木村愛二の生活と意見 2003年3月分 1件のみ

典型的ドイツ・新ロマン派歌曲「さすらい人」は作詞者の題名「幸い無き人」「余所者」を経てシューベルトが改題と判明

2003年3月5日(水曜日)(2003.3.6加筆訂正)

 「苦い想い」への連想の最新の発端は、先月の事件である。私は、2003年2月2日の講演に関して、鶴ヶ島市の日本共産党の古狸どもから、「反党分子」としてのまことに丁重なる「もてなし」を受けた。その苦々しき事件の顛末に関しては、すでに、この「日記風」の2月15日にも略記した。

 相手の古狸の筆頭の引間博愛とは、それ以前も以前、千代田区労協事務局長時代の約35年前と、その後、約15年を経た日本テレビに対する不当解雇撤回要求闘争の争議中、東京地方争議団共闘会議副議長時代の約20年前と、都合2度もの直接の遭遇の経験があった。その2度ともに、実に不愉快な想いをしたものであった。引間は、要するに、実に下品で典型的な労働組合官僚、党官僚でしかないのである。その卑しい性格は、今も、まったく変わっていないのである。

 引間の経歴については、全国自動車運輸労働組合(全自運)の委員長として一般に知られているが、千代田区労協時代に、引間の出身組合、神田運送支部が区労協加盟で、常任幹事も出していたので、引間には、この職種の中心のトラックの運転手の現場経験が無いと聞き知っていた。当時は「オルグ出身」と聞いていた。

 確かに、見掛けにも振る舞いにも、「現場」の匂いがまったくなかった。別に詳しく知りたくはなかったのだが、今回、念のために調べると、「学習の友」社の1977年初版発行『組合役員・活動家』の座談会で、当人が、組合結成の「当時、わたしは事務員で、いまでいう末端職制だった」と認めていることが判明した。

 この種の戦後の雨後の竹の子組合の「職制」型上がりの労組役員には、それこそ「右も左も」、ろくな奴はいなかった。要するに「ご都合主義者」なのである。これだけ分かれば、今は「打ち止め」にして、いずれ、他の問題と合わせて論じようと思った。

 ところが、今月に入って、つまり、この3月の初めには、3月末の日付で、また新たに、「イラク問題」の演題希望付きの講演依頼があった。

 そこで、2月の講演の不愉快さを振り切るべく、新たに構想を練り直し始めると、自然と、わが脳みそが勝手に沸き立ち、ついつい、再び、約35年前からの数多い連鎖の追憶にふけってしまった。

 約35年前に私は、引間などは小物の手先ほどでしかなかった「事件」により、日本共産党から「査問」「除名」「除籍」などの迫害を受けた仲間が「座敷牢」と通称する立場に押し込められた。

 この約35年前の「事件」の完璧な真相は、まだ不明な部分が多いのであるが、表面的な事実だけを見ても、日本共産党の典型的で官僚的な、事実上の規約無視の人権侵害、大衆運動への支配介入と組織破壊は、火を見るよりも明らかなのである。

 わが電網宝庫には、以下の連載記事が掲載されている。

 http://www.jca.apc.org/~altmedka/pro-series.html
 元共産党「二重秘密党員」の遺言 または 日本共産党犯罪記録

「二重秘密党員」としたのは、表現が少し大袈裟だが、事実に基づいている。

 私は、当時、日本テレビの社員であった。メディア関係の党組織は、その性質上、さまざまな問題を生じ易くて、もともと特別扱いが多い。日本共産党の中央委員会の直属組織もあった。日本テレビその他の首都圏の民放党組織は、日本共産党の東京都委員会の直属、つまり、普通の各区や市町村の地区委員会の所属とは違う一種の秘密組織だった。

 その状況に加えて、私の場合には、ある時期から、そこからさらに離れた「単線」と称する特別扱いの「秘匿」状態になっていたのである。「線」とは言い状、実際には、都委員会の組織部の専従勤務員との直接の関係だけで、事実上、まったく接触が絶たれ、「隔離」されていた。

