。無実であるのなら、疑いを抱かれた子どもたちも不幸です。そしてさらに、もしも集団リンチが事実であるとするならば、重大な罪が隠蔽され、そのために哲君の名誉は大人たちの手で不当に踏みにじられたことになります。

 これは単に私の考えすぎでしょうか。遺族の被害妄想でしょうか。だとしても、遺族が疑惑を持たざるを得なかったことへの責任は、遺族に対して調査・報告の義務をきちんと果たさなかった学校にあります。


2.学校の調査・報告義務違反について
(1)「一対一の素手でのけんか」報告について

 教師たちは生徒たちから十分な聞き取り調査をしていないのにもかかわらず、事件直後の病院で、「一対一の素手でのけんか」を遺族に強調しています。
2001年5月22日の生徒らの証言でも、10月16日の教師の証言でも、教師はH君以外の現場にいた生徒らに、さっさと家に帰って待機しているようにとだけ言って、何があったのかの聞き取り調査を行っていないということでした。その後、生徒宅に電話をした際も、まっすぐ家に帰っているか、落ち着いているかを確認しただけだと証言しています。
では、「一対一の素手でのけんか」とは、いったいどこから出てきたのでしょう。たとえ教師らが生徒たちからすでに事情を聞いていたとしても、事が同級生の死亡という重大なことだけに、保身からついウソをつくことは十分にあり得ることです。教師たちは、どうしてそんなに結論を急がなければならなかったのでしょう。まだ調査していないためにわからないのなら、わからないと答えればよかったのです。今わかっている事実だけを答えればよかったのです。

 しかし教師らは、現場にH君以外の生徒たちが数名いたということや、事件直後に哲君が救急車で搬送されたことを聞いたMさんが体育館のわきで「何かあったら。私のせいだ」と泣きわめいたことを知りながら遺族に隠しています。(Mさんの件は事件の核心にかかわる極めて重要なことであるにもかかわらず、警察にも、学校の会議でもまったく話していないと教頭は証言しました)。

 また、私のような素人が遺体の写真を見てでさえ、ただ拳で殴られただけで、このような鋭い裂傷がつくはずがないとわかるような顔の傷を前に、医師でもない教師たちが「素手」と断定しました。(その一方で、救急車で搬送される哲君に付き添った教師は、「どうしたら、どうやったらこんな傷がつくのだろう」と救急車の中で思ったと後に証言しています。そして、そのとき同席していた校長は「凶器はなかった!」と声を荒げていたといいます。)

 それらを考え合わせれば、教師らは「一対一の素手でのけんか」ではない可能性があることを知りながら、また哲君が理由もなくH君にけんかをふっかけたわけではないことを知りながら、故意に遺族や報道陣を言いくるめようとしたと思われても当然でしょう。たとえば、加害少年であるH君の父親と兄が現役警察官であることから、警察など権力の意志が働いて、教師たちはシナリオ通りの役割を果たしたと遺族が感じるのは、客観的に見ても無理からぬことではないでしょうか。

 調査していないことを断定して報告したり、事実を知りながら故意に黙っているのは、学校側が単に「調査・報告の義務を怠った」と言うよりはむしろ、積極的に事実を歪めて虚偽の報告を遺族にしようとしたと言っても過言ではないでしょう。


(2)事件に関与した生徒への対応について

 たとえ現場に居合わせた子どもたちが暴行とは全く無関係だとしても、遺族に多数の子どもたちの事件への関与の疑念を抱かせた責任は、警察と学校にあるでしょう。最初は「一対一」ということばかりを強調されて、H君の他に彼の仲間の少年たちが現場にいたことを遺族が知らされたのは、10月14日の警察での事情聴取の時が初めてです。
それも遺族のためを思っての情報提供ではなく、事件時に現場近くにいた子どもたちの親から「犯行に加わったんじゃないかと、学校で疑われて困っている。警察から岡崎さんに説明してほしい」と頼まれたからだと、警察官は目的を両親に説明しています。
 事件の夜から遺族はすでに真実を求めての行動をはじめていたにもかかわらず、なぜ事件から一週間近くも隠され続けなければならなかったのでしょうか。この時に警察で知ることがなければ、学校側はずっと黙っているつもりだったのでしょうか。疑問に思うのは当然のことだと思います。

 もし学校側が事件の翌日か翌々日にでも、現場に居合わせた少年たちや、「私が原因だ」と泣き叫んでいたという少女・Mさんを伴って、遺族宅を弔問に訪れていたとしたら、結果はどうだったでしょう。その場で生徒一人ひとりの口から直接、自分たちの目の前で哲君に何があったのかを聞き取ることができたら、遺族は子どもたちの行動に強い不信感を抱くことはなかったでしょう。そして、現場にいながら哲君が死に至るまでH君を止めることができなかったことを生徒たちが遺族に謝罪していたら、両者の関係がこじれることはなかったでしょう。

