子どもたちは二度殺される

「子どもたちは二度殺される」が、世界子ども通信『プラッサ』から別冊として、発行されました。
A4版 192ページ で 頒価1800円です。(送料別)
内容は・・・
第1章 子どもに関する事件【事例】  全70件
第2章 事例の分析   そのとき子どもたちは、親は、教師は、学校は・・・・
第3章 提    言   〜失敗から学ぶ〜

2002年11月、販売を終了させていただきました。ありがとうございました。
2002.1.17 書 評 をいただきました。
彼岸花


なぜ、子どもたちは荒れるのか。
なぜ、いじめはなくならないのか。
なぜ、子どもたちは死ななければならなかったのか。
多くの事例を見ていると、なんだかわかるような気がする。

事件が起きるたびに、お決まりのように繰り返されるパターン。
学校・教育委員会は責任逃れに終始し、それにおもねるPTA、住民たち。死ななければならなかった人間の痛み、憤り、遺族の悲しみに寄り添うこともない、共感を失った社会。ただ隠すだけ。何もなかったことにしてしまうだけ。

この国では、なぜ我が子が死ななければならなかったのか、事実を知ることさえ難しい。死んだ子どもの最後の願いも、名誉も、遺族の思いをも踏みつけてまで守ろうとするものはなんなのだろう。

子どもたちの死を教訓に生かすことさえない。子どもたちに教えられない命の重み。そこでは必ず正義が行われると信じていた最後の砦、司法の世界にさえ、時に裏切られ、やり場のない思い。子どもたちは何度も殺される。今日もまた追いつめられた子どもたちが死んでいく。 事件は繰り返される。

最近読んだ本「−部活動で死んだ娘への報告−シャボン玉は消えない」(阿部ヒロ子著/1997年5月あすなろ社発行)のなかに、
「無関心が無責任を生み、無感動を生み、無気力を生むということが言われている。関心を持つことが愛であると気付いた人間は、共同して、共感して、共鳴して人間らしい世の中を作りたいと思う」という、愛媛大学教育学部助教授の言葉が引用されていた(実はマザー・テレサの言葉であったと知りました)。

ひとには忘れてはいけないことがあると思う。自分たちの社会が犠牲にしてきた人びとのこと。子どもたちを殺したのは他でもない、自分たちのこの社会だということ。忘れた先から、まるで神の啓示のように、子どもたちの命が失われていく。次に生け贄になるのは、私の子どもかもしれない。あなたの子ども、あるいは孫かもしれない。ここに多くの事例を紹介することで、少しでも関心と共感、そして共鳴を得ることができればと思う。
もう誰も、殺したり、殺されたり、しませんように。願いを込めて。






●子どもたちへ       

もしも、あなたが死ぬことを考えているとしたら・・・。
ねえ、わかるでしょ。あなたが死んでも何も変わらない。いじめた人たちも、見て見ぬふりをした子どもたち、先生たちも、学校制度も変わらないよ。そりゃ、ちょっとは「まずいことになったなあ」「面倒なことになったなあ」と思うかもしれないけれど、そんなのすぐに忘れてしまう。悲しまない、やったことを後悔したりなんかしない。ただ、何もなかったことにするだけ。あなたがこの世にいたことさえも、なかったことにしようとするだけ。
血の涙を流して泣くのは、病気になるほど悲しむのは、気も狂わんばかりに苦しむのは、一生悔やみ続けるのは、あなたを愛するあなたのお父さん、お母さん、そして兄弟姉妹たちだけ。
だから、あなたをいじめた人たちのために、それを知らんふりしたひとたちのために、死んだりなんかしないで。

「子どもたちに、死ぬな、なんて言えない」と、自殺で子どもを失ったお父さんが私に言った。
大人たちが、子どもたちを追いつめているこの状況を変えることをしないで、ただ「死ぬな」なんて言えないと。
でも、やっぱり、言いたい。「お願いだから、死なないで」
あなたを失うことで、自分の人生の何十パーセントかを失ってしまうお父さん、お母さんのために。あなたの死を心から悲しむ兄弟姉妹や親戚、友人たちのために。そして、あなたが経験するはずの未来、これから出会うはずの多くの人たちのために。もうこれ以上、こんなことがおきて欲しくないと思う私のために。