 この異常な「座敷牢」押し込めは、日本共産党の「上級機関の決定」として強行された。「決定」に背けば、「決定違反」、外部に漏らせば「党内のことを外部に持ち出した」などの規約違反で「除名」処分となる。これが日本共産党の常套手段、指導部を批判する「邪魔者」排除の「手口」である。

「座敷牢」入りの真の理由を、私は当時、このように、「邪魔者」排除の「手口」ではないか、と気付いていた。しかし、すぐには確証がつかめなかった。私は、当時、民放労連の大会に出席し、日本テレビ労組の大会代議員であると同時に現職の千代田区労協事務局長としての立場を表明しつつ、「労働戦線強化のために民放労連が総評に加盟せよ」と主張した。その後の経過でいくつかの材料を得て、かなり前から、これが「排除」の真の理由に間違いないと確信するようになった。

 この私の主張は、当時の日本共産党の中央委員会の労対部の方針とは、真っ向から対立するものだった。その時の民放労連の大会では、異例ではあるが、「来賓」で列席していた引間が、「総評加盟単産」の立場で、「総評には加盟しない方が良い」と発言したのである。

 民放労連の執行部も私以外の大会代議員も、この件では、まったく、発言しなかった。当時、日本共産党「中央」は、総評とその主要加盟単産が、「社会党を支持を決定し組合員に資金カンパを強要」していることに対して、「政党支持の自由の侵害である」と猛攻撃中であったから、日本共産党の党員が圧倒的に多かった民放労連の各組合代議員は、何も発言できなくなっていたのである。

 しかし、日本共産党の規約上では、日本共産党の党員の労組役員が、この日本共産党「中央」の主張に反する発言をすることを禁止することはできないのだった。だから、それを十分承知の上で、私は、上記の発言をしたのであった。

 総評の社会党支持を批判する日本共産党が、自分の党の党員に、「グループ指導」と称する政党優位の支配介入をすること自体、矛盾も甚だしい。

 当時、わが日本テレビ労組は千代田区労協加盟、民放労連の関東地連は東京地評加盟であり、民放労連は総評を中心とする春闘共闘では民間部会の議長に中央執行委員会の委員長を兼任で出していた。いずれもいわゆる総評系の労組組織である。

 とりわけ、様々な組合攻撃を受けていた民放の組合には、これらの総評系労組を中心とする地域共闘の支援を不可欠だった。

 だから、私の主張は、実のところ、多くの民放労連大会代議員の中の日本共産党員の「無言の支持」を受けていたのである。

 そこへ、または、そこで、「事件」が発生したのだった。

「単線」の切り離しは、同時に、私の当時の党内の地位の「細胞長」(組織名と構成の変更で「総細胞長」から「党委員会の委員長」などを経て「細胞長」となったもので、最初の総細胞結成以来の位置と同じ)からの解任であり、しかも、千代田区労協の事務局長と日本テレビ労組の執行委員の役職に、次期は立候補しない「決定」でもあった。それが彼らの真の狙いだったに違いない。

「上級機関の決定」の根拠は、「日本テレビにおける重要な部署」とか、「狙い撃ちの可能性大」とか、だから「潜れ!」とかであったが、実は単なる末端の平社員の広報部員で、簡単に言えば自称「チンドン屋のチンドン屋」でしかなかったのだから、これは典型的な見え透いた「口実」である。

 日本共産党の中央委員会には、いわゆる「苦情処理機関」として、「訴願委員会」がある。私は、そこへ何度も掛け合った。ついには、中央委員会の組織部長、早川某が、「仕方なし」の面を顔に貼り付けたような感じで、やっと会ってくれたが、困り切った口調で、「あなたには大変苦労を掛けた」というようなことを呟いただけで、真相は、まったく語らなかった。

 だから、上記のごとく「推測」するしかないのである。早川よりも、当時の老体、いや、まだ当時は若い中年の労対部長、荒堀の方が、6全協とやらの分裂解消以前に「ミヤケン」派だったとのことで、最高権力に近かったから、荒堀の荒っぽい労組支配介入の不当人事に、組織部長が介入できなかったに違いないと、私は、判断している。

