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エホバの証人には回答不能の質問20

目次
第3章 エホバの証人の教義
第4章 神を愛する者の旅路
第5章 救いのご計画
第6章 さらに詳しく「大群衆」を調べる
第7章 それは聖書的か
第8章 イエスについてはどうか
第9章 嘘つきの民、死んだ民
第10章 希望はどこに
第11章 復活を話そう
第12章 これが福音だ!!
第13章 協会は大問題を抱えている
第14章 イエスとの出会い
第15章 脱会後の祝福された人生

第4章 神を愛する者の旅路

 この本の中心テーマを入る前に私が何者なのか、私の人生を簡単に紹介させてもらいたい。
 前書きに書いたように、私は30年間、エホバの証人として過ごした。
 私が五歳の時、実母はエホバの証人に改宗した。私は常にある種の神の愛を受けていた。一方、実父は始めのうちはエホバの証人の宗教を受け入れなかった。私は毎週、母の後ろに付いて王国会館まで通った。幼いときにも奉仕に出た。私は母が「真理」を見つけたと思っていた。
 私はウィスコンシン州に住んでいて、組織の中で成長した。模範的なエホバの証人だった。長老もした。副監督もした。神権宣教学校の監督もしたし、その他長老が輪番で行う職に就いて奉仕した。
 開拓奉仕をした時もあった。模範的な「伝道者」だった。毎月、少なくとも10時間は野外奉仕をし、ものみの塔の冊子を携えて、ドアからドアへと伝道したことになる。
 ものみの塔の使っている専門用語の意味は常に変化していることは承知している。ここでは当時のエホバの証人の用語を使ってこの本を書いている。
 ほとんどの巡回大会で発言をした。たいていは地域大会だったが、全国大会の時もあった。実際、私の事務所には、9才の時に巡回大会で発言している私を写している大きな写真が飾られている。ただの写真にしてはとても可愛く映っている!!
 私は証人の組織をとても好きだった。たくさんのエホバの証人会衆では多くの長老や奉仕の僕たちと親しく交わった。善良な人たちだ。彼らが神を愛し、正しいことをしようとしていると信じている。彼らとの親交の記憶を大切にしまっている。
 多数の巡回監督や地域監督は優れた人たちだった。暖かい友情を今でも感じているし、彼らがイエスを「主」とし、「救い主」として信じてくれるよう祈っている。中でもルベルという名前の巡回監督には世話になった。本当のイエスを知るようになることを、頻繁に祈っている。記憶の中の彼らはとても素晴らしい人たちだった。とても献身的であった。彼らの友情に感謝する。
 ケンという名の友人とは親しく交わった。実の兄弟のようだった。彼とは人生を共有していた。ケンの一度目の結婚がトラブルを起こしたときは当事者の一人だった。いつの日かケンにイエスを知ってもらいたく、祈っている一人に彼も入っている。
 前にも書いたように、私は個人的に第3代会長のノア兄弟と会っていた。実際、ミルウォーキーに住んでいたとき、彼を家に招いた。私は彼が好きだった。
 私が知っていたエホバの証人などの多くの人たちに対しては、今でも強い感情を抱いている。私は教義の問題でエホバの証人を辞める選択をしたのだから、彼らはもう私や妻には話しかけてはこない。しかし、今でも彼らに強い愛を感じている。
 私と妻が脱会した後、驚いたことに、ほんの一握りの人たちだけだったが私に会いに来て、なぜ脱会したのかと尋ねてきた。彼らの友情は私が現役でいたころほどは強くはなかったと思う! 彼らにしてみれば私に会わなかったほうが良いのかもしれない。私に何が起きたのか知りたくて訪れた人たちは誰であれ、最後にはクリスチャンになったからだ!! それこそ、神を賛美する。
 私たちはエホバの証人について考える時間を持てたが、個人的関係に話が及ぶと、たいていの人は思考停止に陥ることが分かった。
 エホバの証人はお互いに見せかけの愛を演じている。一方、裏の回れば、かつては深く結ばれた友人であっても、交わりを止める強情さが備わっていることが分かった!!