どうしても立ちうちできないものから逃げるのは、卑怯なことではないよ。
自分より強いもの、大勢の悪意、暴力。大人だって逃げ出す。自分の心と体を守るのは、けっして恥ずかしいことではないよ。そんなことで、あなたの価値が下がったりなんかしない。
言いたいことを、言うヤツはいるよね。でも、誰だって、あきらかに自分より強いものに対しては、何もできない。誰もあなたの代わりにはなれないのだから、あなたのつらさがわかるわけがない。わかってくれない、わかろうとしない人間の言葉なんかに、耳を傾けることはないんだよ。あなたが、自分の命を張る必要なんてない。
肉体的な暴力も、言葉の暴力も、奮うヤツが悪いんだ。そんなヤツのために、あなたが傷つくなんてバカげている。大切な命を失うなんて、もっとバカげている。
逃げ道を探して。どこかに絶対あるはずだから。生き延びる方法があるはずだから。

みっともなくてもいいよ。「助けて!」と声をあげよう。
誰も助けてくれなかったら・・・。もっと、もっと、大きな声をあげよう。みんなに聞こえるように。あなたのことを真剣に考えてくれる誰かに届くまで。
「助けて」と言わないひとを救うのは、「助けて」と叫んでいるひとを救うよりずっと、難しいよ。手を伸ばさないひとより、手を伸ばすひとのほうが、ひっぱりあげるのはたやすいよ。

心の傷は、時間をかけてゆっくりと癒していけばいい。あなたが生きてさえいれば時間はたっぷりあるのだから。
一時は負けたように見えても、人生は長い道のり。いつか追いつき、追い越すこともできる。見返すこともできる。
あなたが、あなたの幸せをつかむことが人生の一番の勝利だと、私は思う。

だから死なないで。お願いだから、死なないで。辛かったら、耐えられなかったら逃げて。
そのために学校なんかいかなくたっていい。学校は、行きたくなったときに、いつでも行けばいい。一年たっても、二年たっても、十年たっても、学校は逃げてなんかいかない。その気になれば、いつだってやり直しがきく。生きてさえいれば。
学校よりも、親よりも、世の中の様々な規則よりも、あなた自身の命を一番大切にしてほしい。

2000年12月7日  S.TAKEDA




●お母さん、お父さんへ

「親と子との信頼関係さえ、日頃からきちんとあれば、子どもは絶対に打ち明けてくれるはず」。そう確信して言うひとがいる。
でも、私はそう思わない。親にだって言えないことがある。親だからこそ言えないこともある。
思春期の自立しようとしている子ども、芯の強い子どもは、親に頼ろうとはしない。自分でなんとか解決しなければと思ってしまう。
「弱い自分」を認めたくない、親にさえ見せたくないというプライド。
そして、親の限界というものもある程度、見越していて、言っても仕方がない、解決にはならない、というあきらめ。
また、親にチクったことが相手にばれたら、今よりもっとひどい目にあうという恐怖もある。もちろん、学校の先生に打ち明けたところで、解決できるなどとは思わない。言えば、かえって事態は悪くなることを経験から知っている。
そして何より、親に心配をかけたくない、自分のことで悩ませたくない、苦しめたくないという、子どもなりの思いやり。
意志の強い子どもほど、親に心のうちを悟らせない。たとえ、ひとりでは背負いきれない荷物の重みに押しつぶされようとも、「助けて!」とは、死ぬまで口に出せない。

明日から学校は冬休みにはいる。子どもたちは楽しみにしているはず。とくに今、学校で辛い目にあっている子どもたちにとってはなおさら、束の間の安息日。しかし、休みはじきに終わる。また学校が、辛い日々が始まる。
お母さん、お父さんにはぜひ、長期の休み明け前後の子どものたちの様子に気を配ってほしい。死を決意した子どもたちは、実にあっけなく死んでしまうから。
あとから考えれば、あれがサインだったのかと思い当たることがあるかもしれない。でも、それはほんのささいなこと。
いつもは几帳面な子が、始業式を明日に控えて上履きを洗わずにいた。友人からの電話に出るときの様子がぎこちない。ものに当たり散らすことがある。ここのところ急に無口になった。大切にしていたものを兄弟や友人に惜しげもなくあげてしまう、など。
日常生活のなかではありふれたシーン。思春期の子どもにはよくあること。何もなかったとしたら、記憶にも残らないささいな変化。

子どもたちは、死のぎりぎりまで演技する。家族との団らん。お手伝い。楽しかった家族旅行。数時間前まではテレビを見て笑っていた。テレビゲームに夢中になっていた。もしかしたら、彼らなりに最後の瞬間を楽しい思い出でかざりたかったのかもしれない。あまりに辛い人生だったから。
笑顔の下に死を決意ていたなど、どうして考えられるだろう。せめて、涙のひとつもこぼしてくれていたら、気づいてやれたかもしれないのに・・・。