 以後、この関連で、不当解雇撤回闘争の16年半の経過を通じて、様々な事件が発生したのだが、それはまた別途、振り返る予定である。

 ともかく、この「座敷牢」の中で、私は、仕方なく、本物の牢屋入りの先輩の教訓に従い、さまざまな勉強をした。『資本論』をドイツ語を含む5カ国語で読み比べ、ドイツ語の耳学問のためには、原語の歌曲をレコード(今はCDあり)を買って何度も聴き、歌って、発音を覚えた。

 その時に、一番、自分の心境に合致していて、気に入って歌ったのが、「さすらい人」だった。

 今月の始めに思い立って、電網検索をした。当時のレコードと同じく1960年の日本国内での演奏の録音だというディートリッヒ・フィッシャー・ディスカウのCDの所在を探し当てた。CDは2千円以下の値段で買えたし、電網情報も溢れているし、耳で聴いたり、歌ったり、電網の文字を読んだり、取り込んだり、便利は便利だが、時間がいくらあっても間に合わない。しかし、以下の「歴史的事実」に接し、自分の判断の正しさを確認し、ますます、この曲が気に入った。いわゆる「典型的」な運命の曲なのである。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.geocities.co.jp/MusicHall-Horn/2554/2sakuhin/kakyoku.html
歌曲

さすらい人 Der Wanderer D493
作曲 1816年(19才)10月
作詞 シュミット・フォン・リューベック
初演 1821年11月18日、ホテル「ツーム・レーミッシェン・カイザー」(ウィーン)
出版 1822年5月29日 カッピ&ディアベリ社から委託販売として出版。
シューベルトはこの曲を一晩で書き上げた。カッピ&ディアベリ社から出版され、当時人々から特に親しまれた曲のひとつ。

シューベルトは、公開朗読のために編まれた詩選集(1815年、ウィーンで出版された)の中にこの詩を見出す。その詩選集の中で、この詩は誤ってツァハリス・ウェルナー作として取り上げられていた。シューベルトの初稿でもそのように記されている。

シュミットの原題は『不幸な男(Der Unglukliche)』であった。シューベルトはそして大きな変更のない第二稿を書き、出版する。

この間にシュミットは自ら題名を『不幸な男』から『異国の男(Der Fremdling)]』に変えた。シューベルトはそれを機会に『さすらい人』と改題した。

1818年、シューベルトはエステルハージ伯のために嬰ハ短調からロ短調に移調しているが、その表題は『さすらい人、または不幸な男、または異国の男』となっている。

1822年、曲の一部が取り上げられ、ピアノ独奏曲である『さすらい人』幻想曲が作曲された。

嬰ハ短調 2分の2拍子 Sehr langsam(ひじょうにゆっくりと)  通作形式

3連符のもう憂い前奏に始まる。

「私は山からやってきた。谷は霧たち、海は波立っている。私は少しの喜びもなく、とぼとぼとさすらっている。嘆息はたえず「どこなのか」と尋ねる。

『さすらい人』幻想曲に用いられた旋律で次のように歌われる。

しぼみ、人生にも疲れ果てた。人のことばはうつろに聞こえ、私はどこへ行っても見知らぬ旅人だ。」

曲は一転、明るくなる。

私の憧れの場所はどこなのか。探し、求めても見つからない。緑の希望の国、バラの花咲く国,友のさすらい行く国、死者のよみがえる国、私のことばを話す国、そのような国はどこにあるのだ。

再び、最初の旋律が物憂げに戻ってくる。

私は少しの喜びもなく、とぼとぼとさすらっている。嘆息はたえず「どこなのか」と尋ねる。

そして、ピアノと声がユニゾンで歌い始める。

魂の息吹の中にこだましてくる声は「おまえのいないところ、そこに幸いがあるのだ」。

歌詞の内容によって、旋律がだんだん変化してゆき、単純に繰り返すことない形で作られた歌曲です。物語にあわせて、場面によってかなり変化をもつものもあります。
----- 引用ここまで ------------------------------