 学校側が事件直後から現場に居合わせた生徒たちの情報を持ち、両者の間を取り持つことが可能であったにもかかわらず、それをしようとはしなかったことは、遺族にとってだけでなく、生徒たちにとっても、たいへん不幸なことです。該当生徒のなかには、哲君と一緒に地元のサッカークラブで哲君のお父さんにコーチをしてもらっていた子どももいます。しかし哲君の死後、焼香に訪れることもなく、裁判の証人に呼ばれたことすら恨みに思わなければなりませんでした。
 地域で築き上げたあたたかな人間関係を砕き、友人の死を悼む心を生徒たちから奪った責任は、両者が和解する機会をつぶした学校にあるのではないでしょうか。


(3)調査・報告義務の放棄について

 学校側は「一対一の素手でのけんか」と両親に報告した後は、校長と教頭は職員会議のなかで「調べるのは警察にまかせましょう」と話し、調べる努力をまるでしなかったことを教師が10月16日法廷で証言しています。
学校は警察ではありません。しかし、警察には警察の役割があるように、学校には学校の調査方法や役割があるのではないでしょうか。すべてが学校内の人間関係のなかで起きた事件です。学校側は「自分たちに責任はない」と言う前に、なぜこのような事件が起きたのか、本当に責任はなかったのかを真剣に調べたのでしょうか。警察には言えないことも教師には話せる、そんな生徒との信頼関係をそれまでに全く築いてこなかったのでしょうか。

 
調査・報告は誰のために何のために行われるのでしょう。
まずは被害者や遺族の、「何があったのかを知りたい」という切なる思いに応えるためのものだと思います。
思春期になれば自立心の強い子どもは、親に学校での出来事を話さなくなります。それでも、親が学校に安心して子どもを預けることができるのは、学校や教師を信頼しているからです。何かあっても教師が良い方向に子どもたちを導いてくれる。あるいは、何か問題がおきそうなときには、家庭に報告や連絡、相談をしてくれると信じているから、学校から連絡がないときには、何もないのだと安心していられるのです。

 そして、ひとたび事件や事故があった時に、親にはわが子に関する情報がほとんどありません。一日の大半を子どもたちは学校で過ごし人間関係も学校のクラスや部活がほとんどというなかで、学校はどこよりも生徒の情報を握っていますそれが、まるで自分たちには関係がないかのように事件から身を引こうとする、新たな情報を求めるどころか、手持ちの情報さえ出そうとしない、真実を封じ込めようとする学校の姿勢に、子どもを殺された親が納得できるはずがありません。

 また、調査・報告は、事件に関与した子どもたちのためにもなされるべきだと思います。渦中にいたからといって、子どもたち自身が何があったを正確に把握しているとは限りません。記憶があいまいになる前に、もしくは周囲からの情報に混乱させられる前に、事実関係をきちんと整理する必要があります。子どもたちにとっても辛い作業になるでしょう。だからこそ、大人たちのサポートが必要なのです。自分たちの関与した事件にきちんと向き合うことは、同級生の死というショックを乗り越えて生きていくためにも、子どもたちにとって必要なことだと思います。

 しかし、S君やMさんの重大なことを打ちあけようとする姿勢にすら、学校側は、よけいなことは言うなとばかりの態度だったといいます。勇気をふりしぼって教師に打ち明けようとして、話を聞いてさえもらえなかった、学校にありのままの自分というものを拒絶された子どもたちの心に傷は残らなかったでしょうか。真実を言うな、嘘をつき通せという大人たちの姿勢は、子どもたちの心に何をもたらすでしょう。

 さらに、調査・報告は事件に関与した人たちだけのためにあるわけではありません。があったかを知ることによって初めて、このような事件が二度と起きないようにするにはどうすればよいのかを考えることができるのです。教育委員会への事故報告書も、そういう主旨で義務づけられたものではないのでしょうか。一校にとどまらず教育界全体の問題として捉え教訓として生かしてこそ、尊い命の犠牲に唯一応えられる方法ではないでしょうか。
そして多感な年頃の生徒たちに、学校のなかで、自分たちの周囲で、一体何が起きたのかを説明する義務を学校側は負っていると、教師たちは考えなかったのでしょうか。卒業するまで、H君やその仲間の少年たちとともに学校生活を継続せざるを得なかった生徒たちやその親たちに、何も知らされないことの不安や不満、学校への不信感はなかったのでしょうか。