新学期がはじまっても、けっして気を抜かないでほしい。
「この休みの間に何かが変わって、もういじめられることはないかもしれない・・・」淡い期待が期待のまま終わったと知ったとき、絶望感が子どもたちを押しつぶしてしまう。
今のいじめは考えられないほどしつこい。小学校1年から6年まで、小学校でのいじめが中学校までも、いじめが原因で学校を中退したあとも続くことがある。
楽しいはずの青春の日々が、他人の悪意で真っ黒に塗りつぶされてしまう。若さゆえに、ことさら強く感じる永遠とも思える時間の恐怖。逃れられないという絶望感。相手が死ぬか、自分が死ぬかするまで続く、そう思ったとき、やさしい子ほど、相手の死より先に自分の死を願ってしまう。

子どもがもし、「学校に行きたくない」と言い出したとしたら、頭ごなしに叱らずによく話を聴いてほしい。
けっして、世間の声、「親が甘やかすから不登校になるんだ!」「昔の自分たちだって学校に行きたくないことはあった。でもみんなガマンして行ったんだ。今の子どもは辛抱が足りない」「殴ってでも行かせろ!」「不登校になると、将来、ろくな大人になれない」等に、惑わされないでほしい。
すぐには本当のことを話してくれないかもしれない。子どもたちは親をテストする。大事なことを打ち明けてもいいかどうか。自分の話をどこまで真剣に聴いてくれるか。
一年も、二年もあとになって、「実はあのときの『学校に行きたくない』と言った本当の理由はいじめだった。でもあのとき、お母さんが、『そんなに嫌なら休んでいいよ』と言ってくれたから、ぼくは死なずにすんだんだ」と、子どもに打ち明けられて泣いた親もある。

自殺未遂をしたことのある子どもには特に気を付けてほしい。
「死ぬ気になればなんでもできる」などというのは他人ごとだから言える。生きていることが地獄だから、一瞬の痛みと恐怖を乗り越えてでも、何も感じない世界へ行きたいと願う。
「『死ぬ、死ぬ』と言うヤツに限って本当に死んだためしがない」。これもウソだ。自殺未遂をした人間は何度も繰り返す。
失敗したから死ななかっただけであり、成功したら死んでいる。「死の道筋」ができて、より死の恐怖を乗り越えやすくなるとも言われる。
「死にたい!」という言葉の裏には、「死にたくないよ、誰か助けてよ!」という叫びがある。

では、どうしたらいいか。どうすれば、わが子の自殺を食い止めることができるか。
明確な答えは、残念ながら私にもない。ただ、「うちの子に限って(ありえない)」と思っている親よりは、「もしかして・・・」と常に心に危機感を抱いている親のほうが、子どもの小さなサインに気がつきやすいと思う。
ハレものに触るように扱うのではなく、子どもといろんなことを話してほしい。たとえば、いじめについてどう思うかとか。どうすれば、いじめられるがわは死なずにすんだと思うかとか。たとえば、このページに掲げた事例についても、話しあってほしい。
結論を出すのが目的ではなく、自分でも気づいていないかもしれない様々な思いを解放すること、死ぬこと以外の選択肢もあること、いろんな可能性を引き出していくことが大切だと思う。
そして、親は常に子どもの味方であることを、照れずに、はっきりと、言葉と態度で、子どもたちに伝えてほしい。

同じ時間、労力、エネルギーをそそぎ込むなら、生きているわが子のために。
そして、子どもたちを死なせないために、今、おとなたちができることを真剣に。手探りしながら。

2000年12月22日  S.TAKEDA




●学校の先生へ

いじめに気づかなかったって、ほんとうですか?見て見ぬふりをしていたのではないのですか?あるいは、見たくないものを見ないようにしていたのではないですか?
子どもたちは「いじめ」を隠します。でも、見ようとすれば、発見できたかもしれません。小さな変化に気がついたかもしれません。見ようとしなければ、たとえ目の前で起きていることでも、見えはしないのです。

視点は、ひとりひとりの子どもにあっていますか?子どもは部品ではないのです。ひとりひとり違って当たり前なのです。大人の思い通りにならなくて当たり前なのです。
学校教育で一番大切なことは何ですか?知識を与えることですか?規則を守らせることですか?
死んでしまったら、何もかもがムダになってしまう。どんな豊富な知識も、高度な技術も、従順な態度も、死んでしまったら何の役にもたたないのです。

そんな当たり前のことが、今の学校教育では忘れられている気がします。
子どもたちの命と心を守り育てていくのは、学校の、大人たちの責務であるはずです。肉体的には、どんなに健康でも、心が病んでしまったら、ズタズタに引き裂かれて血を流しているとしたら、健康と言えるでしょうか。

