『アウシュヴィッツの争点』(36)

ユダヤ民族3000年の悲劇の歴史を真に解決させるために

電網木村書店 Web無料公開 2000.7.4

第2部 冷戦構造のはざまで

第4章:イスラエル・コネクションの歴史的構造 6

「左翼」でユダヤ人、プリンストン大学の著名な歴史学教授

『ニュースウィーク』(89・6・15)の記事「『ユダヤ人は自然死だった』で揺れる歴史学会」で紹介されているメイヤー教授も、やはり「左翼」の歴史家であり、しかも、ユダヤ人である。メイヤーは一九二六年にルクセンブルグでうまれた。同誌は、「アメリカ屈指の外交研究者として敵味方を問わず一目置かれているプリンストン大学のアーノ・メーヤー教授」という書きだしで、つぎのように紹介する。

「左翼をもって任じるこの著名な教授は、自らもヒトラー支配下のヨーロッパからの亡命者だ。一九四〇年、家族とともにルクセンブルグから逃れてきたが、祖父の一人は強制収容所で亡くなっている」

 記事の内容は、メイヤー教授の新著『なぜ天は暗くならなかったか』にたいする関係者からの批判、「歴史学者の論争」にはじまっている。

「いま繰り広げられている論争は、論客の顔ぶれや応酬される毒気の強さからいって、類を見ないといえるだろう」とある。『ニュースウィーク』が取りあげざるをえないような熾烈な議論が、アメリカの歴史学界を舞台に展開されていたのだ。

 フォーリソンが執筆した書評記事によると、まず、メイヤーのプリンストン大学での一九八九年度の正式講座名は「ヨーロッパ史」となっている。フォーリソンによると、一九八二年にソルボンヌで開かれた国際会議に参加したさい、メイヤーの発言がイスラエルの歴史学者を激怒させたという。この会議でメイヤーは、「ホロコースト」に再検討の余地があるという趣旨の発言をしたらしいのである。しかもなぜか、その際のメイヤーの発言は、三年後に発行された会議の記録、『ナチス・ドイツとユダヤ人の民族的虐殺』には収録されていない。

『二〇世紀の大嘘』によれば、メイヤーのほかにも、いわゆるユダヤ人のホロコースト否定論者が何人もいる。

 たとえばヨセフ・ギンズブルグは、ナチス・ドイツ支配下のルーマニアで迫害をうけた経験の持ち主で、戦後、イスラエルに移住した。だがそこで、次第にシオニズムにたいする批判をいだくようになり、「六〇〇万人」とされてきた「ユダヤ人虐殺」の数字に疑問を呈したり、偽名で「ガス室による大量虐殺」を否定する著作を何冊か発表したりした。一九六九年にミュンヘンにある妻の墓をおとずれたさいには、ユダヤ人過激派におそわれ、ひどくなぐられた。


(37)「ユダヤ人問題の最終的解決」の意味するもの