 私のウェブサイトを偶然見た卒業生がメールをくれました。彼の心のなかにもずっとひっかかり続けていたのでしょう。だからこそ、哲君の事件を報じた私のサイトに辿り着くことができたと思っています。本来なら、そうした子どもたちの疑問に答えるのは学校の役割ではないのでしょうか。それを学校側は放棄したのです。
生徒に愛情があるのなら、親同様に何があったかを知りたいと思うのが人としての当たり前の感情ではないでしょうか。そのことを子どもたちも感じるはずです。

 これが、学校ではなく企業内で起きた事件だとしたら、企業の営みに関わる重大な事故・事件について徹底した調査・報告もせず、従って新たな事故・事件の防止策もたてずに、ただ忘れようとすることが許されるはずはありません。
起きてしまった重大な事件の調査・報告を怠り、情報を共有しようとしない学校は、事件以降も生徒たちの安全配慮義務を放棄し続けたことになると思います。
学校は子どもたちの命と心を預かっています。生徒の健全なる心身の発達は、教育にとって最大の目的ではないでしょうか。それが根こそぎ奪われてなお、無責任なことが許されてよいのでしょうか。司法は、どういう理由であれ、学校の隠蔽体質をこのまま見逃してよいのでしょうか。 


3.学校の安全配慮義務違反について
(1)少年グループの問題として

 この事件は岡崎哲君だからこそ起きた事件ではけっしてないと思います。裁判でも生徒たちは、けんかをするとしたらH君と哲君とではなく、H君とS君だと思っていたと証言しています。S君が被害者になっていた確率のほうがむしろ哲君よりも高いと思われます。被害者はもしかしたら、S君だったかもしれません。しかし、それがS君だったとしても、けんかの原因や死因、被害者を悪く言う学校、加害者への処分、学校の隠蔽など、事件の流れはやはり何ひとつ変わらなかったのではないかと思います。にもかかわらず、この事件ではなぜか一番の被害者である哲君が一番の悪者にされています。

 一方で、H君が被害者になっていた確率は極めて低いでしょう。なぜなら、彼は仲間を引き連れて現場に行っています。哲君も加勢を頼もうと思えばS君やサッカー部の仲間を連れてくることもできたでしょうが一人でした。
他の少年たちが実際に手を出したかどうかは別にしても、H君たちがグループであったことと哲君の死因とは大きく関係してくると思います。
たとえ哲君の腕力がH君より優位にあったとしても、彼の仲間の干渉によって簡単に逆転されてしまいます。そして、形勢が不利になったときには逃げられません。哲君一人に対して、H君はグループ数人で行動している段階ですでに、誰が見ても両者の関係は対等ではありません。対等でないものを「けんか」とは呼びません。

 また、仲間が見ている前では、その目を意識して自らの力を見せつけたくて、本人の意思以上に暴力がエスカレートして死にまで至らしめてしまった、こんなはずじゃなかったということは、多くの暴力事件の後で加害少年らが証言しているところです。仲間の手前、哲君を簡単にやっつけて格好をつけられると思っていたところが、スポーツマンであり男兄弟のなかで揉まれて育った哲君の思わぬ反撃にあい、このままではメンツがたたないと頭に血が上った。万が一を考えて事前に用意していた拳にはめるメリケンサックのような凶器を使用してとことんまでやってしまったとは考えられないでしょうか。

 一対一ではなく一対複数でこの事件を見たときに、両者の責任の度合いはまるで変わってきます。さらに、その相手が哲君でなくても構わなかったとしたら、S君や他の誰でもよかったとしたら、これは哲君とH君、あるいは哲君とグループの問題ではなく、明らかにグループだけの問題です。そして、死に至る犠牲者が出るまでグループを放置していた、事件後もその実態を解明して解体しようとしない学校の監督義務違反、安全配慮義務違反が問われる問題でもあるはずです。

 1999年1月22日にいじめ自殺した福岡県三瀦町城島中の大沢秀猛くんの民事裁判の2001年12月18日の福岡地裁判決では、学校はいじめを防止する義務を怠り生徒の安全を確保すべき配慮義務に違反したと判断し、一方で「いじめを受けることについて秀猛君に落ち度はない」として、両親の責任を否定し過失相殺などによる賠償額の減額をしませんでした。
 この事件でも、H君にとって相手は哲君でなくても、ストレスを解消できて周囲に力を誇示できる相手であれば誰でもよかったとしたら、哲君には何の落ち度もないと考えてよいのではないでしょうか。そして、そうであるならば、加害者を擁護するために哲君をむりやり悪者に仕立てようとした学校の罪は、更に重いものとなります。