 けれどもこれだけはよく理解してもらいたい。私はエホバの証人が好きだった。
 1970年の中盤、私は、妻にもうウィスコンシンはとても寒くて居られないと決心を伝えた。ウィスコンシンで生まれ育ったのだが、たとえグリーンベイパッカーのファンであっても、もうこれ以上寒いところはいやだった。そして、フェニックスに移る決断をした。
 フェニックスにいた頃、当地で開かれたエホバの証人の地域大会で一つの重要なメッセージをする役目を与えられた。ものみの塔協会はその概略を私に送ってきた。大会でそのメッセージを伝えることになっていた。
 テーマは「神の子」であった。エホバの証人の専門用語では、「神の子」は144千人だけにしか当てはまらない。
 知らないかもしれないが、協会には二つの級があるとエホバの証人は信じている。死後、天国に行けると信じている144千人の級がいる。そのほかに、「大群衆」がいる。彼らはエホバの証人の大多数であり、死後、地上で永遠に生きると信じている。144千人だけが死後、直ちに天国に行く。
 「大群衆」は1935年にその選抜が始まった。彼らは死ぬと存在しなくなる。千年期、すなわちイエスの千年統治の間に、エホバが復活させてくれる望みがある。
 それは聖書的ではない――これが問題なのだ。死ぬと霊(息)は体から抜け、存在しなくなるとエホバの証人は信じている。霊について聖書が何を言っているか、聞きなさい。
 キリスト教の教義では(聖書的には)、死んでも霊は生きており、霊は「主」がいる天国に行く。
 キリスト教の最初の殉教者ステファノが使徒言行録の中で、なぜ天を見上げて、「主、イエスよ。私の霊をお受けください」と言ったか。それが理由だ。
 聖書によれば、キリストが再臨されると、キリストは私たちを栄光ある体に作り上げ、霊はその内に住む――本当はそうなのだ。私たちの生きている霊と個性がある。主イエスが栄化された体に似ている新しい栄化された体の内に霊が生きる。神を賛美します。その希望があるのだ!!
 少し先走りしたようだ。証人を抜け出た私の旅路(人生)に戻ろう。 私は、フェニックスでのエホバの証人の大会でこの話を割り当てられた。「神の子」について話すことになっていた。このテーマを調べ始めたとき、ローマ書をよく読んでみて、その中でびっくりするほどの発見をした。
 例えば証人の聖書(新世界訳)ではローマ8章14節は、こうなっている――神の霊に導かれる者はすべて「神の子」である。他方、エホバの証人の仲間内の専門用語では、神の霊に導かれる者は全員、144千人の級で占められ、彼らによれば彼らだけが「神の子」である。
 ローマ書は私のエホバの証人の仲間にも、私にも、難問を突きつけた。私は常にエホバの霊が私を導いてくれるよう祈っていた。しかし、ローマ書8章の聖句によれば、エホバが私を導くなら、私は何者なのだ。私は「神の子」であるはずだと書かれている。
 私はエホバの証人の一人であるから「大群衆」である。私は天国に行くことに興味を覚えなかった。地上で永遠に生きる望みを持っていた。しかし聖書は真理でなければならない。「神の霊に導かれる者はすべて神の子である――これがすべてを物語っている!!
