週刊『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』
まぐまぐメールマガジン再録版 Vol.11 2003.11.27

[20031127]古代アフリカ・エジプト史への疑惑Vol.11
木村書店Web公開シリーズ

 ■■■『古代アフリカ・エジプト史への疑惑』■■■

近代ヨーロッパ系学者による“古代史偽造”に真向から挑戦!

等幅フォントで御覧下さい。
出典:木村愛二の同名著書(1974年・鷹書房)

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  第二章:ヤムのふるさと 

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第二章の扉絵:
日本では里芋と呼ばれるヤムその他の農産物地帯の概念図
http://www.jca.apc.org/~altmedka/afric-c-2.gif

  髪髪髪髪   
  髪◆ ◆      大
    ◇      芋芋
   人人人 手  芋芋芋
  人人人     芋芋芋
 人人人 手   芋芋芋   小
人人人     芋芋大   芋芋
足  足    大     小

★οO◯Oo。・゜゜・★ 第一章の構成 ★・゜゜・οO◯Oο。★
ムギの神話/オリュラの謎/美味なインジェラ/アフリカ稲
サバンナ/ヤムの謎/農耕民と狩猟民/ふたたび異常乾燥期
狩猟者たち/双分氏族/掘り棒とオノ
家庭菜園/アフリカの神話

◆(第2章-1)ムギの神話 ◆

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 日本人が、イネに関する神話を持っているように、あらゆる民族は、農作物についての神話を語りつたえてきた。だが、神話がそのまま、科学のよそおいをこらすようになると、大変にややこしいことになる。

 たとえば、農学者であり、有数の探険家でもある中尾佐助は、農耕文化のオリエント起源説について、つぎのように評している。

 「各種の栽培植物の起源は、旧世界では完全な農耕文化一元論でまとめられている。……まず最初にコムギ、オオムギ、エンドウなどの栽培化と農業がはじまると、その影響が東方や西方へつたわって、つぎつぎに野蛮人を文化の恩恵によくせしめ、新しい栽培値物を各地で生んだという見解である。……まるで将棋倒しのような芸当である。……イギリス人の世界民族史観にもよく合致している特色があり、日本の人文学者も大部分がこの方向に追随的である」(『栽培値物と農耕の起源』、p.15~17)

 中尾佐助は、イギリスの学者たちの考え方に反対しており、別の説を立てている。しかし、その説をすぐ紹介すると、話がややこしくなるので、まず、オオムギ・コムギに焦点をしぼって、追跡してみよう。

 たしかに、オリエント一帯でオオムギ・コムギが栽培されはじめた時期は、相当に早かった。紀元前7000年ごろの証拠もでている。しかしそれだけでは、オリエントが一番先であるときめるわけにはいかない。もしかすると他の場所で紀元前8000年頃に、オオムギ・コムギを裁培しはじめた民族が、オリエントに移り住んだのかもしれない。

 そのため、もうひとつの手掛りが求められている。それは、オオムギ・コムギの野生種の分布状態である。これもたしかに、オリエントに有利な証拠がある。両方とも、オリエント一帯に野生種が分布している。

 ではこれで、オオムギ・コムギの栽培起源地はオリエントだ、と決定できるだろうか。とりあえず、野生種の分布状態を根拠にして、オリエント起源を断定する学者の文章をみてみよう。

 イギリス人のクラークとピゴットの共著による『先史時代の社会』という本は、日本の歴史学者にも高い評価を受けているらしいのだが、そこにはこう書いてある。

 「栽培されている小麦や大麦の祖先であった穀草……の分布は、……とくにアナトリアからイランに至る西アジアの山脈に接した地方の山麓や平原に限られていた」(『先史時代の社会』、p.182)

 これには、地図に斜線を引いた分布図までそえられている。そして、これを重要な根拠に、オリエント以外の地域では、農業の発明の可能性はなかったのだと断言されている。わたしも成程と思って、感心したものである。

 ところが、ほかの本をよみ返してみると、このオオムギ・コムギの分布図は、非常に不思議なつくり方をしたものだということがわかった。

 まず、この『先史時代の社会』の原著が出版されたのは、1965年である。ところが、やはりイギリス考古学界の中心人物だったチャイルドは、1936年に出版された名著、『文明の起源』の中で、すでに、北アフリカのマルマリカ(エジブトとリビアの国境付近)からオオムギの野生種が発見されたという報告を書きとめていた。チャイルドの後輩である2人のイギリス人の学者が、そのことを知らないはずはない。

 チャイルドも、やはり、オリエント起源説をとなえていた。しかし彼は、非常に慎重で良心的な学者であった。まず彼は、ムギ栽培の起源地点が、1ヶ所か数ヶ所か、どこであるのかということが解決されたわけではないという。そして、コムギについては、その野生種が発見されたのは、オリエントだけだという。しかし、つぎのようにつけ加えるのを忘れていない。

 「もちろん現在の分布は、あてにならないかもしれない。その理由は、ムギの栽培が始まって以来、気候が大いに変化した、植物の分布は気候に左右されるからである。」(『文明の起源』、上、p.113)

 チャイルドの予感は当っていた。コルヌヴァンによれば、「オオムギの野生種は、……北西アフリカにもエチオピア高原にも、同様に原生している」(『アフリカの歴史』、p.68)。コムギの野生種については、新しい分布地点は報告されていない。しかし、コムギの異種で、古代エジブトでも栽培されていたものに、学名をトリティクム・ドゥルム(かたいコムギの意)とよばれるものがあり、それはサハラのホガール山中に、いまでも野生している。この事実や、サハラ湿潤期の状態がわかってきたことを根拠にして、コルヌヴァンは、コムギの野生種の分布も、かつては、相当にひろかったのだと主張している。

 チャイルドは、1957年、すなわち、ロートたちによるタッシリ遺跡探検の発表をまたず、65歳で不慮の死(登山中の墜落)にあった。彼が、サハラ先史美術と遺跡の示すものを知ったならば、という想像を禁じえない。

 ともかく、中尾佐助が「将棋倒しのような芸当」と表現したイギリス流の農耕文化一元説は、その最初のコマの位置に、うたがいがかけられだしたのである。コルヌヴァンは、その他の値物の野生分布をも考慮にいれて、農耕のサハラ起源をとなえ、つぎのように書いている。

 「あらゆる栽培値物は、この地帯に自生していたのであり、それが栽培化されて、旧大陸全体にひろがったのである」(同前、p.59)

 コルヌヴァンの主張は、このように、サハラを中心地とする農耕文化一元説である。それでは、この説は完全に支持しうるものであろうか。どこかおかしなところはないのだろうか。

次回配信は、第2章-2「オリュラの謎」です。

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木村書店の新刊★『イラク「戦争」は何だったのか?』2003年10月25日発行
http://www.jca.apc.org/~altmedka/shoten-iraqwar.html
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