(2)学校の問題認知と対応

 学校にはそれまで、このグループに関する情報が本当に何もなかったのでしょうか。ピラミッド型の権力構造を持つと思われるこのようなグループが、荒れていた学校の中で、3年生の10月というこの時期まで何も問題行動を起こさず、ただの仲良しグループとしておとなしく学生生活を送っていたとはむしろ考えがたいことです。

 法廷では「偶然である」「そのような認識はない」と否定されましたが、2年生からクラス替えをする時に3年3組に問題のある子どもたちを集めたということを、遺族を伴って弁護士が教師の自宅や学校を訪問したときに、複数の教師から聞いたということです。このことを聞いた時に、遺族は合点がいったといいます。
そのような事実の全くないところに、突然降ってわいたように、このような話ができあがるものでしょうか。そして、H君やT君、Y君、トラブルの原因になったMさんもみな3年3組に所属し、哲君はこのクラスに所属していません。
2年のクラス編成時、H君のほうから哲君とはクラスを分けて欲しいと要望があったとはいえ、もしも教師が哲君のほうにより多くの問題を感じていたのなら、3年3組になったのは哲君のほうではなかったでしょうか。

 どこの学校でも問題行動のある生徒たちの対処には頭を痛めています。一カ所に集めるというのはある面、合理的でしょう。3年生という就職、進学を控えた大切な時期にできるだけ他の生徒たちを巻き込みたくはないでしょう。従来なら2年から持ち上がるはずの女性教師の担当を外して、押さえがきくように若くて体格のよい男性教師を担任としてつけるのも、よく検討された結果に思えます。
 しかし、誰が猫の首に鈴をつけるのかで揉めたとき、海外に行っていて事情のわからない教師に担当させるというのは、無責任な押しつけではないでしょうか。担任教師は特別な引き継ぎもなかったことを公判で証言しています。生徒の問題行動について、きちんと説明したり、万全の協力体勢をとっていなかったとしたら、担任の認識不足から事件に発展することを避けられなかったとしても無理はないでしょう。学校の管理職の責任は免れないでしょう。

 同様のことを他の学校でも見聞きすることがあります。問題生徒がいて引き受け手のないクラスを他校から赴任してきて何も知らない教師に担当させる。責任逃れとも、教師間いじめともとれるやり方です。
 このように教師が逃げの姿勢でいる場合には、問題のある生徒とそうでない生徒がぶつかった時、暴力的な生徒を恐れて言いやすい問題のない生徒だけを叱るということがよく起こります。当日のトイレ前での事件を教師はH君のことは見なかったと法廷で証言していますが、ただ目を背けていただけではないでしょうか。
 荒れている生徒たちに対して、学校側が真剣に取り組んでこなかったとしたら、どうせもう卒業させるのだからと逃げの体勢に入っていたとしたら、その姿勢そのものが生徒への安全配慮義務違反になると思います。

 1992年1月10日に長野県飯田市の県立飯田高校で起きた小野寺仁君刺殺事件では、学校側に「犯行は十分に予見できた」にもかかわらず、問題ある生徒をそれと知りながら放置したとして、1999年9月28日、高裁で「管理者責任あり」との判決が下りました。岡崎哲君の暴行死事件もまた、教師らが生徒の問題から目を背けた教育環境の中で起こるべくして起きた事件ではなかったでしょうか。


4.教頭の岡崎哲君への名誉毀損について
(1)遺族への対応について

 事件当日、子どもが亡くなって悲しみのどん底にいるさなかに、わざわざ遺族が学校を訪れて真実を教えて欲しいと求めているにもかかわらず、教頭は賠償金の話をし「私の首でも取りますか」と言っています。大切な家族が亡くなったその日に、金の話をされて喜ぶ遺族がどこにいるでしょう。この時点で、学校側が遺族に対して一方的に宣戦布告をしたと取られても仕方がないでしょう。
 もしも、この時、教頭を含めた教師らが遺族とともに哲君の死を悲しみ、全校生徒にはどのように説明をしたらよいか、今後、真実解明と事件の再発防止のために具体的にはどのような行動をとっていけばよいかを真摯に話し合うことができたなら、遺族と学校側が敵対したり、遺族が学校を裁判で訴えるというようなこともなかったでしょう。子どもを殺されたばかりの遺族が、学校の対応にどれほど心を傷つけられたことでしょう。想像するに余りあります。
 そういう意味でも、遺族と学校の対立は、子どもを殺された混乱から被害妄想に陥った遺族が学校側に責任転嫁したものというよりむしろ、学校側が一方的かつ意図的に作り出したものに思えます。

