Political Criminology

インターネットの表現の自由

 西部開拓時代よろしく活躍する自警団と、市民社会の警官とどちらが信用できるか。まさにそのような疑問が出てくるのがインターネットで広がりつつある規制の問題である。インターネットも社会である限りは、なんらかの秩序が生まれるし、それは維持されるべきなのだろう。ただ、そうした秩序を維持するのが誰なのかによって、この状況は大きく変わってくる。

 インターネットの世界では、ハッカーの伝統が重んじられてきた。つまり高い技能を持った技術者のモラルがインターネットの道徳の源泉だったのである。だが、現在のように様々な層がインターネット社会を歩くようになれば、状況もまた変わらざるを得ない。かつては、一部の突出した議論などが出てきても自然のなりゆきの中で収束させていくのが常道だったニュースグループ等の運営方法も、今は容易にネットワーク上の中傷合戦(これをフレーム(flame)と呼ぶ)にまで及んでしまうためにより明確な管理が必要となっている。

 パソコン通信のネットワークであるニフティサーブのある会議室が舞台となった会員同士の中傷合戦が裁判にまで至った1997年のいわゆるニフティ判決では、こうした中傷発言の発言者だけでなく、中傷発言を被害者からの削除要請にも関わらず放置したことについて、その会議室の運営責任者(シスオペ)および会議室システムを提供しシスオペと運営に関する契約を交わしているニフティ社の賠償責任を認めた。

 ここで問題となるのは、プロバイダと呼ばれるインターネット接続業者などの場合、本来電気通信事業法にもとづく事業者として認められているが、その役務の内容にそうした違法情報の公開を差し止める義務までが含まれるのかという点である。電気通信事業法の筋からすれば、プロバイダの責任は通信役務、したがって接続および自社サーバーのスペース提供に限られ、その内容(コンテンツ)にまでは及ばないとするべきだろう。だが特にホームページの問題などへの関心から、通信の中でも「公然性」を有しているものについては、一定の規制が必要なのではないかという主張がおこなわれることがある。これがいわゆるホームページ等のプロバイダによる「検閲」を認めるかという問題である(用語の定義としては、検閲は国家機関によっておこなわれるものをいうため、厳密には憲法上の「検閲」にはあたらないが、電気通信事業法は電気通信事業者による検閲を禁じている)。

 この種の問題はプロバイダだけではなく、インターネットへの接続をおこなっている学校、会社等にも妥当する。しかも、プロバイダに対して情報の内容に対する管理責任を認めようとする試みと軌を一にするように、各学校などでも利用規程の制定作業などが進められているのが現状であろう。

 表現の自由の問題は、憲法との関係で、情報発信へのこのような過度の介入を防ぐ根拠となっている。表現の自由は、歴史的にも権力との戦いの中で民衆が手にした基本的人権であり、安易に制限されるものではない。その意味で、インターネットのように自由な情報発信を確保するための手段に対して、いかなる形であれ、幅広い介入を認めることはできない。また仮に違法な情報だとしても、その違法性を個々のプロバイダや学校等が独自に判断することは危険である。すると、そうした状況下で内容に応じて削除などの方策をとることもまた、妥当ではないということになる。

 表現の自由との関係が取り沙汰されるのは、そのような公的な文脈での介入ばかりではない。有害情報へのアクセスを、青少年や子どもの層には許可するべきでないとする、親や教育関係者の強い意見があることも大きく関わっている。インターネット上で活動する場合には、当然さまざまな利害を持つ人々が出会うわけであり、そこに自警団的な活動や自主規制を強要するといったことが起きることにもなる。ここで問題になるのは個々人のプライバシーと表現の自由との関係である。従来のようなメディアでは、情報発信者は出版事業者や放送事業者などというように限られており、規制についてもそういった限られた層をターゲットとすればすんでいた。しかしインターネットの発達により、情報発信者の層が飛躍的に拡大したため、プライバシー侵害される側と表現の自由を行使する側とがオーバーラップするような状況が生まれている。