 自分で考え込んだ。奇妙だ。辻褄が合う箇所はほかにないだろうか。そしてローマ書全体を通読し始めた。興味深いことが見つかった。
 ローマ3章では、私は罪人だと知った。ローマ3章23節にはこう書かれている――すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており……。ローマ5章12節には「このようなわけで、ひとりの人によって、罪がこの世に入り、また罪によって死がはいってきたように、こうして、すべての人が罪を犯したので、死が全人類にはいり込んだのである」と書かれている。
 私はローマ6章23節の興味深いに言い回しに注目した。「罪の支払う報酬は死である。しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスにおける永遠のいのちである」。
 私にとっての救いの鍵はこの箇所であった。それほど重要なのだ!! ここにたどり着くまでは、模範的なエホバの証人なら、救われると思っていた。新しい世界で永遠に生きると望むなら、エホバの組織を信じて、集会に出て、野外奉仕をして、良い生活を過ごし、新しい世界で生きる希望を持たなければならない。
 それがエホバの証人にとっての福音であった。「大群衆」の一人として永遠の命が得られるノウハウであった。基本的に、組織で懸命に働き、失敗しなければ、エホバは地上での永遠の命を報いる。
 現在でも、エホバの証人が命を得る方法はそれである。ドアからドアへノックして回っているエホバの証人に永遠に生きるにはどうしたらいいか、尋ねてみなさい。面白い答えが返ってくる。
 これらローマ書を読んで、私にとって永遠の命は神からの賜物であり、神の子イエス・キリストを信仰していなければならないと、明確になってきた。一生懸命に働き、善人ぶり、エホバの証人の集会に出て、エホバの証人の組織を信仰しなければならないなんて聖書には書かれていない。
 永遠の命はイエス・キリストを介しての賜物だと聖書に書かれているのだ。賜物は無料である――それが肝心なのだ。賜物のために働かない。働けば報酬が得られる。救いのためにエホバの証人は「働かなければならない」。そしてその状況下ではエホバの証人の救いは賜物ではなく、報酬である。聖書的でない!
 賜物あっての救いか。報酬のための救いか。もし報酬のための救いなら、あるいは報酬を得るためになされるなら、それは救いではない。神から永遠に切り捨てられる宗教だ!!
 ローマ書には、ほかにも一度も気がつかなかった興味深い箇所が見つかった。気がつかなかったある一つの御言葉が新世界訳聖書にもあった。それは「義とされる」だった。新世界訳やそのほかの聖書でそうした聖句が書かれている御言葉を調べ上げると、エホバの証人が「義とされる」として使っていることば遣いが「正当化」だと分かった。
 エホバの証人だった私はその御言葉を耳にしていなかったし、研究もしなかった。その意味に驚かされた。真剣にその御言葉が書かれた聖句を読んだ。実際、この本の読者なら、私が言いたいことが理解できる。人生が変わる!!
 「義とされる」が書かれている聖句を調べなさい。そうすれば、その意味が分かるし、その御言葉を理解することがなぜどれほど大切なのかが分かる。
 注目した最初の聖句は救いの聖句であった!! 「すなわち、すべての人は罪を犯したため、神の栄光を受けられなくなっており」(ローマ3:23)――それは人類の苦境についての大切な説明である。
 けれどもローマ3:24にはこう書かれている。「彼らは、価なしに、神の恵みにより、キリスト・イエスによるあがないによって義とされるのである」
 何ということだ。「義とされる」の意味を理解していなかったし、それは確かに私にとって素晴らしいものにこだました!! 「キリスト・イエスによるあがないによって義とされる」!! イエス・キリストの犠牲による購いを信じたとき、私には何かすばらしいことのように聞こえた。ふーむ。何が起きたんだろう。
 次に起きた事件で私は永遠に変わった!! ローマ5:1にはこう書かれている。「このように、わたしたちは、信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。何ということだ! イエス・キリストへの信仰による神に対する平和! 聖書には、それは義とされた後、生じると書かれている! 何かがうごめき始めているに違いないという感じが私の中で起きた! 
 ついに5章8節以下の聖句にたどり着いた! 

ローマ5:8 しかし、まだ罪人であったとき、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
ローマ5:9 わたしたちは、キリストの血によって今は義とされているのだから、なおさら、彼によって神の怒りから救われるであろう。
ローマ5:10 もし、わたしたちがまだ敵であった時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なおさら、彼のいのちによって救われるであろう。

 私は鳥肌が立つほどの喜びで満たされた!! この聖句がはっきりさせてくれた!! 私は罪人だった。そして私が罪人であったとき、私のためにキリストが死んでくださった!! そして私はキリストの血によって義とされ、キリストを通して神の怒りから救われた! ハルマゲドンを通して救われるのではなかった。私は一生懸命に働いて救いを得ようとしていた。私はキリストの血を信じて救われ、イエスを信仰して救われた!!
