わたしの雑記帳

2009/5/23 所沢高校井田将紀くん・自殺事件の控訴審が結審
伊藤進氏の意見書を許可を得てサイトに掲載

2009年5月21日、11時から東京高裁825号法廷で、所沢高校井田将紀くん自殺事件の控訴審第3回目が行われた。
開廷の約20分前に傍聴券配布。全員が入ることができた。
裁判官の構成が変わっており、裁判長が園尾隆司氏、裁判官のとろこには藤山雅行氏、藤下健氏、櫻井佐英氏の名前が。私には、この3人のうち誰が出ていたかはわからなかった。裁判長を含めて計3人。

前回、被控訴人のほうから、伊藤進氏の意見書の追加分、自殺との因果関係について書いたものを提出したいということだっが、無事、書いていただけたようだった。
一審被告の所沢高校側からは、それに対する反論も出されたという。

そして、控訴人である井田紀子さんからは陳述書が、控訴人代理人弁護士である関哉直人弁護士からは代理人意見陳述要旨が法廷で読み上げられた。(陳述書 参照)
将紀くんの命日は2004年5月26日。もうすぐ5年になる。
毎年めぐってくる命日だが、今年は例年以上になぜか落ち込んでしまい、親しいひとにさえ連絡もとれずにいて、周囲を心配させて申し訳ないとお母さんは傍聴にきていた何人もに謝っていた。
亡くなったとき、将紀くんは高校3年生、17歳だった。もし順調に大学に入学して卒業していれば、今年から社会人。
社会人として巣立っていく元同級生らをみれば、将紀くんがもし生きていたら、どんな将来を目指し、どんな会社に就職しただろうと親としては想像を巡らせてしまうのだろう。
お母さんの陳述書には、その思いが短くではあるが書かれていた。

そして、関哉弁護士の陳述書は被控訴人のこれまでの主張を簡潔にまとめたものだったが、そのなかには、将紀くんの自殺直後に書かれた学校教師らの謝罪の手紙が、裁判になるとあれは母親に書かされたものであって、自分たちの本当の気持ちではなかったと主張されたことへの悔しさも盛られていた。
母親にとってのわずかななぐさめさえ、裁判をするなかで奪われてしまった。

それでも、駿河台大学法科大学院教授で、明治大学名誉教授、日本教育法学学会会長でもある伊藤進氏の意見書によって、救われた部分は大きいと思う。これは、裁判をしていなければきっと、遺族の心のうちで悶々と疑問を抱きながらも、ずっと答えを出せずにいたことではないかと思う。
もちろん、裁判官にも認めてほしい。世間にも知ってほしい。そのことによって再発防止にいかしてほしい。そのための裁判でもあるのだけれど。

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伊藤先生の意見書を私も読ませていただいた。なんとなく、大学教授の論文ということで、私の頭のなかでは勝手に何十ページもある分厚ものを想像していた。しかし実際には、表紙の部分を入れても、1回目と2回目あわせて、A4用紙で20数ページに収まるものだった。

そのなかで、実に様々な角度から、しっかりと根拠を示したうえで、明確に述べられている。
なかには私など素人が感情的にはそう思っても、それをどう理論的に説明したらよいかわからなかった内容についても入っていた。こういう人を専門家というのだろうなと改めて思う。
関哉弁護士と井田さんの陳述書のなかでも、述べられているが、いくつか私が印象に強く残った部分を引用させていただきたいと思う。

この将紀くんの事件を「事実確認後生徒自殺事件」と呼んでいること。
私自身、大貫陵平くんのお父さん・大貫隆志さんが「指導死」という言葉を使っているのを知る前までは、「しっ責自殺」という言葉を使っていた。「事実確認後生徒自殺事件」という言葉には、この事件の特異性、問題がどこにあるかがより明確にされていると思う。

●「憲法26条1項で保障されている生徒の教育を受ける権利の侵害という視点に立って、被告学校の賠償責任の有無を判断すべきである」という主張。
これは、私たちが一般に考える、子どもが授業を受ける権利、たとえば授業が聞こえない廊下に出してはいけないなどというささいなことではない。
「学校教育は、学校や教諭は支配的権力者としてではなく、生徒の学習をする権利に対応し、それを充足するという観点に立って行われるかが重要視される。」という。
教育とは何か。政府や権力をもった大人たちが、自分たちの都合で行うべきものではなく、子どもの基本的な権利を実現するためにこそあるという。
しかし今、政治家たちが、教育委員会が、大人たちがやっていることはその真逆で、子どもに義務を押し付け、自分たちにはその義務を押し付ける権利があると思っているかのようだ。「義務教育」の「義務」は大人への義務と聞いたことがあるが、改めて、こういうことなのかと思った。