 これがもし一般企業であればどうでしょう。クレーム処理の基本はまず相手の言い分をとことん聞くことから始まります。何が不満で、どうして欲しいのかを全部聞き取ったうえで、自分たちのできることと、できないことを明確にしていきます。謝罪すべきは誠意をもって謝罪するのが基本で、いきなり賠償金の話をしたり、「私の首でも取りますか」などと言うことはけっしてしません。すれば管理職はもちろん、社員としても失格です。懲戒免職の対象にさえなりかねません。

 教頭、校長の管理職は学校のなかで危機管理を預かる立場にいながら、学校にとっての顧客である生徒の保護者に対して、基本的な対応すらできていなかったことになります。まして相手は突然子どもを亡くして、とても大きなショックを受けています。ひとを思いやる心というものを教師たちは持っていないのでしょうか。
 その結果が招いた対立であり、子どもの命を失うという最大級の損害を被った家族が学校側にしかるべき対応・対策を求めた行為には何ら非はないと思われます。にもかかわらず、一方的に名誉を傷つけられたのは亡くなった哲君であり、学校に「敵対するもの」のレッテルを貼られた遺族です。


(2)哲君への名誉毀損について

 教頭は赴任して日が浅く哲君のことをよく知りもしないにもかかわらず、悪く言っています。教頭は哲君のサッカーの試合をどれだけ観戦したのでしょう。サッカーはチームプレイです。どれほどサッカーの技量があったとしても、自己中心的な人間を長年、一緒にボールを追いかけてきた仲間が、キャプテンに推薦するでしょうか。また、多くの選手を見てきてプレイヤーとしての素質を見抜くことに長けている、実績ある高校のサッカー部が、哲君をぜひ欲しいと問い合わせてくるでしょうか。

 学校を訴えている裁判のなかですら、10月16日に証言台に立った哲君のことを知る3人の教師たちは、誰一人として哲君のことを悪く言いませんでした。原告弁護士の「問題のある生徒でしたか?」「陰でいじめをするような生徒に見えましたか?」「自己中心的な生徒でしたか?」との質問にも、いずれもはっきりと「いいえ」と答え、哲君の印象を「元気で明るいスポーツマン」「単純明快で、問題のある生徒ではなかった」「友だちが多かった」と答えています。これらは、哲君の友人の話や両親が抱いているわが子像とも一致しています。

 そしてそれらが、教頭が警察調書で残した哲君の印象、今回の事件で作り上げられた哲君の印象とは余りにかけ離れているのはなぜでしょう。
 いじめや体罰、レイプなど、多くの学校内で起きた事件で、学校側は自分たちの責任を軽減させるために、被害にあった生徒のことを必ずのように悪く言います。小さなことを大きく言ったり、ウソをついてまで被害者の人格を貶めます。まるで、こんな悪い生徒だったのだから、いじめられても、恐喝や暴行の被害にあっても、殺されても、仕方がないといわんばかりです。学校とは全く関係のないところで事故や事件に巻き込まれて殺された場合には、学校は生徒の死を悼み、悪く言うことなどけっしてありません。学校と利害が対立すると学校側が判断した時のみ、被害者や遺族は学校の敵とみなされて、学校や保護者、地域から集中砲火を浴びます。

 管理職である教頭が加害者側を正当化させるために、あるいは事件を防止できなかった学校の責任を軽減させるために、被害者を故意に悪者に仕立てあげようとしたならば、殺されて自己弁護すらできないなかで、わが子が生きていた最後の印象も名誉をもずたずたにされるということは、遺族にとって耐え難い苦痛に違いありません。

 この裁判の中でも、2002年1月29日の校長と教頭の証人尋問の間に、被告弁護士はわざわざ、事件とは関係なく「被害生徒の悪性を証明したい」と恥も外聞もなく言ってきました。(裁判所の賢明なる判断のもとに、傍聴人の前で内容が公開されることなく却下されました。)
 哲君のことを知る3人の教師がきっぱりと哲君の悪性を否定しているのに、これはどういうことでしょう。もちろん、発達途中の子どもに、ひとつや二つ失敗があったり、間違ったことをしでかしていたとしても不思議はありません。しかし、殺されて人生のやり直しがきかない、自己弁護することも叶わない生徒に対して、事件と関係なく、過去の否定的な部分に殊更光をあてようとする意図は何でしょう。死者をムチ打つとは、まさにこのことでしょう。