 信仰によって私は神と和解でき、義とされ、怒りから守られる。私は神との平和を得られ、神の子となり、天国で永遠に神と生きるのだ! この賜物と約束はすべての人に開放された。144千人にだけには限らない!!
 ハレルヤ!! 義とされるとは、イエス・キリストへの信仰の故であり、神が私を見るとき、もう私を罪人とは見ない。神が私を判断するときには、神は私を罪人とは判断しない。イエスは義なり!! 
 私がキリストを受け入れると、神はキリストの義を負わせる。自分自身の義によっては生きられない。そこに義はないし、罪人だから。私の働きには何の意味もないからだ。実際、パウロは自分の働きはすべて無駄だったと語った! だからキリストはキリストの義で私の罪を受け止め、かばうために死なねばならなかった。そして神はふたたび、私を子として迎え入れる。
 エホバの証人の教義では、義とされる者は144千人に限定される。それで、ものみの塔協会によれば、神の目から見て「大群衆」は死んでいる! この件は後に述べる。
 イエス・キリストを信じるすべての人は救われ、義とされ、神の子であり、天国に行く運命にある――それが真理だ!!
 キリストを受け入れると言いながら、地上で永遠に生きますとは言えない。そんなものは救いではない!! 救われる者はすべて、キリストを信じる者はすべて、永遠にキリストと共に生きるために天国に行く。新約聖書の中にそれと矛盾する箇所があるか試してみたらいい!!
 私の救いは信仰に基き、組織に基いてはいない――それを確かめたかった。そしてローマ書での発見が証明されるかを知るためには新約聖書の残りの部分を読むことが大事だと考えた。
 救いは、イエスへの信仰によって得られるのか、組織への追随によって得られるのか、どちらしかない。こうして新約聖書を読み始めた。
 マタイ伝とルカ伝を読んでイエスの誕生の中で、イエスが「救い主」であると分かった! 144千人のために死なれるため、地上に来た天使長どころではなかった。イエスは「神の子」、エマニュエル、神、私たちと共にあり、信じる者の「救い主」となるために地上に来られた!!
 ヨハネ伝を読むとイエスは道であると語っておられることが分かった! イエスは命への唯一の道であった。組織が命への道であると書かれてある箇所は聖書には見つからなかった。私の説が間違だと証明できる箇所があるか確かめたらいい。聖書には組織という語句はない!! 救いは組織の中には無い。聖書によれば、救いはイエスへの信仰だけによる。イエスに関しては、それに尽きる! 
 使徒行伝16:31を読んで、私はそこにすばらしい発見をした。福音の全体像が書かれていて、永遠の命の手がかりが書かれている。イエスを信じる者は「すべて」救われると書かれている。信じる者すべてなのだ!! 組織を信じる者とは書かれていない。イエスへの信仰はそれに尽きる。
 エフェソ2章を読んで、まさにきびしい御言葉を発見した。証人として私は良い働きと懸命な働きによって救われると確信していた。しかしエフェソ2:8、9にはこう書かれている。「あなたがたの救われたのは、実に、恵みにより、信仰によるのである。それはあなたがた自身から出たものではなく、神の賜物である。……だれも誇ることがないためなのである」。
 少しこれについて考えてみよう。エホバの証人であったとき、何と傲慢だったのだろう。無駄な良い働きが私の罪を相殺し、救いを得るに十分であるなどとどうして考えていたんだろう。私は何を考えていたんだろう!! なんて間抜けだったんだろう!! 自分の力で救いを得、エホバの益を獲得できるなどと思いこませた者はどこのどいつだ!!