●上記をふまえたうえで、「問題行動と疑われるような行為を行った生徒に対する「事実確認」は、成人の場合のようにその犯した非行に対する社会的制裁ないし刑罰を加えるために行われる「事実確認」ではなく、問題行動と疑われるような行為を行った生徒に素直にその行為を説明させること、その説明を通じて、その行為の不適切性を自覚させ、今後、ルールに従うことの重要性を自覚させるという教育的配慮のもとで行われるべきであり、その「事実確認」は「教育(保護)主義」(梅澤・前掲45頁参照)という考えにもとづいたものであることによって、正当な教育指導して許容されるものである。」としている。
そして、一審さいたま地裁判決が、「成人の場合において、その犯した非行に対する社会的制裁ないし刑罰を加えるために行われる「事実確認」行為と同視している」点の誤りを指摘している。

これは、説得力のある説明だと思った。
裁判官は多くの裁判で、成人の不法行為や非行少年の非行行為を裁くことに慣れている。そこで通用する論法が、学校でも通用すると無意識のうちに思ってしまっているだろう。
もっとも、仮にこれが教師ではなく、警察官だとしたら、たとえば万引きの現行犯や確たる証拠もなく「少年が万引きをしたように見えた」ということだけで、長時間にわたって、しかも5人もの人数で取り調べて、なお、万引きしたした証拠の品物が出てこなかったとしたら、重大な人権侵犯事件として扱われることだろう。
また、店員の目の行き届かない店で、ここなら簡単にできそうだと、万引きをしようと思うのと、実際に万引きをしてしまうのとでは天と地ほどの差がある。万引きをしようと思っただけでつかまるのであれば、どれだけのひとが犯罪に問われるだろう。

●さらに伊藤氏は、一審のさいたま地裁判決は、「事実確認」を「懲戒」と全く同一視していることの誤りを指摘。
「学校教育法11条を根拠に、そのような行為は教師に認められた権限の範囲内の行為として許容できる」と判断していることの誤りや、「教諭らの「事実確認」行為は、被害生徒に問題行動と疑われるような行為があったものの、その「不正行為の内容、程度」について事実確認をするのが目的であるにもかかわらず、事実確認されていない「不正行為の内容、程度」と教諭らの「事実確認」行為とを比較衡量するという論理矛盾に立った判断基準に基づくもので、到底許容できるものではない。」「これでは、事実確認も行われていない問題行動を重大な非違行為と一方的に決めつけた上での、教諭らの「事実確認」行為に違法性はないとするものであり論理的に許容できるものではない。そして、ちなみに、その後、「生徒指導委員会において被害生徒にはカンニング行為の事実は認められなかったと判断されていることからすると、かかる論理に基づく違法性否認は許容されるものではない」としている。

私は今まで、将紀くんがカンニングをしていようと、していまいと、教師たちの生徒を死にまで追いつめる「事情聴取」はおかしいと思ってきた。
しかし、伊藤氏のこの一文を読んで、これこそが本当は遺族が一番ほしい言葉だったのではないかと思った。
学校教師も、裁判官も、世間一般もが、将紀くんがカンニングをしたのではないかと疑った。そして私のように裁判を傍聴している人間までもが、もしかしてという思いを残していた。
しかし、これだけ事件が大きくなって、学校は「カンニングをした」という一点にむかって有利な証拠を必死になって集めようとしたはずだ。教師が見たと主張している物理の公式が書いてあるメモ。それに3年生のこの時期までにいくつもの試験を受けているのだから、日本史にしても、物理にしても、今回のテストと今までの点数を比較すればおかしな点が出てくるだろう。しかし、将紀くんは元々物理の点数はよく、このテストでも71点とっいる。「物理の時間が余ったので」日本史用につくったペーパーを見ていたという言い分には合理性がある。
そして、もし将紀くんがカンニングを実際にしていたとしたら、逆に死にまで追いつめられることはなかったかもしれない。自業自得と割り切ることができたかもしれない。そうではなく、カンニングを疑われて、弁明しても信じてもらえない悔しさ。その原因の一端をつくったのは自分であるという自覚から、ひとにはぶつけようのない怒りにも似た感情が自分に向かってしまったのではないか。

●一審で、長時間にわたる事情聴取を、「事実確認の開始から終了に至るまで、威圧的ないし執拗に将紀を追及するものではなく、むしろ将紀の意見を尊重しながら慎重に行われたもの」と事実認定し、「本件事実確認に関与した教諭5人に安全配慮義務違反は認めない。」としたことに対して、私たちはただ、そんなはずはない、自分が見たと思い込んだカンニングペーパーが出てこないことに馬鹿にされていると感じて、執拗に、長時間、大人数で追いつめたのだと憤るだけだった。
しかし伊藤氏は、試験監督していた教師の初動ミスを指摘する。長時間にわたる執拗な事情聴取は、「渡されたペーパーの内容をその場で確認することをしなかったという不適切な措置の結果として生じた疑いとの齟齬を明らかにする必要があった」からとしている。
教師らは、本当は物理のカンニングペーパーもあったのに、将紀くんが咄嗟に、日本史のペーパーのみを渡して、物理のカンニングペーパーはポケットに隠したと、裁判になってさえ思い込み、主張している。
しかし、伊藤氏のいうように、その場で確認さえしていれば、「これ以外にもあるだろう」と言って、ポケットの中身を出すように行っただろう。そして、将紀くんはポケットの中身を裏返して見せたかもしれない。それだけで、その場で疑いをはらすことができたはずだ。そうすれば、幻のカンニングペーパーの提出を求めて、何時間も追及する必要はなかったはずだ。