 校長や教頭の言動を見聞きしていると、哲君への愛情がまるで感じられません。最初から深い愛情があったなら、生徒の死に対して親とともに深い悲しみを共有することができたでしょう。日頃、どんなに生徒たちのためと声を大にして言ったところで、その人の人生最大の悲劇に際して冷たい反応をする、葬式にも出ない、命日に焼香にも行かない、捨てられていたペンキの空き缶を平気で線香たてがわりにする、悪口を言う、亡くなったことの原因調査を真剣にしようとはしない、職員会議での議題にさえしない、「迷惑をかけられた」と言う、そんな現実の教師の態度を見て、生徒に愛情をもっているなどと誰が思うでしょう。実際に、裁判を傍聴に来ていた卒業生が、「尊敬していた先生だったのに」とがっかりして帰ったと聞きました。

 亡くなった哲君への対応はそのまま、生きている生徒への対応でもあります。加害生徒やその疑いをもたれている生徒に対しても、本当に子どもたちの将来を思って、真剣に対処したと言えるでしょうか。人生の最大級の危機とも言える分岐点で、学校は生徒たちをどう導いたのでしょうか。悪いことは悪いと、いつ、誰が、子どもたちに教えるのでしょうそこに見えるのは、大人たちのエゴと保身だけです。

 文部科学省は「いじめ」を@自分より弱いものに対して一方的に、A身体的・心理的な攻撃を継続的に加え、B相手が深刻な苦痛を感じているもの、と定義しています。そして、1994年7月15日にいじめ自殺した神奈川県津久井町立中野中の平野洋君の2000年7月に出た一審判決では、「一つひとつの行為は軽微でも全体としては重大な不法行為」として、加害生徒たちの共同不法行為を認定しています(高裁でも原告勝訴で確定)。
 同じことを牛久一中で教頭や校長がリーダーとなって、教師やPTA、地域の人びとを巻き込んで、遺族に対して行っています。子どもたちのいじめは罪に問われても、手本を示すべき大人の、まして学校の教員のいじめは許されるのでしょうか。傍観者もいじめに加担していることになると言ってきた大人たちが、学校の行為を黙って見過ごしてよいのでしょうか。遺族に対する教頭、校長の言動、学校の行為を子どもたちに胸を張って話せますか。学校に責任なしとしたことを子どもたちに公正な判断であると示せますか。

 子どもの問題をとやかく言う前に、子どもたちに対して恥ずかしくない大人社会を築いていきたいと思います。司法には率先して、大人であっても「いじめ」は罪になるということを社会に示して欲しいと思います。


5.学校の取るべき行動について
(1)他校の事例から

 不幸にして事件が起きてしまったときに、学校はどのような対応をするべきでしょうか。
1994年11月27日に、詳細な遺書を残していじめ自殺した大河内清輝君の遺族は、学校も生徒も訴えることはしませんでした。
清輝君の自殺の翌日には、学校側は教育委員会に対して「突然死」と報告し、生徒にも箝口令をひき、報道には「調べたが事実は出てこない」と、多くの学校の事故や事件と同じ対応をしています。しかし、教育委員長が学校にいじめの調査と遺族への報告を厳命してからは、学校は担任やいじめていた生徒らに事情を聞き、生徒全員に作文を書かせて、それらの情報をすべて遺族に開示しました。遺族は何度も加害生徒らから直接話を聞くことができ、生徒らは謝罪文も遺族に手渡しています。生徒たちは祥月命日には焼香にきて、生徒たちの手によるいじめをなくすための取り組みも行われました。この事件では、加害生徒11人のうち3人は初等少年院、1人は(当時の)教護院に送られました。5人の教師が処分を受け、新年度から校長も移動になりました。

 1995年4月16日に福岡県豊前市で、いじめ自殺した市立角田中学校の的場大輔君の場合も途中からは学校や教育委員会が、「自殺はいじめが原因だと思います。申し訳ないことをしたと思います」と謝罪し、県教育委員長も「遺書の内容から、いじめを苦にしたものと考えられる」と自殺の原因がいじめだったことを公式に認めました。そして、1993年3月には、市側が学校でのいじめが原因で自殺したことを認めて遺族に和解金を支払い、大輔君の死を風化させないよう今後もいじめ問題に取り組むことを確約する和解案を提示し、遺族が受け入れています。
 この的場君事件の場合は、四十九日が過ぎた頃、教師が付き添って加害者親子が遺族宅を訪問
し謝罪しています。命日にも親子3人でお参りに行っています。少年は和解の際、弁護人を通じて、「大輔君とご両親に対して一番伝えたかった事は、自分がしたことに対して謝るしかないという思いです。とうてい許してもらえるとは思っていませんが、謝るしかないと思い続けています」「この三年八ヶ月の間、一日として、大輔君のことを思い出さない日はありませんし、決して忘れることはできません。大輔君の死を通して、自分の自己中心的な部分や暴力で解決しようとしていた事、人に対する思いやりに欠けていたことなどは変えていかなければと思いました」「今後は自分がした事の重大さを反省し、思い続け、人としての道を外さないよう、どう生きていくか、その答えを探すために、ずっと考え続けようと思っています」などと書いた謝罪文を遺族に送ったということです。(ある「いじめ自殺」加害少年 七年目の告白/渡瀬夏彦/「現代」2001年7月号/講談社参照)