 私は、シュミットの原題、Der Ungluklicheを、『幸い無き人』と訳し、改題、Der Fremdlingを、『余所者』と訳す。

「幸い」の訳語は、以下のカール・ブッセの詩の上田敏の訳に従ったものである。

----- 引用ここから ------------------------------
この日は何の日?(12月 4日)
... 1918年 カール・ブッセ 没 キャッシュ(2019.8.8:リンク不通、削除)

1918年 カール・ブッセ 没
Karl Busse。ドイツの詩人。上田敏の訳詩集「海潮音」(明治38年出版)に収められた「山のあなたの空遠く」で有名。享年46歳。[後略]
----- 引用ここまで ------------------------------

 上田敏の訳詩については、以下を引く。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.ffortune.net/social/people/nihon-mei/uedabin.htm
「山のあなた」の名訳詩で知られる上田敏は明治7年(1874)10月30日、東京
築地で生まれました。まずはその「山のあなた」を見てみましょう。

  山のあなた

 山のあなたの空遠く
 「幸い」住むと人のいう。
 ああ、われひとと尋(ト)めゆきて
 涙さしぐみかえりきぬ。
 山のあなたになお遠く
 「幸い」住むと人のいう。
[中略]
ブッセ(Carl Busse,1872-1918)はドイツの新ロマン派の詩人です。単純で完成した文体が特徴である.....と新川和江さんの「若き日の詩集」(集英社文庫)に書いてありました(^_^; 新ロマン主義というのは20世紀初頭のドイツの文芸運動で、19世紀末世界的に波及した自然主義の限界を越える指導原理としてとらえられました。その代表がリルケとされます。

しかし改めて上田敏の訳を見てみると、訳詩という作業は本人が美しい言葉を持っていなければできないのだ、という当たり前のことを思い起こさせます。

上田敏は京橋開稚小学校から第一高等中学校に入学。中学時代に翻訳で多数の海外の詩を読んだといわれます。やがて「文学界」に寄稿。その同人たちと交友を深めます。東京帝大(現東大)卒業後同大の大学院で小泉八雲に師事。東京高等師範(現つくば大)の教官になります。

明治31年に「帝国文学」でフランスの詩人を紹介。それを皮切りとして欧州の詩や文学を多数紹介するようになりました。フランスの象徴派の詩人の訳詩を始めたのが明治37年からであるといわれます。翌年上記「山のあなた」やヴェルレーヌの「落葉」(最後に紹介します)などを含む「海潮音」を出版しました。

明治41年欧州留学後、京都帝大の教授となり、その後も多数の訳詩を行うと共にダンテの「神曲」の翻訳なども手がけています。大正5年(1916)7月9日15時腎臓疾患のため急死。享年43歳。あまりにも早すぎる死でした。
----- 引用ここまで ------------------------------

 こうなると、かねがね興味津々の「新ロマン派」とか、さらにはその源流の「ロマン派」とか、シューベルトの歌曲にも及ぶヨーロッパの近代の文芸思潮とか、さらには戦争と平和と芸術の関係を模索しないわけにはいかなくなる。

 以下は、結構詳しい関連情報である。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.sqr.or.jp/usr/akito-y/kindai/92-19bunka1.html
19世紀のヨーロッパ文化
[中略]

 17世紀のフランスに始まった古典主義は、18世紀中頃から19世紀初期にはドイツで盛んとなった。

 ドイツでは、1770年代から、世俗的な道徳や因襲を否定し、個性や感情と自然を尊重する「疾風怒濤(シュトルム=ウント=ドランク)」と呼ばれる革新的な文学運動が起こった。
[中略]

 18世紀末から19世紀前半にかけては古典主義に対抗してロマン主義が現れて盛んとなった。ロマン主義は、当時盛んであった啓蒙主義の主知主義に反発し、個性や感情を重んじ、歴史や民族文化の伝統を尊び、中世を讃美した。[後略]
----- 引用ここまで ------------------------------

