『アウシュヴィッツの争点』(5)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.1.7

序章 疑惑の旅立ち 1.

収容所で大流行したチフス患者の死体を使う錯覚報道

 一九九四年の一二月七日から一〇日までの四日間、わたしはポーランドのオシフィエンツムにあるアウシュヴィッツ・メインキヤンプ(以下、「アウシュヴィッツI」)、アウシュヴィッツ第二収容所のビルケナウ(以下、たんに「ビルケナウ」)、ルブリンにあるマイダネクの三ヵ所の元ナチス収容所跡を見学し、インタヴュー、ビデオと写真のカメラ撮影、資料収集と、わたしの体力で可能なかざりの多角取材をしてきた。

 いわずもがなのことだが、いわゆる『夜と霧』の物語の舞台、「ユダヤ人虐殺の聖地」とされている場所である。現地には偶然の一致だが、わたしとまったく日程をおなじくして、「インターフェイス・ピルグリメイジ」(宗派を超えた巡札の旅)の一行があつまっていた。彼らは、一二月一〇日にアウシュヴィッツ、正確にはアウシュヴィッツ=ビルケナウ複合収容所のビルケナウ側にある記念碑前広場から出発し、翌年の一九九五年八月に日本の広島にいたるまでの要所をあるく国際平和行進をおこなう予定であった。もちろん、日本人の参加者もおおい。わたし自身もかなり前に、この平和行進に参加しないかとさそわれていた。現地でも長年の友人や顔見知リの市民運動の仲間にあえた。

 世界平和の実現をねがう点にかんしては、かれらとわたしの気持にかわりはない。だが、わたしが現地をおとずれた具体的な目的ということになると、見方によっては、さかさまに埋解されかねない点があった。かれらは、アウシュヴィッツを「虐殺の聖地」だと信じておとずれ、その実感を深めて出発するにちがいない。ところがわたしは、この「虐殺の聖地」という位置づけが基本的にはまちがいであり、世紀の情報操作だったのではないかという主張を検証するために、現場をふみにきたのであった。だからわたしは現地では、ごく少数の親しい友人にしか、わたしの取材目的をうちあけることができなかった。問題は、あまりにも複雑すぎるのだ。

「アウシュヴィッツにガス室はなかった」とか、「ホロコーストは嘘だった」とか、「六〇〇万人のユダヤ人ジェノサイド説は情報操作だった」という説があるなどというと、ほとんどの日本人は「エッ」と虚をつかれたような表情になる。とくに、平和主義者のおどろきかたは激しいし、なかには不快悪を露骨にしめしたり、「南京大虐殺はなかったというのと同じではないか」とばかりに真顔で反発しておこりだす人もいる。

 わたしにも似たような経験があるから、その気持ちはよくわかる。だれしも、この種の長年にわたって身につけてきた信条をまっこうから否定される場合には、みずからのアイデンティティを傷つけられたような気持ちにかられ、冷静さをたもてなくなるものなのだ。だが、まずは気をしずめて、本書をゆっくり読んでから考えなおしてはしい。

 すでにこの問題を「二〇世紀最大の情報操作」と名づけた人もいる。湾岸戦争の情報操作の象徴が「油まみれの水烏」の映像だったとすれば、「ホロコースト」の情報操作、誤報、錯覚の象徴は「おびただしい死体の山」の映像であろう。

 アノリカ政府と軍当局は「油まみれの水鳥」を、イラクの「原油放出作戦」または「環境テロ」の犠牲者だと発表した。世界中の大多数の人々はいまだに、このアメりカのデマ宣伝を信じている。しかし、あの水鳥を油まみれにした原油は、アメリカ軍が湾岸戦争の開戦当日に爆撃して、完全に破壊しつくしたゲッティ石油の八つの貯蔵タンクから、海にあふれでたものだった(拙著『湾岸報道に偽りあり』に詳述)。

「ホロコースト」が情報操作だったとすれば、その基本はまったくおなじ構造なのである。映像のトリック、または誤解にもとづく誤報、つくりだされた錯覚なのである。「ホロコースト」の犠牲者として、ほとんどつねに無言でしめされる映像の「おびただしい死体」の死因のほとんどは、ナチス・ドイツの崩壌直前に収容所で大流行した「発疹チフス」だった。しかも、発見された当初に、連合軍当局は専門家の調査報告をうけており、大量虐殺の死体でないことがわかっていたのである。

虚報の訂正はなぜ公式に大々的になされないのか

 死体からつくったセッケンも、ランプシェードも、すべて虚報だった。セッケンについては、イスラエルの国立のヤド・ヴァシェム博物館、通称「ホロコースト博物館」ですらが、否定の発表をしている。わたしの手元には、その発表をつたえるエルサレム発のロイター電を掲載した『ザ・グローブ・アンド・メイル』(90・4・25)のコピーがある。ランプシェードが羊の皮製だったことは、すでに当時の調査であきらかになっていた。

 ニュルンベルグ裁判では、アウシュヴィッツの実地検証がまったくおこなわれていなかった。ユダヤ人大虐殺の最大の証拠として採用された元アウシュヴィッツ司令官、ホェス(ヘス)の「告白」が、「鞭」による「拷問」と「酒」づけの尋問の結果だということは、関係者には最初からわかっていた。ホェスは一九四七年にアウシュヴィッツで絞首刑に処せられたが、その尋間の経過を、死の直前に書きのこした回想録のなかにしるしていた。しかし、これらの当時から明白だった事実は、アメリカ系大手メディアの圧倒的な報道力によって、世間の表面からかき消されてしまった。この世紀の情報操作を可能にした情報伝達の基本的条件は、湾岸戦争の場合とまったくおなしだったという疑いがあるのだ。