 聖書は、間違いなく、良い働きによって救われるのではないとエフェソ書で語らせている。そうでなけば、「どうだ良い働きだろう」といつまでも思い上がるのだ。イエス・キリストへの信仰によって容易に救われるのに……。
 「本物の福音は何か」の問いの答えは、コリント人への第一の手紙の中で発見した。コリント人への第一の手紙15:1から4で、パウロは福音を次のように同定している――イエスがこの地上に来られ、罪のない生活を過ごし、十字架の上で死なれ、墓の中で三日を過ごし、三日目に蘇った。イエスを信じる者はすべて救われる。
 エホバの証人の福音を広めながら、ドアからドアに歩いていたときに言っていた言葉とはまったく正反対だ。イエスについて一度も語らなかった。エホバの名しか語っていなかった。その教義は変わらなかった。私が証人を行儀良くドアの前に呼び止めたとしても、証人は決してイエスを語らない。語る対象はエホバだけだ。
 なぜイエスを語らないのか。エホバの証人は、個人的にはイエスが主であり、「救い主」であるとは受け入れてこなかったからだ。エホバの証人は義とされない。エホバの証人は神の目には死んでいて、天国でイエスと生きる価値があるとは見られていない。イエスを知らないからだ。私の考えではない。それこそがものみの塔協会の考えである!! エホバの証人が「大群集」について教えている中身なのだ!! 「大群集」はイエス抜きではその存在理由を失う。それがエホバの証人が第二の級の市民である理由だ!!
 ピリピ人への手紙の中で、パウロはイエスの御名のほかには人々が救われる名は無いと語っている! エホバの名ではない。救われるエホバの名を信じて、救われ、地上に永遠に生きると書いてある箇所を新約聖書のほかのどこかに発見できる者はいない!! ピリピ人への手紙では、人々を救う唯一の御名があり、その御名はイエスであるとパウロが語っている箇所を発見した!! それ以外に救いの道は無い。
 イエスを「主」であり、「救い主」であると受け入れるとき何が起きるか考えてみなさい。その人は義とされ、「神の子」となる。「神の霊」に導かれる者はすべて神の子である。
 これはすごい!! 前のローマ書の箇所に一致する。すべてローマ書8章に帰結している!!
 聖書には1935年の日付が書かれていないし、聖書には組織への追随についても書かれていないし、聖書には救いのために懸命に働くとは書かれていない。だとしたら、どうやってそれらのアイデアを心の中に入れたのか。もっと大事なことは、どこからエホバの証人はそんなアイデアを入手したのか。そのアイデアのほとんどはものみの塔の二代目の会長、ラザフォード判事に由来するという調査が伝えられている。
 ものみの塔の創設者、C・T・ラッセルは144千人も、「大群衆」も、死んだら天国に行くと信じていた。彼はその著書の中で、我こそは神に関して真理を有すると主張する組織を非難していた。皮肉にも、その我こその組織はラッセルの死後に始動する。
 ラザフォード判事は、ラッセルの土台の上に立てられ、エホバは本物の追随者に真理を施すために組織を用いるというアイデアを持ち込んだ(その組織はエホバの証人の組織)。神は1935年、天国に行く者の選抜を停止したというアイデアを持ち込んだのもラザフォード判事だった。
 ラザフォードによれば、神は「大群衆」(地上で生きる者)だけを選択していた。ラザフォードの決断はほとんどがそうであるが、それは彼の決断であり、聖書に基づいてはいなかった。
 ラザフォードは本当に信用でき、追随する決定をするほどの人物だったのだろうか。
 ラザフォードを知る人は、彼はアル中だったと言う。ベス・サラムと呼ばれたものみの塔の別荘があったサン・ディエゴで肝臓病で死んだ。ラザフォードの神学的な決定はもうろうとした酩酊状態の中で作られたに違いない!! 君もそう思うだろう。好きになれない奴だ! ラザフォードの失敗作であり、サタン的な生活から生まれたものだ。そして、現代の多くの証人が欺かれている。
 ともかく、私はぬかるみに足を取られていた。私はエホバの証人が好きだったが、その宗教は聖書の裏付けのなかった。そしてエホバの証人の信仰をそれぞれ調べる決断をした。ガイド役としては聖書を用いる。
 もし、エホバの証人の教義が聖書から証明できるなら、信仰を続けよう。もし、エホバの証人の教義が聖書から証明されないなら、信仰体系からその教義を捨てよう。
 立入禁止区域に入っていることは分かっていた。エホバの証人の組織から逸脱した領域に入っていた。しかし私は真理の中で生きなければならない。本物の真理の中で生きながらも、家族たちを組織にとどまらせるわけにはいかなかった。調査を重ねた。私の採ったその手順は重要なものだが、困難ではない。
 エホバの証人の教義を逐一、選び出し、聖書からそれが正しいか試みた。教義がまちがっていることを証明しようとはしなかった。その正しさを証明しようとした。覚えているだろうか。私はエホバの証人の組織が好きだった。私はあの組織に残りたかったのだ。
 本当のところ、私はエホバの証人の教義の正しさを証明できると考えていた。私は30年の人生をすべて組織に捧げてきた。その年月に間違いを重ねていたなんて。気も狂わんばかりだ!!