 処分も受け反省もした子どもたちは、二度とこのような事件を起こさないでしょう。一度きちんと自分の罪と向き合った彼らが、周囲の協力を得て回復するのも早いのではないでしょうか。また教師たちも、今度同じようなことがあればきっと、いじめ防止に全力を傾けるでしょう。
 もし牛久一中が、一人の生徒の死を真摯に受け止めて遺族の悲しみに寄り添っていたら。遺族のせめて真実を知りたいという思いに応えて、すべての情報を開示していたら。事件を未然に防げなかったことを反省し、それを形として現していたら。事件に関与した生徒たちと共に遺族宅を弔問に訪れていたら。そうすれば少なくとも今より遺族を絶望の淵に追いやることはなかったでしょう。学校や生徒を訴える民事裁判は起こらなかったでしょう。


(2)加害少年の証人尋問について

 H君とその保護者は事件から今日に至るまで一度ととして、遺族宅を訪問して焼香したり、謝罪の手紙を出すことも電話の一本もありません。同時並行して行われている3つの裁判に、保護者も本人もついに一度も顔を出すことはありませんでした。裁判の経過や結果が本人の耳に入っているかどうかすら定かではありません。現在わかっているのは、加害少年とその両親を訴えた裁判の一審判決で5600万円支払い命令を受けたことに対して、不服を申し立てて控訴してきたということくらいです。

 H君が事件のことをどう思っているのか、反省しているのか、保護者はどう思っているのか、具体的なことは遺族に何一つ伝わってこないなかで、哲君の死を心臓死として実刑に服することはなかったことは、本当に少年を守ったことになったのでしょうか。自分の罪と正面から向き合う機会を奪われた彼が、この先、罪の意識に悩むことは一生涯ないのでしょうか。ありのままの自分をさらすことを親や周囲から拒否された彼の心の荒れが、新たな事件を引き起こすということはないのでしょうか。

 民事裁判の法廷で、他の少年少女は証言台に立ちましたが、H君の証人尋問は東京と水戸の2つの地裁で拒否されました。
理由は、@少年事件で取り調べはさんざんやっている、A法廷で少年に証言をさせるのは酷であるし、学生生活にも支障をきたす、B今さら法廷で当時のことを微に入り細に入り、ビデオで再現するようなことは現実には無理であるし、しなければ被害を認定できないものでもない、C呼んでもどうせ拒否されるだろうからだと聞きました。
 他の少年、少女たちが証言台に立たされるなかで、なぜ彼だけが特別扱いされるのでしょう。民事裁判のなかで「心臓死」の認定が「暴行死」に変わったからといって、少年事件の結果が覆されて、今さら刑に服するわけではありません。懲罰として、彼を法廷でさらしものにしようというわけでもありません。ただ、元生徒や教師、遺族の証言が食い違い、事実認定が今だ不明確ななかで、誰よりも中心人物であり、事件のことを知っている本人の証言を聞くことが真実により近づくことではないでしょうか。

 また、事件以来一度も加害少年から話を聞くことができなかった遺族にとって、ウソでもいいから人から直接、事件のことや亡くなった息子のことをどう思っているのかを聞きたいと思うのは当然ではないでしょうか。そうでなくては、遺族にとって民事裁判を起こした意味すら感じられないでしょう。今の両親にとっておそらく、勝訴を勝ち取ること以上に、法廷で少年から話を聞くことは大切なことだと思います。

 法治国家と言われながら、法を遵守した親は、子どもが殺されても加害者から話を聞くことすらできません。学校をはじめとする周囲が隠蔽して真実を知ることさえできません。このままでは多くの被害者遺族が、法を守ること、法に頼ることにむなしさを感じるでしょう。
 真実に一歩でも近づくために、高裁ではぜひH少年の証人尋問の実現をお願いします。