 特定のサイトを選別し、悪質サイトとされるものへの攻撃をおこなう活動が、公的な機関以外の個人レベルでおこなわれていたりする。特定の単語が使用されているサイトを自動巡回で割り出し、リストアップする方法をとっているところもある。しかしその際に、たとえば「同性愛」といった用語をリストアップの候補としてしまうと、それ自体が差別につながるということにもなる。こうしたプライバシー侵害めいた事件は、たとえば性犯罪者の個人情報を、インターネット上に公開するといった手段に出る場合にも問題になる。個人レベルでのこうした自警団的な活動は、独善的で過激な方向に走ることが懸念されている。また公的な介入を事後的に呼び起こす役割を果たす場合もあり、決して軽く見逃せる問題ではない。

 ところで、使用されている単語でサイトを選別しようとする手法自体、妥当なのかどうかが疑問となる。たとえば暴力的な単語を使用しているサイトには、暴力的なものだけでなく、研究目的のものもあるし(現実にアメリカ犯罪学会批判的犯罪学部会のサイトが危険サイトとして取り上げられたことがある)、報道目的のものもあるわけであり、選別の基準として適切であるとは言いがたい。

 そこで、インターネット上のWWWのプロトコル書式を検討しているW3C(World Wide Web Consortium)では、現在PICS(Platform for Internet Contents Selection)と呼ばれる格付け(レイティング)システムを提唱している。これは、各ホームページ上に、独特の書式で、そのページのレイティング値を書き込み、そのレイティング値を各人が使用しているブラウザで設定されたアクセス制限に連動させるというものである。こうした一連の手続はフィルタリングと呼ばれ、特に未成年者に成人用のページへのアクセスをさせないために有効であるとされている。ただし、現状のPICSは書式自体が難解で、一般化しやすいものとは言いがたく、一部の試験的な使用にとどまっている。一方、XMLでは、インターネット上の情報をデータベースとして効果的に利用するため、こうしたページの分類手法をより容易な形で記載できるよう、努力が払われている。(なお各国のレイティング制度の現状も参照)

 ところでPICSで想定されているのは、ページの作成者自身が各自のサイトに一定の基準によってレイティングをし、それを記載するという規制スタイルである。その意味で、自分たちのページに関しての格付けという枠を超えるものではない。データベースの整理の手法にも応用できると考えられているゆえんである。だが、その際におこなわれる格付けがどのような基準で、どのようにしておこなわれるのかという点について、いくつかの反論が寄せられることになる。例えば「ホームページの作成者は、意図に反して公権力のレイティングを押し付けられ、公権力にとって都合の悪いページが事実上排斥される危険がある」といったものである。PICSの技術そのものは、アクセス側によるサイト選別の過程と発信側の自主的なレイティングに依拠するため、たとえばCDA裁判でも自主規制が有効であるという証言の根拠とすらされていた。だが、PICSにはレイティングという不可避の手順があり、そのレイティングを公権力の価値観が占めるならば、やはり思想統制に近い効果を生むことになる。PICS反対論の文脈は大体そういったふうに要約できる。

 PICS推進論者は、レイティングを公権力の専権であるとは捉えていない。女性問題に関するレイティング、人権に関するレイティングなど、実際にはさまざまなレイティングが可能になるとも指摘している。だが現実にレイティングの自由度が低い現状では、この技術を効果的に使うだけの素地はまだないというべきだろう。現実に多くのレイティングの基準が提出されれば、それは公権力によって定立される基準を無化できるかもしれない。だがそれまでは、こうした規制の文脈に対しては慎重な態度をとらざるを得ない。現実に規制が必要であるとの意見は、日本でも、1996年に通産省がおこなった調査ですら、強かったとはいえないのである。インターネットはポルノや犯罪の巣窟だというイメージは、一種規制のために作られたイメージだとすらいえるのである。

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福富忠和さんとの共著「文化としてのマルチメディア論」(1998年)第6章。同年の聖マリアンナ医科大学のマルチメディア特別講座教材(非売品)。

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