 私は、ドイツやフランスを、ゲルマン蛮族の末裔とし、彼らの「文化」なるものは、アフリカ由来の地中海文明の流れであると考えるから、さらに電網検索し、ついに、とはいっても実は非常に簡単に、以下のように、「イスラム文化が重要な役割を果たしているという説」までをも発見した。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/3786/trou.html
吟遊詩人の系譜
2.トルバドゥール
《troubadour * 》
 《概要》
 
 11世紀末から13世紀はじめにかけて南フランス、北部スペイン、北部イタリアに広がった、貴族の吟遊詩人兼音楽家。女性単数形はトロバイリッツ(Trobairitz)。教会音楽とは異なりラテン語は使用されず、南フランス(ラング・ドック地方)のオック語が使われた。** ややおくれて北フランスに伝わり*** 、北仏(ラング・ドイル)のオイル語によって歌われ、12世紀から13世紀に栄え、トルヴェール《trouvere》とよばれた。さらにドイツではミンネゼンガ―《minnesaenger》と称された。
[中略]

* オック語で《見出す人》の意。後記のトルヴェールもオイル語で同意。

** 俗語でありながらもオック語は、文学言語、詩の言語としては南仏の特定地域にとどまらず、スペイン、ポルトガル、イタリアにおいても使われており、地域による差異はほとんどなかった。これらオック語詩人をトルバドゥールと称している。

***ギヨ―ム・ダキテーヌの孫娘アクイタニアのエレオノ―ルが1137年にフランス王ルイ7世と結婚した際、何人かのトルバドゥールを北に連れていったこと、また、トルバドゥールの迫害期に北へと逃れたものたちがこれを伝えたこと等の複合的要因があった。

 その起源については明らかではないが*、一説によると、南フランス、ポエティエ伯ギヨ―ム・ダキテーヌ**(1071-1127)とその舘に集まる歌人からはじまったとされ、現存する最古のトルバドゥール歌曲がここで書かれたとされている。

* その成立にイスラム文化が重要な役割を果たしているという説も繰り返されている。根拠として、南仏のラングドックや近郊のプロバンス地方は、スペインのカタロニアに隣接した地域であり、ここは中世イベリア半島のイスラム文化が、他のヨーロッパ地域に伝達していく主要ルートの一つであった(ギヨ―ムの妻もまたスペイン人=アラゴン王の未亡人だった)
  [中略]
 詩の形式がアラビアの韻文の形式(ザジャル詩節)によく似ている。
  [中略]

**ジョングルール(jongleur)またはミンストレル(minstrel)は、トルバドゥールやシャンソン・ド・ジェストなどの中世世俗曲を歌った職人音楽家の総称である。

 かれらは10世紀頃にあらわれたと考えられ、貴族の従者となったものを除き、その多くは単独または小集団で村から村、城から城に渡り歩きながら、歌を歌い、楽器を奏し、あるいは手品をしたり動物の曲芸を見せて生計を立てる人たちで、封建制度の埒外にある不安定な集団だった。法律による保護、教会の秘蹟から拒否されていた。

 ペトラルカは彼らのことを「理知はそれほどないが、驚くほど物覚えがよくて、骨身を惜しまず働く、計り知れないほど無謀な人たち」と書いている。11世紀には友愛組合の組織を作ったが、これは後に発展して、専門的な訓練を施す音楽家の組合になった。
  [中略]
 当時の教会音楽にくらべ、きわめて民族的であり、また、厳かな神への愛よりも、いきいきとした世俗生活の中での人間への愛を歌ったことからローマ・カトリックに睨まれ、ついにはイノセント3世によって弾圧を受けた。