(3)裁判の意味

 民事裁判は損害をお金に換算して賠償金を請求するためのものと言われますが、親が本気でわが子の命を代償としてお金を得たいと思うでしょうか。裁判をするしか他に真実に近づく方法が見つからないからやむなく裁判に訴えるのです。
 死ぬ時に側にいてやれなかった、命を救ってやれなかったことへの贖罪を込めて、わが子に何があったのか真実が知りたいだけなのです。それなしに親は子どもの死を受容することさえできません。そして、加害者には自分のやったこと、事件ときちんと向き合って反省し、二度とこのようなことを冒してほしくない、わが子の死を無駄にしてほしくないと思うのです。

 裁判を起こさなければ、子どもがなぜ、どのようにして亡くなったのか知ることさえ叶わない、謝罪ひとつ受けられないということは、本当はとても不幸なことです。裁判は子を亡くして傷ついた遺族に、心理的にも経済的にも非常に大きな負荷をかけます。なかには様々な理由から裁判さえ起こせない遺族もいます。
遺族が本当に望むのは、裁判を必要としない仕組みづくりではないでしょうか。

 しかし、その遺族にとってたいへん苦しい民事裁判のなかで、訴えを棄却するということは、遺族を悲しみと絶望のどん底に突き落とすことです。そして一人の子どもの命が失われたことを教訓に生かせない社会は、新たな犠牲を出し続けるでしょう。新聞を賑わす企業の事件を見ていても、反省がないところには何度でも同じ事件、事故が起きます。現に同じ学校で何人ものいじめによる自殺者を出していたり、恐喝や暴力の被害者を出しています。
 司法にお墨付きをもらった教師たちの怠慢は、新たな事件・事故を呼び込むでしょう。知らなかったこと、何もしなかったことが免罪符になるなら、教師らはますます生徒に無関心となり、学校は強いものが弱いものを支配し、いじめる無法地帯になります。嘘をつくこと、隠蔽することが罪に問われないならば、ますます学校は自分たちに都合の悪いことは隠すでしょう。生徒たちは教師を見習うでしょう。学校でおきた事件の真実はいつまでたっても闇の中です。

 そんな学校に自浄作用を期待できるはずもありません。そして再び事件が起きたときに一体誰が責任をとるのでしょう。何人の子どもたちが殺されれば、大人たちは真剣に変わろうと努力するのでしょうか。
生徒と生徒、教師と生徒が殺し合う、いつ命をなくすかもしれない学校。人が殺されても原因の追及もなく誰も責任をとらない、再発防止も話し合われないで事件が放置される学校。そんな危険な場所に、わが子をやりたいとは思いません。それくらいなら、家に引きこもっていてくれるほうがよほどましです。

 少年法の改正で厳罰化が議論されましたが、子どもたちを罰する前に大人たちの責任こそ明らかにされるべきではないでしょうか。そして、罰則化は、感情が先走る子どもよりむしろ、目先の損得勘定に左右されやすい大人たちにこそ有効な手段に思われます。罰則がなければ努力しようとない、楽なほうへ楽なほうへと流されていく、その結果ますます事態を悪くするのが、残念なことに今の大人たちの姿です。一方で、はっきりと責任が問われることに対しては惜しまず労力を注ぎます。見なかった、知らなかった、予測がつかなかったなどの言い訳が通用しないとなれば、教師は生徒たちの動向にもっと注意深くなるでしょう。見ようとしなければ、たとえ目の前で起きているできごとであっても見えてこないのです。いつまでたっても教師は、生徒の問題に気付かないでしょう。
子どもたちの犯罪は大人の責任でもあります。被害者も加害者も生徒という学校で起きた事件に、学校や教師が関係ない、責任がないはずありません。

 ここでこの裁判を打ち切られたら、哲君の死は事件防止の教訓と生かされることなく、むしろ学校側が責任逃れをするための判例として残るでしょう。それでは亡くなった哲君が、遺族があまりにもかわいそうです。
この裁判の行方には子どもたちの命と未来がかかっています。加害者を含めた多くの子どもたちの人生がかかっています。

 人間は誰でも過ちを冒します。子どもならなおさらです。だからこそ学校は子どもたちに、自分たちのしでかした過ちをどう償うかを、率先して教えられなければなりません。それを学校ができないのであれば、まずは司法が学校を正してください。
 子どもたちがこれ以上、殺されることがないように、失われた命の重みを遺族以外の人びとも等しく感じることができるように、みんなが真剣に子どもたちの問題に取り組むことができるように、子どもたちが大人たちを心から信頼できるように、子どもたちの未来を拓くことができるような判断、判決をお願いします。

2002年8月3日 



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