 「主」が私に分からせたことが一つある――私と一緒に教義を分析するために助手を用いる。この仕事に就く者は妻のディアンナの他にあるまい。システムを一つ発展させた。問題となる聖句を見つけ出す。そしてディアンナに同じ聖句を読ませる。ディアンナには聖句の意味は初めのうちは教えない。まずはディアンナに聖句の意味を尋ねてみる。二人とも同一の意見だったら意味は一致している!! 同じ土俵の上に立っていると確認できる良い手段だ。
 私が聖句から得た答えと違う答えをディアンナから聞いたら、元に戻ってさらに研究を深める。時が経つのも忘れるほどだ。聖句は私にも、ディアンナにも、同じことを与えていた。こうして私の真理への旅路は始まった。
 旅行には数年かかった。ここに要約する。完璧なリストではないが、聖書からは証明されなかった、悩ませるリストだ。
 第一に、私は「大群衆」は地上で永遠に生きることを証明したかった。簡単に証明できると考えていた。しかしそのように書かれている聖句は一つもなかった。実際には、黙示録19:1には決着を付ける明確な聖句が書かれている。「大群衆」は天にいると書かれてある!! 完膚無きまでに証人の教義を打ちのめす!! 信じられなかった。決着は付いた。「大群衆」は天にいる。新世界訳聖書を手にとって自分の目で読んでみなさい。
 144千人だけが天国に行くことを証明したかった。ここでも聖書は何ひとつ、証明をしてくれなかった。黙示録7章、14章に書かれた144千人をテーマにした聖句では特別にユダヤ人を扱っている。144千人がエホバの証人の組織に何かをするわけではない!!
 エホバの名はもっとも大切な名だと信じていた。新約聖書の中にそれを書いている聖句が一つもないとは信じられなかった。ご存知のように、新訳聖書でもっとも大切な御名はイエスである。この件は後で詳述する。
 もしも、エホバの名がそれほど大切なら、イエスやイエスの弟子たちが、戸口から戸口へと歩いて行きなさい、エホバの名がもっとも大切な名ですと、少なくとも一回は私たちに教えただろう。
 それはもっともだ。しかしながら、何年もかけて、エホバは宇宙の中でもっとも大切な名だと伝えながら、ただやみくもに、エホバの証人の組織に盲従していた。
この章の前のほうにも書いたように、ピリピ人はもっとも大切な御名はイエスだと伝えている。もっとも大切な名が二つもあるはずがない!!
