8章 イエスを宣べ伝えていますか

 質問9と質問10はイエスの尊い御名をテーマとする。それはとても重要なテーマなのでこの本の中ではきわめてわずかではあるが、問題として取り上げる。とどのつまりエホバの証人の何が問題かというとすべては「イエス」に行き着く。
 私がエホバの証人を辞めてクリスチャンになった後、私の人生は変わった。救いを受けた私の態度は様変わりした。喜びにあふれた態度に変わった。自分でもそれは信じられなかった。若かりし頃、私はコンピュータ化された所得税会計事務所の販売主任をしていた。ある日、事務所に座っていると、その当時のかつての同僚の一人が事務所に入ってきた。
 その人は部下の中でも、少しばかり「面白い」人たちの部類に入っていた。外見はヒッピー風だった。ロングヘアであごひげを長く伸ばしていた。この男ならハリウッドに行けば、映画でイエスの役をこなせるだろう。
 この男は事務所に入るとドアを閉め、私のデスクの前に座り、こう言った。「君の持っているものが欲しいんだが」。そう言われたので小銭を上げようとしてズボンの中に手を入れた。するとその男は笑い始めた。「そうじゃないよ」。「その喜び、君の人生で起きた幸せが欲しいんだよ。僕も君のようになりたいもんだよ」。その後、私たちの生き方をいつも作り上げている人、イエスに彼を導いた。
 イエスについては常にそれがすべてだ。エホバの証人はイエスを二流の市民に分類してきた。エホバの証人はエホバのクリスチャン証人を自認しているがイエスはいない。エホバの証人は現実に「キリストの中に」の意味を理解しない。「義」とか「義認される」の意味を本当に理解していない。現実にそれが「罪から清められる」意味であることを理解しない。キリストを受け入れるときにその人に素晴らしいことが起こる――エホバの証人には、それが理解できない。エホバの証人は、イエスには口先だけのサービスをするがクリスチャンになる鍵を本当のところ、持っていない。イエスが「主」であり、「救い主」であると知っている者だけが本当のクリスチャンだ。
 人は本当にイエスを信じると、素晴らしい人生がスタートする。「私たちは新しく造られた者になる」と2コリ15:17に書かれているではないか!! キリストを受け入れるとき、まず初めに私たちの罪が許される。キリストを受け入れる前は、私たちは「霊的に死んでいる」のだ。キリストを受け入れた後は、私たちは霊的に生きる。罪は許され、私たちの中にキリストが生きる。
 大切なのはそれだけでいない。キリストを受け入れると義とされる。キリストを受け入れると神の子になると聖書に書かれている。
 キリストを受け入れると人生の目的地が変わると聖書に書かれている。もはや地上の市民ではない。戸籍は天にある。クリスチャンにとって「体から離れ、主とともにある」。それはもはや、死を恐れないという意味だ。私たちの体が滅びようとも、クリスチャンは決して死なないとイエスは言われた。
 ヨハネ11:25と26でのイエスの御言葉を見なさい。「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、私を信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
 死ぬのは体である。死ぬと、体は眠り、体には知識も無ければ、動きもない。イエスが「たとい死んでも」と言われた25節で語られる御言葉はそういうことだ。
 25節ではイエスはイエスを信じる者に言及する。そして、イエスはその者は決して死なないと言われる。人が死ぬとき決して死なないのだろうか。霊だ!! クリスチャンは死ぬときクリスチャンは死なないのだ!! 住所が変わったまでだ。
 私たちが死ぬときは使徒行伝7:59にあるステファンに倣う。ステファンのように、「イエスよ。わたしの霊をお受けください」と叫べる。「主」を知る私たちが亡くなるとき、イエスは私たちの霊を受け取られ、イエスと共に永遠に生きる。こうした信仰はすべて、霊的である、「大群衆」にとっては手の届かないところにある。イエスがそうさせたいと望んでいないわけではない。ものみの塔協会が「大群衆」にはそうさせてはくれないからだ!!
 エホバの証人はキリストを受け入れると言うかもしれない。しかし誰一人として、上の教義に当てはまらない。これらの聖句が大群衆に当てはまらないなら、「大群衆」は罪を負い死んだままであり、クリスチャンではない。キリストを受け入れるとは頭の中で「はい、私もイエスを信じます」と考えるだけではない。人生と心をイエス
に委ねることである。本当にイエスを「主」とし、人生の「救い主」とすることだ。エホバの証人はイエスには言及するけれども、本当のところ「大群衆」にはキリストを受け入れさせない。
 エホバの証人の集会の儀式がそれを証明している。年に一度、エホバの証人はその共同体を祝うために集まる。生まれ変わる者だけが杯とパンに与れる。エホバの証人の神学では、144千人の残りの者だけが象徴に与る。「大群衆」は杯とパンを隣の人に手渡すだけで、杯とパンに与らない。「大群衆」が杯のぶどう酒を拒否して自ら滅びの運命に陥らせている(杯とパンは罪のために犠牲となられ、血を流した象徴である)。
 一年に一度、はっきりとキリストの象徴に「ノー」を突きつける。なんと恐ろしい。「大群衆」は毎年、記録を塗り替えている。彼らはキリストを受け入れない。キリストが血を流し、キリストがその体を私たちのために捧げた購いの業を否定する。
 彼らは毎年キリストの犠牲を拒否する記録を塗り替えているという意味では、地上における唯一の宗教である!! そんな話を聞いたことがありますか!! サタンは「大群衆」を見てほくそ笑んでいる!
 もしエホバの証人がキリストを受け入れたいのなら、ヨハネ三章にあるように生まれ変わらなければならない。どのようにしてそうなるか。罪を悔い改め、心にイエスを招き入れてできる。救いは働きによるのではない。イエス・キリストを介して救いに至る。
 これから質問9と質問10は、イエスに関係する。新訳聖書には、エホバが最も大切であるとは書かれていない。ピリピ2:9には、イエスはすべての名にまさる名だと書かれている。

質問9:あなたたちはなぜイエスを戸別伝道しないで、エホバだけを伝道するのですか。
 
 聞き手に対しはイエスも話していると、エホバの証人は言うかもしれない。正直になったらどうですか。エホバの証人のたよりはイエスではなく、エホバだけだ。

質問10:使徒行伝1:8でイエスは言われた。「わたし(イエス)の証人となるであろう」。どうしてエホバの証人はイエスの証人を名乗らないのですか。

 要点:「エホバの証人」の名はイザヤ43章に由来する。聖書学者ならだれでもこう言うだろう――神が「あなたがたはわが証人」と言ったとき、それはユダヤ人に対してであり、21世紀に存在する人造の組織の者に語ったのではない。
 
「父」は調べる目を開かせてくれた。「父」を賛美しよう。


 

目次へ戻る


9章に移る