1984年12月3日に自殺した尾山奈々さんが、学校と教師を鋭く批判した言葉を遺しています。この言葉を胸に刻みつけてください。

「学校なんて大きらい みんなで命を削るから
先生はもっときらい 弱った心を踏みつけるから」


「いじめ」を、いじめられた生徒の立場にたって捉えてください。そうしたら、「お前にいじめられる理由がある」「お前のこういうところを直さないからだ」「そんなの大したことじゃない」「強くなりなさい」などとは言えないはずです。完璧な人間などどこにもいないのです。どんな理由があっても「いじめ」はいけないのです。そのことを生徒たちに毅然と示してください。そして、同じ「いじめ」でも、感じ方は人さまざまです。
「子どもの人権と体罰」研究会事務局長・山岸秀氏の言葉を引用します。

「親や教員が特に注意しておかなければならないことは、(いじめ)行為の軽さは心の傷の軽さと比例するものではないということです。第三者の目からはさほど深刻ないじめに見えない場合においても、感受性の豊かな子にとっては決定的になる場合もあるのです。いじめによる心の傷は被害者にしかわからないのです。子どもの周りにいる大人は、そこのところをよく理解しておかなければならないでしょう。」

今の「いじめ」はとどまることを知りません。放置しておけば殺人もおきます。追いつめられた子どもは自ら死を選びます。
「いじめ」は時に命にかかわる重大事なのです。そして、死なないまでも、一生の心の傷になります。ひとりの人間の運命を大きく変えてしまいます。そのことを深く認識してください。
ケンカや遊びと混同しないでください。そうやってうやむやにしてまうから、周囲に大人がいても誰も止めないから、「いじめ」はとどまることを知らないのです。もし、最初の小さな「いじめ」に気づいて対処できていたら、いじめられるほうも、いじめるほうも、大きく傷つかずにすむでしょう。火事は小さいうちほど消しやすく、どうしようかと手をこまねいて見ているうちに、火の勢いが増して、簡単には消せなくなります。やがて、何もかも焼き尽くしてしまいます。助かっても、ひどいケロイドが残ります。

子どもたちが文字通り命をかけたのに、それに対して、教師生命をかけてまで応えようという先生がいない。
「いじめ」を訴えても、何もしてくれない。「いじめ」を告発することが、子どもにとってどれほど勇気のいることか、考えてください。子どもたちの信頼を裏切らないでください。一度裏切ってしまったら、もう次はないのです。もっと、危機感をもってください。
子どもたちのもっとも身近にいる、長時間を共に過ごす大人は、学校の先生なのです。子どもたちは教師の姿を通して、大人というものを認識するのです。

もちろん、すべての責任を教師に押しつけるつもりはありません。
教師だけで解決できる問題でも、親だけで解決できる問題でもないと思います。しかし、少なくとも今の「いじめ」は、子どもたちだけでは解決できないところにまできています。ひとりでも多くの大人が介在することで、「いじめ」がなくなるのなら、できるたけ多くのひとを巻き込んで解決に当たるべきでしょう。恥や外聞にこだわっている時ではないはずです。

いじめをなくすために私たちができることは、
どんなに小さいいじめでも、ひとつひとつ丁寧に解決していくこと。そうした事例を根気よく積み上げていくことではないでしょうか。そうすることで初めて、子どもたちの信頼を勝ち得ることができるのです。子どもたちも、いじめは解決できると知るのです。
「困ったことがあったら、いつでも相談しなさい」と、いくら言ったところで、行動が伴わなければ、子どもたちの心には届かないでしょう。

教師の仕事はたいへんな仕事だと思います。医者や警察と同じように、子どもたちの命を預かっているのですから。とても重たい仕事です。でも、その仕事を選んだのがあなた自身です。全力投球する義務があるのではないでしょうか。それができないなら、できる人に道を譲るべきです。
どうにもできない理由なら、山ほどもあるでしょう。家庭のしつけのなさ、親たちの無理解・無責任、子どもたちの荒れ、教師の忙しさ、管理の仕組み、学校制度そのものの問題点。でも、それらを理由に逃げないでください。子どもたちはもっと、逃げ場のない場所に物理的にも、精神的にも追い込まれているのですから。
障害があるのなら、その障害になるものを自分たちの手でひとつひとつ取り除いていくのが、ものを教える立場の人たちの行動ではないでしょうか。

責任を押しつけ合うのではなく、共に考えていきたいと思います。重く息苦しい現実について。子どもたちの未来について。私たちは何をめざし、それを実現するためには、どうすればいいのか。
明日への希望のない社会では、子どもたちの暴走を止められない。その希望は、大人たちがつくっていかなければいけないものだと思います。

2001年 1月30日  S.TAKEDA






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