「ホロコースト」の情報操作の場合にはとくに、「死体の山」「毒ガス」「死者への冒涜」などという、それぞれに考えただけでもおぞましい映像とオドロオドロの概念が、思考の停止と錯誤をもたらし、情報操作の目的、動機、そして、その結果としての現状の混乱の底辺の構造までをも見ぬきにくいものにしてきた可能牲がたかい。

 現状の混乱の底辺の第一は、半世紀も戦乱がつづき、いまなお混乱を深めるパレスチナである。第二は、半世紀をへた東西の統一後にネオナチの台頭になやむドイツである。

 ドイツでは一九九四年九月二三日、「アウシュヴィッツ虐殺否定発言」を最高五年の禁固刑で罰する刑法改正が成立した。わたしは、「発言」そのものへの処罰の異常さを原則的に問いなおし、緊急に真の解決策をさぐる必要があると考えている。さもないと、ネオナチの爆発がふたたび世界全体をあらたな危機においこむ可能性さえある。

「ホロコースト」物語がもし、見直し論者の主張どおりの虚報か誤認だったなら、これは、既成概念、固定観念、先入観、先入主、思いこみ、などなどの思考停止状況のおそろしさの典型である。なんとも皮肉なことに、ヒトラー総統やゲッペルス宣伝相の主張どおりに、「おもいっきりおおきな嘘」であり、「何度もくりかえされる嘘」であったがゆえに、「ホロコースト」物語は現在もおおくの人々に信しられつづけてきたことになるのである。「おおくの人を長期間にわたってだましとおすことはできない」という警句もあるが、この場合の「長期間」は半世紀におよんでいることになる。

ニユルンベルグ裁判の当時からだされつづけていた疑問の数々

 しかし、日本ではこれまでほとんど知られていなかったのだが、「ガス室」による大量虐殺を疑う趣旨の主張が欧米で発表され、論争になりはじめたのは意外にもかなり早くからのことだった。第二次世界大戦直後に、ニュルンベルグ裁判が開かれたころから論争がつづいていた。真相をあきらかにする努力を先輩からひきついできた歴史学者の一人、アメリカ人のマーク・ウィーバーは、リーフレット『ホロコースト/双方の言い分を間こう』のなかで、その研究の今日的意義をつぎのように主張している。

「過去の憎しみや感情の人為的な維持は、真の和解と永続的な平和をさまたげる」

 ウィーバーは、「歴史見直し研究所」(のちにくわしく紹介)の機関誌『歴史見直しジャーナル』の編集長でもある。

 わたしは一九九四年の二月に、ロサンゼルスの南に約一〇〇坪の書籍倉庫兼事務所をかまえる同研究所をおとずれた。そこで二日間、ウィーバーに質問し、意見を交換し、インタヴューのビデオ撮影をし、リュックサッグ(デイパックではなくて本格登山用)一杯の三〇数冊、厚さで約1メートル分の資科を割引きで購入してきた。ことの次第は、のちに本文でくわしくのべるが、わたしなりに「歴史見直し研究所」の活動の趣旨を要約しておくと、「アメリカ中心主義の歴史観には危険があるので是正する」ということだ。「アメリカ中心主義の歴史観」を、日本の場合の「皇国史観」とおきかえて考えれば、その意味がわかりやすくなるだろう。当然、かれらの研究内容は、「ホロコースト」問題だけにかぎらない。「マルコ報道」では、研究内容の吟味なしに研究所の性格にレッテルはりをする例がみられたが、ここではとりあえず「文は人なり」という格言を提出しておく。実物を批判的に読んでみてから、個々の研究を具体的に評価すべきであろう。

 わたしのかぎられた能力で可能なことは、この「歴史見直し研究所」ほかの国際的な研究成果を紹介しつつ、資料探索のための手がかりを一般にひろめることであろう。さいわいなことに立場上、学者風の権威をふりまわす必要はないので、わからないことは素直に認め、疑問点をもしめしつつ、中間報告としての役割をはたしたい。

 本書が予測されるような物議をかもしだすさいに、わたしの気持ちのささえになるのは、ほかならぬユダヤ人の作家、思想家で、本書でも紹介する『ユダヤ人とは誰か/第十一二支族・カザール王国の謎』の著者、故アーサー・ケストラーが、コミンテルン体制への訣別にあたっての演説の最後に引用した言葉である。

「有害なる真実は、有益なる嘘にまさる」というその言葉を、ケストラーは、トーマス・マンがもちいた言葉だとことわっている。ところが、『ドイツを追われた人びと/反ナチス亡命者の系譜』という本によると、トーマス・マン自身は、ある亡命文学雑誌の創刊趣意宣言文で、ゲーテの「私は有用な誤謬よりも、有害な真埋を選ぶ」という言葉を引用していたのだそうである。

 つまり、もしかすると、さきの発言禁止法を制定したドイツは、民族のほこりとしてきたケーテの言葉にそむいているのではないだろうか、というのがこの問題の理解についてのわたしからの問いかえしとなるわけである。もちろんゲーテは「有害な真理」の「有害」さを、たとえば近世の初頭において「地動説」がひきおこしたような、一時的な体制の混乱をまねく性質のものとして理解していたにちがいない。その意味では「有害」は一種の反語である。


(6)序章「疑惑の旅立ち」2.