『アウシュヴィッツの争点』(48)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.8.4

第3部 隠れていた核心的争点

第5章:未解明だった「チクロンB」と
「ガス室」の関係 8

「科学の粋を集める」どころか民間で実用化の技術も無視?

 たとえば『夜と霧』の「出版者の序」では、「ナチズム哲学の具体的表現ともいうべき強制収容所の組織的虐殺」が、つぎのように評価されていた。「これは原始的衝動とか一時性の興奮とかによるものではなく、むしろ冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画がナチズムの手足となって、その悪魔的な非人間性をいかんなく発揮した」

 この評価を、当時の戦争技術、または殺人技術の異常な発達に照らしてみると、「ガス室」の建造にも、やはり、当時の最高の水準の技術が傾けられていたと推定するのが、自然であろうと思われる。しかも、「チクロンB」を製造販売するデゲシュ社を支配していた財閥は、アウシュヴィッツにも巨大な化学プラントを建設していたI・G・ファルベンである。日本の三菱や三井をうわまわる国際的政商の代表格であった。戦闘機でいえば、日本のゼロ戦やドイツのメッサーシュミットに対応するような技術の粋が、「ガス室」に注がれていたとしても不思議はない。事実、そのような記述をふくむ物語は、ニュルンベルグ裁判以後にいくつも現われたのである。

 ところが、当時のドイツの専門誌や特許の記録などを発掘して研究した論文、「ドイツのシラミ退治消毒室」(前出)および「チフスとユダヤ人」(『歴史見直しジャーナル』1988~1989年冬)などによると、現存の「ガス室」どころか、これまでのあらゆる「ガス室」物語のすべては、当時の民間で実用化されていた技術水準すら、無視していたことになってしまうのである。

 本書では概略にとどめるが、デゲシュ社は一九三四年から実用化していた技術について一九四〇年に特許をえており、おそくとも一九四三年までには数百の「循環装置」、または「循環装置」付きの「消毒室」を輸出さえしていた。「ドイツのシラミ退治消毒室」の付録資料、『衛生技術家』(1944, 67号)の図面付きの説明などによると、この「循環装置」をつかえば、「チクロンB」の使用にさいして、作業員はガスマスクを着用して入室する必要がない。消毒室の内部に温風を循環させるパイプが通されており、内部に事前に設置しておいた「チクロンB」の缶を無人状態で開け、チップを「金属製の網のバスケット」に投げこむことができる。そのバスケットを通過して「青酸ガス」をふくんだ温風が室内を循環する。最後には、シアン化水素の沸騰点以上の温度の温風を吹き付けて、チップを無害にし、空気を完全にいれかえる。

 考えてみれば、それほどむずかしい技術でもないし、そんなに費用がかかるとは思えない。

「チフスとユダヤ人」の方の付属資料、『衛生技術家』(1943, 66号)によると、この装置付きの大型の例には貨物車を丸ごと消毒する建物があり、ハンガリーで建造されていた。ニワトリを運ぶ貨物車にダニが住みついてしまうので、消毒が必要だったのである。「チフスとユダヤ人」の執筆者は、なぜこれとおなじものをアウシュヴィッツで使わなかったのだろうか、という疑問を提出している。

 こういう状況では、「冷静慎重な計算に基づく組織・能率・計画」による「ガス殺人工場」の存在を信じることは、とうてい不可能である。わたしは、すべての収容所跡の調査をおこなったわけではないから、あえて、「がス室はなかった」とまでは断言しない。だが、「ガス室があった」と確信することができるような物的証拠も、論理的説明も、いまだに発見できないということだけは、絶対に断言できる。

「殺人工場」の処理能力、所要時間などについては諸説あるが、いちばん重要なのは、すでに指摘したとおりの「実地検証なし」という問題点である。第二次世界大戦終了後の一〇年間、ソ連、またはその従属下にあったポーランド当局は、アウシュヴィッツヘの立ちいりを全面的に禁止していた。これだけ重大な、しかも、人類史はじまって以来ともいうべき大量殺人事件の告発だというのに、ニュルンベルグ裁判では、実地検証がまったくおこなわれていなかったのである。

 こういう細部の疑問が解消しない場合には、「疑わしきは罰せず」という近代法の原則からすれば、被告を処罰はできないはずである。すくなくとも、専門家の鑑定や現場検証をもとめる努力がなされたのかいなかについては、徹底的な問いなおしが必要であろう。


第6章:減少する一方の「ガス室」
(49)前線発表報道の「ガス室」は「発疹チフス」予防の消毒室だった