 私が証人は正しいと証明しようとしたとき、面食らうほどのもっとも重要なテーマは救いの問題だった。前にも書いたが、この本を通してこのテーマを読み続けることになる。すでに書いたように、エホバの証人は働いてなんぼの宗教である。
 福音の便りは簡単だ――私たちはすべて罪人だ。初めての親、アダムとイブから罪を相続したからだ。自分でその罪を取り除く手立てはない。良い行いをしても、罪を克服できない。新約聖書には、救いの唯一の道がある、それはイエス・キリストだと書かれている。ヨハネ3:16から始めよう。「神はそのひとり子を賜ったほどに、この世を愛してくださった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」。
 いくら働いても救われない。イエスの死と復活によってそれはすでに成就されていた。イエスを信じ、罪の許しを受け、救いの無料の賜物を受ける必要がある――これが理解できたとき、もはやエホバの証人の一員としては組織に残れなかった。生きるか死ぬかの問題となる。もし、私がエホバの証人の信仰のままだったなら、永遠の命を失っていただろう。私だけではない。私の家族も一緒だ。痛みの伴う決断だった。しかし、必要な決断だった。
 エホバの証人の組織は死を商う組織である。キリスト教は命を救う宗教だ。忘れられないほど強力なやり方でそれを証明しよう。
 研究を進めているうちに黙示録20:5の聖句にたどり着いた。千年の終わりに何が起こるかが書かれている。新世界訳では次のように書かれている――「残りの死人は千年が終わるまで生き返らなかった」
 前にも簡単に書いたが、この聖句「残りの死人」で人々をエホバの証人流に解釈している。これが分かれば証人が魅力的だなどと誰が思うか!!
 エホバの証人の宗教によれば「残りの死人」は本当は「大群衆」である。証人自身が解釈するやり方だ。組織の書籍「聖書理解の手助け」にはっきりとそれが説明されている。
 前にも書いたが、キリストを受け入れるとき、キリストの内に生き、キリストと永遠に生きると聖書に書かれている。キリストを受け入れるとき、義とされる(正当化される)と聖書に書かれている。
 キリストを「主」として、「救い主」として受け入れるとき、神はキリストの義を与えるという意味だ。罪人でも、神はもはや罪人としては見なさない。キリストの義を知り、罪を許す。キリストを受け入れるとき、霊は生き、死を恐れる必要はない。なぜなら死ぬとき、霊は神と共に生きる。
 証人もそう信じている。問題はそれが144千人にしか当てはまらないことだ。証人の信条体系の中では、144千人だけが義とされる。神から見ると144千人だけが生きる。144千人だけが死後、直ちに天に行ける。
 もはや、お分かりだろう。エホバの証人の心の中では、「大群衆」は神から見て死んでいる。それが身に付くよう、さらに詳しく述べる。これはとても大切なテーマなのだ!!  ものみの塔協会は、「大群衆」は義とされないと言うのだから、神の目から見て、「大群衆」はまだ罪人のままだ。「大群衆」にとってまだ大事なことがある。エホバの証人の教義によれば、「大群衆」は神の目から見て死んでいることを理解する必要があるのだ。忘れてはならない。それがものみの塔の宗教システムなのだ!!
 エホバの証人の組織は「大群衆」のメンバーから命を奪っている――それを理解する必要がある。エホバの証人の99lは「大群衆」なのだ!!
 神の目から見て死んだままでいる組織の一員になりたいと本当に思いますか。どんな類の宗教なんだ!! 宗教はその信者に命を与えるために作られたと思うのだ!! ものみの塔はその信者たちに死を売る商人なのだ。なんと空恐ろしい!!
 それを理解したとき、気も狂わんばかりだった。傷つけられた。落ち込んだ。私が愛した組織は、神から見ると、私を死なせた。が、それで終わりではない。
 組織は私を神から見て死んだ者にしたばかりか、妻も子どもも死なせた! もはや死を売る商人の宗教は許せなくなった。
 エホバの証人の組織は私と家族に死を宣告していた。とんでもない。組織が神の目から見てあなたと家族を死なせるようなことをさせてはならない。自由になり、「王の王」、「主の主」、イエス・キリストを礼拝しなさい。
 それだけを取り上げて、エホバの証人が、聖書の裏付けのない教えや信仰をしていたと言っているのではない。ほかにも仰山あることが分かった。エホバの証人が福音の真理として教えてきたもの、信じてきたものであり、それらは「エホバの証人の答えられない20の質問」の土台となっている。
 それでは、20の質問を掲示し、その仕事に取りかかろう。
 あなたの旅路に神からの祝福がありますように。


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