 1209年6月に十字軍のために召集された北方王侯たちの軍隊により、トルバドゥールの本拠地アルビジョアやカルカソンヌは包囲襲撃され、ラングドックの宮殿はつぎつぎと征服され、1218年にはトゥールーズも陥落した。保護者貴族たちはつぎつぎと異端として処刑され、トルバドゥールは凋落していった。
  [中略]
 宮廷恋愛詩、さらにその影響下にうまれてきた『トリスタン物語』『円卓の騎士物語』等の《騎士道物語》がラテン語ではなく、いわゆる方言のロマンス語*によって書かれたことから、しだいに《ロマン》という単語が、言葉の種類を意味していたのが、その言葉で書かれた物語の意味へと移行していった。
  [中略]

* もとはラテン語の romanus「ローマ人の」という形容詞に由来している。212年、カラカラ帝によってローマ市民権が広く帝国内の住民に賦与されるようになってから次第に意味合いをかえ、5世紀末には「ローマの言葉を話すもの」を意味するようになった。
帝国が広がるにつれ、その言語も俗化し、方言がめだってきたため、lingua romana という表現によって、正規のラテン語に対する俗化した方言をさすようになった。
 [中略]
フランスにおいて語尾の母音を落としたromanzとなり、さらにromansにおちついた。

----- 引用ここまで ------------------------------

 私は日本人である。だから、アフリカもヨーロッパも、その他も、日本の歴史と比較する。戦争と文化、芸術、音楽に関しては、日本にも以下の伝統がある。

----- 引用ここから ------------------------------
http://www2.justnet.ne.jp/~gauss/heikem0.htm
「平家物語」の旅

☆琵琶法師の語りで流布

 「祇園精舎の鐘の聲、諸行無常の響きあり。」で始まる『平家物語』は、平清盛を中心とした平家一門の栄華から滅亡までの源平合戦を描いた軍記物語です。歴史的事実を描いた反面、フィクションも盛り込まれていまが、軍記物語中の最高の作品で、日本文学の中でも重要なものです。著者は信濃前司行長で、鎌倉時代前期の成立とされていますが、はっきりしません。盲目の琵琶法師による平曲(平家琵琶)にのせた独特の語りによって、世間に流布され、広く国民の中に浸透していったのです。

☆「平家物語」の旅

 『平家物語』は平家一門の栄華から筆を起こしていますが、その後の源平合戦が話の中心で、これを巡ることは必然的に、源平の戦跡を回ることになります。前半の源氏の挙兵から京の都へ攻め上るところも興味深いのですが、平氏が都を落ち延びる後半の部分に哀惜があり、西日本にその場面を訪ねて旅した時にとりわけ、「盛者必衰の理」を感じ取ることができます。一ノ谷、屋島、壇ノ浦と平氏が次々と負けて敗走していく情景が走馬燈のように浮かんでくるのです。[後略]
----- 引用ここまで ------------------------------

 私は、先に「さすらい人」をいわゆる「典型的」な運命の曲と評した。この原詩と曲が成立した当時のドイツ、オーストリアの領域は、「共和制」から「帝政」のフランスのナポレオンの軍隊に「解放」と称される占領下、戦乱の巷と化した歴史を持つ。本当かどうかは確かめてないが、「共和制」を称えるベートーヴェンがナポレオンに捧げる予定で「英雄」交響楽を完成した時に、ナポレオンが皇帝に成ったと聞き、楽譜をペンで切り裂いたという説もある。

 ドイツ文化圏は、「裏切られた悲哀」を抱えていた。私は今、ここに、「典型的」な運命を見るのである。

 私は、いわゆる西洋音楽マニアとは違って、ピアノの伴奏などは必要とせずに、くちずさむ歌い方が好きである。「リート」と言えば直立不動の姿勢で歌うものなどという欧米崇拝の狂信とは、まったく無縁である。気楽に、シャンソンや演歌と同じものと考えて歌う。それでも聴いてみたいと言う人がいれば、講演と同様に「無料」で出掛けて、「大道芸」、本とヴィデオを売る。遠慮無く申し込まれたい。

 以上。


引間博愛 ➡ 共産党古手党員の醜状/古狸の筆頭/本をまともに読まず「引き回し」博愛

木村愛二の生活と意見に戻る
2003年3月分に戻る
雑誌『憎まれ愚痴』3月号に戻る