●将紀くんの絶望感について、伊藤氏は次のように述べている。
思春期にある多感な時期の被害生徒の精神状況としては、事実をいってもわかってもらえない「あきらめ」と、精神的に耐え切れなくなり、いわゆる「切れる」状況に陥ることが当然に予測できる。それに加えて、その告げる内容を明らかにしないまま、担任から「母親に連絡する」旨が告げられることにより不安が増幅し、「あきらめ」「切れる」精神的状況がますます増幅し「絶望的」精神状況に至り、「自暴時自棄的」になることのあることが容易に推察される」教師と被害生徒の「心情の落差」に言及している。

私自身、将紀くんの気持ちの読み取りが浅かったと改めて思い知らされた。将紀くんは、「カンニングを疑われるようなことをしてしまった」という罪悪感や将来への不安だけでなく、教師らの思い込みにより、母親にどのような伝え方をされるのかを心配したのだろう。
自分がどれだけ真実を言っても、5人の教師がいながら、5人とも信じてはくれなかった。カンニングペーパーをつくったという罪悪感もあるなか、母親も信じてくれるかどうか。まして、教師5人に説得されてしまったら、母親でさえ教師らと同じく、自分の言葉を信じてくれないかもしれない。やってもいないことで、母親を悲しませることはしたくない。母親にまで疑われたら・・・。そんな思いが頭のなかをぐるぐる回っていたかもしれない。
たとえばカウンセリングというのは、話し、相手に共感してもらうことで、心の傷が癒されていく。しかし、教師たちの事情聴取では、約2時間という時間を費やして話しても、5人全員、いわば100%の確率で理解してもらえなかった。深く心傷つけられる体験だっただろう。

なんとなく、法学関係の学者は、法的関心のみでひとの心情には疎いという先入観が私にはあった。
不法行為に当たるかどうか、上辺だけを判断すると思い込んでいた。
しかし、伊藤氏は将紀くんの心情に思いをはせ、教師たちの行為を「精神に対する暴行あるいは教師による精神的いじめ行為」ともいうべきものと断じた。
(この点では、伊藤氏のように論理的ではないにしても、私の考えと同じだと少し、自信をもった。 雑記帳080731参照)

●そして、自殺との因果関係についても、取調べと自殺との間になんら、自殺の原因と思われることが存在していないこと。
いじめや懲戒自殺、過労自殺、交通事故の判例などから、またたくさんの報道や文部科学省の通達やデータから、教育に専門従事するものが心理学の知識があるのは当然ということから、「被害生徒が「自殺」に至る原因となっている教諭らの「事実確認」行為の危険の認識があれば足りる」としている。

●伊藤氏は、教師が将紀くんの行為に対して、どう対応すべきだったかについても言及している。
「試験監督をしていた教諭は、その渡された紙に書かれている内容について、それより以前に同教諭が見たといわれている「コンデンサー公式」が記載されているものであるかなどを確認するのが通常ではないかと思われる。
そして、そのペーパーの内容が物理の試験に関係する内容のものであったとき、被害生徒の行為をカンニング行為として、後刻、懲戒などの「生徒指導」を行うことになる」
一方で、「ペーパーの内容が物理の試験に関係するものではなかった場合」、「試験に際しては不必要なものを持ち込んではならないこと、あるいはそのようなものをみてカンニングと疑われるような行為をしてはならないことの心得を守っていなかったものとして、その場で、あるいは試験終了後に、その旨をさとし、注意をするなどの「生活指導」に留まっていただろう」とした。
もし、教師がこのような「通常とるべき生徒指導」をしていたなら、将紀くんはきっとペーパーをつくったこと、テスト中に見ていたことの軽率さを反省しつつ、今も生きていただろう。社会人としての一歩を踏み出していたことだろう。

指導死の問題は、なかなか多くのひとに理解してもらえにくい。それは一般人だけでなく、教育専門家にとっても。
しかし、本当に深く学校事故を研究しているひとが、わかってくれている。これはとても大きな励みになるし、この問題を理解しやすくしてくれる。伊藤氏にめぐりあえたことは、弁護団の努力と、お母さんのあきらめない気持ち、そして天国の将紀くんが、出会わせてくれたのかもしれない。

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今回で、裁判は結審して、次回、7月30日(木)1時15分から、東京高裁825号法廷にて判決(たぶん20分から30分前に傍聴券配布)。
教師の生徒指導とはどうあるべきかを示してくれる判決が出ることを期待する。




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